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青年と人魚──プロローグ──

 

 人魚に監禁されてからもうすぐ一年が経つ。


 海面に薄氷が張っていた。今朝は特別に冷え込んだのだろう。


「起きた? かあいこちゃん」


 片方しかない尾鰭を揺らして泳ぐ美男が、その青年の飼い主であった。


◻︎


 凍った青空よりもあおい海だった。


 不純物もわからないほど積もった白い雪の砂浜に、地平線は空よりも短い。

 潮の匂いはソルトアイスみたいな味がした。薄氷が波に砕かれる音、薄い硝子に亀裂の入るような、天使の悲鳴に近い音が響いている。

 北海道がいいね、という話だった。青年の修学旅行の話だ。

 高校最後で最大のイベント、修学旅行の行き先は先生の計らいで、生徒本人たちの多数決に一任された。

 冬の北海道なんて、温暖育ちの狂っているとしか思えない発案だったが、みんなそれに賛成した。別して、スキーに興味があるわけでも、海鮮を食べたいからでも、クラーク博士に恩恵があるわけでもない。


 オホーツク海には、人魚がいる。


 活きの良い思春期たちが北海道を選ぶ理由としては、それだけで充分だったのだ。



(楽しみだな)


 その青年はごく健全で凡庸な男子高校生であった。

 校則違反に擦りもしないストレートな黒髪に、少しばかり雑に伸ばされた前髪、背は高すぎず低すぎず、黒いブレザーを着崩すこともしない。卒業式に第二ボタンをせがまれて初めて制服に穴をあけるであろう、波風のない青年である。

 ほどほどに修学旅行を楽しみにして、人魚が本当にいるのかを夢想し、冬の北海道をまあ寒いだろうなぐらいに容易く思う。

 友達もたくさんではないけれど、二、三人の理解者はいてくれて、親友と呼べそうな人もありがたいことに一人はいた。両親は共働きの放任主義ではあったが、おかげで、青年の自立心は存外に早い段階で培われた。

 幸福、というわけではないけれど、不幸でもない。自分はこのまま草木の萌ゆる平坦な道を歩んでいくのだろう。

 そう、信じて疑わなかった。疑う余地は、なかったはずだった。


 ──未来がわかっていたなら、青年は修学旅行になんて行かなかったろう。どんな仮病を使ってでも、行かなかった。


 当日、冬の北海道は寒いなんて程度のものではなかった。生きとし生ける全ての生物を殺す意思がある。

 肌を突き破って五臓六腑が砕かれるようだ。満場一致で選んだ場所だというのに、その場にいる生徒全員がどうして真冬の北海道を選んだのかと後悔していた。誰もが自分の肩を抱き、尿意を催したかのように体を小刻みに揺らしている。

 約束どおりに連れてこられた海は、青空よりも青く、そして白かった。海面に薄氷が折り重なっていて、砂浜は雲のような雪で覆われている。


「これじゃあ、人魚なんて見えないね」


 クラスメイトの誰かがそう言う。

 少し残念ではあるけれど、青年も今は人魚よりどこか暖かな場所に移動したくて堪らない気持ちでいた。

 担任も同じ心持ちであったのだろう。「では、バスの方に移動しますよ」十分としないうちに先頭から合図がかかって列が動き出す。

 青年の班は、最後尾だった。


「あれ」

 青年の困惑した声に、友人である田口が振り返った。

「どうかした?」

「いや……なんか、歌ってる人いない?」


 田口は訝しげに眉を上げながら、周囲を概観する。辺りには、一面の青と白、漂白されたみたいな景色、ただそれだけがあった。


「潮騒の声でも聞いたんだろ」


 行こうぜ、と田口に肩を叩かれて、尾を引くような心残りを引き摺ったまま青年も歩き出した。

 白い息がたなびく。

 波に砕かれる薄氷の音が鼓膜を撫でていく。

 冷たい風の鼓動が心臓に響く。


(────あ)


