2
「ガキ、俺は夕方に帰ってくる」
お父さんは次の日、重ねた毛布の中から這うように起き出したオレに言う。
「こんな所でも朝は早いんだね」
目をこすりながら聞く。昨日まで使われていなかった空き家はさすがにかなり埃っぽい。
「一日は短いからな。日が昇るのが早すぎるのが悪い」
深い意味なんてなかったのに、軽くへそを曲げかけるから、オレはあわてて繕う。
「別に眠くはないよ」
「そうか」
するとお父さんはちょっとだけ、口角を上げる。
「酒場に行くときは、蛇とか虫とか、気を付けろよ」
手を振りながらそのまま、オレを脅す。でもそんなことを言うお父さんはいかにも目立ちそうな黄色の派手なつなぎを着ていて、
「そんなのがうようよいるなら、危なくないの、その恰好」
我慢できずに聞いてみる。酒場全体で共通の作業着らしくて、昨日の歓迎会のときも出稼ぎ全員が等しく着込んでいた。判で押したように身体付きのよい、同じものにしか見えない男どもが、各々でたらめに大きな声を上げ騒いでいる空間というのは、不気味でしょうがなかった。
「昔からの決まりだからな。遭難したとき、目立つのがなにより大事なんだろ」
お父さんは言いつつ、首を高く防護する固そうな襟に触れ、顎の先を押し付けるようにして服の中をのぞき込む。オレがそれ以上なにも言わないのを確認して、寝起きのオレに背を向けコウバへと出発しようとする。
「連れて行ってくれないの?」
オレはろくに出かける準備もできていないけど、あわてて声を掛ける。
「付いてきたいか? そんなに店長がキライか」
お父さんは茶化さない。振り向いて、代わりに質問を二つ投げてくる。
「うん、うん」
「嘘つけ」
よく考えもせず頷くと、陽気な声でお父さんはオレを見破る。
言われて、オレは自分を顧みる。店長のことは確かに、はっきりキライとまでは感じていない。ただ、あの人は自分の思ったことや感じたことを口にしすぎるから、そのたびオレはどう反応すべきか考えなきゃいけなくて、すぐ消耗してしまいそうだ。好んで話をしたいとはまず思わない。
「お父さんは、じゃあ好きなの? 店長のこと」
そんな質問をしてきたお父さんの真意を探ろうとする。お父さん自身にも気付かれないように、こっそり心の中で手をつなごうとする。
知らされる前から好意に気付いていたとアピール出来ていれば、オレはお父さんの隣にずっといて、言葉なんてなくてもお父さんの気持ちが理解できていたってことになる。それはきっと、『手をつなぐ』こととおんなじだ。
「キライではないな。それでも昨日の感じはかなり面倒くさかったが」
水を向けられ、お父さんは不満そうに口を動かす。
その答えに、なぜか、オレはひどく傷つく。
別に、お父さんと手をつなげなかったからじゃない、と思う。
どっちつかずの答えに、高く、宙づりにされる。キライなら二人同じ気持ちで、好きでも手をつなぐことは出来る。お父さんの煮え切らない言葉と、上手く釣り合いが取れない。
「オレがここにいるのに?」
もっとはっきり、『店長なんかより、誰よりガキが一番だ』そう答えてほしくて聞く。お父さんがオレを、オレの目を見る。きっと泣きそうになってミジメなんだろう。
「なんだ、面倒くさいのが伝染ったか?」
軽く、笑われる。
「ごめん」
誤魔化されて、オレはなにも悪くないのに、謝ってしまう。謝ってそれで、口に出してしまった一言を、分かってもらえなかったって事実を丸ごと消し去ってしまいたい、そんな気持ちが口をつく。
すると、さっきまであんなにはっきりしていた気持ちは途端に霧みたいにかすんで、心は嘘みたいに穏やかになる。
『店長なんかより、誰よりガキが一番だって言って欲しい』言葉だけならまだ浮かんでくるけど、そこにはもう、かすかな名残くらいしか読み取れない。
オレはそんなに、なんの一番になりたいと思っていたんだろう。
「まあ、嫌になったら言ってくれ。ガキは自分の好きにすればいい」
そんなオレを放って、何事もなかったみたいにいつも通りふるまうお父さんに、心がざわつく。
「どうしても、って言うなら、そのときは鉱場まで連れて行ってやる」
「じゃあ!」
「今のお前はどう見ても、どうしてもって感じじゃないだろうが」
「えー」
期待に胸を躍らせる。はしごを外され、不満に変わったそれを声と一緒に吐き出して心をしぼませる。お父さんとならいつも楽しいはずの、そんなお決まりのやり取りがひとつひとつ、砂を噛むような作業に感じられて苦痛でならない。
お父さんは、歓迎会を見事につぶしてくれた。オレはそんなお父さんがすごく、誇らしかった。
故郷の話を互いに聞き合い、それから全員、頭を空っぽにして騒ぐのが男どもの宴会のやり方だった。思い出したいような立派な過去も、羽目を外せるだけの生活の余裕もオレたちは持ち合わせていなくて、歓迎会とは名ばかりの苦痛な質問攻めの時間が続いた。場の主役になれることに少しでも憧れていたときの自分を、力いっぱい殴りつけたい気持ちで一杯だった。
お父さんはそんな中でも、不機嫌なオーラを隠さなかった。唾を飛ばして男どもに対抗した。『根無し草のことは放っておいてくれ。過去のことは思い出したくない。オレたちは金を稼ぎに来ているわけじゃない。明日生き残るために今日働いているのだ。騒いでいる余裕などない。刹那的な享楽で一時的に溶かしても、俺とガキにはそのあとの行き着く先がないのだ。いいから静かに暮らさせてくれ。お前たちの非日常が、ここが俺たち親子の日常なんだ』そんな風にまくし立てて、男どもを次々撃退した。そんな姿がオレにはすごくカッコよく見えた。
だからこそ、陰鬱な空気を嫌った男どもによって、強引に酒を飲まされたあとのお父さんは見ていられなかった。抑えつけていたものが一度に破裂したみたいに、お父さんは周りの出稼ぎと同じように陽気に騒ぎだし、歌い、笑い、浴びるように酒を飲みまくった。それは歓迎会など関係なく、きっとかつてここに務めていたときと同じような、一日働き詰めたあとの宴会そのままの姿なのだろうけど、そんなお父さんを見てオレは、息が出来なくなった。そこにはオレ一人、泥の沼の底でおぼれていくしかないような、身動きの取れない怖さがあった。
