鴉との約束.3
次回の更新は土曜日となります。
暑い日々が続いておりますので、みなさま、お気をつけて。
戦いの日は、何の変わりもない日の出から始まった。
泣き疲れて隣で眠っているレイブンを起こさないよう身を起こした私は、素早く身支度を整えた。その途中、寝返りを打ったレイブンの穏やかな顔を見て、なんと脆く、華奢な盾と剣だろうと私はおかしくなる。
でもきっと、実現可能かどうかが問題ではない。命令があるかどうかのほうが大事なのだ。
支度を終えた私は、すぐにワダツミらがいる場所へと向かった。まだ早朝と呼べる時間だったが、すでに人は慌ただしく行き交っている。
さて、私は何を手伝うべきか。誰から指示を仰ごうと立ち止まって観察していると、不意に後ろから声をかけられた。
「エルトランド人」
振り向くと、イトガワとかいう中年男性が立っていた。
そうだ。一応、彼がこの孤月砦の指揮官だったような気がする。
「リリーよ、イトガワ」
「貴様、『様』をつけんか!」
「冗談でしょう?」と私が鼻を鳴らしてみせれば、彼は顔を真っ赤にしてこちらを睨む。
彼はしばらく同じ命令を繰り返したが、今が戦闘前ということを思い出したのか、一度咳払いをしてから、私にワダツミの元へと行くよう命令した。
「ありがとう」
そう言って私が背を向ければ、イトガワは後ろから、「俺は認めておらんからな」と冷たく威圧感のある声を放った。そのため、私もそれに対して、背中を向けたままで答える。
「あ、そう。悪いけれど興味ないわ」
明らかにイトガワが憤っているのを背中に感じるが、そのまま私はワダツミのいるらしい場所へと向かった。
孤月砦の石壁の隙間から見える入江は、とても広く湾曲しており、そして、きらきらして美しかった。
跳ね返る朝日が目に染みて眩しい。
あの場所が、昨日見たように今度は血で赤く染まるのかと思うと、人間は何をしているのだろうかと少し虚しくなる。しかし、戦争とは、感傷に浸ってやめられるものではないことぐらい、私にも理解できていた。
だから、前を向いて歩く。
そうして、私はワダツミが一人で砦のバルコニーにいるところにやって来た。
「おぉ、黒百合。昨日はよく眠れたかのう」
「ええ、最高の寝心地だったわ、あのベッド」
私に皮肉を受け取って、ワダツミはおかしそうに笑う。
「あはは、許せ。お主を各方面に認めさせるだけで、なかなかの骨折り具合だったのじゃぞ。別の寝床を用意できただけありがたいと思え」
「…まぁ、それもそうね。ありがとう、ワダツミ」
私が素直に礼を言うとは思ってもいなかったのか、ワダツミは目を丸くして私を見た。だが、それから少しして、緩やかに穏やかな表情へと変わった。
「エルトランドの次期王妃じゃった女、か。儂らのこの出会いは、幸運なのか、はたまた不幸なのか…どう思う?黒百合」
「そうね、少なくとも貴方にとっては幸運だと思うわ」
「ほう?」
「だってそうでしょう?私が王妃になっていたら、オリエントは壊滅したはずだもの」
私の挑戦的な笑みから、冗談だということを悟ったのだろう。ワダツミは片方の口元を上げながら、「ぬかせ、返り討ちじゃ」と言った。
互いにひとしきり静かに微笑みあってから、私はワダツミに用件は何かと問うた。すると彼女は今思い出したと言わんばかりの声を上げてから、そばに置いてある箱から細長い布にくるまれた何かを取り出した。
「それは?」
「お主にくれてやる。黒百合」
真っ直ぐ突き出された物を怪訝な顔をして受け取れば、それはずしりとした重量感を持っていた。
開けてみろ、とワダツミが顎で命じる。気に入らない仕草だったが、大人しく従ってみせたところ、布にくるまれていたものの正体が明らかになった。
「これって…」
赤い花の装飾があしらわれた銀の鞘。太刀だ。
試しに抜いてみれば、鞘の内側からはきらりと光る昼の月が現れる。曇りなき刃は気高い魂を象っているようだ。
「いつまでも拾い物を使わせるのはあんまりじゃろうと思ってな。用意しておいた」
「…気を遣わせたわね、わざわざ、こんな装飾まで…」
「よい。本来はニライカナイに入団して一ヶ月経ったから、そのお祝いにと思って打たせておったのじゃが…時が先に来てしもうた」