「なあ、ほら。歌が────」



 青年の記憶は、そこから焼き切れている。


◻︎



 浮遊感の只中にいた。

 地に足がつかないような、水族館の水槽トンネルの真下で眠っているような感じだった。ころころと真珠のように立ち上っていく透明な音は、酸素の溢れる音だ。光を見上げる感覚が、鼓膜の内側をほんのすこし曇らせている。

 息苦しいようでいて、実際のところはそれが妙な不安感なのだと気づく。

 意識はもう瞼の裏を見ている。柔らかく、温かな感触にまだ浸っていたい気はしたが、遠くで聞こえるイルカの求愛みたいな音が、青年を緩やかに起こそうとしていた。


 重い瞼を、恐々と持ち上げる。白い光が射し込んでくる。

 図鑑でしか見たことないような極彩色の小魚が、青年の豁然と開けた視界に飛び込んできた。


「うわっ!」


 慌てて飛び起きた青年を見て、小魚たちはビリヤードの球みたいにあちらこちらへと散開していく。

 ばくばくと盛り上がる心拍に汗をかきながら、青年は信じられない思いで辺りを見渡した。

 ────青、青、青。広漠たる青が、果てしなく続いている。手前の青は薄く、奥にいくほどその色は深みを増していく。

 空と同じようなグラデーションであっても、ここが地上でないことは泳いでいた魚を見ればわかることだ。


(海。それも、海中だ。水族館でもなんでもない、どうして海中になんか……)


 修学旅行に北海道の海を見たところまでは覚えている。だが、ここに至るまでの記憶がなに一つとして思い出せない。

 まだ、夢を見ているのかもしれなかった。

 

 小魚が逃げていった先には幻のような珊瑚礁があり、魚を守るためのイソギンチャクが手招いて揺れている。

 埋め尽くされた青い色彩に、空白なんてものはなかった。……いや、“空間”はある。見上げれば陽の光が波打って降り注いでいるし、手の届かない空間は際限なく広がっているのだ。

 ただ、それを空白といっていいのか青年には判断できなかった。

 海の中に、白という概念を見出せない。空気が、酸素がないから、そう感じてしまうのだろう。息ができない空間を、人は“あいている”と思えないのかもしれない。


 しかし、どういうことか、青年はしっかり呼吸ができていた。濡れているような重さも無重力感もない。

 よく観察してみれば、青年の半径五メートル付近に薄い膜のようなものが張られていた──囲われている、といった方が正しいか──。金魚すくいで掬った金魚を入れる透明な袋に似ている。

 

 青年はゆっくり立とうとして、ふと、足元が柔らかいことに気づく。羽毛を踏んだかのような感触だった。

 下を見てみると、カラフルなパッチワークの掛け布団がぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。どうりで寒さを感じなかったわけだ。後ろには見慣れた便座タイプのトイレもあった。

 薄い膜はぶよぶよしていて、基本的には大きな円を保っているようだが、どんな形にも変形できそうである。


 まるで、テラリウムの監獄だ。


 青年は遅れて自分の掌や、体を見て触って、生きている実感を得た。制服はそのまま、心臓も緊張と焦燥に従って脈打っている。

 掌には海面を通して透けた陽の光が大きな細胞のように揺れている。試しに薄い膜を強く押してみたり、爪で引っ掻いてみたりしてみたが、大した収穫は得られなかった。


(出口らしいところもない……いや、出口を見つけたってどうするんだ。ここから出られたとしても溺死するのが関の山だろう)


 降り注いでいた斜光が、突如として暗くなった。

 翼を広げるような暗がりが一つの影だと気づいたのは、目の前を通り過ぎる真っ赤な鱗を視界に入れてからだった。

 ────それが魚の尾だと、瞬時には思い至らない。あまりにも大きく、なにか、朽ち果てた貝殻の死体が幾重も折り重なって通ったようにも見えたのだ。鱗はところどころ剥がれていて、コンクリートみたいな白っぽい地肌が小さく覗いている。



