【2-10】選んだのは君自身(レト視点)
「待ちなさい! レト!」
きっと今の僕は酷い顔をしている。泣きそうで、怖くて堪らないって顔だ。少なくとも、マドライナに見せられる顔ではなかった。
後ろからお母様の怒号が聞こえる。けれど、今マドライナの左手を離せば、彼女は処刑されてしまう。
建国祭の昼、ルカは王都を混乱に陥れた。街は逃げ惑う人々の悲鳴が飛び交う。まだ情報伝達のされていない城内もまた、街と同じような状況だった。
僕は壊れかけたベランダで、強く握りしめていた手を離し、初めて彼女の方を見た。マドライナは黙って俯き、僕から視線を逸らしている。
「マドライナ、僕と逃げてくれないか」
マドライナは返事をしない。彼女と逃げることで、僕自身に危険が及ぶことを気にしているのだろう。
「馬鹿なことをおっしゃらないで下さい。今からでも貴方様はヒルデガルド様の元へ帰るべきです」
マドライナの言うことは、王子に対して言う言葉としては正解だった。僕はやたらと豪華な王家の印だった赤いマントを肩から外し、下へ投げ捨てた。もうこんなものも必要ない。
「僕はね、この国を統治するために奔走するよりも、君の隣で、他愛のない話をしていたいんだ」
「レト、様……」
マドライナの琥珀色の瞳が大きく揺れる。嘘偽りのない、僕のたったひとつの我が儘だった。窓辺で花を眺めながら、背が高いことを気にしている君をからかって、怒った君に窘められる――そんな、名前もつかないような当たり前の時間を、君と生きていたい。
「だから、君を置いていくわけがないだろう!」
ベランダの扉を蹴破って追っ手の兵たちが雪崩れ込んできた。
「レト殿下! 危険です! その女から離れてください!」
彼女の手が震えている。いつも僕を守ってくれる彼女が、ずっと小さな女の子に見えた。
僕は、君を易々受け渡す気なんて無い。
「えっ――!」
気がつくと、彼女の腕をグッと引いていた。彼女の膝裏と背中に腕を滑り込ませ、僕は力任せに彼女の華奢な身体を抱き上げる。
僕はコンラッド兄上のように強くはない。それでも、落としてたまるかと全身の力を込めて彼女を胸元にかき抱く。
普段は何があっても眉一つ動かさないマドライナが、初めて間の抜けた顔をしている。
僕はそれが嬉しくて、そのままの勢いでベランダの手すりに足をかけた。
「レ、レト様!? 何を――降ろしてください!」
「舌を噛むなよ! マドライナ!」
僕は壊れかけた石の手すりを蹴って、煙が立ち込める階下の中庭へ向かって迷わず飛び降りた。灰の混じる空気が目に入らないよう、ギュッと強く閉じる。
本当は怖くて泣きそうだったから、下が見えないようにするためでもあった。
——バキバキバキッ!
