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外伝 火の外側

次の一週間は、静かだった。


静か、というより、余計な感情が入り込む隙がないくらい、やることがあった。


母の治療計画の見直し。

井上との面談。

父の収入と現在の借入状況の整理。

清水が用意した資料への目通し。

役所の制度の確認。

病院への提出書類。


今までなら、こういうものは全部“家を押し潰す現実”だった。


でも今回は少し違った。


現実であることは変わらない。

重いことも変わらない。

ただ、それがバラバラに降ってくるのではなく、線でつながり始めていた。


綾は、そのことに何度も驚いた。


井上と初めてちゃんと会ったのは、病院の相談室だった。


白い壁。

小さな机。

やわらかい照明。


医師らしい整った身なりの井上は、想像していたよりずっと普通の人に見えた。


もっと“先生”らしい距離があるのかと思っていた。

でも実際に向かい合ってみると、声も目線も低くて、必要以上に希望を持たせることも、逆に脅すこともなかった。


「現状として、入院の判断は妥当です」


井上は、資料を見ながら穏やかに言った。


「それと、今後の費用についてですが」


そこでいったん言葉を切る。


その切り方に、綾は少しだけ安心した。

数字を話す前に、ちゃんと相手の呼吸を待つ人なんだと思った。


「確かに長期的には大きな額になります。ただ、全部が一気に必要になるわけではありません」


綾の隣で母が、そっと息をつく。


「利用できる制度もありますし、軽減できる部分もあります。ただ、それでも家庭にかかる負担が大きいことは変わりません」


“安心してください”とは言わない。

“なんとかなります”とも言わない。


でも、“整理すれば戦える”という温度はあった。


その日の面談で、井上は治療そのものよりも、家族がどう支えるかを丁寧に見ていた。


母の体力。

通院や付き添いの負担。

父の仕事との両立。

綾の勤務時間。


それらを一つずつ確認しながら、必要なものを線で結んでいく。


「お母さまを治療に集中させることが、結果的に家族全体の負担を減らします」


井上はそう言った。


「無理に家で抱え込む方が、長い目で見ると消耗が大きくなることもあります」


母は黙って聞いていた。


たぶん、まだ完全には納得していない。

でも、“自分が家にいないことで家族が回らなくなる”という不安に対して、それは違う形の支え方だと、ゆっくり言葉を置いてもらえることが必要だったのだと思う。


帰り際、母は小さな声で井上に言った。


「……すみません」


それは謝罪の癖みたいなものだった。


井上は、少しだけ首を傾ける。


「何がですか」


母は言葉に詰まる。


「……なんか、いろいろ」


井上はそこで、ほんの少しだけ笑った。

やわらかくて、でも軽くはない笑い方だった。


「謝らなくていいですよ。病気は仕事じゃないので、迷惑とか、そういう考え方をしないでください」


綾は、その一言に少しだけ胸がゆるむのを感じた。


病気は仕事じゃない。


当たり前のことなのに、母には必要な言葉だった。



一方で、清水の方は、井上とはまったく違う種類の安心感を持っていた。


最初に会ったのは、小さな事務所だった。


棚にはファイルが並び、机の上は整っている。

余計なものが一つもない部屋だった。


清水本人も、それに似ていた。


挨拶は丁寧。

でも無駄がない。

声も低く、必要なことしか言わない。


父の前に資料が置かれる。


借入先の一覧。

金額。

利率。

支払い状況。

そして、違法性の疑いがある部分には、赤い印がついている。


綾は、その紙を見ただけで少し息苦しくなった。


父が過去に作った借金のはずなのに、こうして一覧で並ぶと、家そのものの傷みたいに見えた。


父も同じだったのだろう。

資料を見る目が少しだけ固くなる。


清水は、感情を乗せずに説明した。


「この三件は利率が不当です。支払い義務の範囲を超えています。ここは交渉で落とせます」


淡々としている。

でも、その淡々さがありがたかった。


責めるような響きがない。

呆れも、説教もない。

ただ、“歪みを直す人”としてそこにいる。


「こちらは返済条件を組み直せば、月単位の負担を下げられます」