「あっ、お。起き、起きた! 起きたね、かあいこちゃん」



 斜光にも似た声で、自然と視線が上がる。

 テラリウムの真上を、巨大な尾が悠々と通っていく。影の体長は、優に三メートルは越していた。人の生き血で彩ったかといった赤い鱗は、その尾鰭にかけて濃い紫のグラデーションをつくり、毒々しい色彩は壊死を彷彿とさせる。

 事実、揺らいでいる尾鰭は右側の片方しか存在していなかった。

 鯨とも、イルカとも違う。

 体に当たる部分は人間だが、それ以上に美しく苛烈な肢体を誇っていた。しなやかな逆三角形の胴体。泳ぐのに適した筋肉だけが発達しているのだとすぐにわかる。


(────人魚)


 逆光で暗くなった人魚の、翡翠の目がこちらを見下ろしている。


 ナイフをデタラメに刺したかのような黒い瞳孔が小刻みに収縮と膨張を繰り返していて、どこを向いているのかわからない。かろうじて人魚だと判別できるが、その異形はあまりに凶悪なものだった。

 ただ、自分を見ているのだということは青年自身が──獲物が──よく理解していた。

 夢ならば、醒めてほしい。だが、この瞬間が夢ではないことを、他でもない青年の竦然たる心臓が痛いほど教えてくれていた。


 人魚の口が三日月に開く。びっしりと詰まったサメの歯は人間の歯より驚異的な殺意を孕んでいる。死に色や形があるのなら、まさしくこんな造形をしているに違いなかった。


「おめめ、まんまるにしてるの? びっくりしてるんだ。だいじぶよ」人魚は微睡んだ声でそう言った。


 人魚の目は赤ん坊のように弛み、青年の血の気が零度を下回る。

 後にも先にも、恐怖で気を失いかけたのはこれが初めてだったろう。


「今日から、おれが、かあいこちゃんの飼い主さんだから、ね。ね?」



 海面に薄氷が張っていた。

 修学旅行、北海道のオホーツク海。二泊三日の一日目。


 その日から、人魚と青年の、長い、長い、海底監禁暮らしが幕を開けた。



◻︎



 青年は人魚のことを「あやめ」と呼んだ。他に呼び方もなかった──個体識別音はあるらしいのだが、青年には発音できなかったのだ。

 漢字で「殺め」と書く。いつ殺されてもおかしくないなという恐怖からつけた名前だった。人魚はある程度の意思疎通はできるけれど、読み書きや難しい言葉は危うい。

 

「き。君のこと、あやめって呼んでもいい?」

 人魚に飼われ始めて一週間が経った頃である。

 青年は、この七日の間で様々な脱出方法を試みてみたが、水中で人間ができることなどたかが知れていた。携帯もスクールバッグも地上にあり、外部との連絡手段は完全に断たれている。今の時点で、青年が人魚の手から離れられる手段は溺死以外にない。

 死にたくはなかった。少なくとも、一秒でも長く生きられるなら、青年はナマコの口にだってキスをしてやろうと思った。その覚悟として、青年は人魚と共存していく──共存できるかはともかく──ために呼び方を決めたのだった。

 人魚は翡翠の目を大きくさせた。

「あやめ」

「気に入らなかったら、その……」

「お」

「お?」

「おれのために、お名前、くれるのおっ?」


 それまで人魚の目を直視することはできなかったが、水中のあらゆる光を屈折させた輝かんばかりの翡翠の目を、青年はこの時に初めて綺麗だと思った。


 目元にかかる前髪のせいでよく見えなかったけれど、あやめは暴力的なほど整った顔立ちをしている。

 頬に無駄な贅肉はなく、鼻筋は十万の筆で描かれたようにシュッと伸びている。人魚といえば色素の薄い髪色を想像するが、あやめの髪は濡羽の色をしていた。頸椎に沿うようにして内側に流れたウルフカットは、なにだかインディーズでアルバムをいくつか出しているシンガーソングライターのような印象を与えて、親近感が湧く。

