番外編 三人で、これからも
娘が生まれて、三か月が過ぎた。
リディアは腕の中の小さな顔を見つめていた。
「よく眠ってるね」
隣から覗き込んだカイルが、声を潜める。
「ええ。ようやく眠ってくれました」
「今日は長かったな」
「二時間です」
「……そんなに?」
「そんなに、です」
小さな寝台へ娘をそっと下ろす。柔らかな頬。握りしめられた小さな手。規則正しく上下する胸。何度見ても不思議だった。この子が、自分たちの娘なのだ。
「可愛いですね」
「うん」
「誰に似たのでしょう」
「まだ分からないな。でも、目元はリディアに似てる」
「そうでしょうか」
「鼻も」
「カイル様にも似ていますよ」
「じゃあ、良いところを半分ずつということで」
「随分都合がいいですね」
リディアが笑うと、カイルも笑った。
娘が生まれてから、毎日が目まぐるしい。泣いたと思えば眠り、眠ったと思えばまた泣く。昨日は喜んだことを今日は嫌がり、何をしても泣き止まないこともある。それでも、幸せだった。
ただ――。
* * *
その夜、リディアは泣き続ける娘を抱いて、部屋の中を歩いていた。
「どうしたの……? 大丈夫よ。ここにいるから」
背中を撫で、抱き方を変えてみても、泣き声は止まらない。乳母にも見てもらったが、熱もなく、体調が悪い様子もないという。ただ泣いている。それだけなのに、時間が経つほどリディアの胸は苦しくなっていった。
何が嫌なのだろう。何をしてほしいのだろう。どうして分かってあげられないのだろう。
「リディア様」
乳母が心配そうに声をかける。
「少し代わりましょうか?」
「大丈夫です」
「ですが、もう随分長く――」
「もう少しだけ。私が母親なのですから」
口にした瞬間、胸の奥に懐かしい感覚が蘇った。
もっとできるはず。もっと頑張らなければ。ちゃんとしなければ。
それでも、腕の中の娘は泣き続けている。
「ごめんなさい……何が嫌なのか、分からなくて……」
「リディア」
背後から声がした。
振り返ると、寝間着姿のカイルが立っている。
「起こしてしまいましたか?」
「これだけ元気に泣いてたら、さすがにね」
そう言いながら近づき、カイルは腕を差し出した。
「代わるよ」
「でも」
「俺が抱く」
「もう少しで眠るかもしれません」
「じゃあ、眠るまで俺が抱いてる」
けれどリディアは、すぐには娘を渡せなかった。
「リディア?」
「……私が母親なのに。この子がどうして泣いているのかも分からないんです。抱いても泣き止ませられなくて……」
カイルは何も言わず、続きを待っていた。
「もっとちゃんとできると思っていました。母親になれば、この子が何を求めているのか分かるものだと……」
けれど実際は、分からないことばかりだった。眠いのか、お腹が空いているのか、ただ抱いてほしいのか。小さな表情一つにも迷ってしまう。
「私がもっと――」
「じゃあ、半分ちょうだい」
「……え?」
「半分。眠れない夜も、泣き声も、分からないことも。リディア一人の仕事じゃないだろ?」
「でも……」
「リディアが母親なら、俺は父親だ。だから、半分ちょうだい」
リディアはしばらくカイルを見つめ、それから腕の中の娘を見る。まだ泣いている。
「……お願いします」
「うん」
カイルが娘を受け取った。
「ほら、お父様だよ。どうした? こんな夜中に――」
「ふぇぇぇ……!」
泣き声がさらに大きくなった。
カイルが黙る。リディアも黙る。
「……泣き止まないね」
「泣き止みませんね」
「むしろ大きくなった気がする」
「私もそう思います」
真剣な顔で娘をあやすカイルを見ているうちに、リディアの口元が緩んだ。
「ふふ……」
「笑った?」
「ごめんなさい」
「今の状況で?」
「だって、カイル様でも駄目なのですね」
「残念ながら、父親になって三か月じゃ修業が足りないらしい」
リディアはとうとう声を立てて笑った。
すると腕の中の娘が、一瞬泣くのをやめる。二人が同時に顔を覗き込んだ。
「……止まった?」
「止まりましたね」
次の瞬間。
「ふぇぇぇぇ!」
「駄目だった」
「駄目ですね」
また顔を見合わせ、今度は二人で笑った。
* * *
それからしばらくして、娘はようやく眠った。
理由は結局分からなかった。カイルの腕の中で散々泣いたあと、突然糸が切れたように眠ってしまったのだ。
二人は起こさないよう慎重に寝台へ下ろし、その横に並んで座った。
「母親になれば、もっと分かるものだと思っていました」
「俺も」
「カイル様も?」
「父親になれば、もう少し何とかなるのかと思ってた」
「何とか、とは?」
「こう……泣き声を聞いただけで原因が分かるとか」
「そんなことを思っていたのですか?」
「少しくらいは。でも、全然分からないな」
「ええ。分からないことばかりです」
「だったら、一緒に覚えていこう」
「一緒に?」
「うん。俺たちも、父親と母親になってまだ三か月だろ?」
言われて、リディアは瞬きをする。
「この子と同じですね」
「さすがに、この子よりは少し先輩だと思いたいけど」
「三か月ですものね」
「三か月だな」
