一話 日常ー現実世界と学校ー
――――幻想世界に来て二週間が経過した。
こちらの世界での二週間は、現実世界での十四時間なので、向こうの日付は翌日の六時だが、こちらでは一ヶ月の半分が終わってしまった。
この奇妙な時差に慣れていないおれは、居心地が悪いような感じがして少し戸惑いを隠せないが。
これは追々、慣れていくとして。
組織に入所してから十日も経つと、なんとなく施設の構造も覚え始め、よく見る顔の名前と性格も覚えつつある。
組織の人達もおじ様達の存在に慣れたようで、鎧を着込んだ武人や拘束具の殺人鬼がいても、気軽に挨拶を交わしていくようになった。
二度見されなくなったおれとしては、おじ様達が周りに馴染めているようで、嬉しい限りである。
これならそう簡単に流血沙汰を起こしそうにない。
少し、安心した。
『我が子ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおお―――――――――ッッッ!!! 我を…………我を置いて行くのかぁぁああああああああああああ!!!!』
『オイクソ医者ァァア――――――――ッ!! テメェまともなゲートねぇのかゴラァァッ!!』
――――前言撤回。
やはり不安である。この二人を置いていくことは。
幻想世界生活十四日目。
現実世界で午前六時となる時間に、元の世界へ帰ることになったおれは、こちらの世界と向こうの世界を繋ぐゲートの前にやって来た。
鏡を介して繋がっているのだという、現実世界と幻想世界。
その間を行き来するためのゲートは技術部に存在するというので、初回という事もありルイスさんに案内されながら住居区の下の階に来てみれば。
エレベーターを降りた先には、科学展示会のような広々とした空間が広がっていた。
大きく五つに分かれているという、丸々一階のフロアを占めた技術部署。
その内五つ全ての分野に通じるターミナルとしての役割を担う中心部に案内され、そこに十数個ズラリと並んだ扉サイズの姿見を見せられたところで、ルイスさんが説明する。
「これがこっちの世界と向こうの世界を繋ぐゲートだよ〜。それぞれに一つずつ、鏡の隣に設置された端末で座標を特定して、その場所にある鏡を通じて移動するんだよ〜」
『へぇ…………見た目は普通の鏡だな』
サイズが普通の扉程ある事を除いては、姿見を立たせるための支柱に、タッチ操作式の携帯端末を備え付けられただけの鏡に、リッパーが言う。
確かに。見た目は試着室の中に設置されているような、ただの鏡だ。
これがこちらと向こうの世界を繋ぐというのだから、近代の科学力は随分と映画の中の世界に近付いてるようである。
因みにこれらの鏡はこちらの世界へ物資を届けるために使われている物であるらしく、普段組織の人々は自室にある鏡から行き来しているとの事だ。
おれは今回初めてだから業務用を使用するということで、次回からは他の人と同じく自室からの移動になるのだという。
成程。寝室のクローゼットの隣にあったあの姿見から移動するのか――――と。
ゲートについての説明を聞き、大体の事は理解出来たおれは、学校もあるので早速ゲートを使い、自宅近くの公園にある公衆トイレの鏡とゲートを繋いで貰ったのだが。
ここで一つ、問題が発生した。
姿見に公衆トイレの様子が映し出され、正常にゲートが作動していることを確認したルイスさんによって通過の許可が下り、それではとゲートをくぐり抜けようとした時だ。
好奇心が働いたらしいリッパーが、おれが次にこちらに来る時には案内を一人つけるという話を聞いている時に、先にゲートの中へ手を突っ込もうとしていたらしい。
「案内人か…………」とおれが考えていたところで、リッパーが、言った。
『オイ。オレ、ゲートすり抜けんだけど』
『ぬ?』
「うぬ?」
「え〜?」
