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第12話:心理的安全性の結界、絶対不可侵の定時退社

第12話:心理的安全性の結界、絶対不可侵の定時退社


 深夜3時15分。

 超高精度フルダイブVR世界――『帰属の迷宮ギルド・ラビリンス』第二階層。


 通路の壁面から、無数の不気味な「口」が突き出し、一斉に意味を持たないノイズを撒き散らしている。

 エネミーの正体は『エンプティ・ミーティング』。

 ただそこにいるだけでプレイヤーの思考力を奪い、精神を摩耗させる、極めて悪質な精神汚染系の固定ギミックだ。


「あぁ、実に不愉快ですね。生産性ゼロの戯言をさも重要そうに叫ぶあたり、我が社の役員会議のログをそのままトレースしたかのようです」


 僕は懃懃無礼に呟きながら、額に浮き出たグリッドを調整する。

 この結界の中では、通常の攻撃術式ロジックは「空気の読み合い」という名の減衰壁に阻まれ、相手に到達すらしない。


「鈴木さん、そこを強行突破しようとするのは悪手よ。発言すること自体がリスクになる空間で、まともな剣を振るっても無駄だわ」


 背後から、ぶかぶかのローブを羽織った【智慧の蒐集家】クロが、大きな眼鏡の奥の瞳を静かに光らせて現れた。彼女は手にした古びた魔導書から視線を上げず、冷淡な、しかしどこか甘やかな声で告げる。


「そのボスたちが張っているのは、一種の『拒絶のドーム』。失敗を責め立て、異論を排除することで、個人の生存本能を刺激して萎縮させているの。今のあなたに必要なのは、彼らを倒す力ではなく、仲間が怯えずにポテンシャルを発揮できる『絶対の不可侵領域』よ」


「絶対の不可侵領域、ですか」


「現代ビジネスにおける最高効率の組織運営術――【心理的安全性サイコロジカル・セーフティ】。エイミー・エドモンドソンが提唱した、組織の生産性を最大化するための最強の防壁。……見せてあげるわ、その術式を」


 クロが細い指先で空間をなぞると、僕の脳内に未知のアルゴリズムが直接インストールされた。


【Skill:心理的安全性サイコロジカル・セーフティの概念を習得しました】

【効果:相互不信のデバフを完全無効化し、発言の自由度を極大化する】


「……なるほど。相手の非難を『ただのノイズ』として処理し、こちら側の発言リスクをゼロに固定する。実に美しい構造です」


 僕はレイピアを天に掲げ、習得したばかりの術式をトリガーする。


「術式展開――【心理的安息の結界オープン・ドメイン】!」


 ドゴォォォォォォン!!!


 僕を中心に、一切の否定や恐怖を遮断する透明なドームが広がり、『エンプティ・ミーティング』が放つ精神汚染ノイズを次々と弾き飛ばしていく。

 壁から突き出ていた「口」たちが、自らの攻撃が完全に無効化されたことに驚愕し、狼狽の声を上げた。


「ば、バカな……! なぜオレたちの同調圧力が効かない……っ!?」


「簡単な話です。この領域内において、あなた方の感情論は『仕様外のゴミデータ』として自動破棄されますので」

 僕は懃懃無礼な微笑みを浮かべたまま、結界のエネルギーを一点に収束させ、前方の通路を塞ぐ虚無の壁を物理的に撃ち抜いた。


【エンプティ・ミーティングの結界をハック・消滅させました】

【経験値3,100を獲得。パーティー全体の精神耐性が上昇しました】


「よくできたわね、鈴木さん。……はい、これ、現実世界へのお土産」


 クロがツンとした態度で僕に差し出してきたのは、淡く光る『安息の結晶セーフティ・コア』。


「また次のバグを持ち込んでくれるのを、待っているから」とボソリと呟く彼女の声を背に、僕は現実への帰還シークエンスを開始した。


 ──脳のデフラグ完了から、わずか4時間半後。

 午前11時15分。

 現実世界、クズ社の営業フロア。


「おい、鈴木! 渡辺のやつが定時で帰るだなんて、誰が許可したんだ!?」


 フロアに怒号を響かせながら突進してきたのは、営業二課の雑賀課長だった。その後ろには、腕を組んで不機嫌そうに顎を突き出している春日営業部長の姿もある。


「物流が勝手に稼働を落としたら、二課の差し込み案件が明日回しになるだろうが! 現場はな、死ぬ気で回すから現場って言うんだよ!」


 雑賀課長の口から飛び出すのは、昨日ゲーム内で観測した『エンプティ・ミーティング』と完全に同質の、論理なき「精神論のデバフ」だった。

 フロアの社員たちが一斉に下を向き、巻き込まれまいと気配を消す。

 隣の席では、佐藤さんが怯えたように肩をすくめていた。


【Enemy:雑賀課長および春日部長がスキル『理不尽な差し込み(サイレント・アサイン)』を発動】

【周囲の社員に『相互不信』および『発言萎縮』のデバフが拡散しています】


(あぁ、また社長のイエスマンたちが、脳細胞を放棄した咆哮を上げていますね。可哀想に。お供え物は、彼らの大好きな『徹夜のタイムカード』で十分でしょうか)


