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「残るヤツがいるの?」

 店長が静かに伏せていた顔を上げて、カウンターの中で声を発する。

「車が定員オーバーで、どうしようもなくて、ってわけでもないだろうに」

 こだわりを持たない男どもはもう、すっかりいなくなってしまって、それでも広く閑散とした酒場の中で、店長は一人じゃない。

「あんた、父親に付いて行かないの。そこのカップルの女の方も」

 カウンター席、その隅にひっそりたたずんでいるオレを見つけて、店長は声を裏返らせる。

「店長がここに残っている限り、オレはここにいる」

「そうか」

 言うと嬉しそうに笑ってくれる。それだけでオレはなにもかも、どうでもよくなる。そんな気がする。

「でもそれじゃあ、あんたはここで死ぬことになるよ」

「オレは死なない」

 宣言する。『死にたくない』じゃない。本当になるように祈りを込める。

「じゃあ、なんで残るんだい?」

 でも店長には本心を見破られる。『死にたくないなら、どうして父親についていかなかったの?』言外にそう尋ねられている。

「それは」

『だって生き残ることは必ずしも、幸せなことじゃない』喉が詰まる。そんなことが言いたいわけじゃない。店長に、そんなことを聞かせたいわけじゃない。生き残るのは、いつか選び取るべき未来に、幸せのあるはずの場所に一歩、踏み出すため。

「オレは店長と一緒に生き残る、つもりだよ」

 なんの手立てもないんだとしても、オレは店長のそばに寄り添う。そんな祈りを店長に向かって声にする。その『いつか』がたまたま、ちょうど今なだけだ。

 店長は照れくさそうに唇を薄く伸ばし、ため息を吐く。

「あんたの父親も、『ここがガキの死に場所だ』なんて言って、割り切っているのかね。どいつもこいつも脈絡なく突然に勝手なことしかしないね」

 セリフとは裏腹に、とても、あきれているようには見えない。

「それで、そっちの彼女さんはなにしているんだい?」

 一人、丸机に突っ伏している者がいる。店長のかすれた声に呼ばれて、腕のすき間から顔だけをこちらに覗かせる。

「なんですか、店長」

 救世主まがいの男の、その相方だ。

「質問をしたのはこっちなんだけど」

 店長がそう話を戻すと、女の人は首をまっすぐの位置に戻して、ちんまりとした後頭部にそっと両腕を絡ませる。

「どうしてあの人、正解を言ってくれないんでしょうね」

 さびしさを押し殺した声でつぶやく。『どうして、私に話しかけてくるのが彼氏じゃなくてあなたなの?』言いたげなオーラを遠慮なく発する。

「勘弁してくれよ」

 店長は女の人に聞こえないよう小さく毒づく。それから、目の前の強敵から一度視線を外して、オレを見る。

「なあ、ガキ」

『勇気をちょうだい』心の声が、視線をつたって聞こえてくる。

「質問をさせて。あたしは、もう、ひとりじゃないんだよね? 目の前にあんたがいる」

 そう口にして一人で話を進めようとする。自己完結の言葉をオレの前に並べ立て始める。

「店長の望みはなに?」

 オレは店長のセリフを一切無視して聞く。だって、オレは知りたい。店長が話す言葉ひとつひとつに置いて行かれたくない。

「私はあの女が、なぜここに残ったか知りたい」

「きっともう、なにもできないのに?」

「それでも、知ったそのあと、更生させてやりたい」

 店長は傲慢な願いをのぞかせる。更生して、それで女の人の結果がなにか変わるわけでもないのに、それでも。

 逃げ道なんかきっとどこにもなくて、どんなに女の人が彼氏をそのあと望んでも、もうオレたちと運命を共にするしかないのに、それでも。

 どうしてかなんてオレは聞かない。

「それが、店長が一緒に心中したい願い?」

 店長にとってそれは、ドライに生きることから脱してでも叶えたいような類の願いなのだろうか。愚か者はみんな、そんな卑しい願いと寄り添い死んでいくのだろうか。気になることはひとつに絞らないと、うまく見えてこない。

「あんたはなにと心中するんだ? あたしへの愛か?」

 店長は答えず、反対に質問を投げかけてくる。『ガキ、お前もすっかり愚か者だ』お父さんの声が頭の中で響く。

「だから、オレは死なないって」

「そうだろ? あたしもそう思っているよ。あたしはこのまま、あたしのなりたい自分を貫きとおすだけ」

 見下ろす店長の目が語る。『あたしは最初から死ぬつもりなんて毛頭ない』。この人は、ドライに生きることはどこまでだって突き通せると、死さえも弾き返せるとそう固く信じているのだ。

 それはただの蛮勇だ、思考停止だ。オレはそう切り捨てたくなる。

 オレが悶えている間に、店長は次の質問を繰り出す。

「でも、もうあたしは『酒場の店長』じゃない。出稼ぎの男どもに囲われるお金持ちの女じゃない。そうだよね?」

 答えられない。そうだと信じる店長の強さにただ、押しつぶされていく。

 店長は、店長の望む自分になろうと、幸せになろうと、カウンターから女の人のもとへ机のすき間を縫うように歩いていく。オレは口ごもるばかりでなにひとつ声すら掛けられない。

 だって願いは、自分の手で叶えないと、本人の手で現実にしないと中途半端に実を結んで胸に引っかかり続ける。男の言ったことが頭の中で響く。オレは、ドライに生きる店長を、死へと突き進んでいく『愚か者』を、ただ見ているだけなのはこれ以上耐えられない。だから、止めないと。間違っていると知らしめてやらないと。

 でもそれは、オレの叶えていい願いなのだろうか。捧げてもいい祈りなのだろうか。

 店長はいつの間にか、机に伏せたままの女のそばまで寄って、さっそく言葉を投げかける。

「あんたは、どうして、彼氏が好きだったんだ?」

 彼女の方も顔は見せないまま、大して悩みもせず話し始める。

「それは、ずっと一緒にいれば、私が最初にこう、って決めた方向へは絶対行けなくて、ひとつ揉めるたび行き先は二転三転するけど、でも最後は、結局もっと、楽しくて、面白くて、心がふわふわする方に行ける気がして。だって例えば、こんな酒場には、私ひとりじゃ来られないでしょ?」

