第1話 エリート社員の歪んだ裏の顔
俺、亜久嶋大輝は、大手食品会社「東都フーズ」で商品開発部の主任を務めている。俺の武器は、持ち前の愛想の良さを活かした企画立案と他部署との折衝だ。自分で言うのもなんだが、現在は空席となっている次期課長のポストを巡る出世レースの筆頭候補でもある。第二開発部のフロアは今日も、激戦区のプレッシャーからくるピリピリとした緊張感に包まれながらも、表面上は和やかな空気を作り合っていた。
「おい聞いたか?次期主力商品の『クイック・シェフ』シリーズ、亜久嶋主任のチームで役員会に提出が決まりらしいぞ」
「さすがだな、亜久嶋さん。数字と理屈ばかりで冷たいもう一人の主任と違って、いつも爽やかで後輩の面倒見もいいし、仕事も完璧じゃないか」
「本当、うちの部署のエースですよね」
ふん、当然だ。俺がどれだけ緻密に計算して立ち回っていると思ってる。お前らみたいな無能と一緒にすんな。
心の中で同僚たちを見下しながら、俺は謙遜してみせた。
「いやいや、みんなの協力があってこそだよ。俺一人の力じゃないさ」
「またまた、ご謙遜を!」
そんな和やかな空気を切り裂くように、氷のように冷たい声が響いた。
「亜久嶋主任。よろしいでしょうか」
感情の起伏を一切感じさせない淡々とした声。静寂が訪れたフロアで、ゆっくりと立ち上がったのは、同期の網代真緒菜だ。彼女はデータ分析とコスト管理のスペシャリストであり、企画を役員会へ通すための『最後の関所』として、俺と次期課長ポストを争う最大のライバルだ。
「……なんだい、網代。何か質問かな?」
「提出された新商品の原価計算についてです。包装資材の歩留まり率の算定に、コンマ二桁のズレが生じています」
「コンマ二桁?それは誤差の範囲内じゃないかな。それよりも全体のパッケージングの――」
「いいえ。このまま月産三十万食のラインに乗せた際、月間で約十五万円、年間で百八十万円のロスが生じます。利益率改善を謳う本企画の根幹に関わる微小な不備ですが、いかがお考えですか」
「いや、それは……」
「それに、物流費の変動リスクも加味されていません。華やかな企画書と話術で周りを丸め込んでも、数字の詰めが甘すぎます。これでは役員会を通すことは不可能です。直ちに再計算を求めます」
「あー……うん。本当だ。完全に俺の確認不足だったよ」
周囲の同僚たちが見ている前で完璧に論破され、俺のプライドはズタズタに引き裂かれた。
「助かったよ、ありがとう網代」
俺は引きつりそうになる頬を必死に抑え込み、周囲の目を意識して爽やかな笑顔を作って返した。
「いえ。業務ですから。感情論ではなく、正確なデータに基づく進行をお願いします」
「ああ、わかってる。次からは気をつけるよ」
「失礼します」
網代はそれだけ言い残し、踵を返して自分のデスクに戻っていった。
黒髪のひっつめ髪に地味な銀縁眼鏡、ノーメイクに近い堅物スタイル。
あの鉄面皮の堅物女め……!周りの目があるっていうのに、よくも俺に恥をかかせやがって!
俺は人当たりの良いエリート社員を演じながら、心の中では激しい憎悪を滾らせていた。
あいつの右目尻にある特徴的な二つの泣きぼくろ……虫眼鏡でじりじりと焦がしてやりたい気分だぜ……!
