第2話:アサーティブ・コミュニケーション、不可能な防衛戦
第2話:アサーティブ・コミュニケーション、あるいは不可能な防衛戦
午前9時15分。
魔王の咆哮をやり過ごし、ようやくデスクに腰を下ろした直後だった。
僕の視界、その隅に表示されている【ミニマップ】に、禍々しい赤い光点が高速で接近してくるのが見えた。
「おい、鈴木! ちょっといいか!」
バシャァァン! という水飛沫のような擬音と共に、一人の男が僕のデスクに襲来する。
営業部長、春日。
五味社長の腰巾着にして、現場のキャパシティを無視して無理難題を放り込む、通称【中ボス:忖度ケルベロス】。
「……おはようございます、春日部長。今日も朝から、獲物を探すハゲタカのような鋭い眼光ですね。何か御用でしょうか?」
「お、おう……。なんだか妙に落ち着いてるな。まあいい、これ、今日の夕方までに終わらせとけ。社長から急ぎで入った『特注案件』だ。何が何でも間に合わせろよ。根性だ、根性!」
ドサッ、とデスクに置かれたのは、辞書のような厚みの資料。
僕の視界に、即座に鑑定ログが走る。
【アイテム名:サイレント・アサイン(無言の押し付け)】
【レベル:Lv.35】
【属性:物理・精神混合ダメージ、残業付与】
【特性:『社長命令』という名の解除不能な呪いが付与されています】
通常、この攻撃を受けた社員は「はい、分かりました」と答えるしかない。それがこのクソゲー、クズ社の不文律だ。
佐藤さんが、隣で青ざめながら震えている。彼女の足元には、すでに処理しきれない雑務の【粘着トラップ】が絡みついていた。
「……春日部長。確認ですが、これは現在進行中の『A社プロジェクト』よりも優先すべき、不可避の最優先クエスト(業務)ということで間違いありませんか?」
「当たり前だろ! 社長が言ってるんだ、四の五の言わずにやれ!」
春日の背後には、精神論という名の真っ黒な霧が渦巻いている。
かつての僕なら、ここで「承知しました」と、自分の睡眠時間を生贄に捧げていただろう。
だが、今の僕には――深夜にメンターから授かった、もう一つの「攻略術式」がある。
遡ること数時間前。深夜三時半。
VR世界の深い森、契約の守護者アリサが、重厚な白銀の盾を僕の前に突き立てていた。
「鈴木。理不尽な押し付けに対し、黙って従うのは『忠誠』ではない。それはただの『思考放棄』だ。いいか、相手のメンツを壊さず、しかし己の領域を断固として守る聖壁――【アサーティブ・コミュニケーション】を起動しろ」
「アサーティブ……。つまり、喧嘩を売るってことですか?」
「違う。喧嘩は非効率だ。アサーティブとは『誠実』『対等』『自己責任』の三原則に基づいた、論理的交渉術だ。相手を否定せず、しかし自分のリソース(MP)が限界であることを正確にアウトプットする。断るのではない、代替案という名のカウンターを差し出すのだ」
現実世界の解像度が、一瞬だけピリリと跳ね上がる。
「術式展開――【アサーティブ・コミュニケーション】」
僕は立ち上がり、春日の目を真っ直ぐに見つめた。丁寧な微笑み、しかしその瞳は冷徹な「観測者」のそれだ。
「部長、ご指示の重みは理解しました。社長の案件を優先したいという部長の『熱意』には、敬意を表します。……ただ、現在の私のリソース状況を【共有】させてください」
僕は空中に(部長には見えないが)タスク管理表のUIを叩き出した。
「現在、A社への提案資料作成に120%の負荷がかかっています。ここにこの『特注案件』を差し込むと、物理的にどちらかが崩壊し、会社に数千万単位の損害が発生します。部長は、そのリスクの責任を負ってくださるということでよろしいですね?」
「なっ……なな、責任……!? 何を生意気な……!」
「いえ、私は部長を助けたいのです。そこで【提案】です。この案件をやる代わりに、A社の件を窓際におられる高橋さんに一部移管するか、あるいは特注案件の納期を三日後にスライドさせる。……どちらが部長にとって『最も効率的な勝利(成果)』になりますか?」
ドゴォォォォォン!!
論理の衝撃波が春日を直撃した。
春日の頭上で、「社長の顔色」という名のバフがパリンと音を立てて砕け散る。
「……あ、いや、それは……高橋に振るわけには……」
「部長の『管理能力』が社長に疑われるのを懸念されているのですね。分かります。であれば、私が『社長へ直接』、納期調整の合理的な理由を説明してきましょうか? 部長の手を煩わせるわけにはいきませんから」
「……っ! い、いや、いい。分かった。納期、二日後でいい。その代わり、完璧に仕上げろよ!」
春日は吐き捨てるように言い、逃げるように去っていった。
【クエスト:春日の押し付けをパリィ(受け流し)せよ 達成】
【獲得経験値:150】
【称号:断りし者を獲得】
静まり返るオフィス。
佐藤さんが、口を半開きにして僕を見上げている。
「す、凄い……鈴木さん。春日部長が、あんなにすんなり引き下がるなんて……魔法みたい」
「魔法、ではありませんよ。単なる『構造』の話です。……あ、佐藤さん。その足元に絡みついている『社長の雑務』、僕に貸してください。今の交渉で、二時間分の『空きリソース』を生成しましたから」
「ええっ!? そんな、悪いですよ!」
「いいんです。佐藤さんの笑顔の解像度が上がらないと、僕の視界が暗くて仕事になりませんから」
僕は懃懃に、しかし有無を言わせぬ手つきで彼女の書類を「強奪」した。
佐藤さんの顔が、ポッと林檎のように赤くなる。
【メインヒロイン:佐藤小春の好感度が5上昇しました】
【現実の彩度が0.2%向上:佐藤さんの頬に赤みが差しました】
あぁ、相変わらずこの世界は、非効率でドロドロした泥溜めのようなクソゲーだ。
けれど、こうして「ルール」をハックして味方を守るのは、悪くない。
僕は、深夜のゲーム画面よりもわずかに鮮やかになった佐藤さんの笑顔を観測しながら、静かにキーボードを叩き始めた。
【本日残りMP:1050/1200】
【次の課題:会議という名の精神汚染領域】




