第47話 すべてが出尽くした箱の底
無事に、いや、異常な熱と震えの中で乗り切ったあの役員会議から数ヶ月後。
ついに発売を迎えた『クイック・シェフ』シリーズは、事前の予想を大きく上回る売り上げを記録し、早くも順調に軌道に乗り始めていた。
今日はその祝勝会も兼ねて、俺たち第二開発部のメンバーは、会社近くの少し小洒落たイタリアンレストランでランチミーティングを行っていた。
アンティーク調のランプが温かい光を落とすテーブルで、若手社員たちがさらなる新商品のプロモーション案について活発に意見を交わしている。俺は人当たりの良い爽やかな主任の仮面を被り、相槌を打ちながらトマトソースのパスタを口に運んでいた。
斜め向かいの席には、今日も隙のないグレーのビジネススーツに身を包んだ網代真緒菜が座っている。
「亜久嶋主任、長かった開発の道のり、本当にお疲れ様でした。網代主任との連携、完璧でしたね」
「いやいや、俺はただのサポートだよ。すべては網代の正確なデータ分析のおかげさ」
「またまたご謙遜を。でも……」
和やかな空気が流れる中、ふと向かいの席に座る網代真緒菜に視線を向けると、彼女はテーブルクロスの上に置いた右手の人差し指と中指を、密かにクロスさせていた。
「……っ」
そのわずかな指先の動きを見た瞬間、俺の心臓は激しく跳ね上がり、左手にはめられたセンサーリングが即座に俺の高ぶる心拍数を彼女の端末へと送信した。
そのハンドサインは、以前彼女のタワーマンションで教えられた秘密の合図。
『私の足を踏みなさい』という、ご主人様からの絶対的な命令を意味するサインだった。
彼女は時として、自らの指示で俺に自分自身の体を痛めつけさせるという、自傷行為のような歪んだ欲求を突きつけてくることがある。
資産家の令嬢として抑圧されてきた彼女の心は、他者を支配するサディズムと、極限まで痛めつけられるマゾヒズムという究極の二重性癖によってのみ解放されるのだ。そして、その狂気に満ちた欲求の捌け口として、俺という専属のオモチャが選ばれている。
俺は周囲の若手社員たちが新商品のプロモーション案について談笑しているのを横目に、テーブルの下でゆっくりと右足を動かした。
そして、真緒菜の黒いピンヒールに覆われた華奢な足の甲を狙い、俺の硬い革靴を乗せ、グッと体重をかけて強く踏みつけた。
「……っ」
真緒菜の顔が、ほんの一瞬だけ苦痛に歪む。だが、彼女はすぐに鉄面皮を取り繕い、痛がるのを必死で押し殺した。
パスタをフォークで巻き取る手は冷静そのものだが、その銀縁眼鏡の奥の瞳は、痛みと被支配の快感に潤み、ドス黒い愉悦に満ちているのがわかった。
俺が彼女の足を踏みつけながら、その反応に仄かな背徳感と被支配の悦びを感じていた、その時だった。
不意に、俺の足の甲に鋭利な激痛が走った。
「っ……!?」
ビクッと肩が揺れるのを、すんでのところで抑え込む。フォークを持つ俺の手が微かに震えた。
テーブルクロスの下に視線を落とすと、真緒菜がもう片方の足を持ち上げ、尖った黒のピンヒールを俺の革靴の上から容赦なく踏みつけてきているのが見えた。
グリグリと、硬いヒールの先端が骨を軋ませるように押し付けられる。
痛い。間違いなく激痛だ。
机の下で、一番下には俺に踏まれている真緒菜の足。その上に、彼女を踏みつける俺の足。さらにその上から俺を踏みつける、真緒菜のもう片方の足。三つの足がサンドウイッチのように重なり合っていた。
だが、この異常な構造が意味する真実に気づいた瞬間、俺は痛みを忘れるほどの、背筋が凍りつくような戦慄を覚えた。
