青年と迷子の人魚
人魚に監禁されてから、もうすぐ一年と五ヶ月が経つ。
海面に降り注ぐ斜光は日に日にその明度を上げ、海中を貫く光はまるで濾過されたように輝いていた。
「かあいこちゃん、あちちじゃない? ひんやり巻く?」
片方しかない尾鰭を揺らし、鋸歯状の歯を覗かせる人魚がその青年の飼い主であった。
人魚の名を、「あやめ」という。
「あちくないよ。あやめが扇風機くれたし……だからそのわかめはしまってね」
かつて、凡庸な人生を順調に歩んできた何の変哲もない平凡な青年は、高校最後の修学旅行でこの人魚に海中へと拉致され──前後の記憶はまったくないまま──それ以降、薄い膜の張ったテラリウムの中で海中監禁生活を謳歌している。
二ヶ月前より水温も人肌程度に上昇し、海は夏の訪れを予感させていた。
青年を囲む半径五メートルのテラリウムもそれに伴い室温が上がる。熱中症になるような暑さではないけれど、それでも何となく喉が渇いてくるような籠もった温度が続いている。青年はこまめに水分を摂るよう心がけた。
あやめはそんな青年の体調を危惧してか、地上から扇風機を貰ってきて、テラリウムの中に設置してくれた。電池式の扇風機で、コンセントはいらない。
テラリウムの中は随分と過ごしやすい環境に変わった。
(それより、暑そうなのはあやめや他の人魚たちだ)
いつも海中を飛ぶように泳いでいる人魚たちは、生ぬるい水温のせいでどこか怠そうだった。尾鰭に枷でもつけたかのようだ。
あやめも青年の前では花を飛ばしているが、尾鰭を団扇代わりにして顔を扇いだり、隠しきれない倦怠感が滲み出ている。もちろん海中に冷房なんてものは効くわけもなく、氷はすぐに溶けてしまう。人魚の体温を下げる方法なんて、浅学な青年にはさっぱりだった。
「わかめって冷たいの?」青年は尋ねる。
「ちょこっと、ちべたい」
「そっか」
「でも、かあいくないからあんまり着けてたくないんだあ、……」
首にわかめを巻いたあやめが、テラリウムの表面に背中を預ける。すると、その肩がわかりやすく脱力したのを見た。
今、膜の中では扇風機が弱で回っている。どうやら、この室内が涼しくなるとテラリウムの表面も冷たくなるみたいだ。
青年は試しに扇風機を強にして、室内に満遍なく風がいくよう範囲の設定をランダムにしてみた。
効果は覿面であった。
「なんか、かあいこちゃんのそばって気持ちいいねえ」そう言って、あやめはことあるごとにテラリウムの壁に張りつくようになった。
涼しそうにするあやめの顔は普段よりも幾分か凶悪さが薄れ、翡翠の瞳に入った縦の亀裂も悍ましさを希釈させている。
薄くも堅牢な逆三角形の体を惜しみなく広げて、あやめは膜の天井によく寝そべっていた。三メートル越えの尾鰭が揺れ、赤紫の鱗ばかり青年の視界に入ってくる。人型大の影が降ってくるのを見上げれば、あやめの古傷も細かく観察できた。引き締まった腹部に走る噛み跡や裂傷痕、皮膚の色がところどころ違う。
うつ伏せや仰向けを行き来し、ウルフカットの黒髪がやわやわ弛むさまを眺めているのは、水族館の魚群トンネルを彷彿とさせた。
もっとも、水槽に入っているのはどちらかというと青年の方なのだが。
テラリウムを冷やすやり方は三日ほど続いた。が、ここで、一つの問題が浮上してくる。
(──……寒い)
テラリウムが十分に冷えるということは、当然そこにいる青年にも影響してくるのだ。扇風機の強をずっと運転していると、猛暑なのに極寒みたいな室温になって、体に大変よろしくない。
青年はテラリウムを冷やす時間を制限した。海中に時計はないけれど、体感で昼と夕方に一度ずつ扇風機を強に回すことにしたのだ。あやめは暑かろうと涼しかろうと青年のそばにいるから、テラリウムの温度の変化にはさほど気にしていなかったようだが、それでも快適そうにしてくれた。
そのひんやりスポットは、最初こそあやめのためだけに存在していて、周囲でもあやめだけが元気に泳ぎ回っていた。しかし、人魚というのは他の人魚の変化に目敏い。
あっという間に、青年のテラリウムは人魚たちの避暑地となった。
あやめが留守にする時間を見計らって、他の人魚たちはテラリウムの周りに集まり、あやめと同じく膜の天井や側面にべったりとタニシのように引っ付いてくる。
青年は日課である筋トレをしなければならなかったのだが、美男美女が豊満な体を透明な膜に押し付けている光景は、控えめに言っても圧が強すぎた。ご褒美みたいな景色だと思う人もいるのだろうが、青年にとっては美の四面楚歌である。目が合えば──合わない空間がない──極上のスマイルで手を振られ、投げキッスの嵐がくる。これでは、集中できるものも集中できない。
青年は汗を流しながら、あやめの帰りを待った。
「あ゛ッ!! かあいこちゃんのとこで何してんのッッ!!!! 散れッ!!!!」
あやめがくると人魚たちは蜘蛛の子を散らすようにテラリウムから離れていく。先ほどまでの美しい愛想はどこに置いてきたのか、ほとんどの人魚はあやめになにか文句を言ったり、柳眉を逆立てながら尾鰭で叩きあったりして治安悪く去っていった。
「かあいこちゃん、何もされてない? 嫌な思いしたら言うんだよお。そいつの鱗引き剥がした後でゆっくりゆっくりないないしてあげるから」
「あ。あり、ありがとお……でも、やめてね、俺はなにもされてないからね。他の人魚にも優しくしたげて……」
青年と人魚の、深く、青い監禁生活が今日も始まる。
◻︎
