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Prologue

「逃げるぞ」

 お父さんは久方ぶりに村に帰って来て、オレの顔を見てまずそう言った。血走った目が怖い、そう思った。

「でもお母さんが」

 オレは玄関先から、家の奥を指そうと振り向く。

 なにかに取り憑かれているみたいに、息荒くあわてるお父さんはなんだか、全然知らない人みたいだった。

「村長に見つかったらまずいだろ」

 舌打ちと一緒に浅黒い腕が伸びてきて、手首をつかまれる。

 なすすべなく外へと引きずり出される。夕暮れ時のオレンジ色した空。骨がぎりぎり鳴って、すごく痛い。

「なにもかも放って行くの?」

 奥歯をかみしめる。力の強いお父さんが遠慮してしまわないように、なんでもない振りをして聞く。

「俺のせいだ、ってことにされかねないだろ」

 お父さんは振り返らず、坂を下っていく。ずっと村にいなかったくせに、ずいぶん責任を感じている。

「悪いのはオレだよ、お父さん」

 勝手に奪わないで。そんな意味で口にすると「それは違うだろ」って、お父さんも少し怒った風に言う。

「お前の母親が愚か者なだけだ。俺も、ガキも、悪者じゃない」

 そう続けて、足を止めてくれない。お父さんの言うことはイマイチ釈然としなくて、オレは腕を引かれる無理な姿勢に輪をかけるように、無理やり首を傾げる。

 先を行く背中は当然、気付いてくれない。

 そのうち、車が見えてくる。村の柵から少し出た、雑草よけの砂利道に堂々と止めてある。夕日に大きく影を落として、化け猫みたいだ。

「それだけで、それだけの理由で村から出て行くの?」

「俺まで同類にされちゃ困るからな」

 当たり前だろ、今にもそう言いそうな口調でお父さんは言う。オレにはとても、まともな答えには聞こえない。だってオレとお父さんは二人だけで、この先ほかに誰もなしで、生きていけるのだろうか。

「えっと、村から出て行ってどうするの?」

 聞くと、お父さんは空を見上げる。顔つきを少し曇らせる。

 暗く、よどんでいく色の中に、オレはお父さんといる。

「まあ、冬の分の工場に顔を出せば、しばらくは死なずに済むだろ」

 コウバ。軽い声で雑に決めて、お父さんは一人だけ反対側へ回りこみ、車の中に乗り込んでしまう。助手席のガラス越しに、大きな身体がぼんやりかすんでいる。

 あっという間に、鼻先に二つの選択肢が突きつけられる。ここに残るか、それともお父さんについていくか。

 オレは目の前の車から一歩だけ後ずさる。

 村から一度逃げだしたら、きっともう戻っては来られない。お母さんは決して好きな人ではなかったけど、でも、ずっとここに一人残していくとなるとやっぱり、ほんのちょっとだけ忍びない。

『少しくらい状況がまずくても、今あるものを失わないために、村に残った方がいいんじゃないかな』そんな結論に考えがまとまっていく。

 黙り込んでいると、お父さんが車の中から助手席の方の窓を開ける。ぼやけていた車内がはっきり見えるようになる。自信満々に座っているのがちょっとだけおっかない。屈強な上半身をこちら側に倒して、オレの顔を覗く。

「一緒に来たくないなら、別に乗らなくてもいいんだぜ」

 そうオレを突き放す。『待って!』思わずそう手を伸ばしたくなるような、狙いすました口振り。オレは背中の後ろで、飛びつかないように、押さえつけるように両の手をつなぐ。

 だって、このままじゃお父さんは家を失う。故郷を失う。これから生きていくために必要な柱を、きっと失くしてしまう。

 なんとかしなきゃ、そう欲する熱が胸の中で空回りする。息が詰まる。

 そして、失いかけているのはオレだって一緒なのに。

「どうして、そんなに冷たく振る舞えるの?」

 声が震える。それでも、オレは聞く。先に進むことへの不安なんて、お父さんには少しもないみたいだ。

「冷たいって、お母さんに対する態度が、ってことか?」

 車の中でゆっくり唇を持ち上げながら、確認を取ってくる。少しだけ言い方に違和感を覚えるけど、そうオレが声に出す前に、お父さんは一人早合点する。

「それは悪かったな。けどさ、今さら祈っても願っても、なにも変わらないだろうが」

 そんなこと分かっている。お父さんの言いぐさに感情が即座に反発する。

 起こってしまったこと、過去の事実はなにひとつ変わらない。そういう汚点を、嫌な記憶を受け入れる儀式だって今やって意味のあるものじゃない。長い時間が、激情を押し流してくれた、そのあとだ。知っている。そういうことじゃなくて。