実際に目の前でゲートを潜ってみせるが、姿見の裏側に通り抜けるリッパー。
リッパーに引き続きおじ様が試し、さらに別のゲートで同じ様に試してみたところ、おれと鞄は普通に公衆トイレへと移動出来たが、亡霊は現実世界に移動することが出来ないらしいという事が判明した。
つまり、おじ様とリッパーは幻想世界から出られない。
すなわちおれが現実世界に帰っている間は、幻想世界で二人は留守番という事になる。
この予想だにしなかった事実に、おじ様とリッパーはどうしたか。
片や泣き叫び、片やモンスターペアレントと化した。
『我が子ぉぉおおおおおおおおおお!!!!!』
『ヤブ医者ァァアアアアアアアアッッ!!!!』
そして、約二十分。
おれは開かれっぱなしのゲートの前で、悲劇に泣くおじ様を宥め、ルイスさんにいちゃもんを付けようとするリッパーを止めているのだが。
これ、置いていったらダメなんじゃないか――――と。
五分を過ぎたあたりから、おれは思い始めている。
この亡霊二人、幻想世界に置いておいて本当に大丈夫だろうか。
おれは学生であり、現実世界での生活もあるためどうしても幻想世界に留まることは出来ない。
だが、今まさに問題を起こしている亡霊二人を放って行っても、無事何事も無く留守番出来るとは言いきれない。
――――おれは…………どうするべきだろうか。
玄関で出掛けようとしている飼い主と、飼い主に取り残されたくなくて必死で縋ってくる犬。
脳内でまさにその光景を思い浮かべるおれは、おれと一緒にリッパーを落ち着かせてくれているルイスさんに申し訳なく思いながら、こう考える。
…………今日は、学校休もうかな……………………と。
学校と知り合い、あと隣人に欠席の連絡を入れた方が良いだろうか。
そんなシミュレーションを頭の中でし始めたところで、二十分以上ゲートの前で立ち往生しているおれとルイスさんに何事かと思ったのか。
「あの…………どうしましたか?」
通りすがりの勇者が現れた。
「出勤前に装備の手入れを頼もうと寄ったんですけど…………何かあったんですか?」
「ダテく〜ん。ちょっと助けてよ〜」
ピシッ、とリクルートスーツを着込んだ勇者さんもとい、ダテさんはルイスさんの事情説明を受け、「ああそうだったんですか…………」とおれに同情の眼差しを向ける。
苦労してるんですね――――そう物語る彼の澄んだ目に、少し心が揺さぶられた。
苦労、してます。
亡霊二人に。
このままじゃ登校出来ないので困っています――――そう、口には出さず視線で語りかけると、ダテさんは困ったように笑いながら「分かりました」と唱え、整われていたスーツのジャケットを脱ぐと。
「どうぞカズさん。後は大人に任せて、行ってきてください」
「…………えっ」
思いもしない言葉に戸惑うおれ。
そんなおれが必死で宥めていたおじ様と、苛立ちが募りナイフを手にしているリッパーの肩を、とんと軽く掴んだダテさんは、清涼飲料水のコマーシャルに登場する役者のように爽やかな笑みを浮かべると、
「大丈夫です。任せてください」
キラキラとした、イケメンの顔で。
「他人様に迷惑をかける新人社員の、指導者をしてますから。こう見えて」
瞬間、おれは察した。
――――あっ。この人、怒らせてはいけない類の人だ。
……………………と。
「では、学生は勉学に励んできてください」
「……………………えっと、あの…………はい…………」
いってきます、と。
爽やかな好青年の笑顔に押され、久々に使うその言葉を口にしたおれは、なんとなく、胸のあたりにむず痒さを覚えながら。
あと、肩からいつの間にか襟首を掴まれているおじ様とリッパー、ルイスさんにも「いってきます」を言い、心なしか目が潤んでいるように見える犬系亡霊に若干後ろ髪を引かれながら。
薄暗い公衆トイレの光景を映し出す姿見のゲートを、くぐり抜けた。
そこは、見知った空気。
