青年と海月
人魚に監禁されてから、もうすぐ一年と三ヶ月が経つ。
海面には粉雪のように白い、小さな粒がいくつも漂っていた。陽の光を凍らせていた薄氷もすっかり溶けきって、海中の水温は長閑に弛んでいる。
「かあいこちゃん、見て。見て、ひらひらいっぱい取ってきちゃたあ」
片方しかない尾鰭を揺らしながら鋸歯状の歯を覗かせる人魚が、青年の飼い主であった。
人魚の名を、「あやめ」という。
かつて、凡庸な人生を順調に歩んできた青年は、高校最後の修学旅行でこの人魚に海中へと拉致され──前後の記憶はまったくないが──それ以降薄い膜の張ったテラリウムで毎日を謳歌している。
あやめはテラリウムの前までやってくると囲っていた両手をほどいた。古傷だらけの掌から、海面に浮かんでいた白い紙屑みたいなものがふんわりと浮かんで舞う。
青年はテラリウムに敷き詰められた布団を避けながら、その光景を指先で辿る。
「花弁かな……桜に似てる」
「さくら」
──花。植物を見たのは、なんとも一年ぶりだ。
ここは海中であり、糅てて加えて地上までは到底辿りつけないところにある。食料や生活必需品などはあやめに頼めばある程度は調達してもらえるが、地上で気軽に見られるようなものとはだいぶ縁遠くなってしまった。
恋しくないと言えば嘘になるかもしれない。けれど、海中にはそれ以上の色彩が四季に関係なく咲き誇っている。退屈することはないのだ。
特に、この人魚と暮らしていれば。
「かあいこちゃん、ひらひらお好き? もっとひらひらしたの、ある。見せたげるね」
あやめはナイフを無作為に刺して抜いたあとのような瞳孔を細長く収縮させて、偶然通りかかったウミウシを素早く鷲掴んだ。
突然の奇襲に、ウミウシの柔らかい背が弓形に反り上がる。絶叫が聞こえてきそうだった。
自分が掴まれたわけでもないのに、青年の心臓はウミウシと同じぐらいに血管を縮めていた。かろうじて笑顔は保ったまま、背中に嫌な汗が滲む。
「ぁッ……わ、あ……ほんとだ、ひらひらしてる……」
「んね! かあいいねえ、──」あやめは、ウミウシの目だか触手だかわからない部分を恍惚に覗いていた。
彼は、かわいいものが好きだった。小さかったり、柔らかいものだったり、カラフルなもの、弱いものだったり、とにかく世に生きる全ての“かわいい”を愛しているのだ。
しかし、それがどれだけ可愛くとも、食えるものなら普通に喰らうし、遊べそうなら平気で甚振るようにおもちゃにもする。それが、あやめという人魚である。
青年は焦った。あやめの翡翠の目に凝視され、青いドレスの柔らかい襞をくねらせながら身悶えしているウミウシは、まさしく命旦夕に迫っている。
あやめが可愛いと思うものは、青年も愛らしく好ましく共感することが多い。だが、青年はあやめと違い、可愛いと思う生き物を食い荒らしたり虐めたりはしない。
あやめの鋭い歯が覗き始める。
「待って!」青年は反射的に声を上げた。
どこを見ているのだかわからない瞳孔が夥しく青年に向く。
「どしたの、かあいこちゃん」
「あ、いや。その、なんだろう……」
青年は勢いを失くして、わずかに口籠った。
まだ堂々と「食ったらかわいそうだろ!」 「せめて俺がいないとこで食べてよ」と言えない。それほど肝は据わってはいないが、この一年で青年はあやめにいっとう可愛がられている自信だけはついてきた。
ウミウシは今こそ千載一遇のチャンスだと言わんばかりに身を捩らせている。無論、大して状況は変わっていないし、それどころか、あやめの手はますます強くウミウシの軟体を掴んで潰さんばかりであった。
短い黒髪の毛先を無意味にいじりながら、青年は目をハの字に垂らして弱々しく口を開いた。
「俺はその……ひらひらが泳いでるところが見たいなあ」
あやめはその整った美貌を固まらせて、青年をぱっくり見つめた。
この、採点されている間のような緊張感はいつも青年の胃を痛ませる。……もう一押し必要そうだ。
「あやめ」そう念を押してみると、あやめの顔が幾許か寂しそうに揺れた。
「うん……いいよお……」
内臓が飛び出そうなほど握りしめられていたウミウシがようやく解放される。
ウミウシは蛍光色の花びらを弛ませて、脱兎のごとく逃げ帰った。そのさまを青年は大きな安堵ともに見送る。ただ、今度はあやめが肩を窄ませ、眉を下げていじけていた。
発達した筋肉のしなやかな体も、背が丸まると途端に小さく見えてくる。あやめは肉感のある赤と膿んだ紫の尾を三角に折り畳んで、たった一枚の尾鰭をそよがせている。
飼い犬が具合の悪い主人に寄り添うように、青年も黙ったままテラリウムの薄い膜のそばに寄った。あやめは青年が近づいてきてくれたことにうっかり喜色を滲ませたが、それも取り繕うようにしてすぐさま寒色へと沈んでいく。
「……かあいこちゃん、ひらひら、お好きね?」
静寂に根負けしたあやめの口が開かれる。
「綺麗だとは思うよ」青年も慎重に言葉を選んだ。「一番好きというわけでもないけど」
うん、と言ってあやめは尾に額を擦りつける。少女がスカートの裾を握り締めるようなしおらしさだ。ぼそぼそとくぐもった声が聞こえてくる。
「おれ……おれの尾……ひらひら、一枚ないないでしょ」
「そんな、気にするもんか。あやめの尾鰭は綺麗だよ」
本当のことではあった。青年は、その古傷だらけの赤い鱗を化石のように美しく想っていた。彼の赤い尾は地上では決してお目にかかることのできない芸術で、神秘である。
あやめは埋めていた顔をあげて、青年を見た。瞳孔の黒い裂け目にほのかな希望がさしている。
「ほんとう?」
「俺は君に嘘なんてつかないよ」
「好きでいてくれる? おれのこと、──」
「もちろん」
──いや、こればかりはわからない。青年は今でも、何か逃げられる隙やチャンスがあるならそれを掴むつもりでいる。あのウミウシのように。
たった一つ、逃げおおせたウミウシと違うのは、
「おれも、ずっと、かあいこちゃんのこと好き。ね、おれといっしょ、いてね」
海中では、青年に蜘蛛の糸を垂らしてくれる“誰か”などいないということだ。
人魚と青年の、深く、青い監禁生活が今日も始まる。
◻︎
半径五メートルの透き通った空間。それが、青年の住まう海の全てだ。
それ以上歩き回ることもできないし、せいぜい短いシャトルランができるかどうかというところだった。
齢十八、今年で十九、まだ若い体に窮屈な空間はやはり相応の運動をしていないと、ストレスもフラストレーションも溜まる。
ということで、専ら、青年のここ最近の日課といえば筋トレであった。
中学、高校と青年は弓道部に所属していたので、簡単な体幹や新陳代謝を上げる筋トレは習っている。青年は、あやめがいない昼間と時間の隙間を縫ってコツコツと筋トレに励んだ。
強制されてやるのと、自主的にやるのでは継続力に懸念が生じたが、意外にも、習慣づくまでに続けられている。八割方、外野で青年を応援してくれている他の人魚たちのおかげである。
最初こそ、人目のあるところでトレーニングすることの恥ずかしさは付き纏った。けれど、この声援はさながら自分がアイドルになったかのような錯覚を連れてきてくれるものだったのだ。
腕立て一回につき黄色い歓声が飛び、スクワット一回につき赤い歓声も飛ぶ。
とびきりうつくしいお姉さんやお兄さんたちが、ちやほやしてくれる。
筋トレが終われば、スケートリンクに投げられるぬいぐるみや花束といった風に、色とりどりの海藻、綺麗な小瓶などがテラリウムの周りに巻かれていった。
健康的な体は維持できている。あやめという人魚の相手は精神を減らすが、心の余裕は充分にある。他の人魚とも──言語はわからないが──打ち解けつつある。
一年という歳月で、青年は半径五メートルの監獄に順応し始めていた。
つまりは、飽きてきたのである。
せっかく広大な海中にいるのに、自分が見聞きできる景色はこの変わらないテラリウムの世界のみ。深い沈みがあるならそこに行ってみたいと思うし、珊瑚礁の綺麗な場所があるなら見てみたい。アジの大群や鯨の親子にも会ってみたかった。
青年の精神は、元来、ダイヤモンドできている。一方向からの衝撃には弱いが、それ以外の衝撃には存外耐えてみせる。ただでは転ばない。地上に逃げる前に必ずや、新種の魚の一匹や二匹は見つけてやろうと思っていた。
「じゃあ、かあいこちゃん、お仕事行てくるね。良い子、良い子。夜ごはんも、持てくるから」
そのためには、一方向──あやめからの──の衝撃に耐えねばならなかった。
大きな接吻を投げてくるあやめに手を振りつつ、青年は爆発しそうな緊張に胸をおさえた。
(今日。今日、言ってやるって決めたろ。今しかない、あやめが行ってしまう前に)
あやめは昼頃になると必ず“仕事”だと言って夕方までどこかに出掛けていく。仕事についてはなにも教えてはくれない。聞いても大抵はぐらかされるか、散歩だと言われてしまうことがほとんどだ。
この、あやめが仕事に行かなければならない状況が一番の好機だと思った。
赤い尾がゆっくりと翻る。青年はあやめに頼んで買ってもらったパーカーの裾を握りしめて、焦燥と手汗を服の繊維に染み込ませる。
(────言え!)
