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雨が降りそうで降らない、肌寒い日だった。
店先でこちらを呼ぶ声がして、跳び上がった。人が来た気配を、まるで感じなかったのだ。
「久しぶりだな」
目深にフードを被った客が顔を上げる。タイタスがいくらか青白い顔でそこに立っていた。
「生きてやがったか」
「死にぞこなった、と言うべきかな」
店の奥に促した。コレットもそれに気付いて、勝手に水を出したりする。
「半月ぶりだな。まだ仕事は済んでないのか」
「少々手間取ってな」
タイタスが左腕に添え木をしていることに気付いた。そう言えば、脚も多少引きずっていたように思える。
なにより、見れば見るほど顔の青白さが、無事ではないことを示している。
「かなりやられたようだが?」
「少しばかり寝込んだだけだ。それよりも、まだ親玉を始末していない」
「まあ、金を払ってくれるなら、こっちとしては別に構わないんだが」
十人以上のごろつき相手に単身殴り込むのは、やはり命を落としても不思議ではなかったのだろう。
それが分からない男でもないはずだ。それでもやる所に、やはりこの男の異常な執着を感じる。
「がらくたが欲しいなら、適当に選んでくれ。それ以外に欲しいものは?」
「いや、特に用はない」
「なんだよ。冷やかしはお断りだぜ」
「用はないが、なんとなくあんたの顔が見たくなった。なんでだろうな」
そう言って、タイタスがふっと笑う。
「知るかよ。俺が」
「それもそうだ」
タイタスが水の入った器を口元に運び、顔をしかめた。
「おい、どこか痛むのか?」
「あばらだ。固定してあるから、大事無い」
「おいおい」
タイタスが水を呷り、立ち上がった。
「冷やかしも悪いから、なにかもらって行くか」
そう言って、がらくたを物色し始めた。本当に、ノースロップに会うためだけにここにきたのか。
真剣さのかけらも感じられず、ただ漫然とがらくたを選んでいるタイタスを、ノースロップはぼんやりと眺めた。
やはり怪我が痛むのか、ときどき顔をひきつらせている。だがそれでも、彼は悪党を潰しに行くのだろう。今度こそ本当に死ぬかもしれないとしても、それはなんの障害にもならないらしい。
「彼、辛そうね」
どこからか持ち込んだ箒で床を掃きながら、コレットが言う。
「ああ。平然としているが、相当な重傷を負ったんだろうな」
「そうじゃなくて」
「心がってか? そうは見えないがな」
あれだけ体を、ある意味自ら痛めつけるような真似をしておいて、その上心まで辛い思いをしているなど、理屈に合わないと思った。体を痛めつけるなら、それによって心は満足を得ているのでなければ、どうしてそんなことができるのか。
「ねえ、あなたはどうしてそこまでするんですか?」
「おい」
コレットがタイタスに尋ねた。止めさせようと声を掛けたが、コレットは構わず尋ね続ける。
「そんなに痛い思いをして、それなのに辛い思いもして。なにがそうまでさせるんですか」
「止めろ。失礼だろうが」
声を大きくして止めたが、タイタスはそれを手で制して、コレットを見つめた。
「どうして、なんだろうな」
しばらくコレットを見つめていたタイタスが、おもむろに口を開いた。
「どうして俺がこんなことをしているのか、実のところ、俺自身よく分からない所がある。俺の中のなにかが、俺を突き動かしてそうさせるんだ」
「それは、犯罪者の子だという負い目からか?」
躊躇いながらも、そう尋ねた。コレット以上に失礼なことを尋ねているとは思ったが、この際だ、とも思った。
「少し、違う。そういう思いがない訳じゃないが、一番の理由ではないな」
「なら、一体」
「親のことは、あくまで親のこと。多分俺は、俺自身のなにかが許せないんだと思う。そのなにかが俺を動かしている」
タイタスが一度大きく息を吸い、深呼吸ともため息ともつかない息を吐いた。
「だが、確かに俺は苦しいんだと思う。自分の中から湧き上がるなにかに従って、自分で選んでやっていることのはずなのに、どうしてか、苦しくて仕方ないんだと思う」
「はっきりしない物言いだな」
「ときどき思うんだ。俺は、この苦しみこそを望んでいるんじゃないのかってな。俺は苦しみたいのかもしれない」
「そんな。苦しむことを望むなんて、そんなのおかしい」
コレットが言う。
「そうだな。多分、おかしいんだろうな」
タイタスはそれに、なにか諦めたような笑みを返した。