見知った雰囲気のトイレで。
あまり掃除の行き届いていない床に降り立ったおれは、振り向いた先にある手洗い場の鏡を見つめる。
おれが出てきたのだろうと判断される鏡に映されていたのは、営業スマイルのダテさんによって床に座らされるおじ様とリッパーの姿だった。
おれがゲートをくぐり抜けている間に何があった。
少しの間鏡の向こうに映る景色を眺めていれば、ひょいっと鏡の隅ににこやかな笑顔でこちらに手を振るルイスさんの姿が映り――――次の瞬間には、見慣れた目と視線が合った。
おそるおそる触れてみると、冷たくつやっとした感覚が指先を撫でる。
ゲートはもう、ただの鏡に戻ったようだ。
こうなるとこちらからはアクセス出来ないんだよな、と。
ルイスさんから聞かされた話を思い出すおれは「ところで向こうの世界に行くための案内人とは誰だろう」と思いながら、人気のないトイレを後にする。
トイレから出ると真っ先に、淡い光が目に入った。
少し目が眩みながら前へ足を踏み出せば、鳥の鳴き声が聞こえる。雀だろうか。
チュンチュン、という鳴き声の聞こえる先に目を向ければ、そこには空があった。
広々とした、青空があった。
「――――――」
久し振りに見上げる空は、早朝のためまだ色が淡い。
それでも吸い込まれそうなほど綺麗な、汚れ一つない、空だ。
じっと天上を見詰め、深く息を吸うおれは目を閉じ、肺全体に澄んだ空気が行き渡ったところで目を開く。
もう、光に目は眩まない。
空が、目の前に広がる。
灰色ではない、青い空が。
久々となる青空を堪能したところで、今自分のいる場所が向こうの世界で夜に侵攻生物と戦ったあの公園であることに気付き、連想するように幻想世界へ残してきたおじ様とリッパーの事が気にかかるおれだったが――――まあ、大丈夫かな。と、思い直す。
向こうには、爽やかスマイルのダテさんがいるし。
多分…………きっと、大丈夫だろう。
そう思うことにしよう。
それより周りに人がいなくて良かったな、と。今し方出てきた男子トイレから離れたところで思いながら、まずは二週間ぶりとなる我が家へ。
帰る、事にした。
少し歩いた所に、『ホワイトハウス』呼ばれているマンションは、あった。
無論どこか消滅しているわけでもないし、崩れている所もない。
最後にマンションを見た、その時の記憶と同じまま、おれが住む家は存在していた。
ちゃんとそこに、あった。
体感時間で二週間ぶりとなる我が家に上がり、この数日ですっかり着慣れたジャージから、こちらの世界に戻る時に渡された新品の制服に着替えたおれは、まず日付を確認する。
ルイスさんの話を信じていないわけでは無い。だが、気になったので念のために、時差の計算は正しいか見ておく。
テレビを点け、朝のニュースを放送している番組に目を通せば、時刻は六時少し過ぎ。
日付は幻想世界に迷い込んだ次の日であることを確認して、一先ず行方不明扱いになっていなかった事におれはほっと息を吐いた。
それからすぐにテレビを消し、ジャージを洗濯機に入れタイマーをセットする。
鞄には向こうの世界でやっておいた宿題と、予習復習のためのノート。それから体育で使う、これも血で汚れたために新しくなったジャージを入れて、いつも通り家を出る時間に、自宅を後にした。
ついでに隣の部屋のインターホンを鳴らし、二分経っても応答が無いことを確認してからその場を後にした。
今日は、おれのクラスの名物が見られそうである。
自宅のマンションを出て、数歩歩いたところでその場を振り返り、そこに真っ白い外装の住み慣れた建物がある事を、もう一度だけ確かめた。
どこか崩れたりもしておらず――――ましてや荒れ果てた大地が広がっているわけでもない。
白い外観のマンション自宅の後ろに青空を見るおれは、空を見上げる。
まだどこか暗い色があり、やや色が薄いように見える、明朝の青空。