オレとお父さんは今まで、一度だって他の出稼ぎ仲間と関わることもなく、淡々と仕事をこなし、ひもじく二人でパンの耳を食べ、いろんな欲求を一度に紛らわせるため、ひたすらに眠る生活を繰り返してきた。
このつらさの中で、お父さんとともに呼吸することに、なにか意味があるのだ。オレはそう思っていた。
お父さんはでも、しょせん言葉で自分を縛っていただけだったらしい。『他の奴らと違って俺には、あんな風に騒ぐだけの余裕がない』『俺一人で、毎日二人分、生きなきゃいけない』そんな文言で自分の心を欺かなければ生き残れないほど、オレの存在は重荷で、邪魔で、足枷だったらしい。
ずっと、気楽だったころの振る舞いが恋しかったのだろう。故郷なんてとっくに失ったとしても、一夜ごとに騒ぎ、酒と望郷の念で互いに慰めあい、いつか故郷に錦を飾るその日まで刹那的に生き続ける生活が、お父さんはしたくてたまらなかったのだ。
「それにガキ、お前どうせまだ、店長とろくに話なんてしてないだろ?」
「あの人すぐ奥に引っ込んじゃうから」
お父さんは昨日のことなんてすっかり忘れたようなトーンでオレを扇動してくる。オレはまた、砂を噛む。お父さんの質問に、機械的に『ガキ』らしく、ただ受け答えをする。
「なら、引き留めてみればいい。邪険にはさすがにしないだろ」
「お父さん、機械類には近付くな、って」
「店長は機械類じゃない、当たり前だろうが」
融通が利かないロボットかよ、言いたげにお父さんは笑う。その弛んだ表情をオレはもう、馬鹿にされたようにしか感じ取れない。今までの関係が崩れたと、少しだって気付かないお父さんがどうしても信じられなかった。
「だから、とりあえず話してみろよ、そうすりゃ相性も分かりやすく出るだろ?」
そう言われてしまうと、引き留めるすべはもう残っていなかった。お父さんは振り返らず、ログハウスの重たいドアを引き開けて荒野へと出て行く。歓迎会のときのように、男どもの波に飲まれ見分けがつかなくなる。
オレは、ひとりぼっちになる。座り込んだ床が冷たいことに気付いて、さっきまで包まっていた毛布を一枚、そっと引き寄せる。
まだあったかい。オレは毛布ごと、夢の海に落ちていく。
ここまで帰ってきた記憶はない。それはつまり、誰かが昨日まで空き家になっていた家にわざわざ寝床を作り、オレをここまで運んだということ。
『お父さんの言う通り、店長と話をしてみよう』そんな言葉が、閉じたまぶたの裏にふわりと浮かぶ。オレは毛布から身体を引きはがし、立ち上がる。
そっちの方が、享受できる幸せの量が大きそうだ。
コートのボタンを一番上まで止めて、ログハウスの外へ出る。昨日の夕暮れ時の寒さなんて目じゃないくらいの冷気が袖の間から吹き込んでくる。
日が昇り始めている。どこまでも深く青い空が端から、細い月のように、オレンジ色に変わっていく。獰猛なケモノのような、なにかに追いつかれる感覚に襲われて、どことなく不安を煽られる。
「町外れのあたりしか空いていなかった」お父さんが昨日言っていた通り、遠く見える酒場の看板はずいぶん小さい。車の暖気を兼ねてだろうか、エンジンをふかす音が同じ方向から、途切れ途切れに聞こえてくる。お父さんの姿はすでにない。
足先がすぐに冷え込んでくる。オレは急いで酒場めがけて駆け出す。
そのうち、エンジン音がひときわ大きくなって、出稼ぎの男どもはその轟音とともにどこかへと走り去ってしまう。太陽が世界を解凍していく。ぱき、ぱき、というラップ音だけが、ログハウスから、赤土の中から聞こえてくる。なんの音か確かめてしまったら、毒虫に襲われるような気がしてならない。
小走りで酒場の中に駆け込む。からんっ。「いらっしゃい」と声がかかる。店長は昨日と寸分たがわぬ場所に立っている。
「どうした、そんなにあわてて。誰かに追いかけられでもしたの?」
オレは結局、体力なんてないのに、ほとんど全行程、走り切ってしまっていた。
「外寒くて」
いるのかも分からない虫や蛇が怖かったと口を滑らせてしまう前に、オレはそっけなく流す。
「そう」
店長は言いながら、朝飯のプレートをカウンターの上に置く。八分の一にカットされたタルトのような食べ物がふた切れと、黄色くどろっとしたスープと、それからアスパラガスをベーコンで巻いたものが盛り付けてある。
「ありがとう」
湯気の立っているそれは、あらかじめ来る時間を読まれていたみたいだった。お父さんが『ガキを起こしに行くから、飯の準備よろしく』そんなことを伝えてくれたのだろうか。
「気にするな。仕事だからね」
店長は照れ隠しに一線を引く。背中を向けて、酒瓶をいじり始める。左上から順番に、手癖なのだとばかりに指を掛けては離す。とても、意味のある行為には見えない。
オレは次々、朝ごはんを飲み込む。結局、パイ生地はほうれん草だか刻んだハムだかが入っていて甘くなくて、スープはかぼちゃ味で、ベーコン巻きの油はきつかった。おいしいかは、最後までよく分からないままだった。ただ温かくて、それだけでオレは満足だった。
「店長、今ここに嵐が来たら、どうするつもり?」
オレは、それから、お父さんの言いつけを守ろうとする。そうでなくてもよく知らない人と話すのは苦手で、だからすがれる話題はこれひとつきりだ。
「昨日のニュース?」
店長は首を傾げる。連想先を一瞬で見破られて恥ずかしい。
「なんで知っているの?」
「最初の方だけだけど、見ていたし」
店長は言いつつ、鼻の頭に人差し指を当てる。考えごとをするときのポーズなのだろう。胸の奥でまた、泡がはじける。
「でも、ま、さっさと逃げないと、あんなのに巻き込まれちゃったらあんたもあたしも、あっけなく死んじゃうんだろうね」
「店長って一年中、ここに住んでいるの?」
