5
タイタスが、ボロ雑巾のようになりがならも止まらずに戦っている。
その痛々しさは、ノースロップと同じものだ。今のタイタスの姿は、より分かりやすく直接的に表現された、この二十年のノースロップの姿だ。
そうせずにはいられない。自分を痛めつけずにはいられないというタイタスの思いは、ノースロップ自身の思いでもある。
だが同時に、それを見ていて辛い。止めさせたい、どうにかしたいという思いが、今はある。
コレットはこんな思いで俺を見ていたのだろう。そして、妻も同じ思いだったのだろうか。
俺は妻を死なせたから、自責の念に囚われた訳ではない。それより前に、彼女を幸せにしてやるどころか、苦労ばかり掛けていることに自責したのだ。
妻の死因が、なんの関わりのない事故などだったら、俺は今、こうしてはいなかっただろう。掛けた苦労と貧困の果てに死なせてしまったから、自責の念は無限に重い、覆せないものになったのだ。
師範の背後に隠れるようにしていた貴族が、妙な動きを見せた。光がきらめく。刃物だ。師範が押され始めたので、闇討ちする気か。
貴族に飛びつき、手首を押さえた。貴族が激しく抵抗し、腹に膝蹴りを喰らう。手首を壁に、何度も叩きつけた。刃物が落ちる。
なにかが飛んできて、貴族もろとも押し倒された。師範が、タイタスをこちらに投げつけてきたようだ。
貴族が刃物に飛びついた。刃物を蹴り飛ばそうとしたが、一瞬遅かった。横に払われた刃物に、ふとももが斬られた。
浅手だ、なんということもない。それに、自分に与え続けた痛みに比べれば、蚊が刺した様なものだ。もっとも、麻痺して痛みも感じなくなっていたのだが。
貴族の腕を掴み、体重を掛けた。生きた木の枝を折る様な感触。貴族が長く尾を引く叫び声をあげた。
タイタスはどうなったと顔を上げた。タイタスの左拳が、師範の顎を貫くまさにその瞬間だった。師範が白目をむき、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
「終わったのか?」
「ああ」
貴族の方も、気を失っていた。
「そのナイフを取ってくれ」
「どうする気だ?」
タイタスはそれに答えず、無言のまま師範の両手両足を切った。あまり血は出ていないが、おそらく腱を切ったのだろう。武術家としては、死んだに等しい。
「こっちはどうする?」
タイタスが、腕の折れた貴族を一瞥した。
「十分だろう。これ以上なにかをすれば、こいつは社会的に死ぬ。そういう風に、もう手は打ってある」
「おい、待てよ。それじゃあなんだ。わざわざこんなことをしなくても、こいつはもう悪事を働けないように追いつめられていたってのか?」
「そうだ」
「お前がそんなになりながら、こいつらをぶちのめしたのは、別にやらなくてもいいことだったのか?」
「まあ、そうだな」
「なら、なんだってこんな無茶を」
「もう悪事を働けないからって、今までやってきたことに対してなにもなしじゃ、許せないだろ?」
「そうかもしれないが」
問題はそこではなく、そのために自分の命まであえて危険にさらすのか、ということだ。しかし、彼にはそれこそ慮外のことなのだろう。
「やったことには、それ相応の報いがあるべきだ」
沈んだ声で、タイタスはそう言った。まるで報いを受けるべきは、自分だと言わんばかりに。
「まあ、いいや。俺の仕事はここまでだ」
「そうか」
「お前の言う通り、お前がどうしてそこまでするのか、俺には分かる」
「そうか」
「だがな、だからこそ、こんなことは止めにしねえか。俺が言えたことでもないが、やっぱり俺たちは、なにか間違っているんだと思う」
「そんなこと、最初から分かってる」
「そうか。そうだよな。分かっていても、どうしようもないんだ」
それでもやはり、歪んだ今の生き方を、このままにしていいのかと考える。ほんの数時間前までは、考えられなかったことだ。
「お前その腕、折れてるのか?」
タイタスの右手が、ぶら下がったようになっているのを思い出した。
「外れただけだと思う。武術の師範だけあって、上手いもんだ」
「貸しな。はめ直してやる」
「悪いな」
そう言えば、他人に触れるなど、いつ以来だろうか。
妻が死ぬとき、その手を握った。あれが最後だ。二十年生きていれば、その後にも少しはあったのかもしれないが、人に触れていると、はっきり意識できるのは、あれが最後だった。
人間というものは、温かい。当たり前のことが、妙に新鮮に感じられた。