その日も、特に変わり映えのしない一日だった。仕事に行くあやめを見送り、他の人魚たちに構われながら筋トレをして、夕方に帰ってくるあやめを迎える。
「ただいまあ! かあいこちゃん、お留守番ありがとねえ」
「おかえり。あやめ」
「お腹すいた? ご飯もてきたよお」
もうすっかり慣れてしまったやり取りだ。
あやめが青年のために地上の人間から貰ってくる食料は、テラリウムと同じ薄い膜に包まれて運ばれてくる。おにぎりやサンドウィッチ、三色弁当なんかが多く、麺類は拉致監禁されてからまだ一度も食べられていなかった。
贅沢をいうわけではないけれど、青年はラーメンが食いたくてたまらないでいる。この際、カップラーメンで……いや、むしろカップラーメンが食べたかった。
最近は扇風機など大型のものも海中に持ち運びができているし、カップラーメンもいけるのではないかと思っている。三分という壁はあるが、多少の経過には目を瞑ろう。
青年は三色弁当の肉そぼろを食べながら、あやめの顔を盗み見た。
いつもなら「かあいいねえ!」とか「いっぱい食べよねえ!」とか掛け声をかけてくれるあやめは、自分の鱗をいじいじしながら、珍しく俯いていた。
(……どうしたんだろう。何かあったのかな)
だが、今はカップラーメンの交渉が先決だ。気を揉んでいるあやめには悪いが。
青年は口の中のものを咀嚼した後で、小さく口を開き、
「あのさ、あやめ」
「あのねえ、かあいこちゃん、……」
被さった言葉を見つめるようにして、互いに目を丸くしながら見合った。「かあいこちゃ、お先にどおぞ」とはにかんだあやめが言う。青年はそのとおりにすればよかったのに、日本人魂が弊害を及ぼし「いや、あやめがどうぞ」と返してしまった。
あやめは、そういう建前の遠慮に慇懃で返すような性格をしていない。彼は青年に譲られると、譲り返すことはせず、素直に受け取った。しまった、と思いながらも青年は諦めて傾聴の姿勢をとる。
「おれのね、お友達の子供が迷子になっちゃってえ……」
「迷子?」
「うん。場所はわかったんだけど、おれたちの大きさじゃ入れないところにいて。どうすることもできなくてえ」
とりあえず、ラーメンの話題を出す雰囲気ではなくなった。
「じゃあ、その子は今もそこにいるのか」
「そお。もう今日は危ないから。明日、また行くんだけどお」
あやめはまた口を噤む。申し訳なさと迷いが混同したような間があって、青年は彼がなにを言わんとしているのか大体察しがついた。
「俺、何か手伝える?」
口籠るあやめに、そう助け舟を出してやると、翡翠の瞳に入った亀裂のような瞳孔がいくつも収縮して、燦然と光を帯びる。あやめはいじっていた鱗から指を離して、体を青年の方へと向けた。
女の子座りにも似た姿勢で尾を畳ませるさまは、絵本で見た人魚姫の挿絵を思わせる。
「良いのおっ?」あやめの声は弾んでいた。
「俺にできることなら」
「えと、明日その子供がいるところまで一緒に行って、連れてきてくれたらうれし!」
「それぐらいなら、いいよ」
むしろそんなことでこの弱小な体が役立つなら、人間冥利に尽きるというものだ。
「ありがとお、かあいこちゃん」そう、あやめはほっとしたように呟いた。
しかし、その顔色から晴れ間が覗く瞬間は見られなかった。鱗雲の不安が払拭しきれていない。他に何か、懸念があるのだろうか。
青年は最後の一口を食べ終えると、空になった弁当に蓋をしてあやめのそばに寄り添う。
どんなに悩んでいても、どんなに眠くても、あやめは青年がそばに寄るだけで全ての負が正に傾くのだ。今も、それは変わらなかった。青年が近寄ると、肩幅のある体を一生懸命に縮めて、抑えきれない喜色を飛ばしている。
沈黙であやめの顔を見続けていれば、やがて彼は観念したように鋭い歯の先を見せた。
「……その子供が迷子になったとこ、ちょっと、おれらの縄張りと違くて。なるべくそこに棲んでるやつが来る前になんとかしたいんだけどお……」と、吃りながら続ける。「つまり、その。危ないないのとこで、……」
すとん、と、青年の肩から力が抜ける。
危険など、あやめと暮らしていくうちに何度か経験しているし、何より海中に拉致され監禁される日常ほどやばい事態もない。
(ただ、あやめは俺をそういう場所に向かわせてしまうこと自体が不安なんだろうな)
一年も一緒に暮らしていれば、この人魚がなにを考えて、なにを基準に動いているのかぐらいはわかるようになってくる。
青年はテラリウムの壁を柔く叩いて、あやめの注意をこちらに向かせた。
「俺は平気だよ。それより、その子供が心配だ。一緒に助けてあげよう」
「かあいこちゃん……こんなに、こんなに良い子でどうしよおっ。もっと悪い子にならないと、体に悪いよう……明日、何かあっても、おれに全部任せてね」
「話し合いで」
「え?」
「話し合いで解決できることは、話し合いでいこ。ね?」
「え?」
「ね?」
人魚の子供がいつまで無事でいられるかはわからない。明日は早朝から動こうという話になって、青年は早めに眠ることにした。あやめはまだ起きているようで、青年が眠る直前、「あっ」と思い出したかのように声を上げた。
「かあいこちゃんも何か言おうとしてたよね? なあに?」
「えっ、あー」
青年は敷き詰められた羽毛布団を掻き寄せながら、目を泳がせた。
「あやめの……元気がなさそうだったから……心配で」
その日の子守唄は、あやめの、月光が輝くような視線だった。
◻︎
海の朝は白い。