父が低く尋ねる。


「……そんなこと、できるのか」


「できます」


清水は即答した。


「全部がなくなるわけではありません。ただ、今のままでは家庭が持ちません」


“持ちません”。


その言い方が、綾には妙に現実的に聞こえた。


清水は、そこで初めて少しだけ父の目を見る。


「平泉さん」


「……はい」


「これは、あなたを責めるための整理ではありません」


父の眉がわずかに動く。


「家を立て直すための整理です」


父は、しばらく黙っていた。


それから、短く頷いた。


「……分かった」


その一言は、降参ではなかった。

たぶん、ようやく“自分の失敗”を“家族の再建の材料”として差し出せた瞬間だった。


綾は、それを見て少しだけほっとした。


今までは、父の借金は家の中でどこか“触れてはいけないもの”として扱われてきた。

言葉にすると壊れる気がして、でも言わないと腐っていくもの。


それが今、紙になって、項目になって、消し込みの対象になっている。


それだけで、借金はまだあるのに、少しだけ“怪物”ではなくなっていた。



三千万円の貸付については、さらに丁寧に話が進んだ。


世古は、最初に言った通り、これを奇跡にも好意にもしたくないらしかった。


書面の案が用意され、条件が明記された。


名目。

返済開始の猶予。

月ごとの負担上限。

母の治療状況や父の収入が安定するまでは返済を優先しないこと。

生活再建を先に置くこと。

第三者として清水が管理に入ること。


その内容を見たとき、綾は不思議な気持ちになった。


三千万円というあり得ない額が、こうして文字になると、逆に少しだけ触れられるものになる。


もちろん重い。

もちろん現実離れしている。

でも、“人の感情”から少し離れて“責任の形”になったことで、初めて息ができた。


父は書面を何度も読み返した。


母も、分からない部分をその都度確認した。


綾も、一行ずつ見た。


“受ける”ということは、こういうことなんだと思った。


助けてもらって泣くことじゃない。

頭を下げ続けることでもない。

形にして、責任にして、未来に返していくこと。


それは苦しいけれど、少なくとも曖昧ではなかった。


一通りの説明が終わったあと、父がぽつりと言った。


「……ここまでされると、もう逃げられないな」


その言葉に、世古は静かに答えた。


「はい。逃げないための形です」


綾は、そのやり取りに少しだけ笑いそうになった。


父も、ほんの少しだけ口元を緩める。


それは、この数週間で初めて見る顔だった。



そんな日々のあいだにも、世古は必要以上に家へ来なかった。


連絡はある。

状況確認もする。

でも、前に出すぎない。


井上や清水とつないで、整えて、それから少し引く。


その距離感が、綾にはありがたかった。


今は、何かを支えてもらうたびに心が揺れる。

感謝と申し訳なさと、安心と怖さが全部一緒に来る。


だからこそ、世古がずっと傍にいすぎると、たぶん綾はうまく呼吸できなくなる。


そのことを、世古は分かっている気がした。


分かっていて、必要な時だけ来る。


その“必要な時”の精度が、少し悔しいくらいに高かった。



書面が整い、母の今後の見通しが少しずつ固まり、父の仕事も一つ、また一つと増え始めた頃だった。


綾が店の休憩室で水を飲んでいると、スマートフォンが震えた。


世古からだった。


『今週末、もしご都合がよろしければ、外へ出ませんか』


それだけなら、いつもの文面に近い。

でも、そのあとに珍しく続きがあった。


『谷河たちとキャンプへ行きます』


綾は、画面を見たまま少し固まる。


キャンプ。


一瞬で、焚き火の匂いや山の空気より先に、“知らない人たちの輪”が浮かんだ。


怖い。


そう思った。


店の人たちと行く社員旅行の下見とは違う。

仕事でもない。

義務でもない。

完全に“私的な時間”だ。


しかも、行くメンバーの名前を思い返す。


谷河。

山下。

井上。

清水。


どこかで少しずつ関わった人たち。

でも、全員が一度に集まる場に自分が入ることを想像すると、急に落ち着かなくなった。


返信がすぐにできない。


すると、少ししてもう一通来た。


『無理にとは言いません』


その一文に、綾は少しだけ笑う。


(……分かってる)