「あ。あや、あやめ」
「ん? なあに」
あやめはすぐに振り向いて青年のいるテラリウムまで戻ってきた。薄い膜に両手を添えて、子供をあやすように青年の顔を覗き込む。
遠くでは海面に降り注ぐ斜光がカーテンのように揺らいでいる。
「大したことじゃないんだけど」
「寂しくなっちゃた?」
「いや……」
視線を泳がせた先で、あやめの鋭い爪を見る。途端に、青年の心臓はギュッと嫌な音を立てる。見てはいけない。高いところに自ら登ったなら下を見てはいけない。
青年は腹を決めて顔を上げた。
「俺、あやめと二人で海を散歩したいんだけど」
思ったより腹から声が響いた。粗相をしたような羞恥心がじんわりと頬を熱くさせるが、今はすっと黙ってしまったあやめに注意が向く。
しかし、予想していた恐怖は訪れなかった。
元々大きめであったあやめの瞼が、ますますその視野を広げていく。波紋が波打つ間隔で、あやめの顔は青年よりも真っ赤な血色を帯びていった。その頬を見られたくないのか、あやめは両手で頬を覆い、軽く俯く。
まるでラブレターを初めてもらった思春期の子供のようだ。
青年も無意識に口を半開いたままなにも言えなくなってしまった。
「あ、えと。そ、それってえ、おれとかあいこちゃん、二人だけで、いいの、……」
あやめの小汗をかくような声に青年は慌てて頷いた。「そう。そうだけど、だめかな」
赤黒いエラの見え隠れする首が大袈裟に横へと振られる。嫌がられてはいないし、この反応は見る限り肯定的だ。青年は今度こそ確信を持って胸を撫で下ろした。
「あし、明日っ!」
あやめの赤くなった顔が勃然と勢いよく上げられる。
「えっ」
「明日、行こ!」
「明日? 良いけど……準備、ほら水着とか、酸素とか、あの」
「だいじぶ、明日、ね! 明日行こね! やくそくっ」
そう言い残すや否や、あやめは騎虎の速さでテラリウムから離れていった。あと少しで見えなくなるというところで尾を止め、肩を縮めながら青年の方へと振り向く。そうして、小さく手を振ったかと思うと、あっという間に深い夜のような群青色へ溶けていってしまった。
青年は振りかけた手を下ろして、枝垂れる虚脱感にグッタリと座り込んだ。ふわふわの布団が青年の尾骶骨を支える。どういうわけだかわからないが、上手く伝えられた。怒らせることもなく、殺されることもなく────。
(でも、あんなに嬉しがることなのか?)
考えても仕方ない。ここから出られる一歩が見出せたなら輝かしい成果だ。……明日、溺死しなければの話だが。
問題ないような口振りであったけれど、あやめが人間の脆さをどれほど理解しているかは測れない。酸素がなければ人間は死ぬし、服のまま海水にいれば遅かれ早かれ体力が尽きて泳げなくなる。
明日、生き延びられるか、死ぬか。それ以外のレールはない。だが、命を賭けなければ自分の人生はこの半径五メートルで終わる。それなら、まだ博打でもして盛り上げた方が生きている甲斐があるというものだ。今頃、青年の人生担当である実況と解説者は大いに観客を沸かせていることだろう。
波風のない人生を送るつもりだった。彩度もコントラストも薄い、しかしきちんと幸福と呼べるような人生を歩めたらそれでいいと思っていた。
青年は柔らかい羽毛布団に身を埋める。今日ぐらいは筋トレも休んでいい気がしている。ちょうど、腕も筋肉痛で休みたいと言っているようだし。青年はゆっくりと瞼を閉じた。
いつものように他の人魚たちが青年の様子を見守りにくる。
その日は、歓声ではなく、静かな歌がテラリウムに響いていた。
◻︎
「かあいこちゃん。これ、お着替えして」
翌日、体感早朝の六時。青年はあやめに起こされた。
白っぽく、霞がかった海中を見渡して、青年はテラリウムに入ってきたあやめの腕から黒い服のようなものを受け取った。脳がシャッキリとしない。目をしばたたかせながら、腕を引っ込めたあやめを見る。
あやめは昨日の機嫌が嘘であったかのようにどこか浮かない顔つきをしていた。手指を揉んで、やましそうでもある。
不思議に思いながら服を広げてみると、それは上等なウェットスーツだった。
青年の眠気は軽く吹き飛んで、その丈夫な肌触りとサイズ感を手に馴染ませる。
「これ、これを、くれるの」
あやめはもにもに口を歪めながら控えめに頷く。「……うん、……」
実のところ、青年はもっとえげつない水着を贈られるのではと心配していた。まさか、こんなしっかりしたものをもらえるとは。
寝巻きのシャツを脱ぎながら、一向に表情の晴れないあやめを横目で窺う。こういう時は、おそらく黙っているより聞いた方が早い。
「どうしたの、嫌なことあった?」
「……ん」あやめは赤い鱗を爪で弄って俯いた。「ごめんね、かあいこちゃん」
先に謝られても困ってしまう。青年はいい報告か悪い報告か、悪い報告ならその深さはどれくらいなのか考えていた。あやめの伏せられた瞼が見える。素肌を晒した上半身がひんやりする。
「なにがあったんだ。言ってくれなきゃ、わからないよ」
「……今日、お仕事入っちゃって」
「え。お仕事、……」
「お昼までしか、一緒にいれなくなっちゃた……」
ごめんね、とあやめは背を丸くさせる。青年はそんな彼の横顔を眺めながら、ズボンを脱ぐ手を止めた。
仕事。彼の仕事を、青年はまだ知らない。知りたくても、知れない。だが、仕事が入ったからといってあやめは今日の予定を変えようとはしなかった。ということは、優先順位としてまだ青年が仕事よりも勝っている可能性が高い。
(これは、“いける”かもしれない!)