日中よりも涼しい水温に目を開けて、青年はあやめに貰ったウェットスーツに着替える。
星を消すような鯨の反響音が、遠くで青を震わせていた。
この海中で空気が変わることなんてないのに、膜の外に出れば澄んだ呼吸ができる気がしてしまう。肺いっぱいに新鮮な空気を吸って、吐く。思えば、空気の味を知れるのは地上での特権だったのかもしれない。
「かあいこちゃん、ジーッ、してあげる」
「ん、おねがい」
「んへへ……えらいねえ、かあいこちゃ。自分でお着替えできたのお……」
寝ぼけ眼に起きてきたあやめが、膜に両手を突き入れて手招いてくる。青年は後ろ歩きに近寄って、頸から背骨に続くファスナーをあやめに閉めてもらった。
その流れで、あやめはテラリウムと同じ水泡の膜を青年の頭にも施した。海中に出るときにはいつもこうしてもらっている。この膜の内側では不思議と息ができるのだ。
あやめの両手に支えられながら、青年はゆっくりとテラリウムの外へ出た。体が持ち上がるような無重力感に鳥肌が立つ。冷たいと感じたのは一瞬で、ウェットスーツの下にある肌は少しずつ水温に慣れ始める。ラッコの親子みたいに抱き抱えられたまま、青年はあやめに自分の自由を委ねた。
散歩程度なら自分の脚でも泳ぐが、今は急を要している。あやめのスピードに任せた方がよほど効率的だった。
電車のような速度で、目まぐるしく景色が流れていく。ごうん、ごうんと鼓膜の内側が籠る。鮮やかな小魚が流星のように通り過ぎて、それ以外の障害物はない。静かな海の中に、あやめの長い血管色の尾が悠遠な波浪を生み出している。
ビー玉を透かしたままの空が、ずっと、続いていた。
「かあいこちゃん、ふにふにしてて気持ちぃねえ」
「悪かったな。筋肉がつきにくい体質なんだよ」
青年は中学、高校と弓道部に所属していた。他の部員と比べ、筋肉がつきにくい体質に嫌でも苦労したのだ。背中に当たるあやめの硬い胸板や腹回りは、青年の劣等感を仄かにくすぐる。口調にも棘がついた。
「それだといけないの?」
「いけないっていうか、そういう自分の体は好きになれなくて」
「変なかあいこちゃん! ふにふにでもかちかちでも、かあいこちゃんはかあいいままなのに。なんにも変わんないよ。おれのかあいこちゃん」
青年を抱いたあやめの腕に力が入る。抱きしめられている、というより絞め落とされかけているといった圧迫感だった。
あやめの言葉で、何かが救われるような気はしない。けれど、青年はその毒にも薬にもならないあやめの体温に、幾度か励まされていた。平凡な自分もいいのだと、自分を許せる気持ちになる。
人魚──特にあやめの美醜感覚はよくわからない。
二人の間で他愛ない話が続いた。具体的な距離感は把握できなくとも、随分と遠くまで来たのではないかと思う。
肌を撫ぜる水圧が下へと変わり、海の抵抗を感じた。白かった海の色彩はいつの間にか深い紺青色に染まり、斜光も弱々しくなっている。まるで夜になりかけた空のようだ。
このまま深海まで行くのではという不安と、生身の体では到底辿り着けないであろう深さの景色に、青年はあやめの腕の中で落ち着きなく首を動かしていた。
彼方に大きな岩陰が見える。遠いのか近いのか判断しにくい。海の中で遠近はあまり当てにならなかった。
「あっ、着いた」
あやめの軽い声が聞こえると、途端に速度は緩やかなものになり、拘束されていた青年の体も解放される。青年はあやめの手だけは離さないように前を向いた。
氷河のように聳える岩壁の前。
そこに、一人、女の人魚があやめと青年を待っていた。
彼女は、二人に気づくや否やこちらまで泳いでくる。
あやめよりも大きな身長に、それと同じぐらいの長い白髪が美しい絹の波を作っていた。白魚の鱗、真白の肌、青く整った瞳はそれこそ人魚姫といったとて過言ではない。
青年はその巨大な桃源にすっかり頭を打たれてしまって、しばらく声すらまともに出せずにいた。
あやめと彼女の音楽のような会話を耳に流しながら、場違いな気まずさに青年はひたすら身の置き方を考える。誰も知らない親戚の集まりに放られた子供のようでもあった。
一通り事情を話し終えたのか、あやめの視線が青年に向く。青年はそれでようやっと息ができた。
「かあいこちゃん。これ、迷子のお母さん。おれのお友達」
「“これ”っ!? あ、いや、あの。えと、に、人間やらせてもらってます……」
とんでもない自己紹介をしてしまった。
青年は今すぐ墓を掘りたい気分になったが、白魚の彼女はというと柔らかい笑みを浮かべ、慇懃にお辞儀をするだけで、さして気にした様子は見受けられなかった。青年の言葉は彼女に通じていない。あやめが翻訳しない限りは漠然としか伝わらないようだった。
それは逆も然りで、青年も人魚の周波数は聞き取れない。
迷子になった子供の経緯を、あやめに説明してもらった。
「子供産んだお母さんは、子供と自分のためにご飯を獲ってこなくちゃだめなんだあ。その間て、お父さんが子供を大事大事にしなくちゃ、メッでしょ。だけど、これのお父さん、子供遊ばしたまま他のメスに媚びてたらしくて」
子供は、父親の目が離れているうちに、この岩壁の中にある洞窟に入って出てこれなくなってしまったらしい。
「なるほど」と言ってから、青年は眉を下げた。どこにでも救いようのないやつというのはいるものなのだなと思う。こういうとき、どんな反応を示してやるのが正解なのだろう。二十年も生きていない青年にはすぐに答えなど出てこなかった。