この人はそういう人だ。

誘うけど、追い込まない。

来なければそれで終わりにしてくれる。


でも。


綾は、水のペットボトルを持ったまま考える。


最近、自分はずっと“家を立て直すための綾”だった。


病院。

書類。

父の資料。

店の仕事。

必要なこと。


もちろん、それは大事だ。

でも、そのせいで、自分が何をして笑うのか、少し分からなくなっていた。


火の前で、何も考えずに座る時間。

ただ、誰かの話で笑う時間。


それは今の自分には、少し遠いものに思えた。


でも、遠いからこそ必要なのかもしれなかった。


綾は、ゆっくりと打つ。


『……行きます』


送信したあとで、少しだけ心臓が鳴る。


すぐに返事が来た。


『ありがとうございます』


少し間を置いて、もう一通。


『たぶん、大丈夫です』


綾は、その“たぶん”に少しだけ救われた。


絶対大丈夫、じゃない。

楽しめますよ、でもない。


たぶん、大丈夫。


それくらいの温度が、今の綾にはちょうどよかった。



当日、山は少しだけ風が強かった。


空は高く、雲が流れている。


土の匂い。

木のざわめき。

遠くの鳥の声。


綾は、車から降りた瞬間に、家とも店とも病院とも違う空気が肺に入ってくるのを感じた。


それだけで少し戸惑う。


あまりにも、日常の外だった。


「おー、来たか」


最初に声をかけてきたのは山下だった。


相変わらず大きい。

体だけじゃなくて、声も空気も大きい。


でも、その大きさが嫌じゃないのは、不思議だった。


「荷物持つぞ」


有無を言わせない感じで荷物を一つ持っていく。


綾が「大丈夫です」と言う前に運んでしまうその感じに、少しだけ笑いそうになる。


谷河は、離れたところでテントのポールを組んでいた。


「ようこそ、現実逃避の会へ」


そんなことを言う。


軽口なのに、変に軽くない。


“逃げてもいい時間がある”と言われているみたいだった。


井上は、焚き火台のそばで食材を確認していた。


「綾さん、体調大丈夫そう?」


最初に聞くのがそこなのが、やっぱり医者っぽい。


清水は、相変わらず無駄がなかった。

ただ「こんにちは」と言って、小さく会釈する。


それだけなのに、不思議と感じが悪くない。


それぞれの人の性格が、山の中だと少しだけ輪郭を変えて見えた。


仕事や役割の中で会うときは、みんな何かの機能を持った人に見えていた。


井上は医療。

清水は整理。

山下は力。

谷河は言葉。


でも今日は違う。


井上は、火加減を見ながらコーヒーのことを気にしている。

清水は、ペグの位置に少しだけこだわっている。

山下は、荷物を運びながらすでに肉の話をしている。

谷河は、ポールを持ったまま誰も求めていない講評を始めている。


その全部が、少しだけ可笑しかった。


世古は、その少し外側に立っていた。


荷物を下ろし、全体を見て、必要なところだけ手を入れる。


小学生の引率のときと少し似ている。

全体を動かしているのに、自分が目立ちすぎない位置。


綾は、その姿を見て、少しだけ安心した。


(……いる)


それだけでいいと思えた。



昼のうちは、綾はまだ少し固かった。


会話に入っても、半歩遅れる。

笑っても、どこか遠慮が残る。


でも、誰もそこを無理に崩しに来なかった。


山下は山下で勝手に火を起こそうとして失敗していたし、谷河は大げさにその失敗を実況しているし、井上は「酸素量の問題ですね」と真面目に分析しているし、清水は黙って着火剤の位置を直している。


その流れを見ているうちに、綾の中の緊張が少しずつほどけていった。


こんなに役に立つ人たちなのに、集まるとちゃんと少し変なのだ。


そのことが、綾にはありがたかった。


完璧な人たちの輪だったら、たぶん入れなかった。

でも、ちゃんと隙がある。

ちゃんと人間くさい。


だから、少しだけ呼吸ができた。


焚き火に火が入る頃には、空がゆっくり夕方に変わっていた。


火の色が、思ったより明るい。


ぱち、と小さくはぜるたびに、綾は少しずつ別のことを考えられるようになっていくのを感じた。


病院の白い廊下ではない。

家のテーブルでもない。

店のレジでもない。


火の前には、今やらなくていいことがたくさんあった。


それだけで、救われることがあるのだと初めて知る。


山下が、皿に肉を乗せて渡してくる。


「ほら、食え」


「……ありがとうございます」


「ありがとうございますじゃなくて、うまいって言う準備しとけ」


その言い方が少し強引で、綾はつい口元をゆるめる。


食べてみると、本当にちゃんと美味しかった。


「……おいしいです」


そう言うと、山下が満足そうに頷く。


「だろ」


その“だろ”に、綾は思わず少しだけ笑ってしまった。


その瞬間、谷河が見逃さない。


「今、笑った」


「……笑ってないです」


「いや、笑った。記念日だな」


「やめてください」


綾がそう返すと、谷河は大げさに胸を押さえる。


「返しがきた。今日は祝祭だ」


そのやり取りに、井上まで少し笑う。


清水は無表情に見えたけれど、火の明かりの加減か、ほんの少しだけ目元がやわらいだ気がした。


綾は、そこでようやく気づく。


(……笑ってる)