青年は気にしていないような素振りを見せながら、着替えを再開した。
「そっか。あのさ、たとえばなんだけど、あやめのお仕事に俺がついて行くっていうのは迷惑かな」
あやめの顔がぱっと上がる。観心半分、困惑半分の表情であった。青年は、その顔を視界にとらえて、地に足がつくような手応えを覚える。
難なく着られたウェットスーツは不思議と肌に馴染み、サイズも吸い付くようにピッタリだった。着替え終えた後は、スーツの前に届けられた塩とそぼろのおにぎりを口に入れる。そろそろ麺類が食べたくなってくる。
青年は横目であやめの様子を見た。彼は指先を揉みながら逡巡している。
焦るな、焦るな。そう自分に言い聞かせる。
「おれのお仕事、ちょと、あぶないから」と、不意にあやめが小さく呟く。
そんなことは重々承知である。このイカれ人魚が優雅にプランクトンの世話をしているだなんて、青年は一ミクロンも思わない。けれど、危ないという、その震度がどのくらいかまでは想像ができないでいた。青年の小さな心臓がわずかに二の足を踏む。
しかし、ここまできて危険もなにもなかった。今は、あやめという人魚を知ることが先決だ。青年は好奇心の奴隷になっていた。
「足は引っ張らないようにするし、邪魔もしないよ」
「んん……でも、でも、かあいこちゃんに怖い怖いされちゃうの、いやだな」
「怖がらない」あともう少し。青年は薄い膜に近寄った。「あやめのこと、もっと知りたいんだよ。お願い」
「お。う。そ、そなのお……?」
「あやめ」
飼い主が子犬のおねだりに耐えられないように、あやめも青年からのおねだりには滅法弱かった。彼は木苺でも食べたみたいに酸っぱく口と瞼を閉じると、昨日と同じように顔をぽんぽん赤くさせて緩慢な動作で頷いた。
青年の押し勝ちである。
あやめは前髪を手櫛で整え、テラリウムの薄い膜に両手を差し入れた。破れないシャボン玉といったふうに、この薄い膜は自在にものを入れることができ、海水の侵入は許さない。
「かあいこちゃん、こち、おいで」
青年は広げられた長い手指を懐疑的に見たあとで、足先から少しずつあやめの手に近づいていった。彼の人差し指が鼻先に触れるかというところで「そこでいいよお」と言われる。
言われたとおりに歩を止めると、あやめの両手の指先に気泡が集まってきた。それらは一つ、また一つと融合され人の頭ほどの大きさに膨張していく。
気泡は青年の顔から頭までを包み込んだ。
「うわっ、あ、っ!」
気泡の中に水が入っている先入観でいたせいか、青年は文字どおりに泡を食って顔を手で掻いた。気泡は顔の皮膚を隙間なく透明に覆っている。それはテラリウムと同じく、呼吸のできるヘルメットのようであった。
自分の頬に触れてみるとなんとなく弾力があった。
「え……? なに、これ」
青年が困惑を隠せないでいると、あやめは手を引っ込めずに小さく手招く。
「それで、息、できる。かあいこちゃん、おれとおてて繋ぎましょ」
半信半疑ではあるが、青年は恐々とあやめの骨張って引き攣れた手を掴んだ。氷に触れたのかと思うぐらいに冷たかった。
その感触にまごつく暇もなく、手指を強く握り返される。あやめは埃っぽいような、控えめな笑みを弛ませた。
「あぶないになったら、おれが、ちゃんとかあいこちゃんを食べたげるからね」
「俺が食われるの? 嘘でしょ?」
人魚に拉致されて一年と三ヶ月。
社交ダンスの引力で、青年は初めてテラリウムの外へと出た。
◻︎
海中は、それほど冷たくはなかった。
六月初めのプール、外より水の中の方がまだ温かく感じる。あの心地良さを思い出す。
左手に繋がれているあやめの掌の方が、よほど凍えていた。
あやめは、あれから機嫌の温度を少しずつ上昇させ、今は引き締めきれない頬を湛えたまま青年の手を優しく引いて海の中を誘導している。全長三メートル以上もある彼の隣で泳いでいると、自分がコバンザメにでもなったかのようだった。
(てっきり、首輪やリードやそういうので拘束されるかと思ってたんだけど)
水中を掻くと、小さなあぶくが生まれてその軌跡を残す。ビビットカラーをこさえた小魚たちが優雅に青年の横を通り抜けて、深みのある青へと進めば進むほど、青い洞窟は宇宙のように広がっていった。
上を見上げれば、痛くもない斜光が海面に反射しているのが見える。
こぽ、こぽ、と鼓膜の奥で酸素と波の音がこもって聞こえる。
────今、この手を振り切れば、自分は助かる。
茫然とした思考が青年の脳に──蜘蛛の糸が垂らされるが如く──掠めた。海中には天国の橋にも似た光が揺らいでいる。
青年の血液が助走をつけて急いてくる。心臓の音が──思考が、繋いだ手から伝播されやしないかと不安になって、青年は盗むようにしてあやめの横顔を見る。
「……あやめ?」
とうの人魚は、顔をゆでだこにしてガチガチに体を固めていた。
「あやめ」
二度目の点呼であやめは肩を大きく弾ませて、「アッ! え。えへ。なあに、かあいこちゃん」と裏声混じりで返事をする。
視線もろくすっぽ合わず、あやめは目を細めながら笑った。青年もなんだかウブな心地になって、先ほどまで考えていた逃避が霞んでいくのを感じていた。手を振り解けない。確かな罪悪感が青年の手枷になっていた。
「ずっと静かにして、どうしたのさ」
「あ。う、いや。あの、あのね、……」
「うん」
「ウ、うれし、うれしくてえ……」
そう言って、肩を縮こまらせたあやめの真っ白な純朴さに、青年の頭の中もまっさらになった。
「嬉しい?」小さく反芻したつもりの声も、広大な海の静寂ではよく透き通って響く。あやめは首をさらに縮めて頷いた。光を反射するあやめの赤い鱗は、よく見てみれば、普段より綺麗になっている。彼は、今日という日を花束にでもしたいようだった。
手汗の代わりに、繋いだ掌の隙間からは小さな酸素がそよそよと浮かんでいく。
二人はもう、波の動きに翻弄されないところまで来ていた。
地上は遥か彼方にあった。地球と太陽の距離ほど離れているようにも思われる。これから逃げても、あやめなら一瞬で追いついてしまうだろう。
あやめはそれ以上伸びようのない前髪で目元を隠そうとしながら、今度は沈黙を破ることに専念し始める。
「かあいこちゃ……人間は、だいすきってなると、だいすきって人間と二人でお出かけしたくなるて聞いたよ。知ってるよ」
青年は返答に迷ったが、後先のことを考えて首肯した。あやめの嬉しそうな声を沈ませるのも、良心の呵責に堪える気がした。「うん、──」
「おれ、かあいこちゃんの、だいすきになれたんだなって、うれしくなっちゃッたあ……」
繋いだ手の温度は冷たいのに、あやめの鼓動は嫌というほど伝わってきた。砂糖で煮詰めたような幸福の音だった。
「……そっか」それ以上の言葉が見つからない。
青年は、不覚にも、これがなかなかどうして嬉しかったのである。
(馬鹿みたいだ。俺は、この人魚から、海から逃れたいはずなのに)
どんな顔をしてあやめを見たらいいのか、途端にわからなくなってしまって、青年はそっと視線を下に落とす。
様々な色彩を揺らすイソギンチャクや珊瑚礁は、海の五臓六腑のようだ。クマノミが忙しなく顔を出したり引っ込めたりして、その周囲を青や真っ黄色の帯を巻いた小魚たちが行き交っている。
たまに、黄色一色のハギが花弁のようにこちらへと舞ってきてくれたりもした。手をかざしてみると、その指の間に入り込もうとしてくる。あやめがそのハギをゆるく摘む。それを青年の目の前まで持ってきて、鱗の隅々までを観察させてくれた。
「下にあるやつ、もっと近くで見たい?」
「いいの?」
あやめは青年の胴体を優しく挟むようにして両手で掴み、ゆっくりと珊瑚礁まで下降していく。多少の浮遊感が鳩尾をくすぐるが、落ちていくような恐怖はなかった。下を見るより先に、あやめの顔が視界に入る。翡翠の瞳にある瞳孔の裂け目が細まって、開いたりしている。その蠢動を眺める。あやめは青年の視線に気づいて、「えう」と困ったように笑った。
珊瑚礁の近くにくると、クマノミは驚いたようにイソギンチャクの中に帰っていく。
「あ。それ、触ったら、メ。だよ、かあいこちゃん」
肌色のイソギンチャクに触れようとした青年の手を、あやめが窘める。青年は素直に手を引っ込めた。
「どうして?」
「おれはだいじぶだけど、人間はだめ。かあいこちゃん、おえってなて死ぬ」
「死んじゃうのか……」
「あとこれもないない」
そう言うと、あやめはそばに近づいてきたウミヘビの首根っこを鷲掴んだ。突拍子もない行動に、青年の肝が冷える。
「お。おお……ウミヘビだ……初めて生で見た」