しみじみ口にする店長からは続けづらくて、そう言って無理やり会話を広げようとすると、
「それ以外になにがあるの」
少しいら立った声が返ってくる。オレはやっぱり少し、黙ることにする。
「あ、でもこの酒場はただの仕事場よ。眠るときはここじゃなくて、あんたや他の男どもと同じように、小屋まで眠りに行く」
店長の気がいっとき済むまでオレは話を聞いて、それから話題をおもむろに元に戻す。
「ここに嵐が来たら、店長は逃げられる?」
「そういうあんたはどうなの」
店長はオレの方に話を転がしてくる。オレは、お父さんを頭に思い浮かべる。朝交わした会話を思い起こす。『なんでお母さんは死んだの?』いつか聞いたそんな質問の答えを思い出す。
「お父さんについていく。あの人といれば、死なずに済む」
オレは迷わずに答える。だって、お母さんや街に居残って嵐に殺された男どもとオレは違う。あの人たちは愚か者だ。『してはならないことをしてはならない場所でしてしまうような人間だ』お父さんの声が頭を駆け巡る。
いくらお父さんとの関係が変わったって、砂を噛むような苦痛でしかなくたって、それだけでお父さんとのつながりを捨て去れるほど、オレには理由も勇気もない。なによりお父さんはきっと生き残ることに関してとてつもなく優秀だ。
「死ななければそれでいいの?」
「店長は違うの?」
独り言めいた疑問形に質問を投げ返す。
「あたしのことは誰も助けてくれないから、酒場に残るしかないね」
店長は『子どもの空想に付き合ってあげる』そんな風を装った、軽い口調で答える。内容の重さにオレは固まってしまう。ここで、店長は家族も身よりもなく、ひとりぼっちらしい。男どものことも、少しだって信用しないつもりらしい。
店長の心の真ん中に、真っ暗な空洞が口を開けているのが見える。でも、それは遠目に観察することしか出来なくて、オレはなんて声を掛ければ、どんな態度を取ればそこまで潜れるのか全然わからない。『話をしなきゃいけない』そんなお父さんの言葉だけじゃ、そんな小さな石ころみたいなおもりだけじゃ、そこまで深くは沈んでいけない。
お父さんは、この人の闇を、知っているのだろうか。
知っていて、それでオレになにか、期待しているのだろうか。
「そういえば、父親がお酒を飲んで荒れたらしいね」
店長は、沈黙をぼかすように小さな声で聞いてくる。角張った背の低い酒瓶を一本引き出して、ごとり、とオレの一席隣に置く。そうしてオレを針のむしろの中に放り込む。『オレのせい』に収束する、話題の渦中に。
「なにが言いたいの」
声が震えないようにするので精いっぱいだ。
「あんたは歓迎会で一人、置いてけぼりにされたくせに、それでもお父さんにこだわるんだね」
「別にいいじゃん。好きにさせて」
「あんたがここに来たせいだね。父親が変なのは」
話すこと自体を拒否すると、店長は予想以上にはっきり言葉にする。
「違うよ」
口だけ否定するけど、改めて浴びせかけられて身体がこわばる。オレには価値がない。お父さんに悪影響しかもたらさない。その事実が、たまらなく怖い。
「じゃあ他になんだと思うの?」
オレの様子などかまわず店長は追及してくる。オレは、震える身体を押さえ込むように目を閉じる。
『いつか自分の家に戻って、おかえり、と言ってもらうために、そうして功績を認めてもらうために、出稼ぎは街を渡っていくのだ』お父さんの言葉だ。だから、オレが気付かなかっただけでお父さんはきっと、家を失ってからずっとおかしかったのだ。『オレが今、お父さんの隣にいる』そのこと自体にはなにひとつ問題ないって、オレはそう信じていたかった。
でもそんな願いは、言葉にしてもなお残ってくれるほど強靭じゃない。論理なんてひとつも通っていない。口に出しても店長まではきっと、伝わってはくれない。
口をつぐんだままのオレに店長は機嫌よく背を向ける。そんな衣擦れの音がする。棚をいじってもう一本酒瓶を引き出し、さっきの場所の一つ向こう、オレの二つ隣の席に乱暴に置く。それからオレの目を覗き込み、勝利宣言のように一人語りを再開する。
「子どもを一人連れているくらいで、なにかが変わるなんて到底あたしには思えないんだけどね。どんな場合でも、出稼ぎが稼がなきゃいけないのは一緒なはずだろ?」
それは、お父さんを傷つける、言葉だ。吐かれたそれは本音の匂いがした。
「なにが言いたいって、父親ヅラが致命的に似合ってないんだよ」
「お父さんに、そんなこと言ったの?」
なおも話し続けようとする店長に、声を抑えて静かにオレは聞く。
「言ったらそんなに悪いの?」
店長は悪びれずに口を動かす。同時に、三つ目の酒瓶が置かれる。そのなにげなさがなにより信じられない。店長の中では、そんな日常の一動作の延長線上に、お父さんを脅かすセリフがあるのだ。
胸の真ん中で、ろうそくの炎が小さく、揺らめいている。お父さんについていくと決めた日から、灯り続ける火だ。今、店長の言葉に揺さぶられ、燭台ごと大きく傾ぎ、倒れ、床へと燃え移る。
激情が、あっという間に胸を満たす。
「父親って見栄を張って勝手につらくなっているのはあいつだろ?」
「お父さんは、それを聞いて、なんて返してきたの?」
店長の感想がこれ以上暴走し出す前に、早口で質問を重ねる。これ以上、正しく聞こえる論理は耳に入れたくない。
「『お前には一生分からないよ』って。あんたといるときみたいにぶっきらぼうに。手応えがなくて拍子抜けしたんだけどね」
店長はつまらなそうな声で聞かせてくれる。きっと今朝のことだ。お父さんはいつも通りに見えた。あまりに変化がなさすぎて、オレには歓迎会で豹変したのと同じ人物には思えなくて、それでオレは『面倒くさいガキ』になってしまったのだ。
手応えがなかったといくら店長が言っても、お父さんがそんな言葉を掛けられて、本当に平気なはずがない。平気な振りして、無理をして、オレの前で見栄を張り続けていただけ、なんてのが真実だったとしたら、そんな父さんに向かってオレはなんてことをしていたのだろう。