 僕は静かに立ち上がり、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。

 睡眠不足で灰色の世界に、ゲームUIの黄金の光が重畳していく。


「雑賀課長、および春日部長。少々声を落としていただけますか。あなた方の発声ボリュームは、オフィスの許容環境デシベルを大幅に超過しています」


「なんだとぉ!?」


「渡辺さんの定時退社を指示したのは僕です。術式発動――【心理的安息の結界オープン・ドメイン】」


 僕がiPadの画面をデスクに叩きつけた瞬間、雑賀課長たちの背後にあった「権威」という名のハリボテが、物理的にバキィィィィンと砕け散る幻音ロジック・バーストが響いた。


「な、何だ、その画面は……!」


「昨日、営業二課から物流へ回された『緊急発注』の全ログです。確認したところ、受注日時は3日前。つまり、あなた方が単に処理を失念し、定時直前に『差し込み』として渡辺さんに押し付けた。これが客観的事実です」


「それは……現場の、その、臨機応変な対応というやつで……!」


 雑賀課長が脂汗を流しながら言い訳を紡ごうとするが、僕の【鑑定】はそれを許さない。


「ビジネスにおける『臨機応変』とは、予測不能な市場変動に対応する言葉であり、上司の『無能なタスク管理』を穴埋めするための奴隷制度ではありません。このような恐怖による押し付けは、組織の『心理的安全性』を著しく低下させ、中長期的な離職率を50%跳ね上げる経営リスクです。春日部長、これはコンプライアンス違反のログとして、すでに社長室および葉山室長へデータで共有済アサインです」


「な、に……っ!?」


 春日部長の顔が、一瞬で土気色に変わった。

 彼らがどれだけ大声を上げようとも、僕が展開した「論理の結界」の前では、すべての怒号がただの無駄なカロリー消費へと変換されていく。


「個人の失敗を責めず、構造の欠陥を直す。それが現代ビジネスの基本仕様です。あなた方の管理能力不足を現場の肉体疲労で相殺するクソゲー(悪習)は、本日を以て終了とさせていただきます」


 トドメの一言。

 雑賀課長と春日部長は、自分がなぜ負けたのかすら理解できないまま、ただ僕の圧倒的な正論の圧力に圧し潰され、ぐうの音も出ずにその場にへたり込んだ。


【Skill:心理的安全性サイコロジカル・セーフティが現実世界で発動】

【営業二課の理不尽なデバフを完全無効化しました】

【フロアの『発言萎縮状態』が解除され、生産性が一時的に50%向上します】


「す、凄い……。鈴木さん、本当に凄いよ……!」


 いつの間にか倉庫から戻ってきた渡辺さんが、太い腕で僕の肩をガシッと掴んだ。その目は感動の涙で潤んでいる。


「あいつらの横暴を、あんな綺麗な正論で黙らせるなんて……! 俺、鈴木さんに一生ついていくわ!」


 さらに、隣にいた佐藤さんが、両手を頬に当てて、まるで奇跡を目撃した聖女のような、眩すぎる高画質エフェクトの笑顔を僕に向けていた。


「鈴木さん……! 本当にかっこいいです……っ! みんなが怖くて言えなかったことを、あんなに優しく、でも力強く守ってくれるなんて。私、鈴木さんの部下で、本当に、世界で一番幸せ者です……!」


 上気した顔で、僕の袖口をきゅっと握りしめる佐藤さん。

 彼女の全肯定の好意ポーションが、極限まで乾ききった僕の精神を全回復させていく。


「いいえ、佐藤さん。僕はただ、職場のバグをデバッグしただけですよ」


「もう、すぐそうやって淡々とするんですから! でも、そんな冷たいところも……素敵です」


 ポッと赤くなって俯く彼女を見つめながら、僕の脳内にはさらなる世界の拡張ログが鳴り響いていた。


【パーティーメンバー:佐藤小春との『絆の解像度』が20%に上昇】

【現実の色彩が鮮明化:鈴木の最大MPが200上昇しました】


 へたり込んだ上司二人を冷徹に見下ろしながら、僕は次の標的――このクソゲーの根源である五味社長の首元へ、確実にロジックの照準ロックオンを合わせていた。


【本日残りMP:1050/1800(最大値上昇)】

【現実の解像度:20.0%(世界の輪郭がさらにハッキリとしてきました)】

【鈴木の獲得称号:『現場の救世主』】

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