ウゴウゴ暴れるウミヘビの首を絞めながら、「これ、お名前あるの」とあやめが言う。
大抵の魚には名前があるものなのだが、人魚はそれを知らないらしかった。青年は、あやめに聞かれる魚の名前を覚えている限りで答えた。
子供の頃、図鑑ばかり見ていた知識がここで役に立っている。
人間に害のあるもの、ないもの、あやめもそういうものを事細かく青年に教え、避けて通る方向を選んだ。大抵が、人魚は触れられるけれど、人間は駄目という事例ばかりであった。
つまりは、わざわざ調べなければ人間にとって危険な生き物など人魚は知り得ないということである。
「こういう危険な生き物のことも、勉強したの?」
「人間、よわよわちゃんでしょ? だから、おべんきょした!」
「あ、ありがとう……」
「人間飼えたらね、こうやってお出かけしたかったんだあ。かあいこちゃんとおてて繋いで、しあわせ」
あやめの鋭利な歯列を見ながら、青年も曖昧に微笑んだ。
複雑な心境ではあったが、あやめの並々ならぬ努力は平坦な道を選んで生きてきた青年にとって羨ましく、また尊敬できる唯一の部分でもあったのだ。
「これは、血いっぱい出て死ぬ」 「それはいたいいたいになって死ぬ」 「なんか、もぎもぎして苦しなって死ぬ」 「えとね、普通に死ぬ」
あやめの教えてくれる生物の毒性や怪我の症状は抽象的で“具体的”だった。医者のように詳しいわけではない。が、説明の仕方がシンプルなのに嫌なところでリアルだ。
青年は言い知れない怖気を感じ始めていた。
ある程度泳いでいくと、銀色の竜巻のような群れが遠くに見えてくる。凄まじい旋回を繰り返している魚群は、おそらくはアジだった。スーパーで売られているような死んだアジでは想像もつかないような暴力性がある。銀に輝く体にギラついた目は、まるで金属音が鳴るようでもある。
遠くにいる。と感じていたが、その魚群はじっとしていてもこちらに近づいてきていた──いや、海水の流れで自分たちが逆に近寄っている。
「この中、たのし! 一緒に入る?」とあやめから言われたが、あの銀の群れに入ってしまったら体が引き裂かれそうな気がして断った。
人魚の楽しいと人間の楽しいでは価値観と命の軽さが違う。──そう、価値観と、命の軽さが違っている。
あやめが群れに近づくと、アジは群れが一つの体のようにそこだけ穴を開けた。それでも、渦を巻く動きは止めない。
「あやめ、危険な生き物のこと、お勉強したって言ってたね」青年はただ一つの不安のために口を開いた。
「うん!」
「人間に危険な生き物をわざわざ見つけるのは、苦労したと思う」
「ええ、そんなことないよお」
「どうやってお勉強した?」
あやめの動きが止まる。アジの先鋭な光ばかりが油彩画の躍動を放っている。繋いでいる手は、決して振り解けない力だ。記憶を探っているのか、彼の翡翠の瞳が左右に迷う。
それから、ニッと音が鳴るような笑みを光らせて、
「……ためして、覚えた!」
「アッ」
青年はそれ以上の詮索をやめた。人生において、知っていいことと知らなくてもいいことはある。青年の精神衛生上のためにも、それは必要な自衛であった。
あやめはそんな青年の様子を見て、何をか思ったのか、「あ、あ、でもね」と話を続けた。続けなくていい。青年が遮る暇もなくあやめはしゃべることをやめない。
「人間が、これ良いよってくれた人間でしかお試しする時間なくて、それがちょと大変だった。けど。人間、みんな、親切ですき! かあいこちゃんはもっとだいすき!」
「ア……っ、ア、う、わ……あ……ありが、ありがとぉ……」
青年は静かに十字を切って泣いた。無論、弔いのためではなく、自分のためにである。自分の涙の味は海水と同じ味がする。
まもなくして、昼の時間帯がおとずれようとしていた。
「かあいこちゃん。そろそろ、お仕事、行こっかあ」
残念そうな声に、青年は顔を上げる。あやめは青年と仕事場に行けることがよほど嬉しいようで、出かける前の悲壮感はきれいさっぱり消えていた。
今日、生きるか死ぬか。
博打をする感覚でいたのに、自分自身の死ぬ未来が青年には色濃く見えていた。
好奇心だけで動いた自分の衝動を悔いながら、青年はあやめに誘導されるがまま、結局嫌がっていたアジの群れの中央を通って行くこととなった。
当然のことだが、体が八つ裂きにはされるなんてことはない。
◻︎
ずいぶん、遠いところまで来たように思う。
海、という存在自体が遠い気がしてしまうから、イマイチ海中での距離感が掴めない。測れるのは水深ぐらいだ。
アジの群れを通りすぎてからは、平らな青い光景が続いていた。あやめは急ぐわけでもなく、赤い尾を温暖に揺らし、たまに「かあいこちゃんは、どしてそんなにかあいいのお?」と独り言を漏らし、青年の手を引きながら踊るように泳いだ。
青年は斜光のシャワーを浴びながらあやめの好きにさせていた。
水族館で見るのとは比にならないぐらいの大きい海亀を見たのは、そろそろ目的地を聞こうとしていた矢先であった。
「海亀だっ」
これには青年も感動して、見つけた途端に声が上擦る。あやめの計らいで甲羅の触れられる距離に近寄らせてもらえた。
その海亀の口からは何か薄い布みたいなものがはみ出ている。
青年はビニールかと思って人間の愚かな環境破壊を嘆きかけたものの、それはビニールにしては透き通っていて柔らかそうであった。あやめもたいして気にかけている雰囲気はない。
「あの……」
「ん?」
「海亀の口から何か出てるけど、あれは大丈夫なの?」
あやめは目を丸くさせて、海亀を見る。「だいじぶだよ、あれ、ご飯だから」
「ごはん」
「お行儀は良くない」あやめは揶揄うようにして笑った。
そういえば、海亀は何を食べるのだったか。青年は記憶の中にある些細な図鑑を開こうとした。あやめが青年の体を引き寄せる。開きかけた図鑑は強制的に閉じられた。
「着いたよ、かあいこちゃん」
あやめの硬い体の感触に驚きながら、青年は前を向く。
目の前には、視界を埋め尽くすほどのクラゲの大群が一面に広がっていた。水クラゲの群れが一体の海を彩っている。
(──そうだ、海亀は、クラゲも食べるんだった)
青年の体を支えるあやめの手に力が籠った。シートベルトのような感覚である。ここが彼の仕事場なのだろうか。クラゲを食べて掃除したり? それかクラゲを使って他の人間を捕まえたり?
どれも現実的ではない。少なくとも、あやめが率先してするようには思えない。
青年は尋ねるつもりであやめの顔を見上げた。いくつもの細長い瞳孔が辺りを見渡している。あやめは青年の視線には気づかなかった。集中しているようだ。邪魔するのも気が引けて、青年は開きかけた口を閉じた。
ウェットスーツのおかげで、クラゲの群れに入っても刺されることはなかった。ふわふわと雲のように漂うクラゲが、青年の腕や足にぶつかっては離れていく。可愛いものだ、こうして見てみると────。
ふと、青年の足首に柔らかいものが触れる。
くすぐったい感覚が明瞭に伝わる。クラゲがそこに集っているのかと思うほどだった。想像してみると愉快な気もして、青年は気軽に足元を見下ろす。
真っ暗だった。
青年の足元は一面の黒で染まり、黒いレース状の巨大な触手が足首に巻きついていた。
「えっ」と思う暇もなく、その黒いレースはするすると青年の太ももまで進行し、直後、青く発火した。
──燃えている。
冷静に茫然としてしまえるほどには、ありえない現象だった。海の中で、炎が身を燻らせている。青い炎が、自分の足を喰おうとしている。不思議と熱くはなかった。熱くはないから、害のないように思えて、美しい炎をずっと見ていたくなってしまった。
「あ゛ッ! おいこらてめえッ!」
あやめの怒号──ここ一番で流暢な発音だった──が飛び、青年の右の太ももを燃やそうとしているレースの触手を引き剥がす。
青年はその声に正気を取り戻して、周章狼狽と足を引っ込めながらあやめの体にしがみついた。
巻きつかれていた脚に、怪我も何もない。燃えた様子もなければ、スーツも破損しているところはなかった。
あやめは眉間に皺を寄せ、鋭い歯を剥き出しにして殺意の両翼を広げている。
「んーーーー」
のっぺりと枯れた薔薇を敷き詰めるような声が腹の底を震わせた。
青年の足元にある黒い影が揺れる──いや、それは影でも何でもなかった。
ずるりと蠢く黒い“体”は巨大なレースの触手を何本も長く弛ませて身を翻し、青年たちの方へと浮遊してくる。二人の視線が上へと上がる。
陽の光はその黒い色彩に遮られて、本当の影を二人の頭上に連れてくる。
「な。なんだって、そんなに短気なのだろ。ちょっと悪戯しただけなのにね」