不意に、妻が死ぬ時のことを、鮮明に思い出した。
あのとき妻は、涙を流していた。それは一瞬だって忘れたことがない。
しかし、顔は笑っていたのだ。それは、ずっと忘れていた。
苦労ばかり掛け、思い出の一つも作ってやれなかったのに、なぜ妻は最後に笑えたのか。
違う。確かに特別な思い出は、なにもなかった。しかし、なにもない訳ではなかった。苦楽どころか、苦労ばかり共にしたが、二人で必死に生きる日々に、ある種の充実感が、確かにあった。
「ああ、そうか」
俺は、罪の意識から忘れられなかったのではない。大切な思い出だから忘れられなかったのだ。それなのに、その思い出を歪めて、自責と自傷ばかりしてきた。
今の自分を見たら、妻は泣くだろうか。怒るだろうか。
ずっと妻に申し訳ないと思っていた。しかし本当に申し訳なく思うべきは、この二十年を自責のみで生きてきたことの方だったのだ。
今からでも俺は、もっと自分を大切にして生きるべきなのだ。
「悪いな、『掃除屋』。俺は一抜けのようだ。もう、あんたと同じ所にはいない」
手首をはめ直し、そう言った。
「そうか」
「それだけか?」
「お前が普通に戻れる。それは喜ぶべきことだ。だが、俺には関係ないな」
「俺が戻れたんだ。お前だって、戻れるさ」
「戻りたくない。普通になることなど、許されない」
そうだろう。そう思うだろう。自責から逃れられない以上、そう思うに決まっている。
だが、やはり俺たちは普通に。いや、人に戻るべきなんだ。
タイタスとは、それ以上特に言葉を交わすこともなく別れた。自責が自分だけのことである様に、そこから戻れるかどうかも、やはり自分だけのこと。他人がどうにかできることではないのだろう。
それでも、他人の存在は無意味ではない。ノースロップには妻がいた。それを思い出させてくれた、コレットがいた。
帰ったら、二十年ぶりにただいまを言おうと思った。
何でも屋の前に立つ。入る前に少し、粗末な看板を見つめた。
ここは、自分の二十年の自責の場所だった。自分を傷つけ続けるために自分で用意した、牢獄だった。
だがこれからは違う。これからはここで、新しいなにかが始まる。いや、始める。その場所だ。
店に一歩入って、息を呑んだ。
荒らされている。がらくたの山が、自然に崩れたというのとは、明らかに違う。
なにが起きたのか。拾い集めたがらくたを、盗もうとする者がいるとは思えない。
「コレット」
返事がない。人の気配がしなかった。念のため、狭い店の中を一通り見回ったが、やはり誰もいない。
総毛が逆立つような感覚がした。彼女に出て行けという態度を取り続けたのは自分だ、出て行ってしまったのだとしたら、それは仕方がない。
しかし、店の情況は明らかになにかあったことを示していた。
もう遅い時間だが、近所の人間を片端から叩き起こして回った。ノースロップが留守にしている間に、なにが起こったのか。
「ああ、あのお嬢ちゃんなら、やくざ者に連れていかれたよ」
四人目でようやく、具体的な証言が出てきた。
「連れていかれただと。てめえ、それをただ見てたのか!」
相手の胸倉をつかむ。
「怒るなよ。このあたりじゃ、珍しいことでもないだろう?」
確かにそうだ。治安の悪いこの辺りでは、人さらいなど珍しくはない。浮浪者も多いので、さらわれても誰も問題にしないことも多い。
身寄りもなく、住むところもない若い娘など、恰好の獲物だろう。金になるし、どこからも文句が付かない。
「どこの連中か分かるか?」
「さあ、見た目じゃどこの組織かなんて、分からねえよ」
放り捨てるように解放し、さらなる情報を求めた。
コレットがさらわれたのはつい先ほどのことで、しかももう遅い時間だ。それほど遠くに行ったとは考えにくい。どこの組の仕業か分かれば、居場所の目星は付く。
だが、有力な情報は得られなかった。さらわれてすぐに馬車かなにかに乗せられでもしたのか、それらしい目撃情報はなかった。
乗り物を使ったとしても、それも借りるか盗むかした物である可能性は高い。情報屋のネットワークを使えば捜し出すことも出来るだろうが、時間を掛ければ掛けるほど、遠ざかって行く。
人手が必要だ。それも今すぐに。情報屋を使っていては、間に合わない。部下を大勢持っていて、協力してくれるような人間が必要だ。
一人だけ、心当たりがあった。しかし、いまさら助けを求めていいのか。いや、そういう考えと決別すると決めたのだ。恥も外聞もかなぐり捨ててでも、助けを求めるしかない。
