第44話 逆監禁
東京の夜景を眼下に収める、超高級タワーマンションの最上階。
宝石を散りばめたような光の海を背景に、網代真緒菜は革張りのソファに深く腰を下ろしていた。ワイングラスを片手に微笑むその姿は、オフィスで見せる地味な堅物社員とはまるで別人の、圧倒的な支配者のオーラを放っていた。
俺、亜久嶋大輝は、首に巻かれたレザーのチョーカーを無意識に撫でながら、彼女の前に立っていた。
これまで、週末のたびに『マネージャー』としてイベントに同行させられ、あるいはこの部屋に呼び出されては、過激な衣装を着せられた彼女の足元で奴隷のように這いつくばってきた。だが、今日の彼女の雰囲気は、いつもとは決定的に何かが違っていた。
チャリン、と。
不意に、冷たい金属音がリビングの静寂を破った。
「え……?」
真緒菜が俺の足元に向かって無造作に放り投げたのは、銀色に光るカードキーだった。
俺は戸惑いながらそれを拾い上げ、彼女の顔を見つめた。
「今日から、亜久嶋くんはこの部屋で私と一緒に暮らすの。わかった?」
真緒菜はワイングラスを傾けながら、まるで明日の天気を告げるような、感情の起伏を一切感じさせない声で宣告した。
「い、一緒に暮らすって……」
「言葉通りの意味よ。あなたは私の専属のオモチャなんだから、ご主人様の目の届くところに常に置いておくのは当然でしょ?」
一方的な『同棲』という名の、逆監禁生活の開始宣言だった。
俺の脳がその言葉の意味を処理しきれず、激しく混乱する。
一緒に暮らす?この、セキュリティに守られた要塞のようなタワーマンションで?
「お、俺の賃貸マンションは……」
俺は震える声で、自分がこれまで暮らしてきた部屋のことを口にした。
真緒菜の手のひらの上で踊らされていたとはいえ、あそこは俺にとって唯一のパーソナルスペースであり、プライバシーが守られた場所だったはずだ。
「ああ、あれ?解約の手続きはもう済ませておいたわ」
「……は?」
「あそこのお部屋はパパにお願いして網代不動産で買い取ってもらってオーナー権限で追い出させてもらったわ。管理会社にも連絡済みで、退去費用もすべて支払い済みよ。荷物も、必要なものだけ業者に運ばせてあるわ」
真緒菜は悪びれる様子など微塵もなく、事も無げに言ってのけた。
「そんな……勝手に……っ!」
自分に何の相談もなく、住む場所すら勝手に奪われ、解約されていた。
その事実に、俺は背筋が凍るような恐怖と動揺を覚えた。
いくらなんでも、やりすぎだ。他人の契約を勝手に解約するなんて、犯罪すれすれの行為じゃないか。だが、資産家の令嬢である彼女の財力と、裏で動く伸治のような人間がいれば、それすらもいとも簡単にやってのけてしまうのだろう。
「あっちの部屋を見てごらんなさい」
真緒菜が顎でしゃくった方向、ゲストルームと思われる部屋の扉が開いていた。
俺はふらつく足取りでその部屋へと向かい、中を覗き込んだ。
そこに置かれていたのは、たった二つの小さな段ボール箱と、見慣れたスーツケースだけだった。
「これ、だけ……?」
俺は這うようにして段ボール箱に近づき、中身を確認した。
入っていたのは、会社に着ていくための数着のスーツと、最低限の下着、そして業務用の資料だけ。
かつて俺が休日のたびに秋葉原に通い、買い漁っていたジャンク品のHDD。それらを復元するためのツールや、俺の『覗き見趣味』を満たすための機材一式。俺の歪んだアイデンティティを構成していた私物は、何一つとして持ち込まれていなかった。
『必要なものだけ運んであるわ』
真緒菜の言葉が、頭の中でリフレインする。
彼女にとって、俺の過去の趣味や、俺個人のアイデンティティなど『不要なもの』なのだ。
この部屋に持ち込むことを許されたのは、東都フーズのエリート社員としての表の顔を維持するための道具だけ。
俺の過去は、俺の生活は、完全に消し去られた。
今日から俺は、何の色も持たない、ただの『網代真緒菜のオモチャ』として、この部屋で新しく生まれ変わらざるを得ないのだ。
「不満なの?」
背後から、氷のように冷ややかな声が降ってきた。
振り返ると、真緒菜が腕を組み、冷酷な眼差しで俺を見下ろしていた。
「勝手に部屋を解約されて、荷物も捨てられて。……文句があるなら、言ってみなさいよ」
「あ……ぁ……っ」
「でも忘れないでね。私がいなきゃ、亜久嶋くんの社会的な命は一瞬で終わるのよ?」
彼女の瞳には、一切の慈悲はなかった。
俺の違法なデータは、すべて彼女のクラウドに握られている。そして、首に巻かれたチョーカーと左手のセンサーリングが、俺が今、彼女に対してどれほどの恐怖と興奮を抱いているかを、残酷なまでに正確に伝えているはずだ。
逃げ道なんて、最初からどこにもなかった。
そして何より恐ろしいのは、俺自身が、その逃げ道のない絶望的な状況に、抗いがたい『安堵』を覚えてしまっていることだった。
自分で考え、自分で選択し、他人の顔色を窺って生きる日常。
それらをすべて放棄して、この圧倒的で美しく、残酷なご主人様にすべてを委ねてしまえば、どれほど楽だろうか。
俺はゆっくりと床に膝をつき、真緒菜を見上げた。
「……いや。不満なんて、ありません……」
俺の口からこぼれ落ちた言葉は、脅されて言わされたものではなかった。
俺自身の心の底から湧き上がった、完全なる降伏と受容の言葉だった。
「俺は……俺のすべては、真緒菜様のものですから……っ」
俺は彼女の足元に這いつくばり、その冷たいつま先に恭しく額を擦り付けた。
真緒菜の冷たい眼差しに見つめられながら、俺は自ら進んで、この豪華で絶対的な鳥籠の中に入ることを受け入れたのだった。