凄まじい破壊音とともに、中庭にせり出していた木製の藤棚が僕たちの落下を強引に受け止めた。へし折れる角材と伸びるツタが落下の勢いを削ぎ、そのまま下にあった分厚い生垣の茂みへと突っ込む。
無数の枝が皮膚を裂き、泥と枯れ葉を巻き上げながら、二人して濡れた芝生の上を無様に転がり落ちた。
「いっ……」
背中を強打し、僕は強制的に肺の空気を外へ押し出された。めちゃくちゃ苦しい。
けれど、僕の腕の中に閉じ込めていたマドライナは無傷だった。土まみれになった彼女が、生まれて初めて見るような、震える瞳で僕を見つめている。
「無事、かい? マドライナ」
「……本当に貴方という人は……」
僕は一度息を整えると、痛みに顔を歪めながら無理に笑ってみせた。彼女は唇をきつく噛み締め、すぐに僕の腕を引っ張り上げた。
「立てますか?」
「大丈夫、行こうか」
頭上のベランダから、けたたましく警鐘の音が響き渡る。
『第二王子殿下が反逆者の侍女に拉致された! 門を閉ざせ! 追え! 王子に傷一つつけるな!」
魔術具で拡声された声と共に、空から大きな鳥達が一斉に羽ばたいていく。近衛魔術師団だ。城はあっという間に秩序を取り戻していく。奥からも、やけにそろった甲冑の音まで聞こえ出した。
どんどんと防がれる逃げ道に僕はどこへ行けば良いか分からなくなっていた。
「城の隠し通路なら、きっと気が付かれずにいけるはずです。さあ、逃げると言ったのは貴方ですからね! ならば私だって最後まで足掻きますよ」
「マドライナ……!」
マドライナと僕は息を殺し、葉を踏む音一つすら立てぬように歩いた。広大な中央庭園も、今は砂埃でよく見えない。壁をつたって歩いていると、前方を進むマドライナが急に立ち止まった。
「ここです。屈んでください」
「これは、扉?」
レンガの壁に半ば埋もれるようにして、苔むした古い両開きの鉄の落とし戸がある。細かい枝や草と絡み合っていて、簡単には開きそうもない。
すると突然、マドライナはすくっと立ち上がり、黒くて長い侍女のドレスの端を摘み、一気に縦に裂き始めた。
「え、ちょっと、何をしてるの!?」
マドライナは真顔で膝丈ほどまで割いた後、太ももにつけていたベルトを取り外した。
「ここにナイフを入れていたんです。ご存知ないのですか? 護身用に侍女は皆持ち歩いていましたが……私達ももちろん貴族令嬢ですけれど、自分の身は守れないといけませんからね」
使い慣れた手つきで次々と枝葉を切っていく。僕は錆びた取手に手をかけ、思い切りそれを押し上げた。
——キィ……ガラガラガラ
中は一段下がっていて、長い石の洞窟が続いていた。頭を下げて二人で中に入り、鉄格子の扉を閉めると、なんだか牢屋のようだった。
「厨房へ冬の氷や食材を運ぶための古い搬入口なんです。昔はここからよくコンラッド様が……いえ、思い出話はまた今度ですね」
「僕はこんな場所、兄上から聞かされていないぞ……」
外へと続く道をひたすら進み続ける。湿った通路は春だというのに冷たい風が吹き込んで来た。時折、僕らを探す騎士の声がすれば、その度に黙ってやり過ごす。ここは壁が薄いどころか、真上が地面なのだ。
天井の隙間からパラパラと乾いた土が降ってきて、僕は思わず口元を手で固く覆った。くしゃみ一つ、喉を鳴らす音一つすら許されない静寂。
「……レト様は庭園にはいらっしゃらないようだぞ」
「班を分ける! 一班は城に残って警備、二班は庭園、その他は全員……」
天井の揺れが収まる。完全に気配が遠のいたのを見計らって、マドライナが低く囁いた。
「……行ったようです。急ぎましょう、レト様」
「う、うん……!」
湿った石壁に肩を擦りながら、僕たちは暗がりの中を小走りで進む。冷たい風が前から吹き抜けてくる。腐りかけた藁と、カビと、街の食べ物の香りがする。今日は大切な建国祭なのだから、きっと露店を準備してくれていたのだろう。僕は胸が苦しくなった。
前を走るマドライナの背中を見つめながら、僕は小さく息を吐いた。
「ねえ、マドライナ」
「何でしょうか」
「さっきの……コンラッド兄上の話さ。兄上は、ここから抜け出して何をしてたの?」