夜の街を走った。燃えるような体に、冷たい夜の空気を吸い込みながら、脚を回し続けた。
一等地の、ある貴族の邸宅にたどり着いた。警備の者が立っている。
「夜分に済まないが、急いで取り次いでくれ」
「なんだお前は。あっちへ行け!」
警備の者が胡散臭そうな目でこちらを見て、警棒の先を向けてくる。
「ここにソーントンという執事がいるだろう。ノースロップが会いに来ていると告げてくれればそれでいい!」
それでも警備兵は、動こうとしない。
「さっさとしないと、無理矢理押し入るぞ。夜中に浮浪者が押し入って騒ぎを起こしたと、噂になりたいのか!」
それはさすがに体面が悪いと思ったのか、警備兵の一人が屋敷の中に入って行った。あとは、待つしかない。
すっかり息も整ったころ、ソーントンが息を切らしてやってきた。
「ノースロップ」
「兄貴、悪いが急いでる。手を貸してほしい」
経緯を簡潔に話し、コレットの居場所を捜すために、人手が必要だと頼んだ。
「分かった。任せろ。お前はとりあえず、私の部屋に上がれ」
本当は走り回って捜したいが、一人でそうしたところでどうにもならない。促されるままに、屋敷に上がった。
「初めてじゃないか。お前が私に頼るのは」
「そうかな」
「お前は、いつも自分一人でどうにかしようとした」
「俺はしょせん妾の子だからな。家に迷惑を掛けないように、気を使って生きていたんだろう」
「頼ってもらえて、私は嬉しいよ。初めて兄らしいことができる」
豪奢な調度品に囲まれ、包み込まれるような椅子に腰かける。ずっと昔にしていた生活だが、今となっては居心地が悪い。
兄はすでに、四方に人を送り出したらしい。兄独自の人脈もあるのだろう。今は、待つしかない。しかし、落ちつける訳もなかった。
あまり体を動かすのは行儀がよくないと思い、代わりに様々な思いをめぐらした。そのうち、兄に聞きたいことがあったことを思い出した。
「なあ、兄貴。どうして兄貴は、この屋敷で執事をしているんだ?」
ノースロップもソーントンも元は、小さくてもそれなりに財産のある家の子だ。慎ましく暮らせば、受け継いだ財産だけで生きて行くことだってできたはずだ。
「お前と同じだよ」
ソーントンがほほ笑んだ。
「同じ?」
「恋をしたのさ。お前と違って、私は諦めてしまったがね。諦めなかったお前が、実は羨ましかったんだ」
初耳だった。そう言えば兄は、結婚もしていない。
「しかし、それと執事をしていることと、どう関係がある?」
「惚れた相手が、この家の娘だったのさ。今の御当主の、母君だ」
「そうだったのか。しかし、そんな相手と毎日顔を合わせるのは、辛くないか?」
「辛かったさ。その辛さこそを、望んでいたのかな」
「それは――」
俺と同じではないか、と思った。兄弟そろって、妙な所で同じものを求めている。
「だがそれも、もう昔の話だ。その方はもう、亡くなられた」
「そうだったのか」
「臨終に際して、私だけを枕元に呼ばれてな、あなたの思いに気付いていながら、なにもできなかった私を許して欲しい、と言われたよ」
知らなかった。兄がそんな思いを抱いていたことなど、露ほどにも。知ろうともしなかった、と言うべきか。
「兄弟って奴は、似なくてもいい所ばっかり似るのかな」
「そうらしいな」
どちらからともなく、低く笑い合った。
どれほど時間が経っただろうか。焦りが募るばかりだと思って、時計は見ないようにしていた。
部屋に人が来て、ソーントンがそれと短く言葉を交わす。そんなことが、何度も繰り返された。
「分かったぞ、ノースロップ」
何回目かの報告を受けて、ソーントンが言った。
「本当か」
「娘の姿を確かめた訳ではないが、おそらく間違いないだろう」
場所を聞き出すと、ノースロップは部屋を飛び出した。
「待て、一人で行く気か。今人数を集めるから――」
「それは、兄貴が勝手にやってくれ。なにがあろうと俺は行く。それが、俺のするべきことだ。兄貴が、行くなら自分を倒して行けと立ち塞がるなら、俺は遠慮なく兄貴を殴り倒すぜ」
ソーントンが、諦めたように首を振った。
「全てを投げ打って駆け落ちするようなお前だ。止められるはずもないか。助けは送る。それだけは、頭に入れておいてくれ」
「感謝する」
再び、夜の街を走った。また体が熱くなる。しかし今度は、体が軽い。息が上がっても、疲れは感じなかった。動きも悪くなってはいない。
駆け落ちをした夜に似ていると思った。