気休めにもならないかもしれない。それでも青年は不安そうにしている彼女に、ぐっと拳を作ってみせ、
「俺、必ずお子さんを見つけて連れてきますから。大丈夫です」そう、宣言した。
彼女はあやめの翻訳がなくとも、泣きそうに笑って青年の拳を握ってくれた。
「ウー、心配だよお……かあいこちゃん、……」
「あやめが待っててくれるんだから、平気」
「そおだけど、そおだけどね? おててバイバイしたくないよう」
「俺を信じて、あやめ」
「い……かあいいこは荼毘に伏せろってやつだ……」
「待って。“可愛い子には旅をさせよ”のこと? ちょっと使いどころ違うし、荼毘に伏せたら俺死んじゃうよ。どうして荼毘なんて言葉を覚えてるのに正しい方を覚えてないんだ」
あやめから額や頬にちゅっちゅらキスをされたあと、青年は出発した。
洞窟の入り口はほんとうに狭かった。人間でも力士や大柄な男なんかは通れないような空間だ。
ここを縄張りにしている人魚がいるらしく、そいつらが来たときのためにあやめたちは洞窟の外で待機している。
青年は岩の隆起した壁を手探りで掴みながら洞窟の奥へと体を滑らせていく。
あやめの瞳と同じ翡翠の色が一面に透き通っていた。洞窟の腹の中はどこまでもオパールみたいにつやつやと沸き立っていて、海に血が通っていたら、きっとこんな色なんだろうと思える。ここだけ違う惑星のようでもあった。
水底はくっきりと輝き、砂利や珊瑚の残骸も花畑のように照らされて見える。
洞窟の入り口から差し込む薄い斜光が青年の足跡代わりになった。
辺りを注視しながら、前へ、前へと潜っていく。
これだけ明瞭に周囲が見渡せるなら、迷子もそう時間を要さず見つけられるはずだ。青年は浅はかにそう安く見積もってしまった。
洞窟内部は奥に広かったのだ。いくら進んでも、一向に見つけられない。そして、奥に行くにつれ、魚の骨をよく見かけるようになった。肉も鱗も綺麗に取り除かれた骨が岩肌に引っかかっていたり、目の前を通りすぎていく。今のところ人骨は見かけていない。それだけが救いであった。
(……最悪な想像ばかりしてしまう)
もし、その子供が無事でなかったら。あの母親はいったいどうなってしまうんだろう。そんなことにはならない。そんなことにはならないと言い聞かせるけれど、自分がいい例外なのだ。まさか、修学旅行中に人魚に拉致されるなんて、誰も想像しないし、そんな馬鹿なことはないと思う。あのときの自分だって、現在のこの状況を想像できていたかと言われたら違うのだし。
どこまでも続く寂寥の色を結晶化させた青が、皮膚に沁みた。両親は今頃どうしているだろう。きっと心配している。母は泣いているかもしれない。親を悲しませることはしたくなかった。しばらく蓋をしていた寂しさが立ち昇る。
(だからこそ、せめてあのお母さんの悲しい顔は見たくない)
音の存在しない空間を慎重に進んでいく。空を歩いているような気分だった。海、というのは人間が触れられる唯一の星空なのかもしれない。どこまでも透き通った青の深奥に目を向ける。
極力、声は出さない方がいいらしい。ひどく臆病な子供なのだという。
岩壁に手をついたとき、その指先に何か花のようなものが揺らいでいるのを見る。
小さなひまわりにも似たそれは、イソギンチャクだった。
──イソギンチャクには毒がある。
青年は「うわッ!」と生理的な短い悲鳴をあげて、壁から手を離した。
幸い、イソギンチャクには触れていない。だが、目の前に差し迫った“毒”の存在は青年の心臓を窮地に追い込むに充分な威力を発していた。閉ざされた海の中で、今は一人だ。ここで何かあっても、あやめはこの洞窟の中には入れない。
ばくばくと心臓が肋骨を叩いている。使いものにならなさそうな自分の体から抜け出したがっている。青年は、胸を強く掴んでそれを抑え込んだ。
子供の生存率と自分自身の生存率が比例して下がっていっているような気がする。青年は短い呼吸を繰り返しながら、恐る恐る前に進む。
裸の岩壁を探って、ますます狭窄してくる奥を辿った。が、少しずつ、しかし顕著に岩肌の皮膚はイソギンチャクの触手に覆われ始めていく。
触れないように、触れないようにと緊張が増すたびに青年の酸素も薄くなっていった。
しかし、ついに、青年が掴めるような余白はどこにも見当たらなくなった。
ひまわり畑のように物憂げで悍ましいその群集は、底だけでなく、青年の前方から四方の岩壁にも咲かせている。軟体に蠢く花弁に、青年の肝が冷え上がった。
ここから先へは進めない──この先に行った子供は今頃、イソギンチャクの毒にでもやられて息絶えてしまっているかもしれない──。
汗をかけるような環境ではないのに、背に汗の伝う感覚が明瞭に手に取れた。
(一度……一度、引き返そう。そうした方がいい)
あやめたちに事情を説明して、対策を講じたあとでまたここに来た方がいい。……子供が生きているかもわからないのに? いったいどう伝えたらいいというのだろう。連れて帰ってくるなんて言っておいて、あやめの力にもなれない。
重い憂鬱を肩に乗せたまま、青年は踵を返そうとして、
「まま、……?」
そのか細い声を聞いた。
それがまるで銃声でもあったかのように振り返ると、イソギンチャクの群れの奥から、少女の人魚が小さく顔を出してるのが見えた。
今日ほど神と仏に感謝したことはない。青年は「よかった!」と声を出してしまいそうになるのをなんとか押し留めて、身振り手振りで少女に敵意がないことを示した。