黒く、巨大なクラゲの人魚が、青年たちを見下ろしていた。
声が出ない。隣で殺気を放っているあやめは頭上を睨みつけているが、まさか、あれと闘うのが仕事なのだろうか。
そうだとして、青年にはあやめの勝算が導けなかった。
光のない赤い片目を細めているそのクラゲは、全身が黒く、尾に当たる部分は普通のクラゲと同じひらひらとしたドレスのような触手でできている。筋肉組織を感じさせない体に、ハザードランプのような真っ赤な球体が凹凸のない胸に一つ輝いていた。
左目を覆う黒髪は、あやめの黒髪と違い光沢はない。紫に透けた睫毛が特徴的で、触手の長さを合わせて測れば、あやめより遥かに大きかった。中性的といえば聞こえはいいが、墨汁の笑みが性別の曖昧さを凶器のように仕立て上げている。
あやめの腕に支えられたまま、青年は固まりかけた口をなんとか動かした。「あ、あやめ、あのクラゲ、なに」
「くらげ!?」あやめは絶句し、「そんなかあいいお名前あるの!? あれに?」
「いや……そうじゃなくってぇ……」
くだらない問答をしているうちに、そのクラゲは青年の目睫の間にまで近づいた。
あやめに劣らない美貌だ。見つめられると、言葉と呼吸を失う。アーモンド型の赤い目に、白い余白は見当たらなかった。
「そ、そんなに警戒しないでよお。ぼく、敵じゃないんだよ」
海中に住み始めてから、初めて、青年はあやめ以上に完璧な言語を聞いた。
黒く、半透明の手がゆらりと青年の頬を包みこむ。即座に、あやめの掌がクラゲの頭を捕らえた。
「かあいこちゃんに無断で触るとか、どんな神経してる」
クラゲは臆した素振りも見せない。「そんなこと言うんだ。神経なら全身にあるのに……お前よりよほどしっかりした神経がね」
「おれのかあいこちゃんなんだよ」
「そう? 首輪の一つだってしてないから、てっきりぼくにくれるのかと思っちゃったあ」
あやめが喉元で低く唸る。傍から見れば、一触即発の空気だ。青年はあやめを宥めながら、地雷原を渡るように爪先から気をつけて口を開いた。
「……き、君は、敵じゃないなら、なんなんだ」
「仕事仲間。そこの血気盛んな人魚の」
クラゲは呆気なく答えた。
俄には信じ難い。青年は確認するようにあやめを見上げた。彼も青年の視線に気づくと、力ませていた眉間の皺を鈍く緩めて不本意そうに頷く。「そうだよ」
「こいつ。この野蛮と、おれ、お仕事仲間。この後のお仕事に、こいつだいじなんだ」
「野蛮はお前」
「イ゛ーーッッ!」
癇癪を露わにするあやめを前にして、クラゲはきゃっきゃっと喜んでいた。とんでもない嗜虐心である。青年は胃が縮むのを感じた。
長くクラシカルな触手が青年の手元に差し出される。
「ね。ね、よろしくね。かあ、“かあいこちゃん”」
「あ、お……よ、よろしく、……」
青年は恐る恐るその触手を緩く掴む。すると、あやめの何度目かの怒号がすっ飛んできた。「だめッ!!」
あやめは青年の手に絡みついたクラゲの触手を、庭に生えたミントの葉を毟るように恨みがましく剥ぎ取る。
「こいつのひらひらに触っちゃ、メ!」
「え、どうして」
「このひらひら、肌に触れたら、きちんと燃える! さきはスーツ着てるとこだたから、だいじぶだったけど!」
「……そうなの?」青年はクラゲを見た。
「んーーーー」
そう笑って、クラゲは答えなかった。それが、答えだった。
◻︎
「どんな仕事をしてるの?」
クラゲの群れを抜けてからは、そこまで長いこと泳がなかった。
三人はそこだけ真空状態にでもなったかのような、だだっ広い空間の渦中にまでくると、そこで身を止めた。周りには小魚の一匹すら見当たらない。
青いグラデーションは霧のように暗く、深かった。
「プランクトンを食べるお仕事」クラゲが答える。
あやめは言葉より先にクラゲの頭を殴った。「うそつき」
「いたいなあ、お前の体裁を考えてそう言ってあげたのに」
「かあいこちゃんはおれのお仕事、怖がらないって言ってくれたもん。うそつき、てめえに痛いとかない」
「いたいよ。こころが」
「心臓もないくせに」
「あ! あ! かあいこちゃん、聞いた? お前の飼い主がぼくに嫌なこと言ってくるよう」
クラゲは空いている方の青年の腕に手を絡めて引っ付いた。あやめはそれをすぐに引き剥がす。
二人は三分に一回、このように喧嘩ばかりする。クラゲは楽しんでいるようだが、あやめは心底嫌がっていた。だが、クラゲに心臓がないのも、痛みがないのも──脳がないので──本当のことである。嫌なことでも、あやめの言葉は事実であった。
青年が返答に困っていると、あやめは先に頸にかかる黒髪を撫ぜて、青年の手を握りなおす。
「あのね、かあいこちゃん。おれたちはね、約束破ったやつをないないするお仕事してるんだよ」
「約束?」
「生きるためにご飯食べるのは、当たり前のこと。喧嘩売られて買うのも、普通のこと。でも、ただ殺し回るのは、お話が違う」
「殺し回るってなに」
「たまにね、食いもしないで、弱いのばかり狙って殺し回る奴が出てくるの」
地上でいうところの殺人鬼のようなものだろうか。
「どんなやつ?」
「サメだよ」
横で浮遊していたクラゲが口を挟む。あやめは眉間に皺を寄せて、「そんな感じ」と投げやりに呟いた。“サメ”という単語がわかるのは青年とクラゲだけであった。
「サメって、普通のサメ? 人魚とかではなく?」
「でかいサメ。最初のうちは見逃すけどね。この間、人魚の子供が殺されたんだあ、さすがにそれは、ね。腹が減ってたんなら仕方ないけど、殺すだけは良くないよ。そういう奴が一匹でもいると……ええと、あれだよ、痴女が乱れるから、……」
「“秩序”のこと?」
クラゲは鳴らない手指を鳴らした。「そう、それえ」
つまり、海の中にある暗黙の生態系を崩さぬように、それを脅かすものを法律の代わりに掃除しているのだ。自警団のようなものに近いのかもしれない。
青年の顔に、一つの憂色が燻る。今更だが、果たしてここに自分がいていいのかわからなくなってきた。
危ないことは覚悟していたけれど、まさか、こんなに大事な仕事だとは思ってもいなかった。邪魔はしないし、足を引っ張るつもりもない。だが、自分という存在自体が彼らの足枷にならないか、そればかりが危惧される。
しかし、帰ると言ったって、帰り道もわからない。青年は目を泳がせた後で、いじけているあやめの手を両手で包んだ。あやめの瞳が青年に向く。
「俺、邪魔にならないところにいる。どうしていたらいいかな」
あやめは青年の様子に気づいたのか、眉を下げた。「かあいこちゃん。そんな、だいじぶだよお。さみしそにしないで。……すごく嫌だけど、おれが仕事してる間は、そいつがかあいこちゃんのこと見ててくれるから」
「えっ」
横を向いてクラゲを見る。クラゲはダンゴムシを転がして遊ぶような笑顔を浮かべて、青年に手を振った。
胃が厭な音を立てる。あやめも嫌だろうが、青年も特別に嫌だった。自分の体を燃やそうとしてきた奴と二人きりになんてなりたくない。ちょっと殺人衝動の目立つやつだけど、悪い男ではないんだよ、と言われているようなものだ。こちらの命が助かる保証はどこにもなかった。
「やだーーッッ!」と叫びあげる喉を、青年は寸でのところでグッと窄めた。青年も、もう十九である。十九には十九なりの矜持がある。聞き分けのいいように頷いて、
「怪我、しないようにね」
それだけをあやめに伝えた。
「そいつになにかされたら、おれを呼んで」
あやめは青年の額にキスを落として、深い青の暗闇へと潜っていった。なにかされたら、とは言うが、あやめの口振りはそんなことは起きないだろうと確信しているようでもあった。
手順がある。
今回のサメは大きい個体で、気性が荒く、あやめ一人ではトドメまでさせるかわからないらしい。まずは、あやめがサメを追い込んで致命傷、もしくは戦闘不能に近い状態にする。そうして、青年の隣にいるクラゲがトドメをさす。最終的には、燃やして食って終わりだという。
「致命傷を与えられたのなら、もうそれでいいんじゃないの?」
青年はクラゲの両手に支えられながら、そう尋ねた。
「あの人魚の古傷わかるでしょ。しぶといやつは致命傷なんかじゃ死なない。便器上、致命傷って言ってるだけで」
「“便宜上”ね。便器はトイレ」
「あっ。えへ」
「無理して難しい言葉使わなくても、……」
「使わなきゃ、体が覚えてくれないからあ」
「……体?」
人間の感覚では理解しにくい話である。クラゲは「んーーーー」と言いながら、青年の手を少しばかり強く握った。
手指の隙間がなくなり、関節の骨が擦れ合う。ごり、と鈍い痛みが走った。
「痛いっ」