 もちろん、バンドマンには耳や背中や前膊に半透明のヒレなんて生えてはいないのだが。


 しなやかに逞しい体にも豊満な尾にもたくさんの古傷があった。

 それらは、痛々しい印象より、研磨された芸術のような軌跡を思わせる。噛み傷や裂傷や、引き攣れた皮膚の勲章らしい古傷ばかりだった。


 ただ、そうしたあやめのすべてを恐怖に落とし込めているのは、やはり、あの目だ。


 睫毛のない一重の瞼、意外に大きい瞳は翡翠の色をしているが、しかし、瞳孔はナイフをデタラメに刺したかといったような亀裂が広がっていて、まったくどこを見ているのかもわからない。笑うとまあるい瞼は嘘みたいに糸目になり、それは虐殺を楽しんでいるようにも見えるほど恐ろしいものだった。

 青年は幾度かあやめの笑顔に寿命を削らされている。


「かあいこちゃん、おにぎりもてきたよ」

「あ、ありがとう……」



 二週間が経っても、あやめは青年を喰おうとはしなかった。


 あやめは青年のことを「かあいこちゃん」と呼び、薄い膜に包んだ食料を持ってきてくれる。どうやら、地上の人間とは上手くやれているようだった──他の人間に自分の存在がどう伝えられているのかは知れないが──。

 足りないものは、頼めばある程度は調達してきてくれる。おかげで青年は飢えることもなく、海中とテラリウムの限られた空間でも健全に生きられていた。


「おいし?」

「えっ、あ。うん。美味しい」

「イッ! かあいい! いっぱい、いっぱいお食べて!」


 あやめは青年の一挙一動に歓喜し、注視し、舞い上がった。

 人間がネコちゃんを可愛がるのとそっくりそのまま同じである。青年があくびをするだけで「ンアーッ!!!! おっきいあくび! かあいいねえ!!」青年が寝ようとするだけで「寝……? 寝……? さむい……? 寝……ネーッ!!」

 そんなふうにして、青年を日がな一日中「かあいこ、かあいこね」と絵画のように眺めて愛でるのだ。

 触り心地の良い布団に、温かい食事に、子猫の如く愛でられる毎日で、青年の警戒心は日が経つにつれ少しずつ希釈されていった。


 「かあいこちゃん、見て。見て」


 あやめは昼の海底散歩から帰ってくると、必ず道中の“拾い物”を青年に見せたがる。

 今日は淡いパステルカラーの小魚だった。ハナゴイという種類だったと思う。ハナゴイは、あやめの右手の中でビ チビチと揺れている。逃げたくて堪らないのだろう。


「こんな色してるんだ。黄桃みたいで、すごいね」

 青年が薄い膜越しに笑うと、あやめの瞼も喜悦に細まる。ソフトクリームを持った真夏の少年のようだった。澄みきった青い海中に赤い風船も見えそうだ。「えへ。へ、かあいいねえ。あ。あ、でも、ね、かあいこちゃんの方がうんと、かあいいよ。だいじぶよ」

 あやめは、かわいいものが好きらしかった。そして、その許容範囲はかなり広い。小魚はもちろん、得体の知れない触手生物もかわいいと言って、一つ一つを青年に見せてくる。

 青年は青年で、かわいいと言うあやめの楽しそうな顔がなにとなく気に入っていた。

 ハナゴイの小さな口がはくはくと動いている。そこから悲鳴のようなあぶくが漏れる。魚の顔色などはわからないが、あやめの大きな手に鷲掴まれて必死に身をくねらせている様子は、絞首台に縛られている無実の被害者のようでどうにも哀れっぽかった。