走りながら横顔を盗み見ると、マドライナは前方を油断なく見据えたまま、ふっと口元を緩めた。普段の鉄仮面のような彼女からは想像もつかない、柔らかい笑みだった。
「……アンネリーゼ様への贈り物を買いに、城下町へ抜け出していたのですよ。あの方のお好きな甘いお菓子や、珍しい魔導具の部品を探しに」
「あはは……兄上らしいや。アンネの喜ぶ顔が見たい一心だったんだね」
僕のせいで殺された兄上。そんな兄上が幸せにしたかったアンネリーゼも、僕のせいで不幸になった。僕はもう、これ以上誰も自分のせいで犠牲になる人を見たくない。
通路の先、眩しい外光とともに鉄格子の出口が見えてきた。王宮の石垣の最下層、運河沿いの荷揚げ場だ。
格子はルカが起こした爆発の余波で大きく歪み、人が一人すり抜けられるほどの隙間が口を開けていた。その向こうには、下層街へ向かうはずだったのか、積み荷の木樽を積んだまま放置された荷馬車が一台停まっている。
「あの馬車に潜り込んで下層街へ紛れ込めば、追っ手を撒けます」
マドライナがひしゃげた鉄格子を押し広げ、振り返った。木漏れ日のような外光に透ける金色の髪は美しく、琥珀色の瞳は、嬉しそうに細められていた。
逃げ切れる。君の手を引いて、この呪われた王宮の外へ。
そう確信して鉄格子の隙間へ足を踏み出し、立ち上がった、まさにその刹那だった。
「あら? 王妃様がネズミの逃げ先すら分からないとお思いですか?」
上を見上げると、白い獅子が刺繍されたマントをたなびかせた長髪の女がいた。
赤くギラギラと輝く魔法陣は僕らに向かって起動されている。
「近衛魔術師団!」
「レト殿下をこちらに受け渡しなさい。そうすれば、お前の命くらいは助けてあげますわ」
マドライナは持っていたナイフを下ろすと、僕の背中に手を置いた。
「えっ……?」
は、と開いた口が塞がらない。
「へぇ、思ったより従順ね。狂犬と聞いていたのに」
マドライナは僕に一瞬耳打ちをした。
返事をする前に、僕は彼女に突き飛ばされていて、マドライナは魔術師に向けてナイフを一直線に投げた。いくら魔術師でも、ナイフで刺されればひとたまりも無い。
「マドライナッ!?」
後ろへ突き倒され、僕の身体は鉄格子の外、近くの荷馬車の積み荷の木樽の間へと飛んでいく。
視界が、反転する。
頭上で起動した魔法陣が、網膜を焼き尽くすような閃光を放ち、鼓膜を劈く甲高い音が空間を震わせた。
——キィィィィィン
女魔術師の掲げた杖から放たれたのは、凝縮された深紅の光線。
逃げ場のない狭い石壁の出口へ、一直線に突き刺さる。
凄まじい衝撃波と、肌を焦がす熱風。砕け散ったレンガの破片と粉塵が豪雨のように僕の身体へと降り注ぎ、激しい風圧に息が詰まる。視界が真っ白に染まり、耳鳴りだけがぐわんぐわんと頭蓋の奥で鳴り響いていた。
「……っ、が、マドラ、イナ……!」
咳き込みながら、木樽の影から顔を上げる。もうもうと立ち込める白い煙の向こう。
ボタ、という音と共に僕の目に飛び込んできたのは、信じたくない、悪夢のような光景だった。
見慣れた黒い侍女服の布切れ。
焦げた血肉の匂い。
そして、肩の根元から吹き飛ばされ、いびつに千切れた、細い左腕だった。
「…………え?」
声にならなかった。喉が引き攣れ、脳は急速に凍りついていく。
さっきまで僕の手を引いてくれていた手。
ナイフを握り、僕を守ると言ってくれた手。
指先が微かに痙攣し、断面から溢れ出す鮮血が、僕の足元の石畳を黒く染め上げていく。
なんだ、これ。僕が望んだのは、こんなことじゃない。
「——走れ! レト!」
かすれた彼女の絶叫が、僕の身体をバネのように動かした。
「あぁぁぁぁぁ!」
僕は叫んでいた。叫びながら、手を伸ばそうとした。
けれど、荷馬車がガタッと音を立てて動き出す。爆発の衝撃に驚いた繋ぎ馬が、狂ったように嘶いて下層街の坂道へと走り出したのだ。
『私も、貴方といたいです』
マドライナが最後に伝えたのは、この言葉だった。
(あぁ……痛いな)
ガラガラと馬車の走る音がする。今はもう、目を開ける気力も湧いてこない。
もし、願いが叶うならば。
窓辺でゆらゆらと揺れていた、貴方が育てたリンドウのお花を頂きたかった。