それは清々しく――――心が洗われるように、美しいと思った。
住宅街を抜ければ、そこは自宅と学校の中間地点だ。
オフィス街に繋がってる通りには、朝早いサラリーマンが早足で通り過ぎるのが見え、赤信号では規則通りに自動車が信号が変わる瞬間を待っている。
赤色の光を点す信号機の上では、チュンチュンという鳴き声が平和な朝を謳っていた。
信号を渡る前に、常連と化しているコンビニエンスストア『マルMISE』に行けば、分別式のゴミ箱の前に野良猫が一匹座り込んでいる。
誰かに餌付けされているらしく、人が近付いても逃げる様子のない野良猫を横目に、店の中に入れば、電子音と共にレジの店員から「いらっしゃいませ」と声をかけられた。
レジには店員がいて、陳列棚には商品が所狭しと敷き詰められている。
迷わずおにぎりを二つとパンを三つほど手にし、少し考え弁当を一つ追加し、会計を済ませ店を出た。
入店時から漫画雑誌を立ち読みしているサラリーマンはその間、微塵たりともその場から動いてなかった。
駅の方へ向かうと、通勤通学のために電車を利用する人が数多く見られた。
電車のホームからは改札口の開く音やアナウンスが聞こえ、ぞろぞろとそれぞれの目的に向かう人が吸い込まれるように改札口に入り、出てくる。
その誰もが、見慣れた光景を流し見ながら、歩き慣れた道を歩いていく。
ざわめきながら行き交う雑踏の中に、おれは静かに混ざり、学校へと向かう。
あの時巨大な侵攻生物が突っ込んだビルは、何事も無かったかのように本来の形を保っていた。
朝練のある運動部の生徒に混じり、校門を抜けたおれは、グラウンドで走り込みをしている硬式野球部の姿を見かける。
その反対側ではサッカー部が、リフティングの練習をしていた。
朝から部活に励む運動部員達を一瞥したおれは、朝の涼しい空気を頬に感じながら下駄箱へ移動する。
グラウンドに、巨大な化け物などいるわけもなかった。
今、目の前に広がる青い光景と。
二週間前、目に焼き付いた灰色の光景
それを重ねれば、重ねるほどに。
思えば、思うほどに。
振り返れば、振り返るほど――――この十四日間におれが体験したことはもしかして、
――――夢だったのではないか…………と。
そう感じるようになってしまい、どうにも幻想世界というものが現実味のないものに思えてしまうおれは、懐かしい感覚のする教室に入り、自分の席に着く。
まるで長期の休み明けような、少し新鮮味のある気持ちで鞄を机の横に掛けると、正面に誰かが移動してきた。
誰だろう、と顔を上げたおれは一拍遅れてから「そういえば」と、こちらに体を向けて座る彼女の事を思い出す。
――――ああ、そうだ。いつも彼女は自分からおれのところに来て、携帯片手に話しかけてくるのだ。
気にしてはいなかったが、そういえば毎朝こうして顔を合わせ話すことが、習慣になっていたな――――なんて。
そんな、とても懐かしい気分と共に、おれは中学校からの付き合いである彼女の名前を呼んだ。
「生駒、おはよう」
久し振りに口にした彼女の名前は、思ったよりするりと口に出せた。
「…………珍しいわね。カズサから挨拶してくるなんて」
目を丸くしてまじまじとおれを見る、彼女。
『知り合い』こと、生駒。
中学校からの付き合いである彼女は毎朝、SNSで流れてくるニュースや話題をオレに振って来ることを日課にしている。
なぜかは知らない。いつの間にかそんな風になっていた。
だが今日の彼女は珍しく携帯を閉じて、おれの方へ身を乗り出す。
そして携帯の代わりに、おれの額へ手を当てがうと、反対の手を自分の額に当てしばらくしてから「うん」と頷いた。
「熱は無いわね…………」
なぜおれが挨拶をしただけでそこまで体調不良を疑うのか。
心外である。
そんなにおれは普段、挨拶をしないヤツだったのだろうか。