ノースロップは、タイタスの言うことをおかしいとは感じなかった。理屈で言えば、コレットの言うように、自ら苦しみを求めるなんてどうかしている。しかし、感覚的なものが、なぜか共感を覚えるのだ。
おそらくだが、タイタスにはなにかが欠けている。正義の味方であることに異常な執着を見せる引き換えに、他のなにか。生きることに対する執着の様なものが欠けている感じだ。おそらくその二つは、裏と表なのだ。
多分それが、通じるものを感じさせるのだろう。ノースロップも、望んで極貧の生活に甘んじている。それは、まともに生きることへの執着がない、と言うことも出来るだろう。
タイタスががらくたの一つを手に取った。それだけでは、本当になんの役にも立たないだろう、がらくただ。
「これにしよう。いくらだ?」
「それか。ただじゃなければ、好きな値を付けな」
「客に値を付けさせるのか。しかも、ただでなければいいとは、商売をする気がないな」
「ある様に見えるか?」
タイタスが肩をすくめ、コレットの方をちらと見て、金を置いた。がらくたに出すには法外な値段だ。
「妙な情けを掛けた訳じゃない。ただなんとなく、そうしたい気分になったんだ」
こちらの機先を制して、タイタスが言った。
「すぐに行くのか?」
「ああ」
「勝算あってのことなんだよな?」
「どうだろうな」
「おい」
「向こうはもう、ほとんど人数はいないはずだ。それでも、最後に残った親玉が結構厄介そうでね。俺の噂を聞かなくなったら、返り討ちに遭ったと思ってくれ」
なんでもないことのように言っているが、手下を潰すのにも相当な痛手をこうむったのだ。その怪我も治りきっていない状態で挑むのは、本当に返り討ちに遭うかもしれない。
それでも、行かずにはいられないのだろう。
なぜだ。どうしてそこまで、自分の身に無頓着になれるのだ。なにがそうさせるのだ。
「お体に、気を付けてくださいね」
コレットがそう言ってタイタスを見送る。彼に対して、それほど虚しい言葉もないだろうが、コレットは心から言っているのだろう。
余計なことを言うな、と言おうとして、言葉を飲み込んだ。それこそ余計なことだ、という思いもあるが、なぜか、言いたくなかった。
それはつまり、自分も彼のことを、実は気に掛けているということなのだろう。
どうして自分は彼のことを、これほど気にしているのだろうか。
タイタスが店を出て行く。ノースロップは、後を追って飛び出していた。
「待ちな」
タイタスを呼び止める。
「俺は何でも屋だ。なんでも売るし、なんでもやる。報酬さえもらえれば、どんな汚れ仕事だってやる」
これまでも何度か、表沙汰にできないような仕事を請け負ったことがある。だが今それを言うのは、自分自身を動かすための口実に過ぎないと、分かっていた。
「報酬を払う気はない。これは、俺のヤマだ」
「報酬なら、もう受け取っている」
タイタスが怪訝な顔をした。
「あんたの置いて行った金は、がらくたの代金としちゃあ多すぎる。人手を貸すことへの対価として受け取っておく。受け取った以上、仕事はきちんとやる」
「好きにしろ」
タイタスは一度頭を振ったが、ほとんど考えることもせず、そう応えた。
やはりこの男、自分がやると決めたこと以外への執着が、極端に希薄だ。
「おじさん」
コレットがノースロップの後ろに続いて出て来ていた。
「駄目。駄目だよ。ちゃんと帰ってこなきゃ駄目」
コレットが必死の面持ちで言う。単に心配しているというレベルではない。彼女を残して自殺した、母親を思い起こしているのかもしれない。
確かに、正気の沙汰とは思えないタイタスに同行するというのは、自殺願望と思われても仕方のない所があるだろう。
「別に、死にやしないさ。それよりもお前、ちゃんと帰って来いだと。俺の店を勝手に自分の家みたいに言うんじゃねえ」
全く、女というものは、こんな若い娘でも、油断すれば家の本当の主人の立場を奪われる。まさに郭公だ。
「それにな、こう見えて俺は、結構腕が立つんだよ」
はったりではない。けっこうどころか、本気を出せば相当なものだ。伊達に治安が最悪の区画に選んで住んではいない。身を守る術くらいはあってのことだ。
「出かけの挨拶は、もう済んだか?」
タイタスが言う。待っていてくれる辺り、存外律儀な男だ。
「気持ちの悪いことを言うない。あんな娘より、女房の方が万倍いい女だったよ」
なぜか、そんなことを言い返していた。