私は無言で刃を見つめていた。刃紋の向こう側で赤い瞳がこちらを覗き込んできているのが見える。
レイピアにはまるで及ばないが、刀の扱いも少しずつ習熟してきた実感がある。レイブンと一緒に魔物退治をしていたから、そのおかげが大きい。
「ありがたく、頂くとするわ」
カチリ、と刀身を鞘に納める。腰のベルトに太刀をぶら下げれば、なかなかの重みがあった。
「ふっ、そうしてくれ」とワダツミが上品に笑った。
それから、私はワダツミに戦いが始まるまでの自分の役割、そして、始まった後の役割を説明された。主に前者に関しては資材の運搬と海の監視だったが、後者についてはこれといった具体的なものは出されなかった。どこの布陣に加わるのか、撤退するときはどこに行くのか、といった程度のものだ。
「まあ、好きにしろということじゃな」
薄笑いを浮かべたワダツミが言う。
「いいのかしら。連携が崩れたりしない?」
「仲間になって一ヶ月のお主と重要な連携を組める人間などおらん――あぁ、一人だけおるか」
「レイブンね」
「うむ」
レイブンとは一ヶ月以上、魔物相手に連携した戦闘を繰り返している。それが人間相手に変わるだけなら、問題はないだろう。
「そもそも、お主が言うことが真実なら、ストレリなんとかが出てきたら、陣形無視で突っ込むつもりじゃろうが」
図星だったので私は答えられなかった。そんな私を見て、ワダツミは肩を竦める。
「…あまり、レイブンをお主の私怨に巻き込むでないぞ」
「ええ、もちろん。あの子が望まない限りは」
ワダツミの目も見ずに答えれば、彼女は胡散臭いものを見るような目で私を見たが、それに気づかないふりをして、仕事に取り掛かることにした。
そんな私の背中にワダツミが声をかける。
「あぁそうじゃ、黒百合」
「何かしら」
「お主、エルトランドの奴らに素性を隠して戦うのか?」
「何、藪から棒に…。別に隠すつもりはないわ」
「じゃが、わざわざ名前を変えておるのは、正体を誰にも悟られないようにするためではないのか?」
「違うわ」と私はまた振り返る。
カチャリ、と新たな剣が音を立てた。
「私が元の名前を捨てたのは、私なりのけじめよ。かつての仲間も、婚約者も家族も、自分の名前すらも捨てて復讐を成すという決意を込めただけ。そもそも、どうして私が私を追い出した連中のことを慮ってあげなくちゃいけないのよ」
そうだ。ストレリチアやジャンが疑いをかけられようと私の知ったことではない。本当に隠し通さなければならないことは、レイブンがバックライト夫人の奴隷であったということだけだ。これも、レイブンの気持ちをくんでいるに過ぎず、私の本懐とは別である。
すると、「ふぅむ」とワダツミはニヤニヤしながら唸った。
「何かしら。言いたいことがあるのなら言いなさい」
ダラダラしている時間はないのよ、と続けようとしていたところ、ワダツミが依然として同じ表情のまま続けた。
「いやな、それなら一つ、興を設けようと思うての?」
「興…?」
どうしてだろう、私は嫌な予感を覚えつつも、その後に続くワダツミの提案を断り切ることができなかった。
すでに日は傾き、その輝きにオレンジ色を滲ませるようになった頃、私とレイブンはイトガワの指揮する中央隊の前列にいた。
つまり、一番、死ぬ確率が高い位置だ。
隣に佇むレイブンからは緊張の色は見られない。むしろ達観したふうに空と海の境界とを眺めている。
このあどけなくも虚しい横顔を見ていると、どうにも私は彼女を連れて来たのは間違いだったのではないかという疑問に駆られる。戦闘経験に乏しいレイブンをこんな位置に連れ出すなど、死ねと言っているようなものだからだ。
…だが、帰りなさいと言うつもりもなかった。どれだけ胸が苦しくなってもだ。
(それこそ、私の傲慢よね…勝手にレイブンの生き方を、死に方を決めるなんて…)
目を細めてレイブンの横顔を盗み見ていると、不意に、レイブンがこちらを振り向いた。
私は衝突したオニキスに吸い込まれそうだと思い、息が詰まるような感覚を覚える。
美しいものほど、私を苦しめるのだ。あのストレリチアのように。