 幸せそうな顔で、どこか、見せびらかすように口を動かす。オレはカウンター席から二人の話す声に耳を傾ける。

「じゃあ、なんで、彼氏からあんたは好かれていた?」

 店長が冷やかな声で聞く。女の人はきょとんとした顔をして、店長の目を見つめ返す。

「気にしたこともないはずだ。あんたは自分が幸せならそれ以上、ほかになにもしたくないんだよ」

「いや、それは」

 当たり前じゃない。そう言い切ろうとしたセリフは店長の声につぶされる。

「だからあんたは彼氏から置いて行かれるんだよ。ずっと、相手の気持ちを下敷きにしていただろう。どうしたら私は好かれるかなんて、一度だって考えたことないんだろ?」

 そんな風に怒りをぶつける。女の人に対して抱いた感想を、尖った言葉にして切りつける。

「そんなこと、必要あるわけないじゃない!」

「まあ、どっちにしろ、もう手遅れだ」

 いきり立った女の人に、店長は冷たく声を浴びせかける。

「あたしらはここで、どうにかするしかない」

 静まる。風が酒場を揺らす音が、かすかに聞こえたような気がする。

「自分が手遅れだからって、私のことまで決めつけないでよ、店長さん」

 女の人はふたたび怒りを燃やし、声を張る。姐さんと呼ぶのはやめたらしい。

「店長呼びをやめろ。あたしにはユイドラって名前があるんだ」

「ユイドラ、私を決めつけるの、やめて」

「その言い方じゃあ、彼氏が付属品みたいだぜ」

 店長はまともに取り合わず、女の人そのものを攻撃する。

「うるさい!」

 焚き付けられて、しゃべり出す。

「自分の好きな人に好かれている、その事実以外になにが要るの。どこがどうしてなんて、好きになってもらえた理由なんてそんな余計なノイズ要らない。言葉は間違って伝わるし、そういう願いごとはいちいち人を縛るんだよ。私は自由でありたいもの。自由に生きて、そのきらめきでずっと、魅せていたいもの。確かにあなたの言っていることは的を射ているのかもしれないけど、それでも、私はこんな生き方で今までの所うまくやってきていたのに」

 女の人は自らの手で、店長から傷つけられた心にうまく言葉を補っていく。補強し、強い自分を取り戻していく。

「だから私は、私をただ好きになってくれる人が好き」

 そのまま、そこまで堂々と宣言する。

「それ、『本当に私のことが好きなら、なにも伝えなくても、どれだけ期待しても、それを超える言葉を、行動をくれるに決まっているから』って意味だろ」

 店長は悪意のある言い換えをする。どうしても負かしたいらしい。

「そう言っているのよ」

 女の人も張り合うように、こともなげに肯定する。

「だって、そうじゃなかったら、言わせているみたいじゃない。少しでもヒントを出したら、分かってほしいみたいじゃない」

 そう口にする女の人の声が少しだけ、涙ぐんだような気がするけどきっと、気持ちが高ぶって声が震えるせいだ。

「私が聞きたい言葉を、私が欲しいように言ってもらって、なにが悪いの」

 開き直りの言葉がいとまなく並べられていく。

「そんな風に好きに振る舞って、だけど、彼氏に分かってもらえなかったの?」

 店長は目の前でどんどんと膨れ、今にもはち切れそうな風船に、言葉の針を当てる。女の人は痛い所を突かれて、はじける。机にこぶしを振り下ろして大きな音が響く。

「こんなやり取りに意味ない! あなたは私の恋人じゃない。勝手に私を決めつけてないで、あなたのせいで変わりたくない。赤の他人の言葉に、この武装を解かれたくない」

「武装?」

 店長が声を上げる。オレも引っかかる。

 わがままな女でいることが武装だと、そう言いたいのだろうか。『この私は、彼氏の望んだ理想のカノジョ像だ』オレたちにそう伝えたいのだろうか。

「そう。今ここで、強がっているのにだって、理由があるんだ」

 女の人は言い放つ。それはひとりよがりの思い込みと、どう違うんだろうか。

「彼氏に会いたい、ってつまりそう言いたいのかよ」

 店長は冷たく、言葉を置き換える。余計な意味を排除して、分かりやすく間違えている部分だけをむき出しにする。

「なんで私、置いて行かれたの」

 女の人が言う。自分がわがままなせいだとはみじんも考えないらしい。

「これだけの状態で、まだそこから受け入れないつもり?」

 店長も小馬鹿にした言い方をする。

「だって、分からないものは分からないもの」

「なんで、ってそれは、こんな酒場に尋常じゃないこだわりを見せたのが不可解すぎたからだろ。嵐から逃げている最中ってときに立ち寄るべき場所じゃどう考えてもない」

 店長は当たり前のことを言い聞かせる。訳が分からない、オレも女の人のことをそう思っている。ただ男の方も諭すばかりで、一度も『じゃあどうしたいの』と聞こうとしなかった。そのことはずっと、頭の片隅に引っかかっている。

 彼女は唇を尖らせて、「だって」と口走る。

「それはだって、ミマが、目を輝かせて『逃げようぜ、イツキ』って言ってくれないから」

「なにそれ」

 イツキ、というのがこの女の人の名前なのだろうか。

 店長は理解できないと声を上げる。イツキは過去を思い出して、ふたたび微笑みながら口を動かす。

「ミマが楽しそうにしているのを見ているのが、私はなにより幸せだったから。私の背中を追いかけるときのミマが、振り回されてそれでも私といるときのミマが一番楽しそうで、輝いて見えたから。だから私は一緒にいたのに」

 イツキの語るミマは、オレの知っている救世主もどきの男と少しも一致しない。店長を追い詰めたときの冷酷さは、伝わってこない。

「あんたはミマにとって、底なし沼だったんだろうな」

「言い方にいちいちトゲがあるよね、ユイドラって」

 イツキと店長は、二人だけにしかわからないやり取りを始める。付け入るスキがなくて、オレは置いてけぼりを喰う。

「あたしはあんたのこと、さっぱり理解できないよ。でもうれしいと思ったときは本気で飛び上がりそうだってことだけは分かる。そんな風に臆面もなく、感情を表に出すんだろ? だからイツキ、あんたは『分かってあげたい』と思う男にとっちゃ、どう見たって恰好の獲物だ」

「うん、そうかもしれない。私が楽しそうにしているとき、ミマは一番うれしそうにするよ。と言っても誰だって、隣にいる人が笑ってくれたらうれしいと感じると思うけど。そんなどうでもいいことなんかじゃなくて、ミマは私が気持ちに任せてなにをしていても、たとえば、椅子を引きずり引きずり天井に雑誌の広告を貼り付けまくったりしても、『またなんか面白いことしている』って全然嫌味なく笑って聞いてくれるの。『理由が知りたい』って」

 イツキの顎が上がっていく。話しながら、白い頬がだんだん染まる。焦点を合わせるつもりのない両目で、酒場の隅、誰もいない虚空を、きらめく過去を見つめている。

「『イツキのすることは、気まぐれじゃけしてない』ミマはいつも、分かってくれている。私は話して、でも大抵興奮しているから上手く伝えられなくて、ミマは『やっぱり分かんないや』っていっつもそう、でもすごく楽しそうに言うの。だから、一緒にいるって決めたはずなのに。だから、私が置いて行かれるはずないのに」