「お母さん、待ってるよ」と伝わらなくとも小声で話しかける。
少女の肌はどこもかしこも真っ白で、白い髪も母親譲りなのだとわかる。見たところ大きな怪我もなさそうだった。
青年は優しく手を差し伸べて、少女の動向を辛抱強く見守る。青い瞳には安堵と不安がせめぎあっていた。その視線は自分の白い尾と青年の脚に注がれている。人間を見たのも初めてなのだろう。助けに来たのがせめて同族だったなら、少女だって安心できたはずだった。しかし、こればかりは仕方がない。
あの母親にそうしたように、青年は片手でガッツポーズをつくって笑ってみせた。
「大丈夫。一緒に帰ろう」
少女は膨らませた飴に触れるような手つきで、青年の手を握った。
体温を感じられて安心したのか、少女は途端に青年の腰にしがみついて離れようとしなかった。これで、もう、あとは帰るだけだ。
空気が抜けていくみたいに体が軽くなる。どうしてか鼻先が熱い。安堵か虚脱感か、今まで溜まっていた不安が一緒くたに同化して、少女が無事だったという事実に自分の境遇を重ねてしまう。青年は溢れそうになる涙に蓋をしつつ、壁を伝いはじめる。
「お父さんとさ、お話しして仲直りできるといいな」少女を不安にさせないよう、青年は当たり障りない話を続けた。“まま”と言っていたから、人間の言葉も通じるかと一縷の望みをかけてみたのだが、少女は執拗に後ろを気にするだけで、明確な反応が返ってくることはなかった。
青年の腰を掴んでいる少女の爪が少しずつ皮膚に食い込んでくる。
不安なのかと思って、青年は少女の頭を撫でたりしながら宥めたけれど、食い込んだ爪は一向に緩まらない。それどころか、少女は青年の体を強く揺さぶり始めた。
「なに? なにっ?」
洞窟の入り口から差し込む斜光だけを頼りにしていた青年は、その視界が揺れる衝撃に泡を食った。
危殆に迫ったといったふうに、泣きそうな顔をした少女が後ろを指差す。
青年は怪訝に眉を潜めて、後ろを見た。
二メートルほど離れた奥の方で、いくつもの黒い目がこちらを覗いていた。
四方の壁に張り付いているそれらは、下半身がタコのようなイソギンチャクの触手で、上半身は人間の生き物だった。目は洞穴のように真っ黒に窪んでいる。どこから湧いたのかもわからない、狭隘した一方通行の奥にその人型イソギンチャクはひしめき合って存在していた。
「アアーーッッ!!!!!!!! きもーーーーい゛ッッッッ!!!!!」
一拍の空白のあと、青年の絶叫が洞窟内部に響き渡る。
青年は少女の手を引き、イルカのごとく水を掻き分けて焦燥のままに出口へと進んだ。
それとともに後ろの得体のしれない人魚の群集もぞわぞわと蠢き、壁に這い回りながら二人を追跡する。
青年の中では恐ろしさより気持ち悪さが勝っていた。てけてけだとか、くねくねだとか、そういう類に似ていて気持ちが悪い。しかし、青年の脚力では怪異どころかいずれあの群集にも追いつかれてしまうだろう。
そう奥歯を噛み締めたとき、ぐんっと後ろから押されるような感覚がして景色が一気に進んだ。
腰にしがみついている少女を見てみると、少女は青年を支えるようにして尾鰭をばたつかせている。このスピードは、少女が出してくれているものだった。
振り向けば、付かず離れずの膠着した距離を保って岩壁を這いずる人型イソギンチャクの群れがいる。──いや、わずかに連中の方が速い。
青年が入ってきた出入り口はもうすぐそこだ。
「あやめーーッ!! あや、あやめッッ!! やばーーいッッッッ!!!!!」
青年は声の限りで叫んだ。緊急時にはそう叫べと言われているので。
あやめに助けを乞うことは神に祈るより実用的で堅実的だった。青い斜光が視界に広がる。狭い入り口の隙間からあやめの瞳が窺えた。
少女の胴体を掴んで青年はその子を引き上げた。二人でいっぺんに通れるような余白はない。少女は後顧を憂うようにして青年の方を向いたが、青年は首を振って少女を洞窟の切口へと押し込んだ。
真っ直ぐに整備された出入り口なら簡単に出られたろうが、峡谷のような凹凸のある岩壁では出るのに苦労する。時間は二人を待ってくれない。後ろから目と同じ真っ黒な口を大きく開いた無数の群れがうぞうぞと這い上がってくる。互いの距離はあと五メートルもなかった。
不意に、少女の体が軽く持ち上がる。白く細い腕が入り口から差し出され、少女の体を優しく掬っていた。
あの母親の腕だろう。塞がれていた斜光は少女の体が擦り抜けると共に、また開けていく。青年の心臓は安堵に弛んだ。それに続くようにして青年も岩壁を掴み、自分の体を持ち上げ、
──ガクンと、足首を掴まれた。
青年は咄嗟に壁の凹凸を掴んで体勢を保たせるが、一方的な綱引きに脚の皮膚が悲鳴をあげ始める。これ以上無力な踏ん張りを続けていたら、どこかしらが引きちぎれる。叫びたい衝動に駆られるけれど、ここで無駄な体力を消耗するわけにはいかなった。
今、ここで死んでも悔いは残らないだろう。誰かを救って、それを人生の履歴書の最後に書けるなら。それ以上恥も後悔も更新されることはなく、名誉だけが残り続ける。素晴らしい結末だ。結末……
(知らね〜ッッ!!!! 普通に死にたくねえ!!!! だって、だって、まだ海のことも色々知りたいし、俺が、俺が死んだらあやめはどうするの。もしかしたら死ぬかもしれない。こんなに可愛がられてる俺が死んだら、あまりの喪失感に後を追うか海の生き物全部殺してまわってしまうかもしれない……!)
