三話 静夜 ー鏡の向こう側ー
『一言で説明するならば、ここは「鏡の向こう側」であろう』
――――時計台の下に置いていた鞄を回収し、真っ先にコンビニマルMISEに帰ろうとしたおれはおじ様に『そっちではない』と言われ、先導する彼により住宅街のとある一軒家に案内された。
全く関わりのないお宅の玄関先で待っているように言われたおれは、庭の方へ一人移動していくおじ様の背中をぼーっと眺めていたが、間もなくして。
ガシャンッ――――と近くでガラスの割れる騒々しい音がし、開かないはずの玄関の扉が内側から開けられた。
え? と目を丸くすると、中から現れたのは涼しい顔をしたおじ様で。
『おかえりだ、我が子よ!』
土足で他人の家に上がり込んで、輝く笑顔でおれのハグ待ちをしていたおじ様におれは絶句した。
なんと堂々たる不法侵入だろうか。
『ぬ? どうした、入らぬのか?』
「…………いや」
首を傾げるおじ様。
疲れのせいか、それとも空腹でツッコミを入れる気力すら無いせいか。
…………おそらく、両方のせいだろう。
ぶんぶんっと、激しく揺れる犬の尻尾をおじ様に幻視してしまったおれは内心で頭を抱えながら、当然のように他人の家を我が家のように扱うおじ様に向ける言葉が思い浮かばず――――やむを得ず「…………ただいま」と。
仕方なく、他人様の家に上がり込む。
これにぱあぁっ、と顔を綻ばせて『うむ! おかえりだ!』と返してくるおじ様だったが、おれは罪悪感が刺激されることこの上ない。
だってここ、他人の家。しかも全く知らない人の。
そもそも、なぜ当たり前のように他人の家に乗り込めるのか。
亡霊として人に見られていない期間が長かったからそんなに堂々としているのか――――と、頭の中で自問自答を繰り返すおれは小声で元の持ち主に敬意を払い、お邪魔します、と呟いたのだった。
そして上がり込んだ他人の家を好き勝手に弄るおじ様は、室内を探索しまくった。
テレビはつかないだとか、電子レンジは使えるだとか、冷蔵庫に食糧は無いだとか。
事細かに家のあらゆるものを漁りまくった彼はやがて、リビングに鞄を下ろして部屋の中をぐるりと見渡していたおれに、どこから見つけたのかバスタオルを持って来てこう勧めた。
『外は我が見張っている故、お前は湯に浸かって来ると良い』
おじ様の優しい心遣いに全おれが泣いた。
持って来たバスタオルも風呂も何もかも、他所様のだけれども。
疲れている時は大概一人だったおれは、心の中で涙を流す。
ああ疲れている時にかけられる思い遣りの言葉ってこんなにあったかいんだ――――と。
少し目頭にじんっと浮かんだ熱さをまばたきで誤魔化しながら、おれは気持ちだけ受け取るとおじ様へ微笑む。
だって他所様のバスタオルを血で汚すなんて気が引けるし、なによりこの世界では水道が使えないし。
何故だ、と唱えたおじ様に、電気は問題なく使えるがガス・水道は使用不可能だとオフィス街のビルで実証済み。この世界では水が使えないということを伝えると、彼はきょとんとした顔でおれを浴室に案内して。
『水ならこのスイッチを押すと勝手に湧き出てきたぞ?』
「…………なん…………だと……………………?」
驚愕するおれにおじ様が見せたのは、綺麗な水が排水口から浴槽へ流れ出ている、有触れた有り難い光景だった。
なんという、ことだろうか。
身なりや言葉遣いから古き時代の人であるらしい、おじ様。
いろいろ弄って、お風呂沸かしてた。
なんという奇跡を起こしてくれたのだろうか、彼は。
――――というか。
「水、出るじゃん…………」
唖然と立ち尽くすおれのすぐ近くで、おじ様は洗面台の蛇口を捻って水を出していた。
おい、水出てるじゃないか。なんでだよ。
「オフィス街とかファーストフード店じゃ一滴も出なかったくせに…………!」
『ビルと家ではまた条件が異なるのではないか?』
「それは盲点だった」
必死で食糧探していたあの苦労は何だったんだ、と嘆くおれにおじ様がかけた一言で、おれははっと気付く。
そういえば、今日おれが探索したのはオフィス街付近だけで、住宅は不法侵入になるからと一歩も足を踏み入れることは無かった。
――――もしかして、家とビルとでは使えるものが違うのか?