ちゃんと。


作り笑いじゃなく。

誰かを安心させるためでもなく。


久しぶりに、ただその場の流れで笑っている。


その事実が、少しだけ胸に刺さる。


嬉しいとか、楽しいとか、そういう単純な言葉だけじゃ足りない。


ずっと止まっていた自分の中の何かが、火の前で少しだけ溶ける感じだった。



夜が深くなって、話題はとりとめのないものに変わっていった。


山下が昔やらかした話。

谷河が勝手に盛る話。

井上がそれを静かに訂正する話。

清水が一番短い言葉で一番正確に突く話。


綾は、焚き火の向こう側でそのやり取りを見ていた。


そしてふと、少し離れたところにいる世古を見る。


世古は、いつものように大声で笑ったりしない。

でも、ちゃんとそこにいる。


必要なときだけ口を挟む。

山下が火に近づきすぎたら少し引かせる。

谷河が綾をいじりすぎそうになると、何も言わずにその視線だけで少し流れを変える。


あまりにも自然で、たぶん他の人は気づいていない。


でも綾には分かった。


(……守ってる)


大げさじゃなく。

支配でもなく。

ただ、場の中でちゃんと自分が息をしやすい位置を保ってくれている。


それが、すごくありがたかった。


火が少し落ち着いた頃、綾は席を立って少しだけ離れた。


山の夜気は思ったより冷たい。

暗い空の下で、焚き火の明かりだけが遠くに揺れている。


その光を少し離れたところから見ると、自分が“輪の中にいた”ことが急に信じられなくなる。


笑った。

ちゃんと食べた。

少し会話もした。


こんな時間が、自分にまだ残っていた。


「……冷えますか」


後ろから声がする。


振り向くまでもない。


「……少しだけ」


世古が、綾の隣に立つ。


近すぎない距離。

でも、ちゃんと隣。


しばらく、二人で焚き火の方を見る。


向こうでは山下の声が響いていて、谷河が何かを大げさに返している。

井上の低い笑い声も混ざる。

清水はたぶん、今も必要最低限しか話していない。


その全部が少し遠くて、でもちゃんと届く。


綾は、小さく言った。


「……楽しいです」


自分でも少し驚く。


そんなふうに、今の気持ちをそのまま言うのは久しぶりだった。


世古は、すぐに返す。


「それは、良かったです」


それだけ。


でも、その声が少しだけやわらかい。


綾は、少し黙ってから続ける。


「……久しぶりです」


「はい」


「笑ったの」


言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。

でも、世古は笑わない。


ただ、静かに聞く。


「……そうですか」


その短い返事が、変にありがたかった。


大げさに“よかったですね”と言われたら、きっと違った。

でも、ただ受け取ってくれるから、自分の中にちゃんと置ける。


綾は、焚き火の光を見たまま、ぽつりとこぼす。


「……あの家の中にいると、ずっと必要なことばっかり考えちゃうから」


「はい」


「母さんのこととか、父さんのこととか、お金のこととか」


「はい」


「それで、自分が何をしたら楽しいのか、ちょっと分からなくなってました」


世古は、少しだけ沈黙してから言った。


「それは、自然なことだと思います」


綾は、その言葉に少しだけ肩の力を抜く。


自然なこと。


弱いとか、余裕がないとか、そういう言い方じゃない。


ただ自然だと言ってもらえるだけで、人は少し救われる。


「……でも、今日は笑えました」


「はい」


「だから、ちょっと安心しました」


そこでようやく、世古が綾の方を向く。


火の光が目に映っている。


「何にですか」


綾は少し考える。


それから、ゆっくり言う。


「……まだ、ちゃんと残ってたんだなって」


「何がですか」


綾は、少しだけ笑う。


「私、です」


世古は、ほんの少しだけ目を細めた。


それは笑ったというほど大きくはない。

でも、綾には十分だった。


「はい」


それだけ返す。


「残っています」


綾は、その一言を胸の中でゆっくり受け取った。


消えていない。

壊れていない。

必要なことに追われて、少し見えなくなっていただけ。


その確認が、今夜は何より大きかった。


焚き火の方から、山下の大きな声が飛んでくる。


「世古ー! 綾さん連れて戻ってこい、谷河がくだらねえ話で暴走してる!」


間髪入れずに谷河の声。


「くだらなくない、これは人間理解の話だ!」


その流れに、綾は思わずまた笑ってしまう。


世古は小さく息を吐くみたいにして、それから言った。


「……戻りましょうか」


「……はい」


二人で火の方へ戻る。