青年は岩の窪みに爪を立てて天国への梯子のような斜光へと、抗うように腕を伸ばす。
「かあいこちゃんッ!!」
その手を掴んでくれるのは、いつだって神や仏などではなかった。
「……あやめ」
狭い岩壁を無理にこじ開けて入ってきたあやめの腕が、青年の手を掴んで勢いよく引き上げる。
グン、と視界が一気に広がって、青年の体は青い空間に放り出された。洞窟から釣り上げられた青年の体をあやめの両腕がしっかりと抱き留める。
あやめの肩越しに、同じく母親の両腕に抱き締められた少女と目があった。少女は笑って青年に手を振る。青年も瞼を弛ませて息を吐いた。
イソギンチャクの群れは洞窟からそれ以上は出られないようだった。けれど、そのうちの一人が、群れを掻き分けながら這い出てくる。
あやめは青年を後ろに庇い、溶岩のような殺意を漏らしたままその一人と対峙しようとしていた。青年はそんな彼の腕を引いて、制止する。
襲われそうになったことは事実だが、そもそも相手の縄張りに土足で足を踏み入れたのはこちらである。余所者を排除しようとするのは正当防衛としては正しい反応だ。穏便に済ませられるのなら、穏便に済ませたい。なにより、彼らには人間とは違う美しい言語があるのだから。
あからさまに嫌な顔をしたあやめが青年を見る。しかし、彼にしては珍しく、早々に折れて「わかったよう……」と言いながらその人型イソギンチャクの前に泳いでいった。
オルゴールのような音色があやめの喉から響き始める。相手の方は特になにも言ってはいないが、会話はできているようだった。
洞窟の隙間から黒い目が夥しく光っている。彼らの肌はてらついていて、病的に白い。胡粉を塗りたくったみたいだった。口を開かなければ、どこに口があるのかもわからない。地上にいる人間が見たら宇宙人と騒ぎ立てるに違いなかった。
青年は背後から恐々とあやめの顔を見る。
彼の表情は見たこともないぐらい穏やかだった。
菩薩のように健やかで、星人のように純粋な、事情を説明しているのであろう手振りは哲学を説いているようでもある。青年は、ただ、ただ驚嘆に口が塞がらずにいた。
やはり、平和的にやろうと思えばできるのだ。あやめは。これでもう、不必要な殺戮を見ないで済むかもしれない。肩の荷が下りるような心地だ。
あとは先方が許してくれれば大団円である。
そいつの顔には、しばらく黒い目だけが浮かんでいた。
けれど、あやめのオルゴールの声が止むや否や、考える素振りを示したあとで、そいつは黒い口角をあげ、あからさまに鼻で嗤ったのだった。こちらが下に出ているからこそできる横暴さだった。
あやめは微笑んでいた。微笑んだままだった。暴力なんて知りません、平和的に解決したいのです、みたいな顔をして、──
そのまま相手の顔を裏拳で撃った。
パァンッ! と水を打つような打撃音が海中に木霊し、一カメ、ニカメ、三カメぐらいのタイムラグが発生する。
「アーッッ!!! あやめーッ!?」
時間を正常に取り戻した青年が声をあげると、あやめ自身もまるで今意識を吹き返したかといったふうに、翡翠の目を白黒させていた。
「ハッ……おれ、おれ、なにを……」そう言いながら、握りしめた拳を緩めようとはしない。
「いや、穏便にって! 話し合いで解決しようって言ったじゃんか!」
殴られたそのイソギンチャクはすっかり気絶して、死体のように浮かんでいた。一発KOである。中途半端な暴力なら、きっと洞窟に棲まう連中も黙ってはいなかったろうが、圧倒的な力の差を目の前に、彼らはいくらか怖気てすらいた。そればかりが不幸中の幸いであったろうか。
あやめは初めて人を殺したような顔をして、
「でも、でもお……ころしてないよお……」
「途中まで良かったろ!」
「ええん……怒らないでえ……かあいこちゃ、だってねえ、だって、……」
しょもしょもと黒髪を揺らすあやめが、自分の拳を労るようにして撫でる。それがどうにも第二波の予備動作にしか見えなくて、青年は身構えてしまった。今に死体蹴りをしに行きそうだ。
「話が通じなかったんだあ。叩いたら通じるようになるかなあって、思てえ」
「それは根本的に言葉がわからなかったってこと?」その場合、あやめの赤ちゃん本能なら、肉体言語に走ってもまあ致し方なかったのかもしれない。
「ううん、おれのごめんなさいを受け入れてくれなかったから」
「殴っちゃだめだ……! 生き物を壊れかけのテレビみたいに扱っちゃだめでしょ……!」
「ごむぇんなさあい、かあいこちゃん」
「俺に謝るんじゃなくて、せめて彼らに謝るの」
「え? やだ」
「やだ!?」
「謝るつもりで叩いたりしないもん」
「あ、でもお片付けはするね」とあやめは浮遊していたそいつの触手を掴んで、洞窟の隙間へと強引に押し込みに行った。
あまりに教育によろしくない光景である。少女がこの有様を見ていないことを祈って、青年は眉を下げながら振り向いた。
不安そうだった少女は母親の腕の中できゃいきゃい笑いながら一部始終をしっかり見ていた。それどころか、母親も職場体験を見せているように微笑んで少女をあやしている。