──あやめを呼ぶなら今なんじゃないか? しかし、痛がると、クラゲは力を緩めてくれたので青年も耐えた。にぎにぎと、半透明の手が手指をくすぐる。
クラゲがなにを考えているのか、青年には理解できなかった。そもそも、“なにか”を考えているのかも不明瞭だ。
「痛みは、脳に伝播される信号であり周波数なんだよ」
前触れもなく溢れたクラゲの言葉に、青年の血管は細くなる。声の抑揚が全くなかったからだ。タイプライターで打っているような、無機質な声。
海の中では、あまり反響しない音だ。クラゲの声は、青年の知る人魚の声と百八十度違う。
「ぼくのどこにも脳はない。だから、痛みも感じないし、記憶や感情も維持できない」
青年は眉を潜めた。「でも、たくさん喋れてる、……」
「だ、だから言ったよお、“体”で覚えるんだって」
そこで、やっと合点がいった。彼は、あやめと違って言語を暗記、記憶して覚えていないのだ。
「言葉はねえ、口と振動で覚えてる。何回も何回も口にして、覚えさせるんだあ。だから、いろんなこと喋る。それでしか、覚えられない」
「どうしてそこまでして、人間の言葉を話すの」
口を引き結んで、クラゲはマバタキを繰り返した。「暇だから。喋れるといいこともあるしい」
いいことの委細は聞かなかった。聞かなくていい事情はたくさんある。あやめで学んだことだ。
青年は「そっか」と言ってクラゲの透ける手を見る。
海の底から叩きつけるような金切り声が響いてきたのは、その瞬間であった。
見えなくともわかる。あの声はあやめのものだ。
青年は一抹の不安に海底を覗き込んだ。クラゲは青年の手をきちんと握って、離さない。
「大丈夫。標的を上手く捕まえられなくて、ブチ切れてるだけだと思う」
「あ。そ、そうなの、……」
「あの人魚が、本当に人間を飼うとは思わなかった」
クラゲの話し方に仄かな抑揚が息を吹き返す。青年は視線を上げた。
黒い触手は下へ、下へと垂れ下がっており、柳のように揺れている。
「飼いたいとは、言っていたけれどね」クラゲは口元だけで笑った。「ぼくはけっこう、止めたんだあ」
「……人間と人魚では色々違うから?」
「そう──……そうだねえ。陸と海とじゃ、土俵が違う。生きている世界が違う。協力はできても、分かり合えること、混ざり合うことはできない」
青年は言葉を選んだ。「君の言葉は人間から教わったものじゃないの」
「それは“協力”してるからだよ。──人間は、陸に住まう生き物だ。賢く、どんな環境にも適応できる能力がある。もしくは、適応しようと抗う力がある。でもね、それは、どの領分にも適応し得る“権利”があるというわけではないんだよ」
この世のものとは思えない雷鳴が海の腹で轟いている。
クラゲの触手ではない、薄いレースのようなものが底から立ち昇ってくる。それは、生臭い血液だった。
「人間は、そこをはき違えるね。まるで、自分たちが世界のすべてを支配できる、支配していい権利があるとでも思ってるみたいに」
言葉こそ破片地味ているが、クラゲの声に悪意や嫌悪は感じられない。もちろん、好意も感じられないが──。
そよとの風を彷彿させる海流がなだらかにクラゲの前髪を揺らす。左目を覆っている前髪の下に、眼窩はなかった。
「何が言いたいんだ」
赤い目が無機質に青年を見る。クラゲは、しかし気軽に肩を竦めて、
「お前……お前、災難だったねっていう話だ。ぼくはお前に同情してる。本来、陸で生きていたはずのお前が、アレのせいでこちらに引き摺り込まれてしまったわけなのだから」
繋ぎあっている両手を上下に揺らして、クラゲは力無く笑った。その笑顔も、彼の感情がそう動かしているわけではないのだろう。こういう時は口角を上げるのだと、体が覚えている。
青年に、クラゲの感覚は想像できない。だが、青年には、クラゲにない感情がある。
「帰りたくなったら、い、いつでもぼくをお呼びなねえ。あの人魚は残忍に変わりないけど、ひどく純心で、騙されやすい。お前が逃げたところでどうとにでもなる」
青年はクラゲの顔を見ながら、薄い酸素を吸った。「……君は」
クラゲの手から、繋いでいた手を抜く。表情こそ変わらなかったが、クラゲの黒く透き通った手は、焦ったように青年の手を追いかけた。それを、青年は拒んだ。
「君は、寂しかったのかな」
クラゲはないはずの感情が体に追いついたように、ぽっかりと目を丸くさせていた。驚いている、というより、本当に穴が空いてしまったかのようだった。
「……え」
「なんとなく、そう思うよ」青年はそう呟いて、「悲しくて、寂しいのかもしれない」
手を離すと、青年の体は少しずつ下へと進んでいく。揺蕩う黒い襞の流れに沿って、青年はそこで止まった。
目の前には、片結びになった触手が不恰好に浮いている。
「君は、人間を好きでいようとしてくれてるけど、君の言うとおり人間はみんないい奴ばかりじゃないし、むしろ利己的で私欲のためだったら君たちを平気で裏切ったりもすると思う。君は、多分、それを知ってるんだね。あやめの知らない部分を、知ってるんだ。だから、きっと、あやめが人間を飼うことを止めたし、君は俺を帰したがってる。人間との衝突を避けたいから、……」
クラゲは何も言わなかった。それでいい。構わない。彼はあやめより優しくはないし、割り切れているから、こいつ嫌だなと思った時点で青年を殺そうとするだろう。だが、青年は今も生きている。彼にとって、青年の言葉や行動はまだ許容範囲ということだ。
青年は絡まってしまった触手に指先で触れる。熱くはない。痛みもない。
「俺。俺はさ、よくわかんないままここに拉致されて、閉じ込められて、逃げ出せるならそうしたいって思ってる。今日だって、もしかしたらこのまま逃げられるんじゃないかなとか……考えたし」
水中の浮力で、片結びは容易に結び目がわかる。あとは弛めればいいだけだ。指先、指の腹、掌で触手に触れる。燃えることはなかった。ただ、ふよふよした感触は、少しでも乱暴にしたら綿飴みたいに千切れて、溶けていってしまうような気がして、こわい。
「でも、あやめは、ただの……ただの俺に、人間一人に、あんなに嬉しそうにしたんだよ。たくさん努力して人間を飼おうとして……幸せだって言ったんだ。あやめは、俺がいなくなったら泣くんだろうなって思った。そう思ったら、なんだか、だめだった」
知恵の輪が緩んでいくのを感じる。もう少しで片結びがほどけそうだった。
昔、水族館でクラゲの触手をほどいてやっていた飼育員がいたのを思い出す。いらぬ世話なのかもしれないが、それでも、そうしてくれる人がそばにいるというのは決して悪いことではない気がしている。
「俺はどうあっても、あやめが飽きるまでは、そばにいようと思う」
するりと、片結びがほどけた。
「かあいこちゃんッッ!!!!」
あやめの声が突如として下から突出する。
振り返ると、青年の面前に鋸歯状の歯が広がっていた。得体のしれないグロテスクな喉奥が開かれている。あやめの歯かと思ったが、あやめの歯はこんなに大きくないし、口は広く裂けていない。サメのような顔もしていないし────……
(────サメ。あ、俺)
食われ、
「ねえ」
グンッと、強い引力が青年の視界をかき混ぜる。
体が無重力に放られる浮遊感があり、それに抵抗する水圧が体にのしかかる。海の流れに攫われずに済んだのは、青年の足首を掴んだ骨肉のない柔らかい手のおかげだった。
渦のような流沫が弾ける。その隙間で、クラゲの巨大なドレスの尾が五メートルはあるサメの体を捕らえているのが見えた。
歯を剥き出しにして身を暴れさせるサメの肉体はゾンビのように爛れ、生きているのが不思議なくらいに血を撒き散らしている。
「ねえっ」クラゲはサメの抵抗に構うことなく、青年の方を見上げた。
「あっ、アレが飽きたら、ぼくがお前を飼ってあげる!」
クラゲの目に光はなかったが、今にも燦然と輝きそうなほど彼の顔は明るかった。
「は、ぇ」青年は一拍遅れて自分が生きていることを自覚し、マバタキと呼吸を寧日なく繰り返す。
「人間はすぐに変わるから、地上に帰ったらたくさん汚れちゃう。そんなの、よくないからね」
「な、なに、なんの話、──」
感情の発露がそのまま燃え上がるように、クラゲの全ての触手から青い炎が爆発した。捕らえていたサメの体が松明の勢いで大きな火だるまになる。
サメに声があったなら、聞くに堪えない絶叫が海を貫いていただろう。海の中で昂る鬼火は、宝石の心臓を見ているようで、それは取り憑かれるほど美しかった。
「気が変わったんだあ。お前みたいな子お、そりゃあ、そりゃね、飼ってみたくなるよ。どうやら美幌の人間でもないようだし」
(──……びほろ?)