その可能性を見出したおれは少し考えて、じょぼじょぼと浴槽に水が溜まっていく様子を珍しげに眺めるおじ様に問うた。
「おじ様、ちょっと家の中を探索しません?」
『良かろう。しかしおじ様は却下だ』
――――こうして。
おじ様が侵入するために割られたリビングのガラス戸以外は、特に変わった所のない一軒家を探索した結果。
パネルを操作してお湯を沸かす形式である浴槽に、水が溜まっていくのを目の当たりにしたおれは、どうやらこの家は電気、ガス、水道の全てが使えるのだという事を知った。
また扉のついた棚の中に収納してあるものは全て『建物の一部』の括りに入れられているらしく、カラーボックスなどは空だったがクローゼットの中にある服は存在しているという事が判明した。
どうしてビルと一軒家で違いがあるのか。
その理由は不明だが、一通り家の中を探索したおれは決断する。
今日、泊まろう――――と。
「おじ様とこの家の人、ありがとうございます…………!」
『おじ様は不可だと言っておるだろうに』
ちょっと眉間を寄せたが表情は嬉しそうなおじ様に再度感謝の言葉を紡いだおれは早速、お宅探検している間に沸かしておいた風呂に入ることにする。
今は行方不明であるこの家の家主には悪いが、生きる為だと割り切りいろいろ使わせて貰うことにしたのだ。
特に、水を。
水があるなら人間は一ヶ月生きていけると聞いたことがある。尤も、体内に貯蓄されているタンパク質や脂肪量で個人差はあるらしいが。
つまり、ここの水を利用させてもらえばおれは約一ヶ月はこの先生きていけるという事になる。
すなわち、この一ヶ月とは――――おれが生きて元の世界に帰るための、タイムリミットだ。
…………その前にいつ水道が使えなくなるか分からないので、もしかしたらタイムリミットはもっと短くなるかもしれないが。
そういう考えがありこの家に宿泊すると決めたおれだが、勿論、宿泊費は幾らか払うと決めている。
流石に無断で借りるのは、おれ自身が嫌だからだ。
――――と。こんな経緯があり。
午後九時四十八分。
リビングのコンセントに刺さりっぱなしだった充電器を借りて携帯を充電する傍ら、貴重な食糧である苺ジャムパンの四分の一を薄めたストレートティーを夕食として摂っているおれは、持って帰って洗う予定だったジャージを着て、椅子に座っていた。
化け物の血で汚れた制服はお風呂で軽く染み抜きをして、この家から借りた洗濯機にて洗わせて貰っている。
おじ様は亡霊であるので食事は必要ないと、ジャムパンを取り分けようとしたおれに言ったが、おれ一人食事をするのは気まずい。というかおれだけ食事をするのは心苦しいので、せめてストレートティーだけでもとカップに移して差し出したら、渋々口付けてくれた。
ちなみに亡霊だけど普通に食事は摂れるし味も分かるらしい。
薄いな、と。カップを傾けたおじ様は苦笑を零した。
そして、暖房も利きリビング内にまったりとした空気が流れ出したところで、おじ様は今おれがいる『この世界』についての話を始めたのだった。
空腹を紛らわすため小さく千切ったジャムパンを黙々と咀嚼するおれに、テーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろし悠然と紅茶を味わうおじ様は『鏡の向こう側』と称した世界について語る。
『生前、我が戦で得た戦利品の中から偶然、この世界に通ずる鏡を見つけた為に我はこう呼んでいる。
ここは我々が元々住んでいた世界の写しにて否。
生き物は無く物品も無く、ただ建物だけが存在する場所である。
我がこの場所に訪れた時は常に怪物が蠢き、我の愛する国は無残に荒らし尽くされていた。
何故、あの怪物はこの世界を荒らすのか。
あの怪物は何処から現れるのか。
それは我も突き止めることは叶わぬかったが――――二つ。確かな事がある』
カップに注いだだけのペットボトルのストレートティーを優雅に楽しむ。
その姿があまりにも様になっていて、安物のストレートティーを飲ませている事がなんだか申し訳なく思えて仕方が無いおれは、数十回程噛んでドロドロになったパンの欠片を飲み込んで、相槌を打つ。
「確かな事?」
『うぬ――――一つは、この場所は我々が元いた世界と繋がっていることである。
我が国は長年不作続きであったが、この世界にて国を荒らす怪物を串刺しにしたところ、その年は豊作となった。逆も然りだ。
どうやらこちらの世界を荒らす怪物を倒すことにより、元いた世界の土地に実りが訪れるようである』
怪物がこちらの世界を荒らせば元いた世界の土地は荒れ、怪物を倒せば元いた世界の土地は豊かになる。
まるで双子か、鏡合わせのように影響しあっているらしいこの世界と、おれが生まれ育った世界。
大なり小なりやった行為による影響が出ることが互いの世界が繋がっている証拠だと説明したおじ様は、二つ目の確実なことについて語る前に席を立った。
どうしたのだろう、と様子を見ているとおじ様は壁に立て掛けていたポールを掴み取り、手に馴染ませるようにくるりと一回転させ、
とんっ――――と。
突き立てるように、フローリングを打つ。
『――――Tepes Draculia』