 青年は曖昧に笑った。「あの、もうそろそろ離して、──」


 あやめの口がパカッと開かれる。矯正しがいのありそうなギザ歯が、あっという間にハナゴイの頭を切断した。赤い色彩が煙たく海水に溶けていく。

 一秒の間もなかった殺戮に茫然としていると、あやめは指についた魚肉をしゃぶり、骨の髄まで嬲るような笑みを愛くるしいぐらいに滲ませて、


「かあいいけど、食えるから」


 薄くなった青年の警戒心はそうなるべくして絶望へと転移した。まだ全然恐ろしかった。彼は死そのものである。人魚に倫理も道理も人情も通じない。


「……そっ……かあ……」


 青年は自分の生存率を祈って少し泣いた。


◻︎


 三ヶ月も経つと、あやめは友人である人魚たちを代わる代わる連れてくるようになった。

 傾国さえ叶うであろう美女や一国の王子のような美男の人魚が、ステンドグラスみたいに美しい尾を揺らして青年を見にくる。あやめよりかは恐ろしくないが、好奇心に丸くなった美しい顔に見つめられるのはすっかり肩身の狭い思いであった。

 ペットショップに売られている子猫や子犬もこんな心地なのかも知れない。青年はいたたまれずに敷いてある布団を手繰り寄せた。すると、周りの人魚は鉄琴を鳴らすような、悶絶にも近い喝采を浴びせてくる。……布団を手繰り寄せただけである。青年は羞恥とこそばゆさにまた泣きたくなった。


 人魚たちは言葉を使わない代わりに、歌うように会話する。イルカの周波数とも似ている気がするが、それよりももっと透明だ。

 あやめは青年を友人に自慢し、友人である人魚たちもまた嬉しそうに尾鰭を揺らして青年を眺めた。


 彼らは、青年にバブルリングをよく披露してくれる。

 唇に空気を溜めて、息を吐くと同時に両手で押し広げるのだ。

 海、それは透き通った透明の集合体で、本来、“色”は存在しないように思える。形もない、空の生き写し。空を泳ぐことはできないが、海という空は泳ぐことができる。

 透明なはずの海中に、可視化できる気泡のリングがその輪を広げていく。高速に回転している動きもわかる。

 少しずつ千切れて、一粒の泡になっていくさまは、水泡でできたネックレスのようでもあった。薄い膜に当たると、それは溶けるようにして消えていく。ぷくぷく、ぷくぷくと、遠い海面に浮かんでいく。

 青年はその気泡に触れることも、追いかけることもできない。ただ、眺めることしか。

 空と同じだ。


(……父さん、母さん、みんな、今頃どうしているだろう)


 寂しいわけではない。ただ、誰か、一人でも心配してくれていたらと思うのだ。当然、地上では何かしらニュースになっているのだろう。『北海道 修学旅行中に男子高校生が一人行方不明』というような見出しで、新聞にも載ったかもしれない。

 その中に、例えば、両親や親友が、心から自分の生死を想っていてくれないかなと思う。自分の価値など気にしたことはなかったけれど、せめて、誰か一人ぐらいには消失感みたいなものを与えられていやしないかと願ってしまう。


(それっていうのは、けっこう贅沢な願いになってしまうのだろうか)

 

 テラリウムに降り注ぐ陽の光は、海面で反射して、その残火だけが暖かく燻っている。


「かあいこちゃん」あやめは青年の顔を覗き込んだ。

 青年は視界に広がったナイフの目にいくらか驚いたが、彼がこちらに危害を加えないのはわかっていることだった。

「どうしたの」

「つまんない?」


 心から憂う声だった。一重の目が眉と同じように垂れて、長い前髪が揺れている。

 地上のことを思っていたんだよ。そう言ったら、彼はどんな反応をするのだろう。しかし、あやめが聞いているのは、友人たちとの遊びが楽しくないのかということなのだ。

 青年はどこも痛くないように俯いて、首を横に振った。


「そんなことない。楽しいよ」


 嘘ではなかった。

 その日から、友人の人魚たちも頻繁に青年を鑑賞しに訪れるようになった。手を振り返せば歓喜され、挨拶すれば周りの人魚も総出で呼ばれ、おにぎりを食べているとたくさんの人魚たちがいっぱいのヒトデや小魚やタコやイカをシメて持ってきてくれる。もちろん、食べられはしない。