 幸せな表情が、「だから」と口にしたとたんに曇る。店長はそんなイツキに追い打ちをかけようと口を開く。

「それ、ミマのリアクションを見てイツキが勝手に想像したことだろ。全部あんたの思い違いだったんだよ」

「そういうこと言っていいのはミマだけだって。武装は解かない。勝手に私の彼氏面しないで」

 ここは崩せそうにないと戦線を放棄し、店長は話題を替える。

「じゃあ、なんでイツキはこの酒場にこだわったんだよ、理由があるんだろ?」

『イツキのすることは気まぐれじゃない』ことを、さっそく試そうとする。

「当たり前じゃない」

「話して」

 売り言葉に買い言葉で、イツキはまた長ゼリフに突っ込む。

「でもそんなミマは嵐が来たくらいで、勝手に私を守る気になって、私の気持ちを置き去りにした。『逃げなきゃいけないんだよ、分かるか?』なんて血走った目で私を説得した。私は子どもなんかじゃないのに。ミマがそんな私を望んでいて、私もそんな風に気ままにふるまうのが好きで、そんな状態がお互いに一番幸せだったから、あくまでそう擬態していただけのつもりだったのに。変わってしまったミマを見て、私は『一緒にいて楽しかったときを思い出そうよ』ってそんなつもりで、いつもよりたくさん、わがままを言った。ただ、いつものように、理由を聞いて欲しいだけなのに。それで、回らない口で一生懸命話したら、そしたらミマは笑ってくれるはずなのに。そうやって、ミマが楽しそうにしてくれるだけで、私はどうしようもないくらいにミマを信じられるのに」

 幸せな場所に居続けようともがいただけなのに、どうしてイツキのもとに幸せは今、ないのだろう。

「だから、君は私の心を置き去りにしているよ、そう伝えようと思ってこの酒場にこだわったの」

 店長は苦々しく喉を鳴らす。

「笑ってよ、って言えば、それだけでよかっただろ」

 言わずにはいられない。それが出来れば苦労はないと、ここにいる全員が知っている。

「だから、それはしたくないってさっき言ったじゃん」

 イツキは言う。『そんなこと口にしなくても分かってくれる人しか、私には要らない』彼女の声で、記憶がフラッシュバックする。

「甘え下手か」

「でも、それくらいで私を置いていくなんて普通ある?」

「事実、彼氏はここにはいないけどな」

 短く言い返す。これだけ面倒な女に今までこだわり続けていたらしいミマという男をあたしは褒めてやりたいよ、店長は言いたげにあきれ顔を浮かべる。

 イツキはそれを見て、でも少しも揺らがない。

「ミマは私を置いて行った。でもそれは、駆け引きの一部ってことにする。私はそう解釈する。かなり大げさで、ずいぶんスリル過剰だけど」

 なりたいものを追う、愚か者の顔をのぞかせる。『将来の夢はね、ミマのお嫁さん!』そんな声が聞こえてくるような気さえする。

「信じているんだ」

 店長は茶化す。ミマは、自分の隣にずっといたのが、夢を追う愚か者だったと知ったら、どんな顔をするだろうか。

「だから、嵐が来て死んでしまうってミマが承知で、私をここに残したってことは、生き残るすべがまだあるってこと」

「ずいぶんな所まで仮定を引っ張るね。愛想尽かされただけじゃないの」

 悪意のある声は大きく響くだけで、ただ上滑りする。イツキとミマ、二人の関係にひとつの傷だって付けられない。

「私ら、ラブラブもラブラブだったんだよ? 出稼ぎの薄情な男どもと違うんだから。見せてあげようか」

「それはやめて」

「そして、それは絶対、これからも」

「そう」

 まざまざと見せつけられただけになって、店長は面白くなくてふてくされる。イツキは遠くを見つめる。そんな目になる。ミマから託された、助かる方策を探そうとする。

「じゃあ私、どうすればいいんだろ。ユイドラ、どうにかするしかないってさっき言っていたけど、どうやってここで生き残るつもり?」

「分からない、考えたこともない」

 生き残るための質問に、店長はしどろもどろになる。

「地下室はないの」

「もしあったら今ごろ、男どもは車なんて出さず下にこもって、陽気に騒ぎ始めているよ」

 茶化す余裕が店長の方にもやっと出てくる。イツキは最初の落ち込みようが嘘みたいにてきぱきしゃべり始める。

「じゃあ、根こそぎ酒場ごと飛ばされたらどうしようもないけどなんとかならないか考えてみる。ミマを信じる。方法が、まだなにかあるはず。もし仮に、万が一、なにもなくても、窓とか塞いで酒瓶とかが落ちてこない場所でじっとしていればきっと大丈夫だよね? 打ち付ける板あるかな、ユイドラ?」

「上にはあるかもしれないな、あと、各自の家の中とかに諸々」

 イツキが止まる。店長のセリフに引っかかる。

「家? そんなのがあるの?」

「酒場の裏手のログハウスは全部、男どもの住処だよ」

 聞かれて、店長はしたり顔で言って裏手の方角を指差すけど、腕の先にはカウンターと酒棚があるばかりでイツキにはなにも伝わらない。

「とりあえず、二階の方から見てくるね」

 イツキは、反応しづらかった言葉をあわてて流すように、そそくさと言って酒場からいなくなる。

 オレは店長と、また二人きりになる。

「店長はさ」

「ユイドラだって」

 話しかける。店長は短く、問い詰めるように訂正してくる。

「ユイドラは、さ」

 オレは、慣れない呼び方に戸惑いながらも、精いっぱい虚勢を張って、仕切り直す。

「なりたい自分になれて幸せ? 酒場の店長になれて」

「幸せだな」

「それと心中してもいいくらい?」

「私は、自分が死ぬとは、少しも思ってないよ」

 ユイドラはそう口にするけど、事実はほとんど変わらない。この人に助かるつもりなんてない。早く、早くと死に急いでいる。だからオレはそれをどうにか止めたい。『酒場の店長になる』なんて夢を掲げていなければ、ユイドラは生き残れるのに。愚か者として切り捨てられることなく、とどまっていられるのに。

 でも、きっとそれは、オレが願っていいことじゃない。

「なんでユイドラは、店長って呼ばれるのを嫌がるの?」

 オレは代わりに、イツキの彼氏が聞かなかったことを丁寧に拾い上げ、ふたたび話題に挙げてみる。

「それを知ってあんたは、自分のどんな疑問が融けると思っているんだい?」

 ユイドラは予想外に牙をむく。オレはとっさのことに答えられない。

 そんなオレを不信そうに見つめる目。『やっぱり、他人の言葉はすぐ嘘になる』言いたげに表情を曇らせて、ユイドラはふたたび店長の仮面で素顔を覆い隠す。せっかくイツキがこじ開けてくれた、店長の心のすき間が目の前で閉じていく。『店長のことが理解できれば、今までずっと気になっていること全部に答えが見つかる気がする』かつて自分で口にした言葉が、今になって実体になって襲い掛かってくる。辺りには、自分の気持ちを溶かし切れていない嘘吐きの匂いがきつく漂っている。