暖房機から温風が流れ出る音を捉えていた耳朶を、誓いを謳うように低音が伝った――――瞬間。
ポールが、“変質”した。
その変化は一瞬だったが、おれの目にはポールが変質する瞬間が信じられないことに、全てスローモーションに見えた。
その時に目撃した光景は目を疑うようなものだったが、紛れもない現実だ。
おじ様が聞いたことがない言葉を紡ぎ終わると同時、おれは白いポールの中から黒い鱗のようなものが生えて来るのをこの目で見た。
びっしりと――――
みっちりと――――
爬虫類を髣髴させる光沢を持つ黒色は、みるみるうちにポール全体を覆い、その形状を根本から作り換えていってしまった。
金属というには儚く、堅牢さのある艶やかな硬い鉱物に。
名前の分からない。だけど、“最凶”である物質に。
やがてポールだったそれは細い十字架の形となって、この世界に顕現した。
最初からそうであったかのように。
その十字架は、一本の“槍”として。
『――――この様に。
この世界に訪れた者は皆、何かしらの奇怪な力を使える様になる。
神の御業とも、悪魔の呪いとも言えぬ不可解な能力を。
偶然我を追いこちらにやって来た召使も、我とは異なる力を会得したが、直後に怪物に喰われた。確か…………水を操っていたか?』
開いた口が塞がらないおれの目の前で淡々と説明するおじ様は、呆然とするおれに気付き『どうした我が子よ』と気を掛けてくれる。
呆けていたおれは我に返って、黒い十字架状の槍とそれを携えたおじ様を交互に見やった。
漆黒であるが、白熱灯に照らされ輝く光沢はどこか橙色に見える槍。
おじ様の瞳の色と同じ色彩を垣間見ることが出来る槍は、その形状あいまってか。
どこか、神秘的だと思ったのだ。
夜と混ざる、夕陽のように。
『我は既に死者であるためか、生前程力は使えぬ。だがこうして手持ちの長物を我が槍とする事は出来る。本来ならば見渡す限りの槍をまばたきの合間に造ることが出来るのだがな』
少々不服そうに槍を一瞥したおじ様は、じいっと槍とおじ様に眺めているおれの傍に立つと、ちょうどジャムパンを食べ終えたおれの手を引いて席から立たせた。
口の中に残っていたパンをごくんと嚥下したおれが何用かと、厳格な印象のある顔立ちをしたおじ様の表情を仰げば、彼はおれの手に十字架槍を握らせる。
『そして「こちら側」に来たことにより、お前にもこの荒唐無稽な力は目覚めた』
「……………………うぬん?」
確信に満ちたおじ様の言葉に、おれは素っ頓狂な声を上げた。
彼は今、おれが力に目覚めたとか、そう、漫画でありそうな非現実的なセリフを口にしなかっただろうか。
こんなおれに、物質を変質させるような現代科学じゃ解析できない力が――――目覚めた、とか。
槍とその持ち主の瞳の色彩に見とれていたおれは彼の自信のこもった眼差しにより我に返り、陰った気持ちで思う。
――――そんなわけ、あるはずがないのに。
「…………おれにはそんな、魔法みたいな力なんて無い」
頭の中でおじ様の発言を反芻したおれは、彼から手渡された十字架槍を彼の手に押し付けた。
槍を受け取ろうとしないおじ様の手から落ちそうになる十字架槍。その上から手を被せると、おじ様の手と自分の手で槍を挟み込む形になる。
体温の低い大きな手と、平熱であるおれの小さな手。
互いの手で槍を挟み込んだ状態のまま、おれは否定の言葉を紡ぐ。
何故なら根本的に、有り得ないのだ。
何か特殊な事があるとか、秘められた才能があるとか。
そんなのあるはずがない。
「だって――――」
おれは産まれた時から出来損ないなのに――――――
おれが信じる現実。おれの知る真実。
それを唱えようとしたこの口は、何の前触れもなくおじ様がおれを抱えた事により強制的に閉ざされた。
――――気が付けば視界に映っていたのは、フローリングの床とおじ様の足元だけだった。
「!!?」
『では、試してみるとしようではないか。お前に力が有るか、否か』
「!?!? え、ちょっま…………っ!?」
突然フローリングを見つめる事になったおれが困惑を顔に表す間もなく、片腕で小脇に軽々とおれを抱えたおじ様は淡々と言うなり、カーテンで見た目を誤魔化している大穴の開いたガラス戸を開け放つ。ひやりとした外気が室内に流れ込む。
まだ心なしか肌寒い夜の空気が体を撫でていくのを何でもないといった表情で受け止めるおじ様はフローリングの床を蹴ると、せめて腹に食いこむ腕をどうにかしようとしていたおれを連れ、外の世界へ飛び出していった。
ぐぅんっ、と腹に負荷がかかり一瞬で遠のく地上。
人間一人を抱えたった一度の跳躍で隣りのお宅の屋根に飛び移るという、人間離れした身体能力を見せ付けたおじ様は『うむ……』と軽く周囲の夜闇に視線を漂わせると。
『あっちか。では往くぞ我が子よ。槍をしっかりと持て』
「ぁ、ちょ、すいません高いそして腹に腕が食いこま゛っ――――」
腹部を圧迫される苦しさを訴えるおれの抗議をまるきり無視し、住宅街の東へ向かい彼は次々と屋根から屋根へ跳び移って行くのだった。
なお、その間おれは小腸あたりから逆流してた液体的なものが口から出ないように奮闘しながら、次々と移り変わる視界の片隅でぼんやりと色ぼけた、お花畑を見た。