少なくとも追い打ちを掛けたかったわけじゃない。
オレは今朝のお父さんを思い出そうとする。
「で、あんたはなんで怒っているの?」
店長はタイミングも考えずに割って入ってくる。
「別に、怒って、ないよ」
この話題は続けたくない。半分口ごもりながら態度で示す。
「父親が無理をしているって、改めて言葉にされたから?」
店長は止まってくれない。一番触れられたくない場所に腕が伸びる。
「なにが目的?」
悲鳴のようなかすれ声で、オレは叫ぶ。頼むから、お父さんとオレだけの関係に関わらないで。
店長もさすがに身じろいで、オレはその反応に少しだけほっとする。
「オレたちを問い詰めて、こんな風にいやがらせして、どうしたいの」
答えが返ってこないからオレは質問を重ねる。店長は、それでも話し始めない。代わりに四つ目の瓶を取り出し、カウンターの上へごとり、と置く。席はほとんど埋まり、残すはテレビのすぐ横の一席だけになる。
「知りたい、以外になにかあると思う?」
溜めておいてそんな風に開き直る。
「これ出稼ぎのみんなにやっているの?」
即座に問い返すと、店長は目を丸くする。
「まさか」
「じゃあなんでオレにだけこんなに問い詰めるの、知りたがるの」
半笑いになっているその顔に問い詰める。
「それは、あんたと父親は他の男どもと違って、安全だもの。お父さんのことは昔から何度も聞いている。あんたの父親は悪事に手を染めたりしない。乱暴を働いたりしない。あたしは知っている」
なにより信頼を置いている、風な言い回しだ。迷いなく、つらつら述べていく。多分これは、普段から考えていることなんだ。もしかしたら、店長からすれば今は『ずっと求め続けた者についに、ふたたび巡り合えた』そんな感動すべき場面なのかもしれない。口ぶりからは少なくとも、そういう気持ちが覗いている。
でもこの人の考えていることは、醜悪で気持ちが悪い。オレはそう思う。店長が並べている言葉は、ちょうどいいサンドバックを見つけたときに掛けるそれと、なにかひとつでも違うんだろうか。
そして、どうしてオレも、なにひとつ得なんてないのにただ黙って痛めつけられているんだろう。
「あたしは確かにカンが冴えわたるタイプじゃないけど、そういう危険を避ける経験則なら知っている。変化が目に付きやすい分、定点観測なら質問をしすぎても、怖くない」
店長は淀みなく話していく。店長の抱いた気持ちが次々開示され濁流のようになり、オレの心に浮かんだ言葉は押し流され、二度と届かないものになりかかる。
「お父さんは自由だよ」
オレは、流れに逆らってそう一言投げ込む。燃え盛る心の火を不器用にぶつける。『あなたに決めつけられるようなお父さんじゃない』そんな意味で口にする。店長がこっちを見る。予定外のものが現れて、どうしたものかと少しだけ、戸惑っている、そんな表情が覗いている。
「お父さんは自由で、だから無理なんてしていない」
オレは願望交じりで口を動かす。お父さんの気持ちを、知りもしないのに大声で勝手に決めつける。お父さん以外の誰かの意見に、初めて、反抗する。
すると口にした言葉が、過去の事実ごと色を変え、本当になっていく。
お母さんを置き去りにした村から、嵐で消えた街から、お父さんは逃げ出した。自由に、望み通りになるように動いて生き残り、この酒場までたどり着いたのだ。
「だって、不快なしがらみがそこにあるのなら、また逃げ出せばいい」
お父さんはそれができる人だ。オレは高らかに言って、過去に別の色合いを落とそうとする。『お父さんは、オレのことを思ってくれていた』そんな色に過去が見えてくるように、それが本当のことだって信じられるように、考えをめぐらす。
お父さんは一人で歓迎会へ先に行き、オレを置いて一人で騒ぎ、すべてが終わったあとオレを抱きかかえて空き家へ戻った。それはきっとすべて、お父さんがしたくてしたことだ。オレの存在は邪魔なんかじゃない。この状況であってさえ、お父さんは少しも、無理をしていない。
そう決めつけてさえいれば、過去はその通りに見えてくるのだった。
「どこまでも好きなように生きてお父さんはここにいる。荒れたからどうしたの、無理しているからどうしたの、父親ヅラが似合ってないからどうしたの。お父さんはここで、オレと二人、そんな風にしてまで、生きていきたいんだ」
店長に、なにより自分に言い聞かせるために、オレは言葉を紡ぐ。
だからお父さんは、店長からどんな言葉を掛けられようと、平気な顔で『お前には一生分からないよ』そんな風にうそぶけるのだ。
トゲが胸の中から抜けていく。オレはお父さんを、もう一度ちゃんと信じられる。お酒を飲んで荒れたことだって、確かにお父さんの望んだことだ。オレと一緒にいるのは、だから、きっと苦しいことなんだろう。苦しいことは吐き出さなきゃいけない。そこで、オレが望んでいない方法でつらさを解消した。それだけのことで、たったそれだけでお父さんはいつも通りに戻ってくれた。だから、オレの存在は重荷になんてなっていない。
それに、お父さん自身を縛りつけていた言葉は、お父さんがオレを守るためずっとなんとか破らずにいてくれた決まり事だ。オレはむしろ嬉しかった。
つまらなそうに店長が口を挟んでくる。
「あんたの言いたいことは分かったけどさ、それは全部、父親の生き方の話だろ? なんで父親のそれをあんたが語るの。あんた自身はどうしたいの?」
「お父さんに付いていく」
オレは即座に答える。お父さんの心に近付き今度もまた、やっぱりお父さんが正しいと納得できたのだ。なにを、当たり前のことを聞くんだろう。
店長はオレの返事に、かかったなと言いたげに口元を緩める。どうやら、からめ手に知らず飛び込んでしまったらしい。
「あんたがそう願うのは、お父さんの上着の陰に隠れていれば、いつまでだって生き残れるからじゃないの?」
表情の割に言葉は鋭くない。オレにはまず、質問の意図する所が分からない。質問を返す。
