↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「君は正しすぎる」と婚約破棄された私は、もう自分を責めない  作者: 黒猫と珈琲


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/22

番外編 三人で、これからも

 娘が生まれて、三か月が過ぎた。


 リディアは腕の中の小さな顔を見つめていた。


「よく眠ってるね」


 隣から覗き込んだカイルが、声を潜める。


「ええ。ようやく眠ってくれました」

「今日は長かったな」

「二時間です」

「……そんなに?」

「そんなに、です」


 小さな寝台へ娘をそっと下ろす。柔らかな頬。握りしめられた小さな手。規則正しく上下する胸。何度見ても不思議だった。この子が、自分たちの娘なのだ。


「可愛いですね」

「うん」

「誰に似たのでしょう」

「まだ分からないな。でも、目元はリディアに似てる」

「そうでしょうか」

「鼻も」

「カイル様にも似ていますよ」

「じゃあ、良いところを半分ずつということで」

「随分都合がいいですね」


 リディアが笑うと、カイルも笑った。


 娘が生まれてから、毎日が目まぐるしい。泣いたと思えば眠り、眠ったと思えばまた泣く。昨日は喜んだことを今日は嫌がり、何をしても泣き止まないこともある。それでも、幸せだった。


 ただ――。


* * *


 その夜、リディアは泣き続ける娘を抱いて、部屋の中を歩いていた。


「どうしたの……? 大丈夫よ。ここにいるから」


 背中を撫で、抱き方を変えてみても、泣き声は止まらない。乳母にも見てもらったが、熱もなく、体調が悪い様子もないという。ただ泣いている。それだけなのに、時間が経つほどリディアの胸は苦しくなっていった。


