昔々あるところに
昔々、千年ほど前。…まだ乙清水姫神社ができる前。
あるところに、まだ神様でも何でもない、ただの少女がおりました。
そのムラは街道から少し外れたところにあり、漁師と農民が暮らしていた。
私はこのムラで生まれて、このムラで育った。
その日、私は川辺に寝転がって空を見上げていた。
あの雲は秋刀魚に見えるとか、こっちの雲は葡萄に見えるとか、そんな事ばかり考えている夢見がちな十一になったばかりの女の子だった。
「オト、何してるんだ?」
私に話しかけてきた男の子は、一つ年上のジン坊だ。
私は生まれる前に父親が亡くなり、生まれてすぐに母親が亡くなった。祖父は、私を同じムラの漁師の夫婦に預けた。その夫婦の息子がジン坊。私とジン坊は兄妹のように育った。
「雲を見てた。」
「そっか。」
私は起き上がって、笊に入った沢山のシロツメクサの葉を見せた。
「いっぱい取れたよ。」
「汁に入れるのか?」
「酢の物かな。」
「そうか…、酢の物かぁ…。」
ジン坊は頭を掻いた。
酢の物が苦手だから困ってるんだな。
「ふふ。お母に、汁にするよう頼んでみる。」
「ありがとう、オト。」
ジン坊は悪戯っぽく微笑んだ。私は頼りないけど、頼りになるこの兄が大好きだ。
「今日はどこまで魚取りに行ってきたの?」
「裏島まで。」
「そんなところまで行くんだ。」
ジン坊は漁師の息子。まだ小さいが海へ出て父親の手伝いをしている。
「亀みたいな岩あるだろ、あの近くで貝が取れてさ。」
「亀?」
「オトは知らないのか。山に登ったら見えるから、今度教えてやるよ。」
「分かった。」
二人で山を見上げる。大きな山は私たちを守ってくれているようだった。
このムラでは、子どもの四人に一人は、七つになる前に死んでしまう。
七つになれるということは、幸運なことなのだ。きっと山の神様が私を守ってくれたおかげ。そして、このムラの人たちが守ってくれたおかげ。
私はこのムラと、このムラの人が大好き。
ジン坊に連れられて、私は川沿いを歩いて家に帰る。大木瓜の橋の近くまで来た。
「あ。」
突然、持っていた笊が手から滑り落ちた。
私はそれを落とすまいと一歩踏み出す。
足が滑る。誰かに足元を掬われたかのような感覚。
次の瞬間、目の前には茶色く濁った川面。
トプン…
水の音に気付いたジン坊は振り返る。
「オト? どこだ?」
後ろについて来ていたはずのオトが見当たらない。
木立の後ろ? 薄の陰? 隠れる暇なんてなかったはずだ。
ふと、川の方に目をやる。川は先日までの雨で増水していた。
ジン坊の背筋に寒いものが走る。
「オトー! どこにいるーっ!?」
川へギリギリまで乗り出して、声を張り上げる。返事はない。
川は濁っていて、どこに何があるか分からない。
どこだ?
どこに行った?
ジャボン、ジャバッ
水音の方を見ると、下流に黒い影が流れていく。もう橋よりも下に流されている。
ジン坊は走った。
無我夢中で、その黒い物を追いかけた。
「オトーっ!」
オトの黒髪だ。川の中、オトは必死にもがいていた。
ジン坊は、オトを追い越すまで走ってくると、勢いよく川に飛び込んだ。
ジン坊は漁師の息子。泳ぎは得意。それでも、この強い流れの中では上手く進むことができない。水の中も濁っていて何にぶつかるか分からない。
それでもオトに向かって泳いでいく。
「オト!」
オトに手を伸ばす。ジン坊に気が付いたオトがしがみついてくる。
「ジ…ン…」
くっつかれたジン坊の体が沈む。これでは二人とも溺れてしまう。かと言って、離れるわけにもいかない。
「力を抜け。」
ジン坊は何とか息継ぎをすると、優しくオトに言う。ゆっくりとした声がオトを安心させ、落ち着かせる。
「浮くんだ。」
ジン坊の言葉にオトは暴れるのを止めて、手足の力を抜いていく。すると、その体がゆっくりと浮き上がった。オトだって漁師の娘だ。泳げない訳じゃない。ただ慌ててしまっただけ。
しっかりと腕を組んで離れないようにして、体を浮かせた。
「いいぞ、そのまま。」
二人は顔を上に向けて、少しだけ流れに身を任せる。流れが緩くなった所でゆっくりと岸に泳いでいく。
川岸に上がると、二人で寝転がる。
「ゲホっ」
「大丈夫か? 痛いところはないか?」
「うん…」
オトは川の水を少し飲んでしまったようだが、目に見える怪我はなさそうだった。
「だいぶ流されてしまったな。」
「ごめんね…」
「謝ることじゃないよ。」
とは言え、今から歩いて帰ったら日が暮れるかもしれない。
お母にどやされるな。
少し休んでから、立ち上がる。
「さあ、帰ろう。」
ジン坊が手を伸ばし、オトはその手を取って立ち上がる。
「うん。」
帰り道。
ジン坊が私の手を引いてくれるが、私はずっと下を向いていた。
「どうしたオト、気持ち悪いか?」
「シロツメクサ無くなっちゃった…」
私は悲しかった。
「また集めれば良い。」
ジン坊が答える。
「笊も流されちゃった…」
私は悔しかった。
「また編めば良い。」
ジン坊は変わらない。
「迷惑掛けちゃった…ごめんね…」
私は情けなかった。
「オトの代わりは無いんだから。」
ジン坊の言葉が小さい私の胸に刺さった。
「あり…がとう…」
私は涙がこぼれそうになるのをぐっと我慢する。すると、ジン坊は私の背中をさすってくれた。
「泣かないなんて偉いな。強い子だ。」
ジン坊はやっぱり優しい声を掛けてくれる。
私は目をこすって涙をごまかした。そしてジン坊に微笑む。
「大丈夫。泣いてない。」
「やっぱり、オトは笑っている方が良いよ。」
ジン坊は、私の頭を撫でてくれた。
「俺がオトを守ってやる。」
「嬉しい。」
ジン坊は、私を妹としてそう言ってくれたのかもしれない。
でもその時から、私は兄妹の大好きとは違う感情でジン坊を見ている。
もうすぐ日が沈む。夕焼けの赤が、二人の顔を染めていた。
乙姫は少し昔のことを思い出していた。
親の真似をして、大人しく座っている小さな子どもたちを見て微笑む。
あなたたちが大きく育ちますように。
あなたたちに良い縁がありますように。
ずっと見守ってあげるからね。
乙姫は、目をこすって涙をごまかした。