「それのどこに、なにか問題がある?」
だって、死に向かう人間の背中を追うほどむなしいこともない。
「どこまでも父親にべったりだな、あんた」
店長もオレの質問には答えず、代わりにただ、強烈に顔をゆがめ苦々しく吐き捨てる。
「妬いているの?」
店長が作り上げた険悪なムードにせめておどけて言う。
「気色悪いって言いたいんだよ」
店長は、今までないくらいにきつくにらみつけてくる。オレは、怖さに縮み上がる。
「だから、ここに嵐が来ても、オレはお父さんと一緒に今度だって逃げ出せる」
張り合うように、一番強い感情をぶつける。店長の鋭い視線を、まっすぐ見つめ返す。見えないけど、火花が店長との中点できっと激しく散る。
だって、オレはお父さんを信じられる。
けっ、その形通りに店長の口が動き、目をそらす。そのままテレビのある方に近付いて、手遊びでカウンター席に並べた酒瓶をひとつずつ、元の場所へとしまい始める。
逆再生で、酒瓶の数が減る。俎上に載せた話題が逆回しに、浮かんで消える。
目の前の人が、酒場と一緒に死のうとしているのだと、オレは思い出す。
『オレはなぜ、そうまで生き残ろうとするのだろう』それは、死ぬのは愚か者のすることだからだ。お父さんが遠い昔にそう決めた。オレは、自分のすべきことをわきまえている。
『ではなぜ、お父さんは生き残ろうとするのだろう』そんな疑問が続いて浮かび上がってくる。愚か者と名前を付けてまで、死者を忌み嫌うのはどうしてだろう。お父さんも死ぬのが怖いからだろうか。それとも、そう教え込んでオレを守るためだろうか。今度も、理由まではオレも知らない。
「店長はどうして、一人で逃げ出さないの? そんなに死にたいの?」
目の前にいるのは愚か者だ。逃げないと死んでしまうような場面で、『あたしは逃げない』と、死んでもいいと決めてしまえるような人間だ。
逃げないという選択はそれでも、本当に間違っているのだろうか。
お父さんは、どう考えているんだろうか。
店長はこともなげに喉を鳴らす。
「残念ながらあたし一人じゃ、そもそも脱出する手立てすらないね。昔ここに来たときに乗ってきた車は、事故って鉱場の中に埋まっちゃっているし。助けを呼べればいいんだけど、あたしには、酒場を回す力しかないからね」
かすれた声から感じ取れるのは、深いあきらめの感情だ。オレには、目の前の店長が死から目をそらしているようには、まったく見えない。ちゃんと、進んだ先にある断絶を知っていて、それなのにまるでなにかと心中するみたいに、『生き残ることよりずっと大事なことを信じたままでいたいから』そんな風に覚悟を決め、崖の方へとずんずん突き進んでいる。
その胸の奥にひた隠しているものはなんなのだろう。オレのお母さんが、出稼ぎの男どもが心に秘めたまま死を選び、ついぞ教えてくれなかった心中相手の名前を、今度こそオレは知りたいと思った。
「じゃあ、なんで店長は、男どもと一緒に逃げようとしないの?」
一歩一歩、自分の直感が正しいか確かめるように、質問を繰り出す。
「結構深くまで掘り下げるのね、知ってあんたはなにか、面白いの?」
店長はさっそく答えず、反対に聞いてくる。面白くなんてない。オレは心の中で即答する。
オレはただ、『お父さんが絶対ではない』という感性に一度でいいから触れてみたかった。『あんたはなにも知らないうちに洗脳された、なんでも言うことを聞くお父さんの人形だ』そういう類の残酷な言いぐさを黙って聞くしかないのは、心の底から苦痛で仕方がない。
「答えて」
でも、そんなことを力説した所で、話がそれていやな思いをするばっかりだから、オレは短く愚直に問い詰める。
「やだね、教えたくない」
店長は頼みを拒む。
「じゃあ、なにがあったら理由を話してくれるの?」
オレはそう食い下がって、店長に下駄を預ける。
「あたしはただ、なんであたしを知りたがるのか、知りたいだけよ」
店長はそれでも受け取ってくれず、自分の気持ちを譲ろうとしない。
黙り込んで、目の前の女の人の目をじっと見つめる。沈黙が広がっていく。店長の感想にこれ以上押し流されたくはない。
「まあ、前後するくらいだったら、別に譲るけど」
根負けして店長は話し出す。
「でも大体、昨日も話したじゃない。男どもとは距離を置きたいの」
「ひとりぼっちがいいってこと?」
オレは聞く。誰も信用ならないからいっそ、あたしの周りには一人だって要らない。そういうことだろうか。それは、とても寂しい生き方な気がする。
「あたしは酒場の女主人だよ? そんなことあるわけないでしょ」
「じゃあ、なんで」
「そういうことにしておかないと、面倒に巻き込まれるからだよ、だって男どもは犯罪者かもしれない」
『あんたと父親は、他の男どもと違って、安全だもの』店長の一言がよみがえる。いつの間にか、聞こえてくる声がずいぶん平坦になっている。オレは怖さでもう震えずに済むよう、心を縛り付け覚悟を決める。
「あたしはなにも知らない、あたしは口止め料をもらっていた。そういう態度を貫いておかないと、男どもがしくじったとき、火の粉があたしの所まで降りかかってくる」
店長の吐き出す言葉が感想めいてくる。なんと返したらいいか、オレにはまだ、やっぱり分からない。話してと水を向けたのはオレだけど、これは聞きたかったこととも少しずれているような気がする。
「相手がどんな悪いことをしているか分からない、下手に関わってしまったら、次の日から奈落へ真っ逆さま。そんなことがよく起こる世界だ。だからこそ、出稼ぎの野郎どもは刹那的に騒ぐんだ。昨日も大概だったろ? 腹になにを抱えていようと、歌い踊り酒を飲めば楽しい。そういう原初的な気持ちだけは、きっとどんな奴でも一緒だから」
ひときしり話し終えて、達成感に浸りつつ見つめられても困るしかない。店長は口を利かないオレに顔をしかめ、仕方なしに一言付け加える。
「まあ、そういう、自分の身を、精神を守る手段のひとつだよ」