「宝石を頼んだときは聞きそびれたけど。やっぱりあたしばかりじゃ不公平だよ」

 店長はそう続ける。オレの頭には変わらず、なにひとつ浮かんでこない。店長は黙り込んでしまっただオレに、『嘘を吐くならもっとバレにくいのにしなよ』言いたげにため息を吐きつつ、手を差し伸べてくる。

「分かった。じゃあもう一度聞くよ。やり直させてあげる。あんたはどうして、私のことをそんなに知りたがるんだい?」

 それは。オレは言葉を掘り出そうとする。

 それは、店長の口にした『あたしの気持ち』というやつが、オレの感じていたそれとぴったり一致したからだ。

 お父さんが愚か者と切り捨てる人間が、生きた状態で、会話が成り立つだけの新鮮さで目の前に現れたからだ。『この女の人としゃべっていれば、お父さんがあれだけ固執するくらい重要な、お父さんの核みたいな部分を、ただ上着の裏側に隠れているときだけよりずっと強く感じ取れる』そう思ったからだ。

「お父さんに預けられたからには、オレはなにかを任されたはずだと、そう思ったからかい?」

「違う」

 図星だ。少なくともきっかけはそれだ。店長の質問に、口だけが嘘を答える。

「へえ」

店長もすぐに勘づいて、見抜いてやったと顔をほころばせ、気まずくて目を合わせないようにしているオレの表情を覗き込んでくる。

「それじゃあ、お父さんの意図はつかめそうかい? あたしをどうするつもりか知らないけど、その願いは叶いそうかい?」

 楽しそうに問い詰めてくる。『寒いのはイヤだろうと思っただけだよ、何度も言ったろ。預ける所はあそこしかないからな』お父さんに聞いても、照れているのかそれともなにか隠しているのか、それしか答えてくれなかったことを思い出す。

「それともあれかい? あたしを知りたいってあたりからすべて嘘で、本当の所はただ、『親に反発してみたかったから』ってやつなのかい? 反抗期に任せて選択肢を違えてみたら、取返しがつかなくなっただけなのかい?」

 そう、なのかもしれない。店長はイツキにしてやられた八つ当たりも込めているのか、やけに強くオレの心を殴りつけてくる。

「父親に置いて行かれたことにすらまだ、実感が来てないんだろ?」

 ならあたしが引導を渡してやるよ、言いたげに店長は、犬歯をのぞかせる。

「お父さんは、オレを置いて行ったりしないよ」

 オレは勢いに任せて、言い返す。言い返してしまう。小さな矜持が、声にしたらその端から崩れていきそうな論理が、不用意に口を突く。それは、心の最終防壁だ。あっという間に店長の言葉で食い破られる。

「ここには三人しかいないよ。あんたもイツキと一緒かい」

 冷ややかに言われる。お父さんはどこに隠れているんだろう、オレは即座に疑う。すっかり住み慣れた空き家でオレの帰りを待ってくれているのだろうか。それとも、車のエンジンをふかして、ガキはまだかと貧乏ゆすりを続けてくれているのだろうか。

 酒場は静まりかえっている。

 今ある現実を見ろ、なにもない空間がうるさくて仕方ない。

「まだこだわり続けるのかい? イツキにも言いたかったことだけど、勝手にあたしの酒場で死のうとするな。『置いて行かれて寂しい』そんな気持ちだけで、あたしとつながろうとするな。勝手にあたしの気持ちを決めつけて、勝手に道連れにしようとするなよ、目を開け、あたしとあんたは違うと気付け。そうじゃないようなあんたには虫唾が走る」

「オレは、お父さんを信じるよ」

 心を修復する。お父さんはオレのそばにいる。お父さんはまだ、オレのそばにいる。そう唱えて、暗示に掛かろうとする。

「それじゃあ、どうしてガキは置いて行かれているんだい?」

「オレがどうしたいか、オレの気付かないことまで、お父さんは気付いていたんだよ」

「じゃあ、なんで自分の子どもが死ぬような真似をする? そんな、必要、ないはずだろあんたの父親は、こいつは大事な子どもだって、最初からずっとそう言っていたよな」

 オレに問い詰めていたはずなのに、店長はいつの間にか、顎に手を当てて考え込み始める。なにかおかしいと、オレも気付く。イツキがミマを置いて行ったことだけなら、イツキの思い違いと解釈すれば不思議はない。そうであってくれた方が、事態は簡単で分かりやすい。

 でも、どうしてオレまでお父さんに置いていかれるのだろう。ただ、オレがガレージに来るのを、車をふかして待てばいいだけなのに。

「さすがに自分の命の方が惜しかったのかね、そんな風には見えなかったけど」

 店長が答えを探るように、詰まった会話に仮定を投げる。

 オレはその言葉を足掛かりに、たどり着く。

 お母さんを捨てた最初のときと同じだ。あのときは、死んでしまったお母さんを置いて逃げるだけだった。ずいぶん前に首を吊って、足の先から腐りかけているような人間に施せることはなにもない。明らかに愚か者の道を猛然と突き進んだあとで、もうどこにも戻りようがない。

 そんな風に今回も、『愚か者』へと変わってしまったオレを天秤の片側に乗せ、それでも自分が望んだ道からは外れるわけにはいかないと、そんな風にオレは切り捨てられたのだ。もしかしたら、お父さんはここにオレを置いて車に乗り込むとき、涙を流してくれていたかもしれない。そうだったらうれしいなってオレは思う。

 だってオレは、お父さんの生き方を否定してまで、憧れの人の、憧れの人たる所以を汚してまで、店長のそばにいることを止められたくない。お父さんはオレなんか無視して、どこまでだって自由に生きるのだ。オレにとってそんなお父さんは、そんな生き方は、きっとずっと理想であり続ける。しかもそれは、『死に急ぐ店長を止めたい』という願いが、やっと見つけたオレだけの思いがまるごと否定されるということも意味する。

 もしかしたらただ愛想を尽かされただけかもしれない。でもオレは、そう考えると勇気が湧く。『ガキ、お前は愚か者だ。オレはこれ以上付き合えない。でもどうせなら、頑張れよ』お父さんの声が聞こえてくる。『ガキ、俺のように、見つけた生き方に沿って進め』遠くなる背中に、オレは応援されている。

「店長はさ」

 もう自分のことは口にしない。必要なのは、なにが正しいかじゃなくて、なにを信じたいか、だ。なにを信じれば望みを叶えられるだけの熱が、自分の身体から引き出せるかだ。オレはそんな風に、お父さんを信じる。

