【11】罪滅ぼし
大きなベッドに腰を下ろしていると、フェリクは心拍が高く、体もそわそわと落ち着かなかった。この寝室には、いずれ部屋主であるレフレクシオが来る。それを考えると、緊張で肩に力が入った。
『いまさら何を照れることがあるんだ』
そう言ってミリアもアンブラも呆れていた。確かにレフレクシオと同じベッドに入ったことはあるが、朝から晩までともに過ごしたことはない。レフレクシオは必ず寝ているあいだにフェリクを寝室に戻した。添い寝されたときも、レフレクシオは朝になるといなくなっていた。
果たして自分の心臓はもつのかと、フェリクの頭の中はそれでいっぱいだった。
ドアが開く音で、フェリクの肩が大きく跳ねる。レフレクシオが戻って来たのだ。
「まだ起きていたのか」
「はい……なんだか落ち着かなくて」
「そのうち慣れる」
レフレクシオが隣に腰を下ろすと、それだけでフェリクの心臓が跳ねる。ただともに寝るだけだと言うのに、妙に緊張してしまう。
「お前の兄と話をした」
静かに言うレフレクシオに、フェリクの心拍が高くなる理由が変わった。見上げるフェリクの肩を抱き、レフレクシオは冷静に続ける。
「不思議なものだ。十四年、一度も接触したことのない弟に情があるとは」
「レーニスさんはきっと悪い人ではありません。勘当されなければ、きっと良い兄だったと思います」
レーニスが両親に勘当されたのは、素行の悪さからだと聞いている。いまのレーニスは改心したように見える。勘当される前に自分の素行の悪さに気付いていれば、いまはラエティティアの実家で両親と暮らしていたことだろう。
「ラエティティアの使者を名乗る者が何者かはわからない。宮廷騎士団の者だと名乗ったそうだ。アンブラが騎士団長……つまりお前の父に確認した」
アンブラはこの短期間でラエティティアとアミキティアを行ったり来たりしている。この件に関して、常に走り回っていた。
「自分の決定なく他国に騎士が派遣されることはないとお前の父は断言したらしい。あの兄は勘当されたあとも馴染みの騎士と接触していたらしい。信じやすかっただろうな」
「これからアミキティアの使者たちはどうなるんですか?」
「世界王の遣いを炙り出すことができれば国に帰す」
すでにアミキティアの使者の中に紛れていた世界王の遣いが本性を現わしている。世界王は間違いなくアミキティアの使者を利用している。まだ何かしらの攻撃を仕掛けて来る可能性は高いだろう。
「次はいつ仕掛けて来るでしょうか」
「もう世界王の遣いに猶予はない。いつ狙われてもおかしくないだろうな。寝ているあいだでもな」
レフレクシオはフェリクをベッドの上に横たえる。その隣でレフレクシオも横になり、フェリクの肩まで布団を引き上げた。フェリクの小さな体はレフレクシオの腕の中にすっぽりと収まる。
「落ち着かなくて寝られません」
「いずれ眠る」
「毎日、この状態で寝るんですか?」
「身の危険が去るまでな」
世界王の遣いの手がすぐそこまで迫って来ている。それはわかっているのだが、フェリクはどうしても緊張せざるを得なかった。
「卿に危険はないのでしょうか。卿がいなくなれば、僕は無防備になります」
「いまさらだ。私の命もとっくに狙われている」
それでもレフレクシオは自信を湛えた表情をしている。その温かさがフェリクの緊張を解き、徐々に眠気を誘った。
「世界王はお前を手に入れるためには躊躇しないだろうな」
「僕は卿を失ったら立ち直れません」
「安心しろ。お前より先には死なん」
腕に込められた力がフェリクに安心感を与える。この腕の中にいれば恐れるものなど何もない。そう確信させる力強さだった。
「約束ですよ」
「もちろんだとも」
安堵が胸中に広がる。その答えを合図にするように、フェリクは瞼を閉じた。この約束が破られることはない。全身を包むその温もりが、フェリクに健やかな眠りをもたらした。
* * *
ちらほらと明かりの灯る町を城の屋上から見下ろす。かつてムルタの民が喉から手が出るほど望んでいた豊かで穏やかな大地。運命の勇者がもたらした平穏。もうムルタの民が苦しむことはない。ムルタはもう、砂の王国ではない。
「それを壊そうだなんて、無粋だと思わないかい?」
マグカップをテーブルに戻し問いかける。背後で複数の影が揺らいだ。
「ミリア姫。我々とともに来てもらおう」
仰々しく鳴る金属音。それぞれ武器を手にした影が、じりじりとにじり寄る。
「簡単な話だったね。あの兄と長官以外、すべて世界王の手下だった」
随分と掻き乱してくれた。恨めしい気持ちとともに、小さく息をつく。
「よく上手く隠れたもんだ。そのコツを教えてもらいたいね」
「無駄な抵抗はしないほうがいい。きみを傷付けたいわけではないのだ」
「無力な姫を人質に取ってまで、世界王は運命の勇者を望んでいるのかい」
「宝玉は世界王国に在ってこそ相応しい」
「じゃあ、フェリクが宝玉を失えば話は変わるね」
不敵に笑いながら発した言葉に、影が動揺するのがわかった。影は所詮、影。実体を持つ者に敵うことはない。
「そんなことができるはずはない。宝玉は勇者の命だ」
「さて、どうだろうね。可能性ってのは、いつでも、なんにでも存在するもんじゃないかい?」
ゆっくりと影を振り向く。月を覆っていた雲が風に押し出され、仄かな明かりが辺りを照らす。影の手にした剣が鈍色に光った。
「貴様……何者だ!」