青年は忘れかけていた根本的な違いを思い出した。
「まあ……恐竜と人間の常識は違うもんな……」
◻︎
力技という和解をして、青年たちは彼らの縄張り外まで泳いでいく。
少女は母親と、青年はあやめと手を繋ぐ。あやめの腕は洞窟に手を入れたときに擦り剥いてしまったのか、あちこちに傷ができていた。
なんとなく、申し訳ない気持ちになった。あやめは助けてくれたのに、自分は彼を叱ってしまったから。彼女たちもこのあと、父親と話し合いでもするのだろう。青年も早くあやめに謝ってしまいたかった。彼は気にしていないだろうけど、自覚した罪悪感を自分だけが抱えていくのは消えないタトゥーを彫ってしまったようで、あまりに重い。
少女たちと家は違う方向だった。
分岐点らしきところで双方が動きを止めると、母親の方が青年の体を優しく抱き寄せる。大きな腕、真綿の体が青年を迎えた。彼女の喉元でハープを弾くような音が聞こえる。
「あっ、わ、あの」
「ありがとおって、言ってる」そばにいるあやめが翻訳してくれる。
「えっ、あ。いや、そんな、俺はお手伝いをしただけで……」
青年の言葉を、あやめがまた翻訳して彼女に伝えてくれる。彼女の腕の中は、“母親”の体温だった。この温度を青年は痛いほどに知っている。今まで、思い出すことをしなかった。思い出したら、なにかが自分の中で切れてしまいそうな気がして。
(……母さん)
高校に上がってからはそんなことは気恥ずかしくてできなかったけれど、母親はどんな些細なことでも青年が「頑張った」と言えば、必ず抱きしめてくれる人だった。優しく、包むように、願うように。
心臓の糸が勝手に緩んでいく。抱きしめられているせいで、その糸を結び直すこともできない。涙を飲み込んでも、それは後ろに流れて、どうあっても体の外から出たがった。膿んだ熱を啜って、今度こそ鳩尾に押し込む。
三分と経たないうちに彼女の腕から解放されて、入れ替わりに青年の胸元へ飛び込んできたのは少女だった。
赤くなった鼻を見られやしないかと青年はわずかに顔を背けたが、少女は気にせず、青年の頬へと小さな唇を押し付けた。
「あ゛ッッ!!!? それはだめっっ!!」
そう叫んだあやめの手によって、少女は青年から引き剥がされた。少女は不服そうにしているが、母親の方は嫌な顔をすることもなく麗らかに笑うだけだった。
青年の顔周りには膜が張ってあり、頬にはなんの感触もなかったのだが、そういう問題でもないらしい。あやめは喉を唸らせて少女になにか言っていた。青年には聞き取れないけれど、大人気ない様子は見て取れた。
最後に軽い礼をしたあと、母親と少女はまた一緒に手を繋いで青の果てへと泳いでいった。振り返ることもなく、まっすぐ。
この広大な海で彼女たちと再会できる確率はいかほどだろう。願わくば、少女が健康に育って、海の片隅にでも自分を思い出してくれたなら嬉しい。
透明度が高いようでいて、彼女たちの姿はあっという間に青い霞に覆われて消えていった。
「……あやめ」
「うん? なあに、かあいこちゃん」
「あの、ごめん……さっき怒っちゃって」
青年はあやめの腕の体温を感じながら、そう口にこぼした。
あやめは「ええっ?」と素っ頓狂な声を肺に震わせる。案の定、大して気にしてもいなかったようだった。
「それで落ち込んでたのお? えーっ! かあいい! 怒ってても落ち込んでもこんなにかあいいのどおしてえっ?
「いや……だって、あやめ、助けてくれたのになあって思って」
「かあいこちゃん助けるのは、息吸って吐くのとおんなじよ。頑張ったのはかあいこちゃんなんだから、もっと鏖殺振るっていいのにぃ」
「もしかしてだけど、鏖殺って“王笏”のこと?」
「そお!」
「難しい言葉を物騒に覚えるのどうして……」
虚になりそうな青年の体を、あやめはぎゅっ、ぎゅっと抱きしめる。そうして、頭をもちもち撫でるのだ。その手つきは母の優しさとは到底かけ離れた粗雑さであったけれど、伝播される愛情だけは全く同じだった。転がされるようにひとしきり撫でられると、ホームシック気味だった心も払拭されていく。
「帰ろうか」とどちらからともなく言って、青年はあやめに抱えられたまま帰路についた。
生暖かい水温が肌を這っていく。早朝より確実に外の気温が上がっている。今は昼過ぎぐらいだろうか。あやめも泳ぎながら「あちちねー」とぼやいていた。あの親子も暑さには弱いのかもしれない。せめて、自分のテラリウムの場所だけでも教えてやればよかった。
「あの親子、お父さんとどうすんだろうね。別れちゃうのかな」
「お? おとうさん?」あやめは不意を突かれたような声を出した。
「今日だってさ、本当なら一番あの場所にいるべき立場じゃん。ほんと、どうしようもない父親なんだなって。奥さんも子供もいるのに、大事な子供の面倒見ないで、他の女の人魚にうつつを抜かして……」
「うんー、だからとっくに喰われてると思うけど」
青年の思考が止まる。憤りでもなんでもない困惑が、眉間の皺に混ざった。
“喰われた”? 誰が? 誰に?