 あやめに言語を教わったのか、何人かの人魚は「こにちぱ」と挨拶を返してくれる。しかし、それでもきちんと喋れるのは、あやめだけだった。


「れんしゅした。人間、飼うの夢だった」ウニの棘を一本一本へし折っていく遊びをしながら、あやめはそう言う。

 飼わないで……とも思ったけれど、青年はあやめの努力には素直に感心していた。

「すごいなあ、じゃあ、この布団も地上の人と話して買ってくれたの?」

「ううん」

「え。違う?」


 確かに、青年を包む布団はあまり市販では見られない色とりどりのパッチワークデザインで縫われているし、誰かに買ってもらったとも少し違うのかもしれない。

 へし折った黒い棘でウニのやわこい部分をいじくっていた手を止めて、あやめは口角を満面に吊り上げた。


「おれが、鳥の羽捥いでつくった! あたたか?」


 掛け布団はテラリウムを埋め尽くすぐらいに何枚も折り重なっている。つまり、一羽、二羽で作れる量ではなかった。

 青年は偲ぶように布団に身を埋めて、静かに泣いた。


「うん……あたたかいよお……」


 自分がなにに泣いているのか、もはやそれすらよくわからないでいた。ただ、青年は自分の命の重さを考えると泣かずにはいられなかったのだ。少なくとも、あやめにとっては、鳥何十羽分よりか青年の命は重いようである。それに安堵している自分にもまた悲しくなってくる。


 どれだけ涙で濡れても、布団の暖かさは決して変わらなかった。


◻︎


 夕陽の茹だる陽炎が、海面を焦がす季節だった。



 ある日────海中に拉致されてから、半年が経つ頃だったろう。あやめは一人の人魚を連れてきた。


 あやめは、珍しく嫌そうな顔をして、その人魚の接待をしている。

 隣にいるのはあやめよりよほどガタイの良い雄の人魚だった。誰かを甚振るために生まれてきたかのような、いやらしい笑い方をする。

 なにを話しているのかはわからなかったが、その人魚はあやめの片方しかない尾鰭を指差して嗤っていた。あからさまに馬鹿にしているのが見て取れる。自分に関係のないことでも、青年は気持ち悪くなるような不快感を覚えた。

 あやめも、反撃したらいいのに。

 そう思えど、彼は苦々しく眉を潜めるだけで特に言い返す素振りも見せない。

 相手の人魚の尾がわざとらしくあやめの尾に当たる。彼の眉間に深い皺が刻まれる。それを嘲られても、やはり何も言わない。


(『大人になる、ということは我慢を覚えるということです』)


 道徳の授業で、先生はそう言った。あやめは、きっと大人の対応をしているのだろうと思う。

 青年には、それでも我慢すべきタイミングというのが理解できない。馬鹿にされて、嗤われて、なにを我慢すればいいというんだろう。この怒りは不条理でも理不尽でもなんでもない。正当なものだ。

 あやめは人間を飼いたいといって青年を誘拐し、挙句、海中に監禁するような頭のネジがほとんど抜けたどイカれ人魚だが、彼はたったの一度も青年を傷つけるようなことをしなかった。

 それどころか、青年の眠りが少しでも深いと「かあいこちゃん? かあいこちゃん……かあいこちゃんッ!? 生きてる? やだ、やだよお、起きて。起きて、死んじゃやだ、かあいこちゃん……」そんな具合に容易く絶望し号泣し、朝の四時ぐらいに起こしてくるほどなのだ。