「なんだよ、今はあんたの話だろ」

 店長は考え事を邪魔されて、頬を膨らませる。ユイドラ呼びじゃないことにはなにも言ってくれない。

「自分の酒場で、どんな存在でありたかったの?」

 聞く。呼び名に納得が行かなかったのは、酒場での立場に不満があったからだと、オレはそんな風に推測を立てている。

「それを知って、あんたはどんな疑問が融けるんだい?」

 店長は同じ質問で立ちふさがる。

「疑問なんて解けないよ」

 オレは、鼻を鳴らしながら答える。

「知りたい、以上の理由が要る?」

 かつて店長から言われたセリフをそっくり返す。

「お父さんを捨てるほど、それが大事なことか?」

 店長はさらに問いかける。だって、オレは愚か者を救わないといけない。それがオレの願いだ。願いが叶ったら、今まで見捨ててきた愚か者のことも、そうすれば分かるかもしれない。なすすべなく、突然死んでしまったお母さんに少しでも罪滅ぼしできるかもしれない。

「死にたがりって言うのはイツキみたいなのを指すんじゃない? あいつのことが分かったんだから、それで十分だろう?」

 ユイドラは店長の仮面で本心を隠したまま、遠くへ、逃げていく。

『待って!』

「オレはユイドラを死なせない」

 声が出る。だから一緒に逃げよう。

「私は死ぬつもりないって」

「ユイドラの生き方は不幸せだよ」

 だから、オレと一緒に逃げよう。

「あんたからしたらそう見えるのかもね。でも、どう言われようとあたしは幸せだし、それで十分だろ」

「オレはユイドラに、ずっと寄り添いたい」

 ここにいたら、きっと死んじゃうよ。

 オレはろくな脱出方法もないのに、何度も言葉を変えて、店長に提案する。

「じゃあ黙っていてくれよ、これはあたしの問題だ。あたしの心の問題だ。だから、あたしの好きにさせてくれ。そんなこといちいち知らなくたって、あたしには寄り添えるだろう?」

 どう自分の気持ちに言葉を与えても、ユイドラにすげなく弾き返される。

「あたしは『知ってほしい』なんて少しも思っていないからな」

「だから、オレにもそれを背負わせてよ」

 あなたの気持ちは、今関係ない。オレの声を聞いてよ。

「絶対にイヤ。あたしの状況はあたしだけのものだ。あたしの気持ちはあたしだけのものだ、絶対に譲ってやらない」

 ユイドラはますます、かたくなになる。これ以上言ってもどうにもならない絶望が、ひしひし追いかけてくる。

 オレは唇をなめる。こうじゃない。店長の同意なんて必要ない。オレはしたいことを、願いを叶えないとならない。だって望むことそれ自体は、悪いことじゃない。『オレはユイドラに変わってほしい』そう願い、実際にユイドラが変わっていく中で、ユイドラにとっての悪者になってしまうのが怖いだけだ。

「ユイドラ」

 どう言葉を並べれば、この女の人の目を覚ませられるだろうか。店長という仮面を壊せるだろうか。それは、オレに上手くこなせる難度だろうか。問題は次々、あふれてくる。そこかしこ、あらゆる方向に怖いことだらけだ。失敗の火種、落とし穴。進む道の先にあるのはそういう、つまらない結末かもしれない。

「なに?」

 店長はおざなりに返事をしてくる。オレはユイドラの目を見ようとする。仮面の向こうに隠れた、彼女の本心を探ろうとする。覚悟を決めて、前を向く。

 その瞬間、お父さんの見ている景色に、追いついた気がした。

 雲が晴れ、下界が覗く。背筋がゾクゾクと粟立つ。風が耳元で激しく鳴る。地面がはるか遠い。麦畑の金色に自分の影が落ちている。オレは、細く張られたロープの上だ。これが、お父さんの目に映っていた光景。オレの手を引く人間が立っていた場所。進め。

「店長はなりたい自分に、本当になれていたの?」

 オレはさっき聞いた質問をさらに踏み込む。これが突破口にならないなら、また一からやり直すだけだ。恵まれていることにオレは、嵐に飲み込まれない限り、死んでしまわない限り、何度だってやり直すことができる。

「なれていたに決まっている」

「男どもが望む扱いをしてくれないのに、普通の客は全然来ないのに、それでも?」

 店長は答えない。アタリを引いたかもしれない、オレは笑みを浮かべそうになって、あわてて気を引き締める。

「それなのに、なりたい自分になれたってはしゃいで、ドライに生きようとするのはおかしくない?」

 胸の奥から湧いている言葉を次々、言葉にする。

「おかしいわけないだろ。正しいのは、それを決めるのはあたしだ」

 店長は耐えきれないとばかりに反発する。セリフを吐き捨てていく。

「それに、その立場に今、立っているのも事実だ、本当のことだ。そんなあたしをそれでもおかしいって言うなら、本当におかしいのはあたしをそんな風に扱わない出稼ぎども、お客として振る舞わない男どもの方だろ」

 店長はまくしたてる。オレは同情しない。店長に共感は今、必要ない。ユイドラの本心はまだ見えてこない。だからオレはただ、間違わないように、落とし穴に掛かってしまわないように、気持ちを張り詰める。

 店長の言葉を反芻する。酒場を男どもが食いつぶした、そんな風に聞こえる。

「最初は男どもがいなかったってこと? でも、酒場に引き込んだのも店長でしょ?」

「建前と理想だけじゃ酒場は回らないんだよ。遠い昔、この酒場に一攫千金を狙った男どもがいて、それを受け入れでもしないと、店の赤字がどうにもならなくなっていたあたしがいた。それだけのことだ」

 店長は自分自身のことなはずなのに、やたら淡泊に答える。

 オレは店長が語らない、そのあとを想像する。そうやって店長は、男どもにボロボロにされたのだ。お互いいつも通りふるまっただけなのに、店長ばかりが摩耗し、男どもの癖が移り、ついには飲み込まれていった。

「じゃあそのとき、ユイドラのなりたかった、そして実際なれていたはずの『酒場の店長』は、静かに死んだんだ」

 オレは浮かんだイメージをそうまとめる。言って、ユイドラの背骨を力ずくで抜き取る。店長のすがってきた理想が、もう既に十分いかれていると眼前に叩きつける。

 店長はまだ、イマイチ落とし込めないらしい。

「勝手に決めつけてないで。あたしは幸せだ。ここで死んだってなにも困らない。あんたの勝手な分析なんて聞きたくない」

 そんな言葉を並べる。どれも、まともに取り合っていたら、これ以上進めない。オレは、聞こえない振りをする。失敗するかもしれないと考えながら、その中に足を踏み入れていく。

「理想通りに扱われなくなって、でも店長はそうだって気付きたくないから、男どもを遠ざけて、変わってしまったことに気付いてしまわないように自分自身の心をだまして、それっぽい論理武装で暗示を掛けている。ユイドラの家がお金持ちとか、出稼ぎどもが犯罪者とかそういうの、全部後付けでしかない。ユイドラはそうやって、不満げな顔して店長の立場を守っている」

 そんな風に分析を並べてオレはユイドラの欺瞞をさらす。でも、これは全部、想像でしかない。オレから見える不幸なユイドラが、どう恵まれていないか、具体的に説明することでしかない。