「そんなこだわりと心中したいから、ここに残るの?」
オレは心に浮かんだセリフを、すぐさま口にする。違う、もっとなにかあるはずだ。そう問いたくて口を動かす。言い方が思ったより尖って、店長はひるむ。
心中するほうが、生き残るよりずっと面白いから、じゃないんだね。オレは続いてそんなことを考える。今までなんとなく、店長はそれくらいの雑な塩梅で身の振り方を決めていると誤解していた。
返事はまだない。オレは言葉を重ねる。
「我慢する理由しか、店長にはないの?」
がんじがらめになって、身動きが取れなくなって、さして望んでもいない道に不満げな顔して流れていくだけなら、お父さんを追いかけたいって決めたオレの生き方の方がずっと賢いと思う。愚かな店長はオレのことを言えないし、それならオレは、安心してお父さんの言う『愚か者』を見殺しにできる。
「望んだ生き方をひとつ、永遠に貫けると思っているのは恐ろしいね」
店長はオレを冷笑するように、言葉を紡ぐ。
「そんな強い心持ちは父親に仕込まれたとしかやっぱり思えない。信じられるか信じられないかだけに頭を使っていればそれでいい人生は幸せかい? それじゃあなにも、自分からは選び取れないんだよ?」
「お父さんと違う道は、きっと全部、間違っているんだよ」
オレは反論する。そこかしこで死は大きな口を開けて、誰か落ちてこないかなって、いつでも待ちかまえている。オレが気付いていなかっただけで、今までオレはきっとお父さんに操られ、針の穴を通すように生き残ってきたのだ。いまさら愚か者にはなりたくない。
「じゃあ、父親に死ねって言われたら、ううん、そうじゃなくたって、なにかのきっかけで父親を信じたくなくなったら、あんたはどうするんだい?」
「理由が納得できるなら、オレはどんなことだって従うよ」
そう答えて断ち切ろうとするけど、店長は手をゆるめない。
「納得できなかったときはどうするの、って聞いているの」
「それでも、付いていくよ」
したいと思ったことが、そのまま口に出る。オレ自身驚く。そう思った理由なんて、しょせんは全部、後付けだ。
オレはまだ、お父さんが絶対だと思っている。お父さんとオレがズレた世界を一瞬想像し、その瞬間胸を悲哀がいっぱいにした。オレは逃げ場を求めその箱庭に想像の金づちを振り下ろし破壊する。お父さんを信じていたい、という言葉の意味がその一瞬だけ、はっきりと実感できる。
だからオレは、お父さんの言うことに納得できようとできまいと、無理やり飲み込んでお父さんに付いていくしかない。今の所はたまたま上手く、お父さんへの気持ちに整理がついているだけだ。
「だからあんたら親子があたしは気持ち悪くてしょうがないんだよ」
店長がまた、吐き捨てるように言う。眉間にしわを寄せ、横顔に嫌悪観をあらわにする。
「人は我慢しあって生きていくものじゃないのかい」
店長の悪意ある言葉が、澱のようにオレの心の上に積もっていく。オレはもう、耐え忍ばない。そう頭の中で暗唱し、それから反論しようと喉を鳴らして、でもどう言葉を紡いだらいいかまったく分からないことに気付く。別に今店長はオレのこともお父さんのことも悪く言っていない。それじゃあ、それは違うとも言いづらい。
この人が、ここまでオレを疎ましく思うのはなぜなんだろう。
もしかして、うらやましい、のだろうか。
「店長にもちょっとだけ、貸してあげようか?」
そう提案する。意味が分からないと言いたげに店長は首をかしげる。
「貸すって、あんたの父親を、私に?」
聞かれるからオレは頷く。店長は確認が取れたはずなのに、変わらず混乱したままだ。
「なにを言っているの?」
「お父さんについて来れば、死なずにすむよ。お父さんは愚か者でも、犯罪者でもないし」
そうしたら、店長は愚か者じゃなくなる。悪意ある決めつけの言葉はきっと効力を失くす。言いながら考える。
オレの口から『俺と一緒に来な』と、そう店長にほのめかすために、お父さんはオレを酒場に預けたんじゃないか。そんな妄想めいた確信が胸の真ん中に降りてくる。
イマイチ店長はまだオレの言っていることが飲み込めないみたいで、顎に手を当てたまま、薬指でくちびるの縁をなぞっている。
「死は、終わりなんだよ?」
「当たり前だろ。あたしは死にたくなんてない」
聞くまでもない質問で、ひとまず口を開かせる。
「お父さんと一緒に来れば、店長もここじゃないどこかへ逃げられるのに。荒野の酒場がそんなに大事?」
オレはすかさず言い連ねる。お父さんと一緒に生き残り、愚か者じゃなくなる道を示す。
そうやってオレは、目の前を何度となくちらつく綿ぼこりみたいな『死』を視界から振り払おうとする。知りたいのは、愚か者がそれでも進もうとする理由だ。死に惹かれる気持ちなんかじゃない。その考えは毒だ。把握の難しい概念には幻を宿り、幻には惹かれざるを得ない、それだけのことだ。最初からそんなものは、目に止めてまじまじ見つめていちゃいけないのだ。
「大事なのかもしれないね」
否定とも、肯定とも取れる一言が、彼女の口からやっと返ってくる。声が少し、混乱したように震えている。オレは気付かなかった振りをする。
「じゃあ、店長は酒場と心中するの? それが、嵐が来ても逃げようとしない理由? もう店には一人の客も来ないのに」
いわゆる職に殉ずる、というものだろうか。そんなたくらみは、もてなす相手が一人残らずいなくなっても成功するのだろうか。そんなことをオレは問いただそうとする。
店長は、声を張り詰める。
「あんたに理解されるだけの、生きて死ぬ理由なんて必要かい? 他人を納得させるだけの論理なんて最初からここにはない。あたしはそんなもの持ち合わせていない。どうしてそこまであたしを知りたがるの?」
かすれたような涙声で店長は居直り、八つ当たりのようにオレを殴りつける。『言葉にしたら自分が本当に信じているものは崩れてしまうんだよ』そんな主張が店長の言葉の端々からにじんでいる。それはいつか、オレの抱いた気持ちとぴったり重なる。
