最終話 令嬢と侍女
アレクシア様、御髪を。
そう呼びかけられ、アレクシアはそっと目を開いて顔をあげた。同時、王都全域を巡る回路が静かに応答する。――正常。
「……今日もお変わりはありませんか?」
「ええ、調子がいいわ、デルマ」
そう答えれば侍女――デルマは小さく笑い、ドレッサーに座るアレクシアの白く柔らかな長髪を手に取った。真珠貝の櫛を通せば、それはなんの抵抗もなく整えられていく。
「……それ……王妃様からいただいたものよね」
「はい、朝に見つけました。まだ残っていたのは幸いでしたね」
窓から差す朝の光が、櫛を淡く輝かせている。それを持つデルマの手は、アレクシアの髪をよどみなく整えていく。
身支度をすませ、アレクシアはいつものように大聖堂へと向かった。
その内部、大祭壇はすっかり元の美しい空間に戻っている。穢れのない床、柱、そして薔薇窓。全てが調和し、静謐な雰囲気を漂わせていた。
大祭壇の中央には、ヴェルヴェーヌが繁っていた。柔らかな緑の葉を生い茂らせ、愛らしい白い花をつけている。それがあの浮き彫り――その円形にそって、薔薇窓からの光を受け止めていた。
「……封印も異常なしね。この下の万物素も、少しずつ王都の外へと流れていってる……」
「王都の万物素を全て外へ逃がすまで、どれほどかかるでしょうね」
「……分からないわ。王都の人たち……石像に閉じ込められていた万物素も少しずつここへ集めて、それを浄化して、王都の外へ流す。そうすれば外の世界の万物素と混じり合って……万物素の本来の循環へと戻っていく。水源から溢れた水が川を流れて海へと向かい、そして海から空へ昇り、また陸に降り注ぐように……」
アレクシアはしゃがみ、目の前のものを眺めた。アレクシアの白い手が葉に触れ、それを揺らす。
「……気の遠くなるような事業です」
「そうね。百年……いいえ、もっとかかるかも……でもこのまま、王都の人たちを苦しみのままにしておけない。どれだけ時間がかかっても、彼らを世界に還さなきゃ」
「お付き合いしますよ」
デルマが笑うのに、アレクシアは静かに振り向き、彼女を見上げた。黒く艶やかな髪、金色の目。彼女は何も変わっていない。それ故に、アレクシアには罪悪感があった。
――巻き込んでしまった、と。
「……外に出ましょう」
「はい」
大聖堂を出て、街を歩く。未だ石像はそこかしこにあったが、それらの殆どが機能を停止していた。今は少しずつ、内部の万物素を抜いている。やがて彼らは、ただの石像になり、そして少しずつ雨風に削られ、大地へと還っていくだろう。
まるで散歩をするような長閑さで、二人は歩いていく。穏やかな陽光を受けてアレクシアの白い肌は、淡い輝きを放っていた。
二人は階段を上り、城壁に登った。そこからは向こう側を一望することができる。一日のうち、必ず一度、アレクシアはこの城壁から外を眺めた。デルマも、必ずついていった。
城壁からは外が見渡せた。冬を耐えた原野の向こうに、ヌッツロースや別の地方がある。
「春ね」
「ええ、雪解けの水が流れてきていますよ。……あれを見てください」
こちら側と向こう側を隔てる深い谷に、水が流れ込んでいる。遥か下で、水面がきらきらと輝いているのが見えた。いつかこの谷が、水で満たされる日は来るのだろうか。アレクシアはふとそんなことを考えた。
「皆、元気にしているかしら」
「ちゃんと冬を越せていますよ。クラリス様にはツチラトも、フェリクスも、サーラもいるんですから」
「……そうね、きっとこれからも大丈夫よね」
アレクシアの声はどこか寂しそうだった。隣で立つデルマは目を細め、そして静かにアレクシアの手に触れた。色と温もりを失っても、彼女の手は柔らかだ。
「デルマ?」
「…………」
デルマは黙して、アレクシアを見つめた。
金色の目は穏やかで、確かな充足を湛えている。黒髪が風に吹かれ、靡いている。そこには、アレクシアが贈った白いヴェルヴェーヌの髪飾りがついている。
思わず、アレクシアはそれに手を伸ばした。柔らかな白い花弁。自分が触れれば、落ちてしまいそうで、すぐに指を引いた。これがデルマを、自分の隣に留めている――そんな気がする。
「……きれいね」
代わりにアレクシアは微笑んで、そう呟いた。
デルマはそっと目を細め、やがて気恥ずかしげに口元に笑みを浮かべ、遥か地平へと眼差しを向けた。
大聖堂から、鐘の音が響いてくる。二人は頷きあい、歩き出す。
羽ばたきの音に、アレクシアはふと立ち止まった。街から飛び立った鳥の群れが、城壁を越えて飛んでいく。
彼らは自由だ。そう思った。
「アレクシア様」
デルマが呼ぶ声に、アレクシアは振り返る。デルマは小さく首を傾げて、自分を待っているようだった。
すぐ行くわ。小さく笑みを返し、彼女の元へ足早に歩いて行く。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
ブックマーク、評価、リアクション、感想、励みになりました!
このお話を気に入っていただけましたら、評価していただけますと嬉しいです!
ではまた別のお話でお会いしましょう:)