 そこにユイドラ自身を大切にする気持ちは一つもない。オレの中にそういう気持ちがあるかも、定かじゃない。

 けれど、想像の芽はそんなことお構いなしにどこまでも伸びていく。店長が、男どものことを怖いと遠ざけて関わらなかったのは、一人だってユイドラを女主人として扱わなかったからだ。

「ユイドラはそうやって、ハイウェイを飛ばしている途中、魔がさしたようにふらりと酒場に立ち寄るお客にとって魅力的な店長だったその頃にずっと、憧れ続けている」

 それは、不幸せなことだ。恵まれていないことだ。『あたしはここで一人、どんなに世界が変わっても、たとえここが世界の終わりでも、酒場の店長を続ける』そんな言葉を想像する。きっとそれは、店長が自分を守るための言葉。なにに変えてもずっと絶やさないでいたい、そんな胸の奥の一番大事な矜持。かつて憧れ、そしてなれたと思っていた自分を、最後まで貫くために。

 そんなままで、ユイドラを死なせたくない。

 目の前の女の人はもう、なにも答えてくれない。話を聞いてくれているか、まだ声が届いているか、不安がつのる。

「ねえ、オレだって、イツキだって誰かに取り残されたひとりぼっちだけど、ユイドラだってここで孤独なんだよ?」

 だからこそ、オレは店長に手を差し出す。ここは最初から、ユイドラの求めているものなんてひとつも降りてきやしない、そんな荒野だ。男どもに囲まれて過ごす酒場に、店長にとっての幸せなんてない。

そんな事実を突きつけるのは、この手を取ってほしいから。

 殻に閉じこもったあなたをひたすら殴るのは、ほんとのあなたと一緒にいたいから。

 憐れんでいるからじゃ、絶対にない。

「あたしは孤独なんかじゃない。来年も男どもは来てくれる」

 ユイドラは弱々しく、反論する。

「でも、死にたくはないから、みんなユイドラを置いて逃げた」

 オレはユイドラが目をそらしている事実を突きつける。店長の殻の外から、こぶしを振り下ろす。

「イツキが彼氏を信じるなら、私だって男どもを信じていいはずでしょ」

 かき消すように、細く叫ぶ。『あたしも、その仲間に入れて』そんな、声にならない願いが、聞こえてくる。

「店長には、信じられるだけのなにかがあった?」

 オレはひるまず、問い詰める。丁寧に店長を殺していく。オレにはお父さんが、イツキにはミマがいる。男どもと店長に、そこまでのつながりが、あるわけない。あれだけ距離を置いて関わらないように努めていたのだ。

 オレはユイドラを、店長の仮面から引きはがす。

「あったに決まっている」

 それでも彼女は嘘を吐く。自分を守るために。濁った不透明な涙が頬をつたっていくのを、オレは黙って見つめる。

 そこには、ユイドラのずっと隠していた素顔が見える。目を伏せて、嫉妬が表情に出る。まつ毛が物欲しげに揺れる。

 不意に訪れたその一瞬にオレは見とれる。

 ユイドラはすぐに、オレに見られていると気付いて、『見たな』そう言いたげに、上品に歯をむき出す。

 その表情に残っているのは、なんだろう。

 それでもこの場所をあきらめないのは、なにを守りたいからだろう。

『酒場の主人としてふるまいたい』ユイドラがそう蓋をした、その奥底の、澱のように溜まった彼女の気持ちは、なんと名付ければよいだろう。

 男どもをそれでも受け入れた理由。

 酒場の店長としてふるまい続けた理由。

「ユイドラは、男どもに囲まれていたかった?」

 オレは、言葉を当てる。あなたは囲われることに期待を寄せていた。そう決めつける。

「そんなはずない」

 目が泳ぐから、オレは質問を掘り下げる。

「男どもに囲まれて、嬉しかった?」

「そんなはず、あったら、困るんだよ!」

 悲壮感にあふれた声で、ユイドラが叫ぶ。

「なんであたし、置いて行かれたの」

 そのまま不意に、イツキと同じセリフを口にする。

「信じていた?」

 男どものこと。店長という名の仮面のこと。酒場にあったいろんなもの。なにより、ユイドラ自身を。そういう意味でオレは聞く。

「うん、信じていた」

 ユイドラはおぼろげながらに頷く。かすんだ声で続ける。

「男どもとこれだけ一緒にいれば、数を養っていれば、そしてなにより、『こうして男を飼うことは、あたしが本当にしたいことじゃない』男どもみんながそうだと知っていれば、男どもはいざとなったら、あたしを守ってくれるって、あたしはずっとどこかでそう確信していた。恩や忠義なんて言葉、ずっと信じていないつもりだったのに。そのはずだったのに」

 てらいのない言葉が並べられていく。

「そんな風に、あたしが、あたしの知らない間に、少しずつあたしじゃなくなっていたなら、すごく怖いなぁ……」 

 ユイドラはそう言って、いとしいものを包み込むように、自分の肩を抱く。

「あたしはもう、あたしじゃないの?」

 寂しそうに聞く。そんなわけないと続けてほしそうに、オレを見る。それじゃあ、今まで店長が口にしてきた感想と一緒だ。

 その通りだ、だから、逃げよう。喉元までそんな言葉が出かかる。オレは一瞬だけ、考える。これで、店長は助かるのだろうか。

「うん、だから、やり直そう」

 それでもオレは頷く。これで、正しいだろうか。とうに答えの出た逡巡がまだ脳内をぐるり、ぐるりと回り続ける。

 店長は涙をぬぐう。なんとか、ましな表情を作ろうと、泣きはらした目で画策する。

「それでも、あたしはここに残るよ」

 それから宣言をする。ガキ、あんたはいらない、そうオレに突きつける。

「どうして」

 理由を尋ねる。それくらいしか、オレの頭には選択肢が浮かんでこない。

「だって、あんたはあたしの絶望を知らない。あたしが少しずつあたしじゃなくなる感覚が、でももう、それしか進む道が残されていなくて、息が詰まって少しずつユイドラを殺しながら、ここまでたどり着いたあたしを知らない」

 あたしの過去を殺さないで。そんな悲鳴が聞こえる。

 声がオレを問い詰める。人を救おうなんておこがましいんだよ、そんな感情に飲み込まれる。

 だから、最後の矜持を貫きとおすために、あんたの手は取らない。店長のほんとの気持ちが見える。愚か者の言葉が、本物のそれが、やっと眼前に現れる。

 なら、オレはその絶望を知れば、それで合格なのだろうか。

 でも、オレはもう十分に、店長の絶望を知っていないだろうか?