ふと、目の前の女の人のことをもっと知りたい、そんな気持ちが流れ込んでくる。
オレの胸に浮かんでくるいろんな気持ちも、店長ならすべて分かってくれるのだろうか。
お父さんは酒場にオレを預けて、なにをオレに任せたのだろうか。そこまでするほど、店長は魅力的な人なのだろうか。
愚か者が死んでしまうのは、油断や怠慢、身の程知らず、そういうものばかりなのだろうか。幸せなまま、十分な理性を保って死の方へ堂々と流れゆく人が目の前にいるんじゃないだろうか。そうだとしたらお父さんは絶対なんだろうか。愚か者という捉え方はそれでも間違いないのだろうか。
いろんな気持ちがない混ぜになり、「知りたい」という気持ちが立ち上がってくる。
「それでも、話をして。店長のことが分かれば、理解できれば、今までずっと気になっていること全部に、答えが見つかる気がする」
オレはごちゃごちゃした心を、そんな言葉でかたどろうとする。
店長はそんなオレに、微笑む。『それが、あんたがあたしを知りたがる理由だね』納得したように目配せをしながら、何度か小刻みに頷く。
「そんな難しい顔をしなくてもいいだろうに」
負けたよ、店長はそれから、そう言いたげにあきれ顔を浮かべる。それは、今まで一度も見せてくれたことがないような柔らかい表情で、『今までオレが目にしてきたよそゆきの笑顔は、ただのよくできた仮面だったんじゃないか』そんな夢想が頭の中を駆けめぐる。
「さっきの話だけど、確かに酒場は大事だよ、あたしはここの主人だからね。けど、嵐で閉店を余儀なくされる酒場とそれでも心中したいほど、私も物好きじゃない。理由は別にある」
「なに」
「気恥ずかしいから、クイズ形式にしようか。まずは第一問」
指を一本立てる。店長はこの期に及んでも、茶目っ気で誤魔化そうとする。オレも、知りたいという気持ちが満たせるならなんでもいい。
「確認なんだけど、あんたには、あたしが代々この荒野で生き延びてきた血筋の人間に見える?」
「ううん」
オレは首を横に振る。言われてみれば、もっと浮世離れしている気品があるような。ここは吹き溜まりなのに、不思議なものだけど。
「なにか、そこから判らない?」
店長は曖昧のただなかに、オレを放り投げる。
「コウバは、店長のものだよね」
「うん」
一歩踏み込む。探っていく。店長はオレの質問に、軽く短く、何度か頷く。この方向で、今の所は合っているらしい。
「それでずっと、店長はここで孤独なんだよね?」
「そうだね」
じゃあ店長は、自分の力でここに移住してきたんだ。オレはそこまでたどり着く。同時にふと湧いた疑問を口にする。
「でも、それは他の男どもだって一緒じゃない? 同じように自分だけの力で居場所をここに確保したのは」
それとも自分が最初に確保した場所というものには、特別愛着が湧くものなのだろうか。
「それじゃあ、第二問」
店長は都合が悪くなったのか、すました顔で指を二本立てて、質問には答えてくれない。
「あたしはどうしてこんな、めまいしそうになるくらい客入りの少ない辺境の酒場を開き続けられている?」
それは、どこかにお金があるからだろう。オレは考える。酒場を運営するだけの、赤字を補えるだけの財が、どこかにあるのだ。それじゃあ因果が逆だ、オレは気付く。普通、酒場をやるのは、稼ぐため。働くのはお金を得るため。
「気付いた?」
そうじゃないのだ。店長が酒場を続けているのは、道楽のため。お金は酒場で働き続けるため。表情に出てしまっていたらしい。店長はなぜか誇らしげな顔をしている。
「あたしは良家のお嬢様ってやつなのさ」
『男ども、あんたたちとあたしはまるっきり違う』言いたげな表情で、店長は嬉しそうに宣言する。でもオレにはまだ、店長の理由が見えてこない。
「そしてお金を持っていることは、この荒野において、どんな極悪人より分かりやすい暴力の形だ。道楽で生きているあたしは男どもにとってなにより、一番許せない人種だ。だから」
両手を広げる。
「あたしはここで、一人でいるしかない」
短く結論づける。オレは言い返そうとする。
「店長、それはさっき」
「それくらい分かってる」
止められる。
『お金持ちであることも、同じように我慢する理由でしかないよ』そう言おうとして、店長に先回りされる。声が冷たく、そっけない。
「それくらい、分かっているよ。でも、あんたは、あたしを説得したいわけじゃない。そうだろ? あたしの絶望を知って。知りたいから、あんたはあたしに尋ねているんだから。これが死にたがりの吐く言葉だよ。口を閉じて、あたしをただ飲み込んで」
店長はうつむき、伏せ目のまま感想を述べていく。
「じゃあ、理由はそれだけ? オレはそう聞きたい」
でも、ただ黙り込むのはもう終わりだ。あなたが本当に心中したい相手は誰? オレは身勝手に、オレの気持ちを吐き出す。店長と会話のドッヂボールを始めようと、言葉を投げつけ始める。
「それ以上なにもないなら、オレのお父さんならそれでも、嵐が来たってきっと助けてくれるよ」
あなたの絶望はこんなものじゃない、まだ口にしていない言葉があるはずなのだ。だって、オレにはまだ、あなたが死のうとする理由が、愚か者の心理が見えてこない。
「そうしてあたしを助けて、あんたになんの得があるんだい?」
まるで、助けられたら困る、みたいな言い方だ。
「店長はどうして死のうとするの?」
どうしてそこまで助からないことにこだわるのか、オレは知りたい。
「質問しているのはこっちだよ!」
店長は苛立ち、声を逆立たせる。オレに得なんてあるわけない。店長を助けてしまったら、お父さんとの漂流が終わりを告げる。二人きりにはもう二度となれない。それでも、オレは愚か者の心を捕まえたいと思った。お母さんがなにを考えていたか、お父さんとの生活を生け贄に捧げればそれでわかる気がした。
「先に話をそらしたのは店長だよ」
だからオレのことは今、関係ない。