その短い距離のあいだ、綾はふと思う。


大変なことは、何一つ終わっていない。

母の治療も。

父の再建も。

三千万円の重さも。


でも、それでも、人は火の前で笑えるのだ。


笑っていいのだ。


それは現実逃避じゃない。

現実に戻るための呼吸みたいなものだ。


火のそばに座り直すと、谷河がすぐに言う。


「綾さん、判定して。今の話、俺が悪いか山下が理解できてないか」


「……たぶん、両方です」


言った瞬間、場が少しだけ沸いた。


山下が「ほら見ろ」と笑い、谷河が「手厳しい」と大げさに肩を落とす。

井上はその様子を見て穏やかに笑い、清水は「妥当ですね」と一言だけ付ける。


綾は、焚き火の明かりの中で、その全部を見ながらまた笑った。


今度は、さっきよりも自然に。


世古は何も言わなかった。

でも、火の向こう側でそのやわらいだ視線だけが、綾にはちゃんと分かった。



夜が更け、テントに入る頃には、体はほどよく疲れていた。


でも、その疲れは、ここ最近ずっと抱えていた“削られる疲れ”とは違った。


外気を吸って、声を聞いて、笑って、火を見て、ようやく生まれる疲れ。


綾は寝袋の中に入って、スマートフォンを見た。


特に新しい連絡はない。

それでいいと思った。


今日は、何かを整理する日でも、決める日でもない。


ただ、外の火にあたって、まだ自分が残っていることを確かめる日だった。


目を閉じる前に、綾は小さく思う。


(……また、来たいな)


その願いは、前みたいに自分の中で消えたりしなかった。


ちゃんと、そこに残った。



朝、山の空気はひどく澄んでいた。


鳥の声。

テントの布が揺れる音。

遠くの食器のぶつかる音。


綾が外に出ると、もう井上が湯を沸かしていた。


「おはようございます」


「……おはようございます」


少し眠そうな声で返すと、井上が少しだけ笑う。


「よく眠れました?」


「……たぶん」


その“たぶん”に、自分でも少し笑う。


山下はすでに朝食の準備に大きな手を出していて、谷河はその横で役に立っているのか邪魔しているのか分からない位置にいる。

清水は黙って必要なものだけを整えている。


世古は、少し離れた場所で朝の光を背に立っていた。


綾がその姿を見ると、世古も気づいて、ほんの小さく頷く。


それだけ。


でも、それで十分だった。


綾は、昨日の夜の自分を思い出す。


笑っていた。

ちゃんと。


そして今朝は、そのことを少しだけ信じられる。


昨日だけの特別な時間じゃなくて、自分の中に戻ってきた感覚として。


朝食のあと、片付けをしながら、山下が言った。


「また来いよ」


谷河がすぐに乗る。


「次はもっと早く笑わせるから」


「それは別に競わなくていいです」


綾がそう返すと、また少し笑いが起きる。


その輪の中に自分の声が混ざっていることが、まだ少し不思議だった。


でも、嫌じゃない。


帰りの車に乗る前、綾はふと世古の方を見る。


世古は、荷物をまとめ終えていた。


綾は少しだけ迷ってから近づく。


「……ありがとうございました」


世古が、静かに綾を見る。


「いえ」


「……来てよかったです」


ほんの少しだけ、間。


それから世古は、いつもの丁寧な声で言った。


「はい」


さらに少しだけ間を置いて、


「私も、そう思います」


その言葉に、綾は少しだけ胸が熱くなる。


“よかったですね”ではなく。

“楽しめてよかった”でもなく。


私もそう思います。


それだけで十分だった。


綾は、息をひとつ整えてから、小さく言う。


「……きーくん」


世古の目が、ほんの少しだけやわらぐ。


「はい」


「……また、笑えるようにします」


言ってから、自分で少しだけ驚く。

未来のことを、自分の言葉で言ったから。


でも、世古はそこを拾いすぎない。


「はい」


静かに頷く。


「急がなくて大丈夫です」


綾は、その言葉に少し笑う。


「……うん」


今なら、そう返せた。



家に帰ると、母は病室にいて、父は仕事へ出ていた。


現実は何一つ消えていない。


でも、綾が玄関を開けたとき、自分の中に少しだけ違うものがあるのが分かった。


火の匂い。

笑い声。

朝の山の空気。


それらが、まだちゃんと残っている。


必要なことばかりじゃない自分。

それでも家族のことを選ぶ自分。

その両方が同時にいてもいいのだと、少しだけ思えた。


綾は靴を脱いで、静かな家の中へ入っていく。


同じ家。

同じ廊下。

同じ音。


なのに、


少しだけ、息がしやすかった。


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