「過去のあたしに降りかかった事実をいくら並べても、あんたは『それだけのことだろ?』と矮小化する。そこで、その一瞬一瞬で、あたしがどんな気持ちになっているかなんて少しも考えていないだろ?」

 ユイドラの張り裂けそうな声が、決めつけてくる。

「考えているよ」

 オレは答える。そうじゃなかったら、ここまで追い付けていない。一度捕まえたはずのユイドラが、指の間からこぼれ落ちていく。

「ああ、考えているんだろうよ。でも、それは勝手に決めつけているだけじゃないか。鬱陶しいんだよ。そして、その決めつけがたとえ正しくたって、あんたは、言葉だけで、あたしの心を全部分かったって顔をしているんだろ? あたしの絶望に手を付けるな。あたしは、あたしだけのものだ」

 イラついてくる。店長はオレにお構いなしで、堂々巡りの最初に戻っていく。オレが目の前にいることなんて、オレが言って聞かせたことなんて、なにひとつ関係ない、まるでそう言いたげだ。

「あたしがここにいた、そう信じられるのはあたしだけなんだよ。あたしはいくら出来が悪くたって、あたしを置いていけない。間違っているあたしを、一人見殺すわけにはいかない。たとえあんたがいくら不幸せだと言ったって、愚か者だと思っていたって、あたしはここにいる。あたしを信じられるのは、あたしだけだから」

 もし、ここでオレが、ユイドラを殴り気絶させ、『一緒にいよう』その耳元でささやけば、オレの願いは叶うのではないだろうか。

 救うというのは、その相手の考えていることをまるごと殺し切り、自分の生き方を代わりに流し込む、そういう行為なのではないだろうか。

『逃げるぞ』

 お父さんの声が突然頭の中で響く。村から逃げ出したときの、お父さんの態度がフラッシュバックする。自分の過去からすべてを、なにもかも否定された感覚がよみがえる。

 オレはそんな言葉を並べるお父さんの手を、自分の意思で取った。だから今度は、オレの出番なはずなのに。オレはやっと自分の気持ちにたどり着く。

 オレはずっと、この人を救い出したかった。

 店長はそれでも、内側にこもったまま出てこない。そんな人にこれ以上オレに、なにが出来るだろう。

「だからそんなあたしに寄り添おうとしてくれているあんたは、あたしを一緒に死んでくれるんだろ?」

 ユイドラがオレを誘う。それもいいかもしれない。

 前へ、といくら願っても、いくらここで生き残りたいと叫んでも、結局オレたちは死んでしまうのだろう。それならオレは、『あなたは一人じゃない』最初からそう言える道を選べば、そこそこの幸せを胸に宿せるはずだ。

 誘いと受けようと、喉を絞る。

「オレは」

 がらんっ!

 酒場の入口が大きく開け放たれる。耳をつくような音に、オレとユイドラは振り向く。嘘みたいに明るい外の光が店内に差し込んで、目がくらむ。嵐の前の、つかの間の晴れ間というやつだろうか、オレはそんなことをぼんやり思う。ドアの前に立つ小柄の女の人がシルエットになっている。

「ユイドラ、車が一台だけ残っている。動きそう」

 割り込むように、イツキが息を切らしながら声を上げる。ユイドラは答えない。異様な雰囲気に、なにがあったのとすがるような目でオレを見る。

「誰の」

 代わりにオレは短く返事をする。きっとお父さんのだ、言いながらそう直感する。

「分かんない。鍵ないから開かないけど」

「窓ガラス割って、ドアロックを外せば乗り込めるんじゃない?」

 ユイドラが平然とした声で、解決策を提案する。

「あ、そっか。でも、それエンジン掛かるの?」

「それは試してみないと分からないけど」

 イツキは不自然なまでに、オレたちの内情に触れようとしない。

「ま、細かいことはいいか。じゃあ、私はあの車で彼氏を追う」

 かたくなに自分のことだけを話題に挙げる。それはとても、困る。

「本気?」

 ユイドラも思わず、といった感じに聞き返す。

 オレも完全に同意見だ。その脱出ボッドは一人用じゃない。残る者たち全員への救済手段だ。お父さんが残したものに決まっている。オレのために用意されたものに決まっている。『残される者のことを考えろ』イツキはオレたちのそんな非難の視線にさらされ、顔をしかめる。

「だって、ユイドラは酒場と心中する気なんでしょ。私は引き止めないよ」

 殴り返すように、そう一言で切り捨てる。

「そうやって声を掛けてくれる誰かにだけ全力で爪痕残そうとする人、私はキライだから」

 言われて、ユイドラはうめくことさえ出来ない。

 イツキは続いて、オレに目を移す。

「あんたも目を付けられて不幸だろうけど、頑張りなよ?」

 かわいそうなものを見るような視線で、雑に応援してくる。

 オレはすかさず立ち上がる。寒気から逃げ出すように、捕まるわけにはいかない。この気持ちを、汚されるわけにはいかない。

 それに、イツキがそのつもりなら置いて行かれるわけにはいかない。先に車を押さえなきゃ。

「オレ、見てくる」

 ユイドラを置いて、ガレージへ駆け出す。

 きっとお父さんが待ってくれているのだ。でも、イツキは鍵が掛かっているって。細かいことを気にする前に、身体が前へとはやる。

「無駄だと思うよー」

 イツキの声が追いかけてくる。

 なんでお父さんは、自分の車だけを残したんだろう。ここにいないなら別の人の車に乗って逃げたってことになるけど。

 カウンターの裏から調理場を抜ける。

 もしかしたら単純に、車の鍵が見当たらなかっただけかもしれない。

 台所の奥にある勝手口から、外へと飛び出す。蹴破ったドアは音もなくオレを通す。すっかり見慣れた赤土の上を走る。地平の先までどこまでも広がっていて、果てがなくて、心細さにオレは何度もふらつく。決して、お父さんがそばにいないからじゃない。

 分厚い雲が低く垂れこめていて、レンガ色とネズミ色に挟まれ、地平線はすっかり居心地悪そうだ。

出稼ぎの男ども、お父さん、救世主まがいのミマ。みんな、ここから逃げ出したあとだ。霧雨が降っているのか、頬に細かい粒が当たる。

 ガレージは空け放してあった。

 敷き詰まるようにあった車どもはすっかり影も形もない。たった一台、一番の強面だったオレのお父さんの車だけが残っているだけ。オレは胸の奥から、一生で一番の、深い安堵のため息を吐く。やっぱり、やっぱりそうだった。胸に喜びが満ちる。お父さんはまだ、オレのそばにいてくれる。

 けれど、そばまで近付いて中を覗いてみても、誰もいない。黒いレザーのシートが見えるだけだ。お父さんが身を隠していたり、イツキの勘違いで実は鍵が開いていたり、そんな希望は残念ながら、どこにもない。

 オレは、ガレージの横合いに置かれた棚へと近付く。スプレー缶や、油にまみれたタオル、ミニカーなんかが雑然と、どの棚にもなにかしら詰まっている。大きなモンキーレンチが目に留まる。

 レンチならあるいは割れるかもしれない。オレは思い描いていた金づちより一回り大きいそれを手に取る。ずっしり重いそれを持ち上げ、そのまま横に振るように勢いをつけ、助手席の窓ガラスへ振りぬく。

 ごんっ!