「お父さんは、どうして、村での生活をそんな簡単に捨てられるの?」

 言葉を換えて聞く。お母さんにだけじゃなく、オレやお父さん自身にだってお父さんは冷酷だ。きっぱり生き方をひとつに決めて、『こうすれば生き残れる』そう強く言い放っている。

 ここに残ったって、困ることなんて、なんにもないかも知れないのに。

「簡単になんかじゃない」

「嘘言わないで」

 オレは突っぱねる。帰ってきたお父さんが悩んでいる所なんて、オレはまだ一フレームも見ていない。簡単じゃないなんて嘘だ。強情なオレにお父さんは口をつぐんで、目の前の子どもはどうしてこんなに怒っているのだろう、そんな風に、探るみたいに見つめてくる。

『お前が過ごしてきた世界は、アタマから丸ごと誤りだ。だから逃げ出さなきゃならない。俺と一緒に来れば安全だぜ?』いかにもそう言いたげな目だ。お父さんの指し示す先は、きっとどこまでも正しいのだろうけど、同時にこれ以上ないくらい息苦しくて、『今までのお前は、選んできた道はすべて、完全に間違っているのだ』そう突きつけてくる空気がオレには苦しくてならない。

 お父さんは困ったように額をかく。

「しかし、村にこのまま居残ったら、お母さんのことで確実に話がこじれるだろうか」

 諭すように語りかけてくる。

 それはお父さんの問題だ、オレがどうこうするものじゃない。脳内でそう跳ねつけ、オレは聞く耳を持たない。

「ていうかガキ、オレが帰ってくるまでなにしていた」

「教えない」

 聞かれて、はっきり拒む。

 予想外の返答にお父さんは口の周りをこわばらせる。戸惑っている表情が面白くて、少しだけ胸がすく。

「お前だってほら、なんだかんだ後ろ暗いこと、立派に抱えているじゃないか」

 お父さんは長い間のあと、どうにか、オレを真似るように唇をゆがませて言葉を並べる。

 その一言に、糸口を見つける。

 冷たく振る舞っているように見えるのは、胸の内に隠していることがあるからだ。気付かれないように、感情を表に出さないように、装うからだ。

「後ろ暗いから、お父さんは逃げ出すの?」

 オレは車の中を覗き込むように言う。お父さんはオレと目を合わせながら、細く息を吐き出して態勢を戻し、フロントガラスの方、まっすぐ前を見る。

「違う」

 それからゆったり、ささやき始める。

「後ろ暗いから、というのは確かに正しいかもしれないが、そうじゃない。もっと的確な言葉がある。俺が逃げ出すのは、誰にも縛られず生き残りたいからだ」

 独り言のように言葉を紡ぎ出す。ずっと聞きたかった『お父さんの理由』というやつが、次々飛び出してくる。

「ここから逃げだせば、俺はまた最初から、自分の好きなように好きなだけ、動きたいように動けるだろ。こう後ろ暗くちゃ、俺は色んな所に、したくもない遠慮をしなくちゃならないんだろ? 俺は、俺の好きに生きられなくなった世界には、まったく興味がない」

 お父さんのセリフは、変わらずきっぱりしていて、口調に人間味なんてほとんど感じられないけど、でも、言葉の節々からお父さんの気持ちが覗いていて、ほんのり暖かい。

「ここがキライになったわけじゃないんだよね?」

 喉の奥から、涙みたいに言葉があふれ出す。

「オレの過ごしてきた世界にはまるで、価値なんてなかったって、そんなこと言いたいわけじゃないんだよね?」

 頷いてほしくて、声にする。オレ、お父さんの暖かさに気付いたよ、そう旗を振るつもりで質問を重ねる。

「そこにいても、俺じゃただ縛られるばっかりだからな」

 お父さんは口角を上げながら、返事をしてくれる。その表情に、オレも一緒に嬉しくなる。

「お父さん、あのね」

 改めてそう話しかけると、お父さんは目線だけをこちらに向けて、なんだよ? そう口にするときみたいに顎を引き上げる。

 オレは、お父さんに付いていきたい。

 こんな壊れかけの家庭から出て行きたい。

 お父さんがいたくない世界に、オレも同じように「こんな所にはいたくない」そう宣言してやりたい。

 いろんな言葉がオレの頭の中で飛び回って、オレは、そのどれをも口にする代わりに、お父さんのそばへと近寄って、助手席のドアに手を掛ける。

「うん、逃げよう」


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