疑問がそのまま口に出る。「喰われた? 誰が? 誰に?」
「え、だからあ、その父親が、あの母親に」
「は?」
「え?」
「じ、じゃ、なに? もう父親死んでるの? なんで喰うの?」
「母親は子供のお世話もしなくちゃいけないし、子供のためにご飯もたくさん獲ってこなくちゃいけなし、とにかくいっぱいいっぱい大変なんだよお。栄養とらなきゃ死んじゃう」
「うん」
「でもさあ、わざわざ獲ってこなくても、一番栄養のあるお肉って隣にいるでしょ?」
「……うん?」
「使えない番のオスは子供と母親のご飯になるしかできなくない? 番は、一緒に協力して生きていける唯一のお友達だから生かしておくんであって、それができなきゃただのお肉だよお」
人権がない。
いや、人魚に人権やら法律があっても驚いてしまうし、そんなものがあれば青年だって今頃地上に戻れていたはずだ。
「ふうん、なるほどね」とわかったようなフリをして青年は震えた。これは逆でも通用するらしく、母親が育児を放棄した場合、父親に育てる意思があれば、父親の方がネグレクトした母親を喰うのだそう。
あの少女に言葉が通じなくてよかった。
青年は『お父さんとさ、お話しして仲直りできるといいな』なんて無知で残酷なことを少女に言っていたことになる。恥ずかしさとやるせなさで胃が痛くなった。
しかしそういう共食いも、人魚の常識の一つなのだろう。あやめはさして珍しくもないように語って、今も話題を引き延ばそうとはしなかった。
「あ、あの。俺、番じゃないけど……あんまりあやめの役に立ってないよな……」
気が気でなかったのは青年である。
自分の立ち位置は未だイレギュラーな方だ。どの段階で、どの境界線であやめのエサになってしまうかわからない。自分の身を守るためにも、知っておくべきラインだった。
瞳の中に走る亀裂がさらに裂けるんじゃないかというほど目を見開かせて、あやめは青年の両脇を掴み、泳いだまま高い高いするようにして青年を持ち上げた。
「かあいこちゃんは、“かあいい”てお仕事をお休みしないでしてるんだよお! これ以上なにするの? かあいこちゃん、かろうししちゃう。おれはずっとうれしけど、たまにはかあいこちゃんも、かあいいを休んでもいいんだよお」
青年はにわかに言葉を失ってしまった。
虹を塗るように笑うあやめの声に揶揄の香りはない。彼は心の底から青年が“可愛い”で構築されていると思っている。自分のために可愛くしてくれているんだと、本気で思っている。人間をそういう生き物だと認識しているのか、青年だけを可愛く思っているのかはわからないが、とにかく青年はこのままで問題ないらしかった。
次になにを言ったらいいのか、言葉に迷う。サンタの存在を信じている子供に、サンタについて説明を促される心境に似ていた。下手なことは言えない。
「じゃあ、たまに休ませてもらおうかな、……」
「ん!!」
あやめはくしゃっと顔の皺を縮ませると、青年を引き寄せて定位置の胸元に抱いた。この返答で正解だったらしい。
「あ、でもお休みするとき言ってね! かあいくないかあいこちゃんのこと、しっかり見たいから! ね! お約束して」
「……うーん」
青年は絶妙に微妙な顔をして頷いた。
テラリウムに集まってくる人魚の顔ぶれは今日も変わらない。涼しさを求めて、そして青年を可愛がるために彼らは薄い膜にべったりと張りつく。
青年の目線にくるところと、テラリウムの天井が主に人魚たちにとっての特等席らしい。先着順でその席は決まる。少し前まではセール時間になったスーパーのような特等席争奪戦が行われていたけれど、ここ最近、人魚たちは暗黙の了解で特等席を空けておくようにしている。
「こんにちは、お母さん元気にしてる?」
「こ。こに、こにちぱ」
たった一人、真っ白な髪をたなびかせる少女のために。
あの白い少女は──誰から聞いたのか──助けた翌日から青年のテラリウムに通うようになったのだ。
頑張って人間の言葉も練習しているようで、青年は簡単な言葉を少女に教えてあげていた。
人魚たちにも“大人気”というのがあるのか、最近ではそんな二人のために特等席を譲っているというわけだった。
少女は青年の顔を盗み見るたびに白い顔を赤く染め上げる。海中に揺らぐ白髪を一生懸命に梳かして、鱗の汚れを落とし、青年の前では最高にいい女の子であろうとした。
夏の透明な日差しを浴びながら、少女の元には青い春がおとずれている。
人間の王子に恋をした人魚姫のように、少女にとっての王子は青年であったのだ。幸いにも王子様は地上ではなく、自分たちの棲家である海にいて、声を奪われることも、泡になって消えることもない。少女の将来の夢は、青年のお姫様になることだった。
「ん゛あ゛アッ!! かあいこちゃんのとこで何してんのッッ!!!! 散れッ!!!!」
あやめが来るまでの短い逢瀬に、少女は他の人魚と同じくあやめに文句を言って去っていく。「ばい、ばい」と青年には小さく手を振って、なにも知らない青年は純粋に手を振りかえす。その所作一つで一人の少女がどれだけ湧き上がっているかなど知らずに。
あやめだけが少女の春に気づいていた。
「かあいこちゃん、あのガキ出禁にしようよぅ……」
「ガキとか言わない!! 可愛い子だろ、あんなに必死に言葉を覚えようとしてくれてさ。あやめみたいに一生懸命な子だ」
「そんっ……んも〜……かあいい、かあいいねえ。かあいこちゃん」
「ところで、あれ持ってきてくれた?」
青年がそう尋ねると、あやめはテラリウムの中に上半身だけを突き出して、水疱の膜に包んであったバニラアイスのカップを二つほど差し出した。
少女を助けた日、青年はあやめに頑張ったご褒美を訊かれて、アイスの存在を教えたのだ。あやめは最初こそアイスというスイーツを訝しげに貰ってきたけれど、今やすっかり暑い日には二人でバニラアイスを食べるようになっている。
かちかちに凍ったバニラの側面をプラスチックのスプーンで地道に削りながら、青年もあやめも舌いっぱいにアイスを頬張る。海の中というのがいいスパイスになっているのか、バニラアイスはほのかに塩っ気が混じるようで、これがまたおいしい。
温かい羽毛布団を手繰り寄せ、扇風機を惜しみなく回し、冷たいバニラのじゅわっと溶ける感触と優しい甘さを舌の上で踊らせる。とんでもない贅沢をしている気分だ。
「かあいこちゃ、あーん」
「同じ味なのに……」
アイスを乗せたスプーンが青年の唇に押しつけられる。青年はわずかに眉間の皺を寄せつつも、渋々口をあけた。あやめはいつもこれを嬉しがる。
「うまあ!」
「美味しいね、あやめ」
「かあいこちゃんに似て、おいし!!」
「俺はアイスじゃないからね、やめてね」
バニラアイスをこんなに美味しそうに食べる人魚もそういないだろう。今度はラーメンが食えますように、青年はそう願って夏の汗みたいな青い海面を見上げた。
────人魚に飼われて、もうすぐ一年と五ヶ月が経つ。
夜になると、鯨とイルカの声が聞こえてくる。イルカの子供と鯨の子供が友達になったのだそうだ。最近は子守唄ではなく、夜更かしのセッションが海中に木霊していた。風鈴よりも伸びていて、残響は深く残る。
あやめと青年はその音楽をバニラアイスにトッピングして同じように夜更かしをする。
真夜中のアイスは深海にも似た、特別な味がするのだ。




