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CASE 00:始まりの朝

 人は、見たいものだけを見る。

 そしてそれを、真実と思い込む。

 ――ユリウス・カエサル


 タフでなければ生きていけない。

 優しくなければ生きていく資格がない。

 ―― フィリップ・マーロウ(レイモンド・チャンドラー)



 車は一定の速度を保ち、州間高速道路(ターンパイク)を流れている。

 まだ何者でもない2人を乗せて。


 助手席のジョージ・ウガジンはシートを倒し、浅い呼吸のまま眠っている。


 やや癖のある黒髪が無造作に跳ねている。

 太い眉。粘土を押し固めたような顔立ち。

 東洋人の顔の中でも、異質な密度を帯びていた。


 数ヶ月前に戦場で右脇腹を撃たれ、腸を削った。

 睡眠はいつもこうだ。

 唐突に落ちるが、深くならない。


「ジョージ、ニューアークだ」


 ハンドルを握るヴィンセント・モローが短く言った。

 確認というより、報告に近い声だった。


 短く刈り込まれた黒髪に、鎧のような骨格。

 黒人の肌に沈むはずの瞳が、光を拾ってわずかに茶を返す。

 厚みのある首と肩に対して、その目だけが穏やかだった。


 街の輪郭が、フロントガラスの向こうに滲み始める。


 ビルが天に向かってそびえ立っている。

 朝日が、ビルの隙間を斜めに切りとっていた。


「……朝か」


 ジョージが目を開け、2、3度瞬きをした。

 寝起きの声は掠れているが、意識ははっきりしている。


「寝てたのか。起こしたか?」

「いや。ちょうどだ」


 ジョージはリクライニングを戻した。

 小さくため息をつき、シートに身を預け直す。


「……ほとんど運転を任せたな」

「そうだな」

「悪い」

「気にすんな」


 ヴィンセントは鼻で笑った。


「寝てる負傷兵を叩き起こして、ハンドル握らせる趣味はねぇ」


 ジョージは口元をわずかに緩め、外を見た。

 風景が後ろに流れていく。


 右脇腹に手をやる。

 腹の奥が、鈍く重い。

 車の振動が、傷に響く。


「モーテルの旅はこれで終わりだ」


 ヴィンセントが続ける。


「これから部屋を探す。希望は?」


 少しだけ間を置いて、ジョージは答えた。


「安い」


 即答だった。


「屋根がある。壁がある。以上」


 ヴィンセントは思わず吹き出した。


「ずいぶん贅沢だな」

「生きるには十分だろ。それに、戦場に比べたら天国だ」


 その声は、冗談でも皮肉でもない。

 知り尽くした声だ。


「だな。……血の匂いもしねぇ」


 朝日が無遠慮に2人の目を刺した。

 ヴィンセントは、サングラスを掛ける。


「じゃあ探すか。屋根と壁付きの、安い城をな」


 ジョージは窓の外を見て呟くように言った。


「……そう言えば、なんでニューアークなんだ」


 唐突だったが、独り言ではなかった。

 ヴィンセントは、車線変更しながら答える。


「理由が欲しいか?」

「気になっただけだ」

「じゃあ順にいくぞ」


 ヴィンセントは指を1本立てた。


「まず、安い」

「だな」


 即座に同意が返る。


「ハドソン川を挟んだニューヨークの隣だが、家賃は半分以下。

 クソみてぇなエリアも山ほどある。だがまあ――ニューヨークよりはマシだ」


 ヴィンセントは短く笑い、2本目の指を立てた。


「次。人が多くて、“見られない”街だ」

「どういう意味だ」

「ここはな、移民も、元軍人も、前科者も、夜職も、全部まとめて混ざってる。

 多少ワケありでも、“そういうもんだ”で流される」

「目立たない」

「そう。ニューヨークほど派手じゃない。田舎みたいに噂も回らない」


 ヴィンセントは一瞬、ジョージの腹部に目をやり、すぐ前に戻した。


「……傷があっても、詮索されねぇ」


 ジョージは頷いた。


「3つ目」


 ヴィンセントは少し間を置いた。


「アクセスが多い」

「……具体的には?」

「港。鉄道。高速。空港も近い。いざとなりゃ、州も国もすぐ跨げる。――ボディガード会社をやるにも、都合がいい」


 ジョージは小さく息を吐いた。


「……軍人の発想だな」

「――褒めてるのか?」

「評価してる」


 ヴィンセントは肩をすくめた。


「で、最後」


 少しだけ声が低くなる。


「ここは“始める街”だ」


 ジョージが、わずかに眉を動かし、ヴィンセントを見る。


「終わった人間が集まる街でもあるがな。同時に、何者でもなかった奴が、何かを始める場所でもある」


 信号が青に変わり、車が動き出す。


「俺たちは、もう軍人じゃねぇ。でも、まだ死体でもない。俺もお前も、まだ20代だ」

「お前は来年で30だろ」

「細けぇこと言うな」


 陸橋の下に潜る。

 ジョージは窓に映る自分の顔を見た。

 まだ24なのに、青白く、無表情で、ひどく疲れている。


「……中途半端だな」

「最高だろ」


 ヴィンセントは即答した。


「完成してる人間なんて信用できねぇ」


 ジョージはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。


「合理的だ」

「だろ?」

「感情論じゃない」

「残念だが、そこはちょっとは感情も入ってる」

「どこだ」

「ここなら、お前が生きてても誰も文句言わねぇ」

「どういう意味だ?」


 ヴィンセントは鼻を鳴らした。


「お前はチビで、無愛想で、目つきの悪いアジア人だ。

 場所を間違えりゃ、真っ先に仲間外れにされ潰される。――前みたいにな」

「……俺はもう強い。前みたいに、簡単には潰されねぇ」

「そういう話じゃねぇんだよ」


 ヴィンセントの声に、僅かばかり怒気が滲む。


「放っておけば、お前はまた『戦死するのにちょうどいい場所』を探し始めるだろ?

 誰も見てねぇと、お前は腸ぶら下げたままでも動き出す。だから却下だ。勝手に消えるな」


 一瞬、車内の音が消えたように感じられた。ジョージは親指で眉を掻きながら言う。


「……過保護だな。誤解されても知らないぞ」

「誤解ってなんだ?」


 ジョージは肩をすくめただけで答えなかった。




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