 ちいさき命を、ほんとうに小さくか弱いものとして大切に扱ってくれる。


 あやめは、優しい人魚だ。


 大きな灰色の尾を揺らして、その下卑た人魚は青年のテラリウムの前にきた。青年の隅々までを視線で舐めてくる。玩弄するような爛れた目つきだった。青年は真っ直ぐに睨み返すが、灰色の人魚は怯みもせずに侮蔑して嗤った。悪意が岩のように聳えている。

 青年のハラワタはますます煮えていった。

 規制の緩い日本ではちらほらと見かけるが、海外で中指を立てるのは下劣極まりないジェスチャーと聞く。下手すれば開戦の合図にもなり得るのだと。その定説は“海中”にも当てはまるのだろうか。

 試してみなければわからない。いや、試してやらねば気が済まない。

 手に汗が滲む。学校では温暖な友人たちに囲まれ、一度だって悪口も暴力すら振るったことはなかった。悪意の出し方に慣れていない。たとえ殺意があったとしても、その相手に刃物を向けた時点で正気に返ってしまう、それが青年という人間だった。

 青年は六秒後にも消えなかった怒りに任せて、グ、と握り拳に力を込めた。

 あとは、中指を立ててやるだけだ。その、下品で不相応な顔に────……


 真っ赤な色彩が、視界に燻る。

 どくどく、どくどく、明滅を繰り返す鼓動に、青年は自分がマバタキをできていないことに気づく。だが、それは、中指を立てるための緊張からではない。


 どくどく、どくどくと、目の前にいる人魚の首から、赤い噴煙が上がっている。一本の長い棒が、人魚の太い頸動脈に深々と突き刺さっていた。


「え?」という顔をした人魚と青年が見つめ合う。その悲惨さを本能より遅れて認識する。絵の具で汚れた水を突然浴びせられたみたいに、思考が切り離された顔をしていた。

 しかし、青年だけは灰色の人魚よりか脳の浅いところで現実にしがみついていた。


(知ってる。あの形……モリ、銛だ)



 人魚の背後に、ナイフの目を殺意で研いだあやめがいた。



「ギャァアッ!」


 あやめが銛を引き抜くと、堰き止められていた血液が人魚の首から一気に霧散して海中を揺蕩った。急ブレーキを踏んだトラックにも似た甲高い悲鳴が海中に轟く。

 青年は思わず耳を塞いでしまったが、あやめは機に乗じて自分の何倍もの面積がある相手に食らいついた。

 二人の尾が激しく水中を打ち付け、白い砂を巻き上がらせる。辺りにいた小魚たちは雲を霞と一斉に逃げ帰って、粉砕された珊瑚礁が飛散する。

 青年も後ずさったが、テラリウムの内側には砂も珊瑚礁の残骸も入ってこない。伝わるのは、尾と尾が打つかり合う衝撃と、聞くに耐えない絶叫。ありあまる殺意のみだ。


 白い砂の煙に、赤い色彩がその濃度を増していく。視界が悪く、現状を把握できないが、シャチがサメの内臓を食い荒らす惨劇が凄惨に続いていた。

 日頃、かあいこ、かあいこねと青年を可愛がってくれるあやめの体や尾には、数え切れないほどの古傷が刻まれている。

 その全てが彼の歴戦を物語っていた。


 勝敗は、明々白々であった。


 白煙が沈んでくると、あやめの背中が見えてくる。焦げた夕焼けに赤く染まった気泡があやめの皮膚に張り付いては離れていった。

 静寂の中には、灰色の鱗の破片と藻のような肉片が漂っている。


「……あ。あや、──」


 ぐるんとナイフのスリットを入れた眼球が青年の方へと向く。

 青年は自分の体が食い荒らされる想像をして、恐怖で失禁しそうになった。が、あやめは青年のいるテラリウムにすぐさま寄り縋ったかと思うと、さめざめと眉を垂らしながら泣き始めた。