美幌町という町が北海道にはある。そのことだろうか。それとも、違う何かの隠語か。
生理的なパニックが青年の目尻に滲んでくる。なにがクラゲの琴線に触れたのかはさっぱりだった。あやめが自分に飽きたら、このクラゲに力を貸してもらうつもりで話をしただけなのに、まさか逆の結果になるとは誰が想像できるだろう。
青年は、とにかく自分の墓穴を自分で掘ってしまったこと、人魚と人間ではどうしたって話が通じそうにないことだけは痛いほどに理解できた。
掴まれていた足首が引っ張られ、クラゲの元へと誘われる。轟々と燃え盛る青い炎がすぐそこにまで迫る。熱くはないが、サメの焦げていく肉体と剥がれていく骨が陽炎越しに見えた。それでもまだ、目玉だけは生き生きとギラついている。
背筋の凍る光景に、青年はクラゲの柔らかい体を両手で押しのけた。
「あ、い。いやだ」
「大丈夫。良い子ちゃん、慣れなくちゃあ。お前はここで大事に大事に育っていくんだから。ね、ぼくにもお名前ちょうだいよ」
クラゲの腕は青年を抱きすくめたまま離れない。黒く焦げた骨が、クラゲの触手から溢れていく。……焼き魚。焼き魚を思えば、サメの一匹が燃えて朽ちていく姿は堪えられた。
今、一番に恐ろしいのは、どうあってもこのクラゲである。裏切れば、お前もこうなるんだと言われているようで、炎の中に自分の姿を連想してしまう。
「名前なんて、急に言われても」震えた声が、青年から漏れる。
「これから長い付き合いになるのに、あの人魚ばかりずるいよ。おねがいっ、おねがい、……」
青年の顔を覗き込むクラゲの赤い瞳は、懇願の目をしていない。どちらかというと恐喝に近かった。
せめてもの意趣返しにとんでもない名前でもつけてやりたかったが、このクラゲはあやめより知識も探究心もある。下手な名前を言ったら、こちらの生死が危ぶまれる。
青年は必死に目を回す。思考しているように見せかけてあやめの姿を探していた。
「じ、じゃあ」
「うん」
「し……死相で」
額の薄いところで浮かんだ単語を、青年は咄嗟に口にした。もうこのクラゲ相手に正解などわかったものじゃない。幸い、死相なんて専門的に調べようと思わなければ使わない単語であるし、いざ意味を聞かれたときは『思想』という言葉で隠せる。
「んーーーー」とクラゲの喉元で音が鳴る。肌に刃物を這わすような音だ。青年の心臓は破裂寸前になっていた。
炎が萎んでくると、大量のあぶくが黒煙のように噴出して昇っていく。
「それ、心こめてくれたあ?」
怖すぎる。光のない真っ赤な目に見つめられると、青年の血管はどこかで引きちぎれるのではないかという冷風に襲われた。
青年は嘘が得意ではない。エイプリルフールではいつも友達や家族から最初の子音で見破られたほどである。しかし、あやめの名前も含めて心──恐怖心──は込めていた。彼は何度も細かく頷いて、もはや信憑性のない神に自分の明日を祈った。
「とってもこめた」
「ふうぅん、……」
クラゲは訝しげに瞼を細めた後、抱き締めていた青年の心臓部に額を押し当てる。青年の五臓六腑は世紀末を迎えていた。心臓の音は自分の鼓膜を突き抜けて聞こえている。なんとなく体を捩ってみても、クラゲはびくともしなかった。
「……ほんとだあ……どきどきしてる」
舐めるような声に、青年の呼吸が浅くなる。
炎はすっかり鎮火し、巨大であったはずのサメの姿は跡形もなく黒い煤だけがゆっくりと沈殿していった。広がっていたクラゲのドレスは、柳の静けさに落ち着いている。
は、は、と顔を覆う薄い膜の中で自分の息遣いが聞こえる。
「これ。ほしいなあ」
「アッ……あや、あ。あ、あやめ! あやめッ!! あやめーッッ!!!!」
限界だった。海中を慄すほどの青年の声は、この瞬間、業火の断末魔をも凌駕していたことだろう。そして、クラゲの体が横に吹っ飛んでいったのも、音速であった。
不安定になりかけた青年の体を、確かな力が支える。
「ころすぞ」
────同担拒否の殺意を呪物にしたあやめが、そこにいた。
◻︎
心臓に穴が空いてもおかしくはないほど殴り飛ばされたクラゲに、大した怪我はなかった。いや、実際のところ胸に拳大の穴は空いていたのだが、そこは直きに塞がれ、彼自信も痛がる素振りをみせなかった。
「ごめんねするか藻屑になれ」
「ただのスキンシップなのに」
あやめは冷めやらぬ殺気で撃つようにクラゲを睨んだ。あやめの両腕に庇われた青年は、大人しく心臓だけをだくつかせていた。
「こんな、こんなかあいこちゃんを怖がらせておいて、どの口が」
「慣れさせてあげてたんだよお。ぼくらの仕事をさ。必要なことだろ? 良い子ちゃんを飼うなら、愛でるだけじゃなくて躾やここでの教育をきちんとさせてあげなくちゃ」
あやめはより強く、青年の肩を抱く。「きょういくほうしんの違いだ」
まだぶよぶよとした赤い肉片が、あやめの体の至る所に付着していた。
サメの残骸が染み付いて離れないのだろう。強烈で苛烈な感触が、青年の胸板や腕や手に掠って伝わってきていた。あやめがどうやってサメを食い荒らしたのかが、容易く想像できる。
あやめが他の生き物を殺す瞬間をこの一年でだいぶ見てきているけれど、感触として実感するのは、これが初めてのことだ。
ここに拉致されてきたばかりの青年であれば、卒倒ものだったろうに、不思議と今はあやめの腕の中で安全地帯の安堵が勝っていた。
クラゲとあやめはまだ言い合っている。
「そう言うのだったら、お前はもっと早くこっちに上がってくればよかったんだ。一番初めに良い子ちゃんを危険に晒したのは、お前だよ」
「だって! それは、……」
あやめは言い淀んでから、青年をぬいぐるみのように抱き締め直す。その胸の圧迫感に青年は顔を歪めたが、疚しそうに、あるいは申し訳なさそうに鼻先を赤くするあやめを見てしまうと何も言えなくなってしまった。
青年のつむじに鼻先をくっつけながら、あやめはしおしおと呟く。
「おれの体、汚れてたから……綺麗にしてからじゃないと、かあいこちゃんにさわれない。これでもきれいきれいにしてきたつもりだったんだけど……」
クラゲも青年も全ての毒素を抜いて唖然とした。
「そんなこと!」
海は先ほどまでの激流がなかったかのように、静かな青を取り戻している。
青年の心もあやめの筋張った体と、たどたどしい声で、ようやっとなだらかな心電図を描きつつあった。
「お、俺、汚れてるからってあやめを嫌ったりしないよ」青年は詰まらせていた喉を開く。
「良い子ちゃん、かわいそお……こんな奴が飼い主なんてさ。自分の身なりより良い子ちゃんを優先させるべきだろうに。いつか死なせてしまうんじゃないの」
青年の言葉を上書きするようなクラゲの糾弾に、あやめは苦い表情を浮かべた。が、クラゲの頭はすぐにあやめの右手に掴まれる。
「てめえはまずかあいこちゃんにごめんねして」
「んーーーー」そう言いながら、クラゲはあやめの腕に抱えられている青年を覗き込んだ。三メートルは超える二人の人魚の板挟みは、それだけでも充分殺しの圧力を孕んでいる。
青年は予防接種前の犬猫よろしくあやめにしがみついたが、逃げ道は頑強な胸板で塞がれていた。
「……ごめんなさあい、良い子ちゃん。ちょっと、“寂しかった”だけなんだよう……良い子ちゃんはぼくのことようくわかってくれているもの、許してくれてるって、ね? 知ってるよ」
「……は……はぃ、……」
クラゲの両手が病のように青年の肩に乗る。
青年は静かに泣いた。まだ死にたくはなかった。ヤクザだってこんな羽毛の脅し方はしない。
「かあいこちゃん、許さなくていいんだよ。ごめんねして許してもらえるのは、お仕事で間違えちゃった時だけで、それ以外では命をもって償わせなきゃダメだよ」
(そんな情状酌量の余地もない思想は捨ててくれ)
あやめの言葉に青年の涙はもう引っ込みがつかなくなった。物騒な言葉を流暢に話すのもやめてほしかったが、それには目を瞑った。あやめの言語の努力は知っていたので。
広い海の中で青年は両手を狂気に繋がれながら、帰り道を渡った。
あやめとクラゲは二分に一回、もみくちゃになりながら喧嘩していた。
「じゃあ、ここで」
三人は水クラゲの群れの中にまで戻ってきた。海面に透き通る光はとっぷりと暮れている。
クラゲは名残惜しそうに青年の手を掬った。防衛本能で体の神経が強張るけれど、青年は出会ったばかりの頃よりかはミリ単位でクラゲにも慣れてきていた。
「良い子ちゃん、いつでもぼくのところにおいでね。たくさん、たあくさん、可愛がってあげる。良い子ちゃんが良い子にしてたら、知りたいことも教えてあげる」
青年はぎこちなく頷いてから、細く手を挙げた。
「……なら、一つ良い?」