 何が嫌なのだろう。何をしてほしいのだろう。どうして分かってあげられないのだろう。


「リディア様」


 乳母が心配そうに声をかける。


「少し代わりましょうか?」

「大丈夫です」

「ですが、もう随分長く――」

「もう少しだけ。私が母親なのですから」


 口にした瞬間、胸の奥に懐かしい感覚が蘇った。


 もっとできるはず。もっと頑張らなければ。ちゃんとしなければ。


 それでも、腕の中の娘は泣き続けている。


「ごめんなさい……何が嫌なのか、分からなくて……」

「リディア」


 背後から声がした。


 振り返ると、寝間着姿のカイルが立っている。


「起こしてしまいましたか?」

「これだけ元気に泣いてたら、さすがにね」


 そう言いながら近づき、カイルは腕を差し出した。


「代わるよ」

「でも」

「俺が抱く」

「もう少しで眠るかもしれません」

「じゃあ、眠るまで俺が抱いてる」


 けれどリディアは、すぐには娘を渡せなかった。


「リディア?」

「……私が母親なのに。この子がどうして泣いているのかも分からないんです。抱いても泣き止ませられなくて……」


 カイルは何も言わず、続きを待っていた。


「もっとちゃんとできると思っていました。母親になれば、この子が何を求めているのか分かるものだと……」


 けれど実際は、分からないことばかりだった。眠いのか、お腹が空いているのか、ただ抱いてほしいのか。小さな表情一つにも迷ってしまう。


「私がもっと――」

「じゃあ、半分ちょうだい」

「……え?」

「半分。眠れない夜も、泣き声も、分からないことも。リディア一人の仕事じゃないだろ?」

「でも……」

「リディアが母親なら、俺は父親だ。だから、半分ちょうだい」


 リディアはしばらくカイルを見つめ、それから腕の中の娘を見る。まだ泣いている。


「……お願いします」

「うん」


 カイルが娘を受け取った。


「ほら、お父様だよ。どうした? こんな夜中に――」

「ふぇぇぇ……!」


 泣き声がさらに大きくなった。


 カイルが黙る。リディアも黙る。


「……泣き止まないね」

「泣き止みませんね」

「むしろ大きくなった気がする」

「私もそう思います」


 真剣な顔で娘をあやすカイルを見ているうちに、リディアの口元が緩んだ。


「ふふ……」

「笑った?」

「ごめんなさい」

「今の状況で?」

「だって、カイル様でも駄目なのですね」

「残念ながら、父親になって三か月じゃ修業が足りないらしい」


 リディアはとうとう声を立てて笑った。


 すると腕の中の娘が、一瞬泣くのをやめる。二人が同時に顔を覗き込んだ。


「……止まった?」

「止まりましたね」


 次の瞬間。


「ふぇぇぇぇ!」

「駄目だった」

「駄目ですね」


 また顔を見合わせ、今度は二人で笑った。


* * *


 それからしばらくして、娘はようやく眠った。


 理由は結局分からなかった。カイルの腕の中で散々泣いたあと、突然糸が切れたように眠ってしまったのだ。


 二人は起こさないよう慎重に寝台へ下ろし、その横に並んで座った。


「母親になれば、もっと分かるものだと思っていました」

「俺も」

「カイル様も?」

「父親になれば、もう少し何とかなるのかと思ってた」

「何とか、とは?」

「こう……泣き声を聞いただけで原因が分かるとか」

「そんなことを思っていたのですか?」

「少しくらいは。でも、全然分からないな」

「ええ。分からないことばかりです」

「だったら、一緒に覚えていこう」

「一緒に?」

「うん。俺たちも、父親と母親になってまだ三か月だろ?」


 言われて、リディアは瞬きをする。


「この子と同じですね」

「さすがに、この子よりは少し先輩だと思いたいけど」

「三か月ですものね」

「三か月だな」


 また笑ってしまう。


 そうだった。娘が生まれた日に、自分たちも父親と母親になったのだ。最初から何もかも分かるはずがない。


「少しずつでいいのでしょうか」

「いいんじゃないかな」


 昔、何度も聞いた言葉だった。


 リディアは眠る娘の小さな手に、そっと指を触れた。


「そうですね」


 小さな指が、反射するようにリディアの指を握る。


「……カイル様、見てください。握ってくれました」

「本当だ」

「こんなに小さいのに、力が強いんですよ」

「俺にもしてくれるかな」


 カイルが反対側から指を差し出す。けれど娘は握らない。


「……してくれない」

「ふふ」

「嫌われてるのかな」

「まさか」

「リディアの指は握ったのに」

「偶然ですよ」

「もう一回やってみる」

「起こさないでくださいね」


 真剣な顔で小さな手へ指を近づける夫がおかしくて、リディアは笑いを堪えた。


* * *


 翌朝、ほとんど眠れなかった二人は、娘の寝台のそばで並んでいた。


「眠いな」

「眠いです」

「今日は商会へ?」

「行かない」

「珍しいですね」

「昨日、妻に半分よこせって言ったばかりだからね」


 カイルは欠伸を噛み殺す。


「今日はここにいる」

「お仕事は?」

「エマに任せた」

「怒られませんでした?」

「むしろ『ようやくですか』って言われた」

「ふふ」


 やがて娘が目を覚ました。小さな身体が動き、ゆっくりと瞼が開く。


「あ」


 リディアが覗き込む。


「おはよう」


 まだ言葉も分からない娘へ声をかけると、娘はしばらく母親の顔を見つめ、やがて小さな手を伸ばした。リディアがその手を握る。


「カイル様」

「ん?」

「この子には、どんな子になってほしいですか?」


 カイルは少し考えた。


「元気なら、それで十分かな」

「それだけですか?」

「そうだな……正しい子じゃなくても、優秀じゃなくてもいいと思ってる」


 リディアは黙って聞いた。


「自分が好きなものを、好きだと言える子になってほしい。やってみたいことがあったら、やってみる。間違えたら、その時また考える。困った時には、誰かに頼る。それくらいかな」

「十分たくさんあります。欲張りです」

「そう? じゃあ、リディアは?」


 今度は自分が聞かれ、リディアは娘を見つめた。


 小さな手。まだ何も知らない瞳。この子はこれから、たくさんのものを見るのだろう。楽しいことばかりではない。間違えることも、誰かを傷つけてしまうことも、自分が傷つくこともあるかもしれない。思い通りにいかなくて、自分を嫌いになる日だって来るかもしれない。


「私は……この子が自分を嫌いになりそうな時に、『そんなに自分を責めなくていい』と言ってあげられる母親になりたいです」


 カイルが穏やかに笑った。


「いいね」

「できるでしょうか」

「できるよ。ただし、一つ条件がある」

「条件?」

「この子には言えて、自分には言えない、は禁止」

「それは……」

「自分を責め始めた時には、同じことを自分にも言うこと」

「……厳しいですね」

「できない?」

「努力します」

「じゃあ、俺も手伝う」

「カイル様が?」

「うん。忘れてたら言う」

「やっぱり厳しいです」

「夫だからね」

「最近、その言葉を便利に使っていませんか?」

「気に入ってるんだ」

「もう」


 呆れながらも、リディアは笑った。


 その時だった。


「ふぇ……」


 二人が同時に娘を見る。


「ふぇぇぇ……!」


 小さな顔がみるみる泣き顔になる。


「泣いたね」

「泣きましたね」

「今度はどっちが?」

「二人で行きましょうか」


 カイルが立ち上がり、リディアも続く。


「はい」


 二人で寝台を覗き込む。


「どうした?」

「お腹が空いたのかしら」

「それとも眠い?」

「今起きたばかりですよ」

「じゃあ……」

「カイル様」

「ん?」

「最初から正解を当てようとしなくてもいいのでしょう?」


 カイルが一瞬黙り、それから笑った。


「そうだった」


 リディアも笑う。


 正しい父親にも、正しい母親にもならなくていい。最初から何もかも分からなくていい。間違えたら考えて、疲れたら誰かに頼って、できない日は助けてもらえばいい。


 この子にも、いつかそう伝えたい。


 自分の好きなものを大切にしていい。誰かと違っていてもいい。うまくできない自分を、いつまでも責めなくていい。


 そして何より、自分の人生を、自分で選んでいい。


「リディア」

「はい?」

「笑った」

「え?」

「今、この子」


 二人が娘を覗き込む。


 涙の残る小さな顔が、ほんの一瞬だけ笑ったように見えた。


「……笑いましたね」

「うん」

「絶対に笑いました」

「俺も見た」


 リディアは娘の小さな手を握った。カイルの手も、その上に重なる。


 夫婦になって、そして今、三人になった。


 これから先、きっと予定通りにはいかない。分からないことも、失敗することも、数え切れないほどあるだろう。


 それでも、そのたびに考えればいい。一人で答えを出さなくてもいい。誰かが決めた正しい道を歩かなくてもいい。


 自分たちがどうしたいのかを、そのたびに三人で見つけていけばいい。


 リディアはカイルと顔を見合わせ、笑った。


 これからも。


 三人で。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。