「お父さん相手にも、すがりたくない理由はなに?」
オレは自分の聞きたい言葉をはっきりさせていく。声に出してみるとそれは、鋭い疑問として立ち上がる。
店長は怒鳴る。
「勝手に人の気持ちを更新しようとするな。あたしの絶望はここだ。そんなことまで考えたくない。あたしが逃げたくないから逃げたくないんだ。足りないとか、理由になってないとか、ケチをつけるな」
そう言い放ちオレをにらみつける。分かったか? 視線が脅してくる。危うく頷きそうになる。『もうこれ以上進めなくなるぞ。ガキ、それでも知りたいんだろう?』頭の中に声が響いて、オレは踏みとどまる。
オレが知りたいのは、店長が酒場にこだわる理由だ。きっとただ聞き方が悪かったのだ。
「じゃあ店長の望みはなに? 死んでまで守りたいものはなに」
「あたしは、あたしの気持ちに正直に生きたい」
店長は不機嫌そうに、それでも表面上は穏便に答えてくれる。
でも、そんなことは誰しもそうだ。自分の気持ちには誰だって嘘を吐きたくなんかない。そんな当たり前の言葉が聞きたいわけじゃない。
きっともっと店長には、希望のある聞き方にしないとならないのだ。オレは店長がさっき一瞬覗かせたようなほんとの表情が見たい、そう思う。店長が生き残りたくなるような言葉を聞けるように、オレは質問をしなければならない。
だってオレは、店長のことが知りたい。店長が仮面の裏に隠しているほんとの気持ちを覗いてみたい。そしてなりたい自分のことを、欲しいものを店長の口から直接聞き出せば、そこにはきっと店長の望みというやつが、酒場にこだわる理由というやつが透けて見えてくるはずだ。
万が一それが上手く行かなくても、店長が生き残ってさえくれれば、店長のことを知りたいという気持ちはきっと、あとからいくらでも埋めてもられる。
「じゃあ、店長はなにがほしい?」
オレはそんなことを考えつつ聞く。でも、これだけじゃ不十分。
「なにが手に入れば、それと引き換えに、ここから逃げ出してもいい?」
そう続ける。あなたが、そんな希望を掲げてくれればきっと、なにもかも上手く行く。
店長は、オレの言葉に目を輝かせる。オレの提案に嬉しそうに、だけどそれ以上に戸惑いげに、男物の服に身を包んだ細い身体を揺らしている。
『どうしてそんなに下を向いたままなの』オレは、本当はそう聞きたくてならなかった。でも、そんな言葉じゃ店長には届かない。
店長の胸の奥の、『下を向いたままでいる』と決めた部分にはきっと、論理的な説明なんて通らないような、そんな小さなプライドがあるのだ。オレにとっての『なにがあってもお父さんと一緒にいる』のようなものだ。それだけは店長にだって誰にも譲れない。
だからオレは代わりに、店長が見たいと思う希望のある景色というやつを聞き出そうとする。
店長は目をうるませている。戸惑いが打ち勝って不安に押しつぶされそうなのか、それともただただ嬉しくて感極まっているのか。その両方な気がする。
「じゃあ、宝石をちょうだい」
ポロっと、願いが口からこぼれる。店長は言ってしまってから、なにかひどく重大な言いつけを思い出したみたいに、『訂正させて!』オレの顔の前で必死に何度も、何度もそう言いたげに手を振る。
店長のセリフは、想像も付かないもので、オレは戸惑ってしまう。
「なんで」
思わず、ぶしつけに聞いてしまう。
「なんでもいいからやめて」
店長も同じくらい混乱していて、オレはそれを見て、なんだか、ひどく落ち着いてしまう。
「いや、訂正の方じゃなくて、どうして宝石を欲しがるの」
冷静になった声で聞く。店長はあわてて口元を隠す。子供じみた手つき。
それは単純に宝石がキレイ、だからだろうか。それとも、オレに出来るわけないくらい難度の高い課題をわざと与えて追い払うためだろうか。
オレはひとつ、疑問に思う。コウバを仕切っていておいて、今まで一度もその手に宝石を握りしめたことさえ、店長にはないのだろうか。それだけ男どもとの引いた境界は最初から厳格だった、そういうことだろうか。
店長に目を落とす。オレと目が合って、口元を隠したままますます顔をそむけて、目元すら見えなくなる。そのしぐさはまるで、口をつきそうになった言葉を、急いで喉の奥へ押し戻すときのような、そうして恥ずかしさをなんとか押し殺すような、そんな類のものに見える。
「だって」
言葉遣いまでが幼児退行している。オレはでも、茶化さない。知りたい言葉がやっと店長の口から聞ける。
「だって、男どもは一度も、あたしに分け与えてはくれないから。仕切っているだけのあたしの手には、宝石は、普通にしていちゃ絶対に来ないものだから」
店長は自身の気持ちを、探るように、言葉へと変換していく。
そこには『男どもと関わりたい』そんな欲望がはみ出している。
「いや、あたしだって、大金と引き換えにさばけるものをわざわざ、男どもがプレゼントしてくれるなんて、うん、最初から思っていないけどさ」
尻すぼみにしゃべるのをやめる。店長が口にしなかった言葉をオレは継ぐ。
『そして店長であるあたしから、男どもにそんな話を振るのはルール違反だ』
「じゃあ、オレが男どもの代わりになる。絶対、店長の手元に宝石を届ける」
オレは宣言する。店長は、欲しい言葉を喰らって、よろめく。
それから、分かったよ、と弱々しく両手を顔の横まで挙げ、ゆっくりと降参のポーズを取る。
「その時は、あんたの言うこと聞いてあげる」
凛々しく言葉を発する。それから、唇をなめる。
「あたしはそうしたら、もらった宝石に穴を空けて、みんなに見えるように、首飾りにするからさ」
約束だよ? そう目で訴えかけてくる。
一瞬で店長の心の動きが追えなくなる。どうして、そして誰に、この女の人は宝石を見せつけようとしているのだろう。
オレはでも、店長の使う魔法にやられるように、浅く、頷いてしまう。
なにひとつ分からないまま、オレは店長の欲望の中に飲み込まれる。新たな鎖がオレを縛って、離さない。




