初めて作った本当の言葉
指輪ケースのふたを閉め、しみじみと見つめ「もう捨てられちゃったのかと思ってたなぁ」と、サクヤがつぶやいた。
「どうして?」
「だって、言ってたじゃん。引っ越しの前に清掃が入ったって。その時にゴミと一緒に捨てられちゃったと思ったの。最初に行った日にももう置いてなかったし……というか、なんであっくんがこれ、持ってるの?」
俺は裏野ハイツの管理人が、俺が来たことは彼女に内緒にしてほしいと伝えたときに「仲がいいんですね」と笑っていたのを思い出した。なるほど、このカップルは彼から見たら、ふたりして同じようなことを別々の日に言っていたのか。
「実は俺も、サクヤと別でもう一回あの部屋に引っ越す前に行ったんだよ」
「え! そうなの。全然知らなかった」
「まあ、俺の方は、本当にただの下見だったんだけどさ。そん時に見つけたんだ」
「ふーん。なんかいろいろすれ違ってたんだね」
なんとなくこのまま話が流れそうな気がして、「それで」と仕切なおした。
「聞かせてくれよ。返事を」
「……」
いや、違うなと思った。この聞き方じゃない。
「聞かせてくれよ。本音を」
俺とサクヤは、そらが死んでからずいぶんとそらのまねごとのようなことをするようになった。
強がって嘘を吐くのも、気を遣ったことを相手に感じさせないように努力するのも、そう言えば、ポケットに手を突っ込む癖も、元々はそらの真似だった。そらが俺たちと一緒に居た時間を何とか残したくて、忘れることに抵抗したくて、そらの姿をいろんな形で残そうとした。
きっとふたりとも、彼の生き方にあこがれを持っていたんだ。
だけど、俺たちふたりは、そらがやってたほど完璧に嘘を吐き通すことはできなかった。
すぐに疲れたと言いたくなる。努力は認められたい。苦労を理解されたい。本音を聞いてほしい。そういう心の欲求が時には頭痛を起こすほど重たかった。重みを知るほど、小学生でそれを平然と行っていた、そらのすごさが——辛さが身に沁みる。身に沁みて、わかるようになった。だからこそ例えそれが一円にもならない嘘なんだとしても、貫くことの価値に、魅力を感じた。
サクヤが、まだ。
まだ迷っているのがわかる。
その表情を見て、そらが最後に見せた、「一生に一度の弱さ」を思い出した。その日そらが最後に言った、「愛してんぜ」という言葉を思い出した。
俺とサクヤの根幹には、未だにその日の記憶が根付いている。
そらが心の中にいる。
俺がサクヤに愛していると言っても、そらのまねごとみたいになってしまう。いくら奇跡みたいに登場したヴェルタース・オリジナルがあっても——成功する条件がすべてそろったのだとしても、俺が間違えれば意味がない。
サクヤが迷ってしまうのはそのせいかも知れない。
俺の嘘が不完全だから、サクヤには嘘が感じ取れてしまうのだ。
サクヤが喋るより先に、もう一度。
もう一言。
俺が言わなきゃいけないことは何だ。
「あ、」
と声を出したのは、サクヤだった。
意識がはっと明るくなる。自分の足下が見えた。いろんなことを考え込むのに集中して、いつの間にか床をにらみつけるようにうつむいた姿勢になっていた。
サクヤを見ると、窓の外を見ていた。
「あぁ」
と、少しだけ安心する。まだ結論を出して何か言おうとしていたわけではなかったらしい。
「どうかした」
「ほら」
サクヤが窓の外を指さす。
風景は真っ黒で、今が夜なんだと言うことに気付く。
その中に浮かぶ、白いひとひらを見つめながらサクヤは言った。
「あっくん知ってる? 雪の結晶って、どれひとつ同じ形をしていないんだって」
「うん、昔きいたことがある」
「でもさ、いくつ雪の結晶の写真とかを見ても、全部『あ、雪だ』って思うの。全部違う形なんだから、私はその形のものを見るのは初めてのはずなのにちゃんと雪だってわかるの。子どもの時はそういうのがずっと不思議だった」
今だってわからないけどね。と明るく苦笑いした。