真緒菜が上から俺の足を踏んで痛み付けるということは、真ん中にある俺の革靴がさらに下へと押し込まれることを意味する。それはつまり、一番下で踏まれている彼女自身の足へも、その痛みが倍になって跳ね返ってくるという事だ。
俺に激痛を与え、支配者としてのサディズムを満たすと同時に、俺の足というクッションを介して自らのもう片方の足を極限まで痛めつける。
自分が痛めつけられるために、相手を痛めつけ、結果的に自分自身に倍の苦痛と快楽を強いる。
なんという、底なしの狂気だろうか。
俺は痛みに顔を歪めるが、同僚たちの手前、それを必死で隠した。
かつては他人の弱みを握り、安全な場所から見下して優越感に浸っていたドSの俺。だが、そんな俺の浅はかな悪意など、彼女の抱える深淵の前ではまるで児戯に等しかった。
俺は、真緒菜のさらなる歪んだ癖と、その異常なまでの心の闇に震え上がった。
だが、同時に。
その底知れぬ狂気の深淵を見せつけられ、俺の脳髄は完全に焼き切れていた。
恐怖や屈辱を通り越し、俺の心に激しく湧き上がったのは、この美しくも恐ろしい怪物に対する、狂信的なまでの『尊崇』だった。
一生この人についていこう。
こんなにも深く、暗く、そして甘美な闇を抱えた人間がこの世に存在するのか。この人が見ている深い闇の世界に、俺も少しでも近づきたい。彼女の狂気に満ちた魂の底に触れ、その一部となって永遠に溶け合いたいと、切に願うようになっていたのだ。
「んっ……」
俺が足の激痛と、彼女への狂信的な崇拝に気持ちよく悶え、顔を赤らめていると、向かいの席の後輩社員がニコニコしながら口を開いた。
「お二人って、いつもは距離あるようで、たまに相性ピッタリに見える時があって不思議なんですよね」
その後輩の無邪気な賞賛の言葉に、俺と真緒菜は一瞬だけ視線を交差させた。
相性ピッタリ。
それはそうだ。俺たちは今、この和やかなテーブルの下で、誰にも言えない究極の秘密を共有し、互いの骨が軋むほどの痛みを分け合いながら、歪んだ欲望を満たし合っているのだから。
「仕事上のパートナーとしては、これ以上ないくらい信頼しているからね。なあ、網代?」
「ええ。亜久嶋主任の『サポート』には、いつも助けられていますから」
真緒菜は冷徹なエリートの顔を崩さずに答えるが、その銀縁眼鏡の奥の瞳は、ドス黒い愉悦に満ちていた。
表向きは、厳しい実力主義の東都フーズを背負って立つ、完璧なエリートの同期同士。
誰もが羨むような優秀な社員として、俺たちはこれからもこの会社で出世街道を歩んでいくのだろう。
だが、その厚い仮面の裏側では、俺は網代真緒菜の心の闇に完全に魅入られ、彼女の究極のオモチャとして飼い慣らされている。
かつて他人の弱みを握り、絶対的な支配者として君臨していたと思っていた俺は、今やこの怪物の底なしの闇にひれ伏し、痛みと快感を与えられることだけを生きがいとする完全な狂信者へと成り下がった。
いや、あえて言おう。成り上がったと。後悔など、微塵もない。
あの夜、俺が興味本位で復元した『パンドラのゴミ箱』からは、俺の傲慢なプライドを粉砕する絶望と、逃げ場のない絶対支配という災厄が飛び出してきた。
だが、すべてが出尽くした箱の底には、神話の通り『エルピス』が残っていたのだ。
真緒菜という美しき怪物の底なしの闇にひれ伏し、究極の奴隷として永遠に飼い殺されるという、俺にとっての至高の「希望」が。
ああ、本当に――あのゴミ箱を、開けてよかった。
いや、あえて言おう。開けさせていただき、ありがとうございましたと。
第1章 完
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