第4話:アンガーマネジメント、精神防壁(セーフゾーン)の展開
第4話:アンガーマネジメント、精神防壁の展開
午後3時45分。
会議室という名の戦場を離脱した僕を待っていたのは、廊下の突き当たりから溢れ出す「どす黒い負のオーラ」だった。
僕の視界、左隅の【異常検知ログ】が激しく点滅する。
【Warning:高密度の精神汚染を感知】
【周辺環境:ハラスメント・ゾーンに変化しています】
「……ったく、どいつもこいつも! 数字、数字、数字! 金がないなら知恵を出せってんだよ!」
ドォォォォン!! という衝撃音と共に、給湯室のドアが勢いよく開く。
そこにいたのは、経理部の魔女――ではなく、若手社員の田中さんだ。
普段は冷静沈着な彼女だが、今は逆立った髪から火花が散らんばかりの形相で、空のエナジードリンク缶をゴミ箱に叩きつけていた。
「……田中さん。お疲れ様です。まるで激昂したキマイラのような迫力ですね。何か、計算の合わない『呪い』でも見つかりましたか?」
「あ、鈴木さん……。聞いてよ、あのバカ社長! 自分の愛車の修理代を『福利厚生費』で落とせって言ってきたのよ! 断ったら『これだから最近の若い奴は』って一時間説教。もう無理、脳細胞が物理的に沸騰しそう……!」
田中さんの周囲には、真っ赤な【デバフ:憤怒】が渦巻いている。
このままでは彼女のMPが尽き、精神的な「ログアウト」――つまり離職に追い込まれてしまうだろう。
だが、昨夜の僕は、この状況を予見していたかのように、新たな術式を授かっていた。
昨夜、深夜5時半。
VR世界の断崖絶壁、精神操作師ぴ~なっつが、空中を浮遊しながら超高速で喋っていた。
『鈴木さぁん、まだ相手の感情に「正面から」付き合ってるんですか? それ、時間の無駄ですよ。怒りなんてのはね、単なる「脳の防衛反応」という名のバグなんです。使うべきは【アンガーマネジメント】――精神のフィルタリング術式ですよ』
『感情を、フィルタリング……?』
『そう。相手の怒号を「音声データ」としてではなく、「処理すべき事象」として解剖するんです。6秒。怒りのピークはたった6秒。その間、脳内に自分だけの【聖域】を展開し、相手の言葉を「無価値なドロップアイテム」として鑑定しなさい。……まぁ、科学的に言えば、その社長の脳は前頭葉が萎縮してるだけですけどね?』
現実世界のノイズが消え、田中さんの背後に、怒りの発生源である「社長室」という名の魔王の間が見える。
「術式展開――【聖域:アンガーマネジメント】」
僕は田中さんの肩に、そっと手を置いた。僕の周囲に、淡い青色の光――精神防壁が展開される。
「田中さん。深呼吸をして、僕の視界を共有してください。……いいですか、社長の怒鳴り声は、攻撃魔法ではありません。ただの『仕様の古い警告音』です」
「……警告音?」
「ええ。田中さんが有能すぎて、自分の不正が暴かれるのを恐れた『防衛本能』が、バグとして出力されているだけです。鑑定してみましょう」
僕は指を鳴らした。田中さんの目に、僕のUIがオーバーレイされる。
【解析対象:五味社長の怒号】
【正体:自己正当化のためのノイズ】
【ダメージ設定:0】
【獲得可能情報:社長が資金繰りに焦っているという事実】
「……あ。本当だ。なんか、滑稽に見えてきた……」
田中さんの周囲の赤い霧が、みるみるうちに晴れていく。
「怒りに怒りで返せば、こちらのMPが削られるだけです。それは敵の思うツボ、つまり『クソゲーの罠』です。……田中さん。その『修理代の領収書』を僕に預けてください。僕が【アンガーマネジメント:Lv.5】の防壁を維持したまま、社長を『再教育』してきます」
「鈴木さん……。あなた、いつからそんな聖騎士みたいなキャラになったの?」
「キャラ変ではありませんよ。単なる『最適化』です」
僕は領収書を受け取り、懃懃な笑みを浮かべて社長室のドアを叩いた。
――10分後。
「な……なんだ鈴木、その目は! 私の言うことが聞けないのか!」
「滅相もございません、社長。社長の仰る『福利厚生』の定義があまりに独創的で、感銘を受けていたところです。……ただ、この処理を強行した場合、税務署という名の【上位ギルド】から強制監査が入り、会社が物理的に消滅するリスクが98%ございます。社長の輝かしいキャリアに『脱税』という名の消えないデバフを刻むわけにはまいりません」
ドゴォォォォォン!!
論理の盾で、社長の怒鳴り声を完全反射。
「……あ、あう。わ、分かった。……経費じゃなくて、貸付金にしておけ。それでいいんだろ!」
【スキル:アンガーマネジメントが発動】
【魔王の攻撃を完全無効化し、MPを50吸収しました】
【称号:不揺の観測者を獲得】
社長室を出ると、給湯室の前で田中さんと、そしてなぜか佐藤さんが待っていた。
「鈴木さん、おかえりなさい! 田中さんから聞きました。社長を黙らせたって……!」
佐藤さんの瞳が、ゲームの最高設定のような輝きで僕を射抜く。
「すごいよ鈴木さん。私、明日からあのバカ社長の顔、ただの『バグったNPC』だと思って接することにするわ。……これ、お礼。私が一番好きなエナドリ。飲んで」
田中さんから差し出されたのは、紫色の高濃度カフェイン。
佐藤さんが、少しだけ頬を膨らませてそれを見ている。
「あ、あの! 私も、お砂糖たっぷりのコーヒー、淹れてきました! ……田中さんのエナドリより、疲れに効くと思います!」
【メインヒロイン:佐藤小春が『嫉妬(微)』の状態になりました】
【現実の彩度が0.3%向上:佐藤さんの頬が桃色に染まっています】
あぁ。寝不足の脳には、この不純物だらけの甘みとカフェインが、どんな回復魔法よりも染み渡る。
現実という名のクソゲーは相変わらず理不尽だ。
けれど、こうして「精神の聖域」を広げていくたびに、僕たちの居場所が少しずつ鮮やかになっていく。
僕は、二人のヒロイン――もとい、大切なパーティーメンバーに囲まれながら、次のクエストに向けて意識を研ぎ澄ませた。
【本日残りMP:870/1200】
【現在の状態:カフェイン・ハイ(一時的なバフ)】




