CASE 00:始まりの朝
人は、見たいものだけを見る。
そしてそれを、真実と思い込む。
――ユリウス・カエサル
タフでなければ生きていけない。
優しくなければ生きていく資格がない。
―― フィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラー)
◇
車は一定の速度を保ち、州間高速道路を流れている。
まだ何者でもない2人を乗せて。
助手席のジョージ・ウガジンはシートを倒し、浅い呼吸のまま眠っている。
やや癖のある黒髪が無造作に跳ねている。
太い眉。粘土を押し固めたような顔立ち。
東洋人の顔の中でも、異質な密度を帯びていた。
数ヶ月前に戦場で右脇腹を撃たれ、腸を削った。
睡眠はいつもこうだ。
唐突に落ちるが、深くならない。
「ジョージ、ニューアークだ」
ハンドルを握るヴィンセント・モローが短く言った。
確認というより、報告に近い声だった。
短く刈り込まれた黒髪に、鎧のような骨格。
黒人の肌に沈むはずの瞳が、光を拾ってわずかに茶を返す。
厚みのある首と肩に対して、その目だけが穏やかだった。
街の輪郭が、フロントガラスの向こうに滲み始める。
ビルが天に向かってそびえ立っている。
朝日が、ビルの隙間を斜めに切りとっていた。
「……朝か」
ジョージが目を開け、2、3度瞬きをした。
寝起きの声は掠れているが、意識ははっきりしている。
「寝てたのか。起こしたか?」
「いや。ちょうどだ」
ジョージはリクライニングを戻した。
小さくため息をつき、シートに身を預け直す。
「……ほとんど運転を任せたな」
「そうだな」
「悪い」
「気にすんな」
ヴィンセントは鼻で笑った。
「寝てる負傷兵を叩き起こして、ハンドル握らせる趣味はねぇ」
ジョージは口元をわずかに緩め、外を見た。
風景が後ろに流れていく。
右脇腹に手をやる。
腹の奥が、鈍く重い。
車の振動が、傷に響く。
「モーテルの旅はこれで終わりだ」
ヴィンセントが続ける。
「これから部屋を探す。希望は?」
少しだけ間を置いて、ジョージは答えた。
「安い」
即答だった。
「屋根がある。壁がある。以上」
ヴィンセントは思わず吹き出した。
「ずいぶん贅沢だな」
「生きるには十分だろ。それに、戦場に比べたら天国だ」
その声は、冗談でも皮肉でもない。
知り尽くした声だ。
「だな。……血の匂いもしねぇ」
朝日が無遠慮に2人の目を刺した。
ヴィンセントは、サングラスを掛ける。
「じゃあ探すか。屋根と壁付きの、安い城をな」
ジョージは窓の外を見て呟くように言った。
「……そう言えば、なんでニューアークなんだ」
唐突だったが、独り言ではなかった。
ヴィンセントは、車線変更しながら答える。
「理由が欲しいか?」
「気になっただけだ」
「じゃあ順にいくぞ」
ヴィンセントは指を1本立てた。
「まず、安い」
「だな」
即座に同意が返る。
「ハドソン川を挟んだニューヨークの隣だが、家賃は半分以下。
クソみてぇなエリアも山ほどある。だがまあ――ニューヨークよりはマシだ」
ヴィンセントは短く笑い、2本目の指を立てた。
「次。人が多くて、“見られない”街だ」
「どういう意味だ」
「ここはな、移民も、元軍人も、前科者も、夜職も、全部まとめて混ざってる。
多少ワケありでも、“そういうもんだ”で流される」
「目立たない」
「そう。ニューヨークほど派手じゃない。田舎みたいに噂も回らない」
ヴィンセントは一瞬、ジョージの腹部に目をやり、すぐ前に戻した。
「……傷があっても、詮索されねぇ」
ジョージは頷いた。
「3つ目」
ヴィンセントは少し間を置いた。
「アクセスが多い」
「……具体的には?」
「港。鉄道。高速。空港も近い。いざとなりゃ、州も国もすぐ跨げる。――ボディガード会社をやるにも、都合がいい」
ジョージは小さく息を吐いた。
「……軍人の発想だな」
「――褒めてるのか?」
「評価してる」
ヴィンセントは肩をすくめた。
「で、最後」
少しだけ声が低くなる。
「ここは“始める街”だ」
ジョージが、わずかに眉を動かし、ヴィンセントを見る。
「終わった人間が集まる街でもあるがな。同時に、何者でもなかった奴が、何かを始める場所でもある」
信号が青に変わり、車が動き出す。
「俺たちは、もう軍人じゃねぇ。でも、まだ死体でもない。俺もお前も、まだ20代だ」
「お前は来年で30だろ」
「細けぇこと言うな」
陸橋の下に潜る。
ジョージは窓に映る自分の顔を見た。
まだ24なのに、青白く、無表情で、ひどく疲れている。
「……中途半端だな」
「最高だろ」
ヴィンセントは即答した。
「完成してる人間なんて信用できねぇ」
ジョージはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「合理的だ」
「だろ?」
「感情論じゃない」
「残念だが、そこはちょっとは感情も入ってる」
「どこだ」
「ここなら、お前が生きてても誰も文句言わねぇ」
「どういう意味だ?」
ヴィンセントは鼻を鳴らした。
「お前はチビで、無愛想で、目つきの悪いアジア人だ。
場所を間違えりゃ、真っ先に仲間外れにされ潰される。――前みたいにな」
「……俺はもう強い。前みたいに、簡単には潰されねぇ」
「そういう話じゃねぇんだよ」
ヴィンセントの声に、僅かばかり怒気が滲む。
「放っておけば、お前はまた『戦死するのにちょうどいい場所』を探し始めるだろ?
誰も見てねぇと、お前は腸ぶら下げたままでも動き出す。だから却下だ。勝手に消えるな」
一瞬、車内の音が消えたように感じられた。ジョージは親指で眉を掻きながら言う。
「……過保護だな。誤解されても知らないぞ」
「誤解ってなんだ?」
ジョージは肩をすくめただけで答えなかった。