  大きな涙が、粒になってひらひらと舞い上がっている。海の濃度が少し濃くなる気がした。


「こあくない、こあくないよお。かあいこちゃん、おれ……嫌いにならないで……」


 先ほどまで血飛沫を食らっていた人魚とはまるで別人のようである。あやめの体のどこにも傷はなく、殺意も綺麗さっぱりに消散している。


 「怖くない」そうあやされても、青年は温室生まれ四季育ちで、擦り傷や採血以上の血などみたことがないのだ。ましてや、殺し合いなど。気絶しなかっただけ、良い方だろう。

 けれど、テラリウムの薄い膜に頬を押し付けて、わんわん泣いている飼い主ことを青年はどうしてか嫌いにも、憎んでもやれなかった。

 張り付いているあやめの頬を、青年は優しくつつく。


「嫌いになんて、ならないよ」

「ほんとう?」

「本当。だから、泣かないで」

「ごむぇんね、かあいこちゃ……おあびにこれあげるから」


 あやめの腕がテラリウムの壁を突き破ってくる。青年は小さく肩を跳ねさせた。

 食料も他の生活必需品も日頃からこうやって届けられる。この薄い膜は自在に物を通すことができた。破れもしないから海水が入ることもない。

 差し出されたものは大きな灰色の綺麗な鱗だった。それがなんなのかは自明である。

 青年は全身に鳥肌が立つのを感じて、笑顔のまま首を横に振った。


「えんん……い、いらな……別に、だいじょうぶだよ。ないないしてね」

「どして? 人間、きらきらお好きでしょ? かあいこちゃんはお嫌い?」

 青年は返答に迷ったが、「いつも持ってきてくれるヒトデとかが好き」と答える。あやめはそれで納得したようで、そか! と言うや否やとっとと鱗を手放した。

 沈んでいく鱗からは、まだ冴え冴えと赤みを帯びた血がオーロラのように溶けて流れていた。

 

「あ、あのさ」


 青年は手指を揉みながら、あやめの顔色を窺う。彼はもう嘘みたいに泣き止んでいる。

 真っ直ぐに裂けて、今に血が噴き出すんじゃないかと思うような黒い瞳孔。その瞳孔に見つめられてしまえば、もう何も言えなくなることはわかっていた。青年はなるべく、あやめの首筋から内巻きに沿っている黒髪だとか、筋張った鎖骨だとか、薄い唇だとかに意識を注いだ。


「何も、殺さなくてもよかったんじゃ……ないかなって……思って」


 あやめは不思議そうに口をつぐんでいた。言葉を選ぶような沈黙ではなく、思いもよらぬことを聞かれて驚いているというような感慨であったろう。その口が豊満な弧を描くのに、そう時間はかからなかった。

 瞼は糸目に細まり、殺人的な歯が覗く。歯の隙間にはまだ肉片や血が薄く漂っていた。

 片方しかない尾鰭をゆったりと揺らし、恥ずかしがる少女のように両手を組んで肩を竦め、あやめは喉を鳴らした。


「おれがかあいいと思ってるものを、馬鹿にするやつは殺していいんだよ」


 治外法権の独裁国家である。


 青年はついに「アッ……そ、なるほど」としか囀れなくなってしまった。優しい手つきで手招くあやめに逆らえる度胸など、持ち合わせてもいない。青年は膝立ちのままあやめのそばに寄った。

 あやめの笑顔は、どこまでも無垢で、無邪気で、そして最悪にかわいい。


「かあいこちゃんは、ずっとずっとかあいいからね。おれのために生きていてね」


 あやめの唇が柔らかく青年の額を押し返す。

 水泡越しのキスに、小さな気泡が涙さながらに浮かんで消えた。




 ────人魚に飼われて、もうすぐ一年が経つ。



 鯨が子を産んだらしく、最近では夜に響く子守唄を一人の人魚──……あやめと一緒に楽しみにしている。




 この海という監獄の中で。

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