第2話 婚約破棄イベント発生
その日の王宮舞踏会は、春の始まりを祝う夜だった。
巨大なシャンデリアが黄金色の光を落とし、磨き上げられた大理石の床には無数の貴族たちの影が揺れている。
音楽は穏やかで、料理は豪華で、空気は華やか。
本来ならば、“未来の国王夫妻”であるアルヴェイン王太子とリリアーナ・エヴァレスト公爵令嬢が並び立つ、完璧な夜になるはずだった。
――本来ならば。
「セレス」
壁際で死んだ目をしていた宮廷占星術師へ、国王が声をかける。
「今のところは平和だぞ」
「嵐の前です……」
「顔色が終わってるぞお前」
「星が不穏すぎるんです……!」
セレスは泣きそうだった。
昨夜からずっと星を読み続けているが、出る結果は変わらない。
“破局”。
しかもかなり強い運命干渉。
つまり今日、何かが起きる。
絶対に。
「王妃様」
隣で扇を揺らしていた王妃へ、公爵夫人ミレイユがそっと耳打ちする。
「今のうちにアルヴェイン殿下を縛っておいた方がよろしいのでは?」
「無理ですわね」
王妃はにこやかに言った。
「恋愛中の男は、理性より感情で動きますもの」
「経験談ですか」
「ええ」
国王が遠い目をした。
そんな保護者陣の視線の先。
舞踏会場中央では、アルヴェインとリリアーナが並んで立っていた。
見目だけなら完璧だった。
白銀の軍服を纏う王太子。
深紅のドレスを着こなす公爵令嬢。
まるで絵画のように美しい。
だが。
空気が死んでいる。
「…………」
「…………」
無言。
冷気すら漂っている。
「また喧嘩中ですわね」
王妃が紅茶でも飲むテンションで言った。
「今日は何が原因だ」
「昼間、侯爵家の次男がリリアーナ様へ花を贈ったそうです」
侍女長の報告に、全員が納得顔になる。
「あぁ」
「なるほど」
「それは駄目だな」
「殿下が死ぬやつですわ」
完全に理解されていた。
その時だった。
「リリアーナ嬢」
若い貴族令息が、リリアーナへ声をかけた。
「今夜のドレス、大変お似合いです」
「……ありがとうございます」
リリアーナは社交用の微笑みを浮かべる。
それだけ。
ただそれだけだった。
なのに。
アルヴェインの空気が変わった。
ぴしり、と。
音がした気がした。
「……リリアーナ」
低い声。
笑顔なのに怖い。
保護者会メンバーが同時に顔を覆った。
「あ、終わりましたわね」
「終わったな」
「終わりましたねぇ」
「止めろ誰か!!」
セレスだけが叫ぶ。
だが遅かった。
「随分楽しそうだな」
アルヴェインが微笑む。
「え?」
「最近、よく他の男と話しているようだが」
リリアーナの表情が固まった。
「……社交ですわ」
「必要以上に親しげに見える」
「殿下」
「私という婚約者がいながら、軽率ではないか?」
ざわり、と会場が揺れる。
貴族たちが息を呑む。
誰もが気づいた。
――修羅場だ、と。
リリアーナの瞳が、ゆっくり揺れる。
「……殿下は」
声は静かだった。
だが、だからこそ危うい。
「殿下は、わたくしが誰とも話さず、一人で立っていれば満足なのですか?」
「そういう話ではない」
「では、どういう話ですの」
「君はいつも――」
アルヴェインが言葉を詰まらせる。
本当は違う。
分かっている。
リリアーナは悪くない。
ただ。
他の男へ向けられる笑顔を見るたびに、胸が焼ける。
自分だけを見てほしいと思ってしまう。
だがそんなこと、王太子として口にできるはずもなく。
結果。
「君のような女性を、未来の妃として考え直す必要があるかもしれない」
言ってしまった。
会場が凍った。
数秒。
音楽すら遠く感じる静寂。
リリアーナは、何も言わなかった。
ただ。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、傷ついた顔をした。
それを見た瞬間。
王妃が扇で顔を覆う。
「馬鹿」
国王が頭を抱えた。
「駄目だあいつは」
公爵が立ち上がる。
「殺す」
「座ってくださいあなた!!」
セレスは半泣きだった。
「だから言ったのにぃぃぃ!!」
一方。
リリアーナはゆっくり頭を下げた。
「……失礼いたします、殿下」
完璧な礼。
完璧な令嬢の微笑み。
そして。
そのまま踵を返して、舞踏会場を去っていった。
アルヴェインがはっとする。
「……リリアーナ」
呼び止めようとして。
しかし、動けない。
周囲の視線。
王太子としての立場。
自分が言った言葉。
全部が絡みつき、足を止める。
その間に。
リリアーナの姿は消えた。
静寂。
重苦しい沈黙。
そして。
「アルヴェイン」
低い声。
王太子が振り返る。
そこには。
笑顔の王妃がいた。
怖かった。
「あとで少し、お話があります」
「……はい」
完全に息子の返事だった。
その頃。
舞踏会場の外を歩くリリアーナは、一人で夜風に当たっていた。
泣いてはいない。
泣いてはいけない。
公爵令嬢だから。
未来の王太子妃だから。
だから背筋を伸ばして歩く。
……歩いて。
歩いて。
誰もいない回廊へ辿り着いた瞬間。
「っ……」
小さく、息が漏れた。
胸が痛かった。
どうして。
どうしてあの人は、あんなことを言うのだろう。
嫌われているのなら、まだ分かる。
けれど。
嫌われているようには、どうしても思えなかった。
優しい時がある。
甘い視線を向けてくる時がある。
なのに突然、突き放す。
「……分かりませんわ」
ぽつり、と零した時。
遠くの塔で、鐘が鳴った。
同時に。
空を見上げていたセレスの顔色が、さらに青ざめる。
「うそだろ……」
星々が、揺れていた。
最悪の形で。