また笑ってしまう。
そうだった。娘が生まれた日に、自分たちも父親と母親になったのだ。最初から何もかも分かるはずがない。
「少しずつでいいのでしょうか」
「いいんじゃないかな」
昔、何度も聞いた言葉だった。
リディアは眠る娘の小さな手に、そっと指を触れた。
「そうですね」
小さな指が、反射するようにリディアの指を握る。
「……カイル様、見てください。握ってくれました」
「本当だ」
「こんなに小さいのに、力が強いんですよ」
「俺にもしてくれるかな」
カイルが反対側から指を差し出す。けれど娘は握らない。
「……してくれない」
「ふふ」
「嫌われてるのかな」
「まさか」
「リディアの指は握ったのに」
「偶然ですよ」
「もう一回やってみる」
「起こさないでくださいね」
真剣な顔で小さな手へ指を近づける夫がおかしくて、リディアは笑いを堪えた。
* * *
翌朝、ほとんど眠れなかった二人は、娘の寝台のそばで並んでいた。
「眠いな」
「眠いです」
「今日は商会へ?」
「行かない」
「珍しいですね」
「昨日、妻に半分よこせって言ったばかりだからね」
カイルは欠伸を噛み殺す。
「今日はここにいる」
「お仕事は?」
「エマに任せた」
「怒られませんでした?」
「むしろ『ようやくですか』って言われた」
「ふふ」
やがて娘が目を覚ました。小さな身体が動き、ゆっくりと瞼が開く。
「あ」
リディアが覗き込む。
「おはよう」
まだ言葉も分からない娘へ声をかけると、娘はしばらく母親の顔を見つめ、やがて小さな手を伸ばした。リディアがその手を握る。
「カイル様」
「ん?」
「この子には、どんな子になってほしいですか?」
カイルは少し考えた。
「元気なら、それで十分かな」
「それだけですか?」
「そうだな……正しい子じゃなくても、優秀じゃなくてもいいと思ってる」
リディアは黙って聞いた。
「自分が好きなものを、好きだと言える子になってほしい。やってみたいことがあったら、やってみる。間違えたら、その時また考える。困った時には、誰かに頼る。それくらいかな」
「十分たくさんあります。欲張りです」
「そう? じゃあ、リディアは?」
今度は自分が聞かれ、リディアは娘を見つめた。
小さな手。まだ何も知らない瞳。この子はこれから、たくさんのものを見るのだろう。楽しいことばかりではない。間違えることも、誰かを傷つけてしまうことも、自分が傷つくこともあるかもしれない。思い通りにいかなくて、自分を嫌いになる日だって来るかもしれない。
「私は……この子が自分を嫌いになりそうな時に、『そんなに自分を責めなくていい』と言ってあげられる母親になりたいです」
カイルが穏やかに笑った。
「いいね」
「できるでしょうか」
「できるよ。ただし、一つ条件がある」
「条件?」
「この子には言えて、自分には言えない、は禁止」
「それは……」
「自分を責め始めた時には、同じことを自分にも言うこと」
「……厳しいですね」
「できない?」
「努力します」
「じゃあ、俺も手伝う」
「カイル様が?」
「うん。忘れてたら言う」
「やっぱり厳しいです」
「夫だからね」
「最近、その言葉を便利に使っていませんか?」
「気に入ってるんだ」
「もう」
呆れながらも、リディアは笑った。
その時だった。
「ふぇ……」
二人が同時に娘を見る。
「ふぇぇぇ……!」
小さな顔がみるみる泣き顔になる。
「泣いたね」
「泣きましたね」
「今度はどっちが?」
「二人で行きましょうか」
カイルが立ち上がり、リディアも続く。
「はい」
二人で寝台を覗き込む。
「どうした?」
「お腹が空いたのかしら」
「それとも眠い?」
「今起きたばかりですよ」
「じゃあ……」
「カイル様」
「ん?」
「最初から正解を当てようとしなくてもいいのでしょう?」
カイルが一瞬黙り、それから笑った。
「そうだった」
リディアも笑う。
正しい父親にも、正しい母親にもならなくていい。最初から何もかも分からなくていい。間違えたら考えて、疲れたら誰かに頼って、できない日は助けてもらえばいい。
この子にも、いつかそう伝えたい。
自分の好きなものを大切にしていい。誰かと違っていてもいい。うまくできない自分を、いつまでも責めなくていい。
そして何より、自分の人生を、自分で選んでいい。
「リディア」
「はい?」
「笑った」
「え?」
「今、この子」
二人が娘を覗き込む。
涙の残る小さな顔が、ほんの一瞬だけ笑ったように見えた。
「……笑いましたね」
「うん」
「絶対に笑いました」
「俺も見た」
リディアは娘の小さな手を握った。カイルの手も、その上に重なる。
夫婦になって、そして今、三人になった。
これから先、きっと予定通りにはいかない。分からないことも、失敗することも、数え切れないほどあるだろう。
それでも、そのたびに考えればいい。一人で答えを出さなくてもいい。誰かが決めた正しい道を歩かなくてもいい。
自分たちがどうしたいのかを、そのたびに三人で見つけていけばいい。
リディアはカイルと顔を見合わせ、笑った。
これからも。
三人で。