 重たい音が響いて、接触面に、小さく白い跡が残る。でもそれだけで、中に入るのは叶わない。オレは衝撃で腕がしびれて、レンチを取り落としそうだ。

 どうやらだめらしい。オレは、床に放り投げて、棚へとふたたび目を凝らす。ないわけがないのだ。複雑に折れ曲がった銀のパイプ、高そうな誰かの腕時計、オレは焦りながらひとつずつ頭の中ではじいていく。

 そのうち、そんな中にこっそり、まぎれて置いてある先の鋭くとがったハンマーを見つける。金づちより二回りほど小さい、いかにも弱々しそうな見た目をしている。見たことがなければまず分からない。オレはそれに手を伸ばす。

 壊すことしか能のない道具。そういう確かなものが今のオレには要る。

 ぱりん。

 ハンマーで軽く叩くと、控えめな音と一緒にガラスはあっさりと全面割れて、まるで最初からなにもなかったかのように、一瞬のち消える。縁に透明な牙が残ることもなくて、オレは遠慮なく肩から腕を突っ込む。ドアロックに指を掛け、助手席側のドアを開ける。オレの指定席だったシートは今飛び散った破片にまみれている。

 ガラスで指を切らないように注意深くダッシュボードに片手を乗せて、車の中に半分身体を突っ込み、今度は運転席のドアロックを外す。お父さんはよく物をなくすから、車の鍵は最初からエンジンの所に刺さったままだ。それは、オレしか知らないこと。オレだけが、ここに逃げ道が出来ると知っている。

 これで、オレはユイドラと一緒に逃げ出せる。でも、オレは彼女を救うために、どうすればいいのだろう。さっきレンチがあった。あれで殴りつければ、店長はオレについてきてはくれるんじゃないだろうか。

 それとも、なにか、オレの思いついていない言葉がまだ、ここにはあるのだろうか。

 お父さんはどうして、どこに行ったんだろう。

 オレは運転席に乗り込む。足元や手元の、ハンドルやレバーにうっかり触ってしまわないように身を縮めこませる。

 逃げなきゃいけないのは分かっているつもりだけど、オレはやっぱり気になる。ここに来れば、お父さんと同じ位置に座ればまたなにか、分かる気がしている。

 助手席のほうを向く。お父さんが、かつてのオレを見ていたように。そこには誰にもいなくて、暗がりの中だと言うのに鈍く光るガラス片が、代わりとでも言うように飛び散っているだけだ。

「あれ」

 どうして、こんなに異様なまでに光っているのだろう。

 ひときわ白く濁ったように輝くなにかが、ふっ、と目に留まる。赤い土の中で膨れるように育つ色。なんだろう、アレ。オレは胸に期待を寄せながら、よくよく観察する。小さな紙切れがその下に敷いてあるのに気付く。事書きだろうか。オレは飛び散った破片を開け放ったドアの外へ、ハンマーを持ち替え、柄を小箒の要領で使い、掻き出してみる。



「ユイドラ、今そこで、宝石の原石、見つけた」

 オレは急いで戻って、手のひらに乗せた石ころを、なにも言わずただ見せる。

 店長は黙って、手のひらに乗っているものを覗き込んで、息を吐く。

 座席の上には、宝石のかけらが置いてあった。『割れちまった。売り物にならない。お前にやる』宝石の下に敷かれた、そんなことが雑に書いてある紙切れを、オレは手の中でつぶした。何度も持ち替えて、握りつぶして、くしゃくしゃにして誰にも読めないようにした。

 お父さんはつまり、やはりわざと車を残したのだ。

「これじゃあ、きれいなネックレスには出来ないね」

 ユイドラは、オレの手のひらの宝石を見つめる。言葉に、それでも拒絶がにじむ。

「オレ、ユイドラと一緒に逃げたい」

 否定の言葉でまた、ユイドラが遠くなってしまうその前に、オレは願いごとをはっきり口にする。

「そう?」

 それだけ? 言いたげにユイドラは首を傾げる。真剣に吐いた言葉が、ひとつも届いていないような感覚に、背筋がひやり、とする。

「お父さんは関係ない、ユイドラがどうしたいかも関係ない」

 決意がユイドラの答えに削り取られる前に、言葉を重ねる。

「ユイドラの絶望そのものは感じ取れなくても、オレは、ユイドラの気持ちに絶対に寄り添える。ユイドラがなにを見ているか、どんな気持ちになっているかオレはずっと知り続けていたいから。そうしてユイドラが分からなくなったら、オレがそんなユイドラを導く。だって、オレはユイドラに死んでほしくない。ユイドラにいつまでだって、生きていて欲しい。だから」

 独りよがりの言葉を、オレの一番キライだった類のそれを、ユイドラへとぶつけ返す。だって、オレの気持ちをどう受け取るかは、受け取る相手だけが決めることだ。逆の立場だったらオレはイヤな気分になる、なんてことはこの際関係がない。オレはただ、ユイドラにオレの気持ちを聞いてほしい。

 ユイドラの表情はピクリとも変わらない。オレのしていることになにひとつ意味なんてないんじゃないか、唇が震える。

「だから、ユイドラは、オレを信じて」

 オレはそれでも、踏み出す。

「イツキがミマを信じるみたいに、オレがお父さんを信じるみたいに」

 救いというのは、自らの手でその手を取る瞬間に現れる思考システムの変化のことだ。スパナのような、逆らいようのない暴力なんかじゃ決してない。

 ユイドラは、目を伏せる。オレの言葉に、返事を考えるように、唇のあたりをまさぐる。

「じゃあ、あたしの手を握って」

 そのまま、願いごとをしてくれる。聞きたかった類の言葉が口にされる。

「宝石を受け取ってくれるなら」

 でも、オレは応えない。両の手は宝石で埋まっている。それに。

 ユイドラは焦らされて、大げさにあわてる。

「あんたが男どもの代わりに、外まで連れて行ってくれるんでしょ、それで十分じゃない」

 居丈高に言うけど、ユイドラの声がガクガクに震えている。

 オレは半笑いになりながら、店長にとっての希望になるために、自分に魔法を掛けようと口を開く。

「それに、それでも、約束は守らなきゃ」

 魔法は、約束は、意義なんてもはやなくなったとしても、型通り掛けなきゃいけない。

 そうしないと、きっとオレの願いは、気持ちは風にさらされてすぐに吹き飛んでしまうから。オレは、永遠を込めようとする。

 店長は、頬を赤くする。照れ隠しからだろうか、その唇が片方、ひきつるように持ち上がる。面白い顔だ。

「変な子!」

 照れや恥ずかしさを、なにもかも吹き飛ばすような音量でユイドラは叫んで、それからゆっくり、顔をそむけながら、手のひらを広げる。

 オレは笑って、その上にかけらをこぼす。


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