「だめ」
「えっ」
「次、良い子ちゃんが良い子のまま、ここに来てくれたらね」
そう言って、クラゲはあやめを見た。彼のいくつも裂けた瞳孔が鋭利に細まる。
また喧嘩の始まりそうな険悪さだ。青年は仲裁をしようと口を開きかけるが、それを制したのはあやめであった。
途端に、クラゲの黒いレースの触手に赤い光の筋が明滅し始める。次いで、呼応するように、あやめの喉から鉄琴と木琴を同時に打ったかのようなハーモニーが響き渡った。
青年はその非現実的なやり取りを交互に見比べる。
(……会話してるのか)
彼らは光と音で言葉を交わしていた。
青年に聞かれては困ることか、将又、人間の言葉を使うのには難しい話題なのか。どちらとも知れないが、青年は二人の信号を額縁の外で眺めていた。日常会話がこんなふうにできたら、とても美しいだろうに。人の言葉はよくも悪くも純度が高すぎて、それはときに刃物になり銃弾にもなり得る。聞く方も、話す方も、見る方も、影響を受ける。
彼らの言語にはどれぐらいの意味が、言葉があるのだろう。周波数や音波、光で会話するのはどんな感じなのだろうか。
あやめもクラゲも表情はあまりないが、それでも喧嘩が始まるような予兆は見当たらない。
青年の心に小さな不安の粒子がもたげる。彼はゆっくりとあやめの骨張って大きな手を握った。
あやめは少し驚いたように眉を上げ、それから青年を覗き込んですぐに口角を弛めて喉を鳴らした。クラゲに送っていた音とは少し音階が違う。海中を撫でる美しい音が、自分に向けられている。──今、何かを言われている。
「あ。ご、ごめん、あやめ、何言ってるかわからないんだ」
あやめは「あっ」と口を半開きにして、ボタンを掛け違えたように笑った。「間違えちゃたあ……ごめんねぇ、かあいこちゃん」
「ううん、……」
「かあいこちゃん。かえろっかあ」
「話はもういいの?」
「ん。おわたよ。暗くなる前に、かえろね」
あやめはクラゲの方を一瞥もしないで、緩やかに青年の手を引いた。水クラゲがほこりのように掻き分けられていく。青年はなんとなく後顧を憂いて、肩ごしにクラゲを見やった。クラゲは特に構うことなく、ただ、青年と目が合えば手を振った。青年も小さく手を振り返した。少しずつ、クラゲの姿が遠ざかる。
「しそう」
青年は最後に声を上げる。「またね」
クラゲは驚いたように目を見開いて、縹渺と嬉しそうに笑った。
「またね。良い子ちゃん」
水クラゲの青く透明な群れの中で、クラゲの影は黒い太陽のように、見えなくなる最後までその陰影を残していた。
(何を話していたのか、俺になんて言ったのか。ほんとうは聞くべきなんだろうな)
深い飴色の日差しが海面の揺れに合わせて青に反射している。水彩なら混ざってしまう色も、ここでは混ざらない。海中の青、空の夕焼け。海と陸。混ざり合わないものたち。
あやめは、青年と手を繋ぐことはしないで、ラッコの親子のように自分の腹に青年を抱き乗せて泳いでいた。少し頭を起き上がらせれば、彼の片方しかない尾鰭が上下に揺れているのを見ることができる。
海は広く、広いままで、帰り道の目印なんていうのはさっぱりわからなかった。だというのに、あやめは確信をもってぐいぐい進んでいく。
「今日、こわかった……?」あやめが不意にそう言う。「たのしくなかった?」
青年はシャボン玉を内側から見るような海面の揺らぎを遠くに映しながら、首を横に振った。
「少し怖かったけど、楽しかったよ」
「ほんとう?」
「本当」
「“しそう”って誰のこと?」
話のベクトル変化とアクセルの踏み方に青年の心臓が飛び上がる。しかし、ここで変に誤魔化しても仕方がない。
「あのクラゲのことだよ。名前がほしいって言われたから」
疚しいことは何もないのに浮気を疑われたような焦燥感だった。青年はしばらく体を強張らせていたが、あやめは存外に「そっか」と言ってそれ以上を追求しようともしなかった。
墓を掘るつもりもないけれど、珍しい反応に青年は自ら話題を引き延ばす。
「いいの? 勝手に他の子に名前つけちゃっても」
「おれにつけてくれた名前の方がぜんぜんかあいい。あと“くらげ”よりかあいくないし、いい」
なるほど、そういう基準か。青年は体の力を抜いてあやめに身を委ねた。
だが、それ以外にも聞きたいことは山ほどあった。“美幌の人間”とはなんのことなのか、クラゲと何を話していたのか、あやめはどうして“自分”を選んだのか。
『気が変わったんだあ。お前みたいな子お、そりゃあ、そりゃね、飼ってみたくなるよ。どうやら美幌の人間でもないようだし』
クラゲの言葉が青年の脳裏でリフレインする。
(もし、あやめが俺を“美幌の人間”じゃないと知った上でここに引き込んだのだとしたら? 地上に逃げられたとして、俺は本当に安全に保護されるのだろうか。その、美幌の人間ではない俺を)
──……考えるのはよそう。青年は思考を奥に仕舞い込むようにして瞼を閉じた。あやめに聞くのも今は怖かった。もしかすると、“それ”があやめのボーダーラインかもしれないのだ。自分を飼ってくれるボーダーライン。知りすぎないこと、聞いてはいけない領域があること。
「かあいこちゃん? おねむ?」あやめの声が、頭上に聞こえる。
「うん、……」
(焦るな、焦るな)
新種の魚は見つけられなくていい。ただ、彼ら──人魚──のこと、そして地上のことを少しでも知ることが最優先だ。それがどれほど時間のかかるものだとしても。
「あやめ」
「なあに」
「俺……またあやめと二人でお出かけしたいな。あやめのお仕事とか……いろいろ……慣れていくからさ」
青年の背中に、わかりやすいほどの鼓動が大きく反響した。じわじわと密着している部分が熱くなって、顔を見なくてもあやめがどういう表情をしているのかは充分に想像できる。青年を抱いている手に力がこもっていく。
海水の流れが心地いいほどに、あやめの五臓六腑は忙しなかった。
「えっ、あ。お、おれとっ? また、お出かけしてくれるの」
「お出かけしたいんだよ。俺が、君と」
「……おれ。おれ、かあいこちゃん、だいすきよ」あやめは確認するように言った。
「俺も、あやめのこと、好きだよ」
あやめは両腕で青年を抱き囲んだ。ヘッドロックに近い危うさに、青年はそっとあやめの腕を優しくさする。首が絞まるようなことはなかった。
「いっぱい、いっぱい、いろんなとこ連れてってあげるね。かあいこちゃん」
硬い体温に、青年はゆったりと頷く。この先、どんな真実が詳らかになろうとも、あやめに見切られるまでは彼のそばにいる。それは、青年の望むところでもあった。
「ありがと、あやめ」そう言うと、あやめは青年の頭に頬を擦りつけた。
あやめの赤い鱗が陽の光を反射する。青年は片方しかない尾鰭の古びた動きを見つめていたが、ふと、その先に違うひらひらしたものがくっついているのに気づいた。
青年はあやめの腕を叩く。「あやめ」
「どしたのお? 苦しかた?」
「いや、何か尾鰭に引っ付いてるよ」
あやめは体をつの字に折り曲げると、自分の尾鰭を仰ぎ見た。青年も同時にその様子を窺う。
一匹の水クラゲが、尾鰭の鋭利な先っぽに引っかかって揺れていた。
「あ! らっきぃ!」あやめは声を跳ねさせた。「これ! これね、遊べるんだあ」
「どうやって?」
「かあいこちゃん、これ、ちょっと取ってくださあい」
青年は言われたとおりにあやめの体から上半身を起き上がらせて、ビニールのように揺れている水クラゲを取った。紙風船よりも脆い感触に、手つきが寒くなる。
あやめは青年の手元から、その不安定に浮遊しそうな水クラゲを掬った。
そのまま、水クラゲを口元にあてがう。あやめは溜めた空気と海水を唇から一息に吹き出した。立派なバブルリングが形作られて、海中に放られる。
無論、水クラゲはバブルリングに巻き込まれた。
水クラゲの透明な体が、どぅるるる、と気泡の回転にねじれ、細長く伸びていく。
バブルリングが切れても、水クラゲだけがいつまでもぐるぐるに急回転したまま海面の空へと昇っていく。あやめは青年の後ろで鋸歯状の歯を剥き出しにしながら爆笑していた。
「今度、かあいこちゃんの分もいっぱい獲ってくるねえ!」
泣くことはなかった。青年はただ祈るように腹の上で両手を組んだあと、引き絞るような笑顔を浮かべて、
「……かわいそだから、やめたげてね……」
────人魚に飼われて、もうすぐ一年と三ヶ月が経つ。
鯨の子供はよく喋る子に育っているらしく、日中でもたまに歌が聞こえていた。子供になら、歌のリクエストができるらしい。あやめも青年も二人でどの歌がいいかを考える。最近では、そんなことで、夜を明かしている。