俺の本性は、他人の弱みを握って支配することに快感を覚える極度のドSだ。頭の中でどす黒い嗜虐的な妄想が渦を巻いていた。
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クソッ……腹の虫がおさまらない。何か憂さ晴らしが必要だ。
会議の後、苛立ちが全く収まらない俺は、給湯室で考えた。
「そうだ、いいことを思いついた」
俺は備え付けの紙製のコーヒーカップを手に取ると、スーツの襟もとに付けていた社章のピンを外した。
「ここに……よし」
カップの底の隅、目立たない継ぎ目の部分にプスリとごく小さな穴を、貫通する寸前まで刺し込む。
俺は素知らぬ顔でそのカップを、備え付けのカップタワーの一番上に戻した。
「あ、亜久嶋主任。お疲れ様です」
給湯室に入ってきたのは、入社二年目の後輩社員だった。
「お疲れ。午後の資料作成、大変そうだな」
「はい……今日の夕方までに提出しないといけなくて。少し焦ってます。絶対にミスできない書類なんです」
「そうか。少し休んだ方が効率も上がるぞ。コーヒーでもおごってやろう」
「えっ、いいんですか!?ありがとうございます!ちょうど眠気がピークで死にそうだったんです」
俺は頼れる先輩の爽やかな笑顔を作り上げて硬貨を渡し、コーヒーサーバーを指差した。
「無理するなよ。期待してるからな。自分で淹れて持っていきな」
「はいっ!頑張ります!」
後輩は嬉しそうにお辞儀をすると、自らタワーの一番上にあったカップを手に取り、熱いコーヒーを注いだ。今のところ、漏れ出す気配はない。それを持ったまま、後輩はデスクへと戻っていった。
「ふふ……さて、どうなるかな」
少し離れた位置から観察すること十分後。
「……えっ?うそっ!?うわあああっ、最悪だ!」
「どうしたんだ、騒々しいぞ」
「す、すみません!コーヒーが……っ!なんだこれ、底から漏れてる……!不良品かよ、マジでついてない……っ」
後輩のデスクの上の重要書類が、底からじわじわと漏れ出したコーヒーによって無惨な茶色に染まっていた。
「どうしよう、印刷し直して、また全員から印鑑をもらいに行かないと……!間に合うかなぁ……」
不良品なわけないだろ。俺がピンで穴をあけたんだからな。いい気味だ。
「大丈夫か?何か手伝おうか?」
俺はわざとらしく心配そうな声をかけながら近づく。
「亜久嶋主任……すみません、せっかく淹れていただいたのに……。カップが不良品だったみたいで……」
「気にするな。災難だったな。手伝えることがあったら言ってくれ」
最高だ。他人の不幸を演出し、イラつく姿を高みの見物で楽しむ。これだからやめられない。
かつて、目障りだった同期の瑞希を巧妙に孤立させ、自主退職へと追い込んだ時もそうだった。他人の尊厳がすり潰されていく様を安全圏から眺めるのは、俺にとって極上の快感なのだ。
俺は口元を隠しながら密かに笑った。しかし、後輩の惨めな姿をいくら眺めても、網代に受けた屈辱を完全に相殺することはできなかった。
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「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ」
退社時刻を迎え、俺は夜の街へと足を踏み出した。
ネオンが輝き始めるオフィス街を歩きながら、俺の頭の中は依然として網代への苛立ちで満たされていた。
『助かったよ、ありがとう網代』
「……くそっ、思い出すだけで反吐が出る」
自分の口から出た媚びたセリフに、俺は夜道で舌打ちをした。
大学時代、無邪気に信頼していた親友と当時の恋人から二重の裏切りを受けたあの時、俺は完全に悟ったのだ。
人間の表の顔や善意なんて、一切信じる価値はない。他人の隠された裏の顔、秘密を握ることこそが唯一の防衛であり、圧倒的な支配だ。
「今日は、とびきりドス黒い秘密を引き当ててやる……」
俺の趣味は、中古ショップでHDDを買って、他人のプライバシーを覗き見る事だ。
削除済みデータを復元し、安全な場所から他人の人生の裏側を覗き見下ろす時だけ、俺は全能感を得られる。
「他人の不幸をしゃぶり尽くして、この鬱憤を晴らしてやるんだ。あの堅物女の顔を思い出しながら、誰かの人生の恥部を笑ってやるよ」
俺は足を速め、いつもの中古ショップがある秋葉原へと向かった。