どうしてか、今になって彼女の髪が少し伸びたことに目が行った。
裏野ハイツの203号室に引っ越してきたときよりも、少し髪が伸びて、鎖骨をなでる毛先にフツフツと感情が生まれる。猫じゃらしに飛びつく寸前の子猫は、こんな心境かもしれない。それが、どうにも魅力的で、触れずにはいられない気持ちになる。
行動してから、俺はこんなに素直なやつだったのかと疑問に思う。
サクヤの髪は、指先で転がすと一本一本が、口の中でいくらを噛みつぶした時のような、みずみずしい感触がした。彼女は一瞬不思議そうな顔をしたが、いつものようにあっさりと、心地いいリズムで俺のことを無視して話を続ける。
「でもそれって、雪だけじゃなくて、なんでもそうなんだよね。っていまは思う」
「なんでも?」
「なんでも。雪の結晶みたいに、たったひとつしかないものを、たったひとつの言葉で言えちゃう」
こめかみに人差し指を当て、斜め上に何かを探すように「例えばー」と目線を動かす。
「ヒトもそう。私はヒトを見てそれがヒトだってっわかる」
「同じ人間なんていないはずなのに?」
「そう。雲を雲って思うし、車を車って思うし、花を花って思う。なんでかはわかんないけど、全部そういうことは感覚でわかるの」
「言われてみればそうだ」
俺はいったいなにを根拠に関取とタクシーの運転手を同じヒトと呼ぶのか、朝顔とひまわりを同じ花と呼ぶのか、そういうことを知らない。
根拠はなくて、理屈は知らなくて、理由は必要ない。
まさに彼女が言ったとおり。感覚でわかる。
「感覚でわかること……」
とサクヤが言う。
「赤ちゃんが立って歩いたり、雛が空を飛んだり、子亀が海を目指したり」
胸の中で「感覚でわかること」とつぶやいて、思い付いた言葉をのどから自然に吐き出した。
「優しい物語に感動したり、ピンぼけの写真を懐かしく思ったり、星空をきれいだと言ったり」
「たくさんあるでしょう」
「いくらでも思いつく気がするよ」
サクヤと俺の両の目が五十センチの距離で止まった。
不思議な引力が働いて、目をはなすことができなかった。不思議な斥力が働いて、こわばった二人はそれ以上近づくことができなかった。窓の外に白い雪が降り続いていなければ、時間が止まったと錯覚していたかもしれない。
感覚でわかる。
ああ、そうか。と思う。
わからないことがあった。
サクヤの目を見ていれば、きっと彼女の喋る言葉がホントなのかウソなのかはわかってしまう。逆だって多分そう。サクヤも俺のホントとウソを見分けられる。でもそれだけだ。俺たちは、ウソとホントを見つけられたとしても、心の中で描いた言葉の形を見つけることはできないんだ。みずみずしい髪を美しいと思っていることも、きれいな耳たぶを愛らしいと思っていることも、彼女には伝わらない。
なんでかわからないけれど、泣き出しそうな気分だった。
なんだか考えれば考えるほど俺はわからないことだらけな気がする。
全部が全部わからない。
ただ泣き出しそうだった。
思っている言葉を強く形にした。彼女を見つめたまま心拍と競うように何度も何度も心の中で復唱した。これからこの言葉を言うんだ。
たいした言葉じゃない。大げさな言葉じゃない。ほんの数文字の、何気ない本音というだけだ。今日の夜はハンバーグが食べたい、と言うくらいありきたりな一言のはずなのに、俺の唇は恥ずかしがり屋の少年のように、ぶるぶる空気を震わせる。俺の中でその言葉ができあがる間での様々な思い出が同時に呼び起こされる。
はじめてであったとき。交わした言葉。時間。関係。約束。表情。
有泉そら。
さまざまなものがあって、完成した言葉だった。
辞書に載っている意味なんかひとつもない。俺の心の中で作られた言葉。
聞き慣れた自分の声が、よく耳に届いた。
「すきだよ」
俺とサクヤは笑った。とても自然に、たくさんの感情の結果、笑顔になった。
すきだよ。
この言葉を伝えられることは、きっと泣いてしまうほど幸せなんだろう。