「お嬢様、発言してもいいですか」
「許可なんていらないと言っているでしょう」
私が鬱陶しそうに顔を歪めれば、レイブンはどこか嬉しそうに微笑んだ。
昨夜からこんな調子だ。そう、彼女に命令を出してから、いや、『夫人はこうしてみせただろうか』と思いながら口づけを落としたときからだろうか…。
なんとなく、柔らかかった、なんてことを思い出したせいで顔が一気に熱くなった。
(何を子どもみたいに…私。ジャンとだって、挨拶程度のものなら済ませたじゃないの)
きっと、レイブンはバックライト夫人を私に重ねて見ている。昨夜から、私自身その気持ちに報いようと思った。だからこそ、こんな柔らかい顔を見せるようになったのだろうが、それはそれで言葉で説明しがたい不満も覚えた。
「この攻撃を退けたら、色々と教えて下さい」
「い、色々と…?」
思わず、変な妄想が浮かぶ。邪なことを考えていたせいだ。そうに違いない。
「はい。言葉とか、魔導のこととか、本のこととか…お時間があるときで構いません」
「それは構わないけれど、こちらにいる限り、ワダツミにでも聞いたほうが早いと思うわよ?あの世話好きなら断らないでしょう」
「駄目です」一刀両断。こんな応対、今まではしなかったのに。「お嬢様でないと駄目なんです」
「そ、そう…」
私は一瞬だけ嬉しくなったが、すぐに続くレイブンの言葉で一転する。
「はい。前は奥様が与えてくれたものですから、その代わりを務めて頂くお嬢様でないといけません」
代わり。
すぅ、と冷たい光が私の頬を撫でる。それは瞬時に苛立ちへと変わる。
「へぇ、私を夫人の代わりにしようというの」
「え、あ…いえ、そういうわけでは…」
「じゃあ、どういうわけなのかしら」
ぴりつく口調で責めるように問うと、レイブンは珍しく困惑した顔で視線を右往左往させ、最後に、「あの、私、何かお嬢様を怒らせるようなことを申し上げましたでしょうか…」と自信なさげに言った。
それはそうだろう、としかめ面になりかけるも、よくよく考えれば自分でも何に怒っているのだろうと疑問に思った。
私を夫人の代わりにしようとしていることが気に入らない…それは間違いない。しかし、それの何が気に入らないのか。
単純に失礼だから…だけでは、説明のつかない苛立ちがあった。
じっと、レイブンが私を見つめてくる。その視線に、私はまた昨日の口づけのことを思い出して頬が熱くなる。
(…馬鹿みたい。これじゃあ、私が夫人に嫉妬しているみたいじゃない…)
パタパタと手で顔を仰ぎながら、熱を払う。子どもみたいな感情を持て余したせいだ、と私は自分に向けて言い聞かせた。
「…なんでもないわ。大事な戦いの前にごめんなさい」
「あ、いえ…」
ワケも分からない様子でレイブンが俯く。無理もない。
ともあれ、後腐れのないように会話を切り上げたかった。
夕焼けが真っ赤に燃えている。その水平線上に、三隻の船が浮かんでいた。
船のマストには、エルトランドの紋章。
心残りは少ないほうがいい。
そんなことを考えてから、こんなセンチメンタリズムな想い、ルピナスらと一緒に魔物と戦ってきたときには抱かなかったなと振り返る。
思い出は、いつも眩しい…やっぱり、綺麗なものほど見つめていると苦しくなるのだ。
「レイブン」
同じように海の彼方の船を見つめていた彼女に声をかければ、レイブンは黒髪を揺らしながらこちらを向いた。
「はい」
「終わったら、きちんと褒めてあげるわ。だから――」
人々が騒々しく動き出す中、私とレイブンは互いに足を止めて見つめ合った。
美しい宝石だ。
こんなに綺麗な人が自分のことを消耗品だなどと称するとは…エルトランド人の業は深い。
そっと、レイブンの頬に触れる。触れた私の手に頬を寄せるレイブンの仕草に、胸がきゅっと苦しくなった。
震える吐息を漏らしながら、私は告げる。
「私の元に生きて戻りなさい。これも、命令よ」
レイブンは静かに頷いた。
読みづらかったり、もっとこうしたほうが良い、という意見がありましたら、是非お寄せください!
ご意見・ご感想、ブックマーク、評価が私の力になりますので、
応援よろしくお願いします!