か弱い姫はここにはいない。もっと早くそれに気付いていれば、結果が変わることもあったかもしれない。ムルタにおいて、その可能性は無いに等しい。
「静かにしな。坊ちゃんが起きちまうだろ」
* * *
遠くから微かに爆発音が聞こえ、レフレクシオは目を覚ました。アンブラが無事に任務を遂行したようだ。腕の中を見ると、フェリクは穏やかに眠っている。何が起きているかを知る由はない。
地獄のような戦いを耐え抜いた幼い勇者。寝顔は子どもそのものであった。レフレクシオには、フェリクが二度と苦しみを味わわずに済むようにしてやらなければならない。それが自分に課せられた罪滅ぼし。例えフェリクが許そうとも、この罪は消えない。この命が尽きるまで。
……――
ああ、やっと解放される。
重圧からも、罪悪感からも。
すべて自分の罪として受け入れ、贖罪のために首を捧げる。
これでいい。私は罪を犯した。
例え自分の意思でなかったとしても。
これですべてが終わる。すべて終われる。
もう、苦しまずに済む。
なにもかも。
……――
何か温かくなるような夢から覚めると、レフレクシオの姿はすでになかった。フェリクはチェストの時計を見る。寝過ぎたというほどの時間ではない。レフレクシオは早くに起きて行ったのだろう。レフレクシオがフェリクから離れているということは、この部屋には結界が張られているのだ。その中からひとりで抜け出すのは賢明ではないように思えた。
朝の支度を終えたとき、ドアをノックする音が聞こえた。フェリクの返事で顔を覗かせたのはアンブラだった。
「よう。今日はよく眠れたんじゃないか?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら言うアンブラに、フェリクは剣呑な視線を向ける。
「レフレクシオ卿は?」
「もう朝食を終えてアミキティアの使者と会議をしている」
「何かあったの?」
「ダイニングに向かいながら話す」
アンブラは揶揄う表情を消し、寝室をあとにする。フェリクもそれに続くと、アンブラは落ち着いた声で話し始めた。
「アミキティアの使者の中で、長官とあの兄以外の者が世界王の手下だった」
「全員?」
「全員だ」
アンブラはなんということもない表情をしているが、フェリクにとってそれはあまりに予想外のことであった。
「そんなことがあり得るの?」
「あり得たんだろうな」
「その手下たちはどうなったの?」
「送り返してやった。丁重にな」
アンブラは夜のあいだに世界王の手下と戦っていたのだろう。フェリクはそれも知らずに健やかに眠っていた。レフレクシオとアンブラの守りがなければ、フェリクはとっくに世界王に捕らえられていたはずだ。
「じゃあ、残ってるのは長官とレーニスさんだけってこと?」
「そうなるな」
「ふたりはどうなるの?」
「安全が確認でき次第、アミキティアに帰らせる。手下は送り返してやったが、増援が来ないとも限らない」
「…………」
フェリクは俯いた。あることが頭の中に浮かんできたが、それをアンブラに話せば彼は呆れることだろう。アンブラはフェリクの表情の変化に目敏く気付き、険しい表情になった。
「余計なこと考えてないだろうな」
「いや……」
「何を考えていたか正直に言え」
フェリクは逡巡ののち、いまさら隠し立てする必要もない、と口を開いた。
「僕が世界王国に行けばそれで何もかも解決だよね」
「これまでの俺たちの労力を無に還すことを言うな」
アンブラは呆れて目を細める。フェリクはまた自信を失くして俯いた。
「わかってる。けど、僕の宝玉はあまりに犠牲を生みすぎてる」
「犠牲を被ってるのは世界王側だ。向こうがさっさと諦めれば済む話だろ」
アンブラの言う通りであることはフェリクにもわかっている。それでも、顔を上げることはできなかった。
「でも……僕のせいでみんなが危険に晒され続けてるよ」
「お前にそれだけの価値があるからだ」
フェリクは左の目元に触れる。星屑を湛えた瞳。いまはフェリクの生命を保つために必要なもの。
「僕の宝玉がムルタを蘇らせたから……」
「お前の価値は宝玉じゃない。お前自身だ」
力強く言うアンブラを見上げる。その表情は真剣そのものだった。
「宝玉にしか価値がないなら、陛下はさっさとお前を聖地に放り込んだだろうぜ。あの兄だって宝玉には興味がないようだしな。お前は自分の価値を見誤っている」
「…………」
「まあ、そうさせたのも宝玉だろうがな。宝玉がなくても、ムルタはお前を歓迎していた」
「……本当に?」
「いい加減、俺たちを信用したらどうだ」
アンブラは真っ直ぐにフェリクを見据えている。その瞳が、その言葉が真実であることを証明しているようだった。
「フェリク!」
明るい声に振り向くと、ミリアが軽く手を振って歩み寄って来る。その優しい笑みは、親愛の色を湛えていた。おはようの挨拶のあと、フェリクはまた俯きながら口を開く。
「……ねえ、ミリア」
「ん?」
「もし僕が宝玉を持っていなかったとしても、僕と友達になってくれた?」
「なに当然のこと言ってんだい」
ミリアは少し呆れた色を浮かべつつ、平然と言う。
「アホなこと言ってないでさっさと朝食に行くよ」
「アホなこと……」
いつもと変わらないミリアの表情が、フェリクに安堵をもたらした。その言葉が本心のものであるということ、アンブラの言葉が真実であるということの証明のようなものだった。




