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第11話:マズローの五階層、飢えた社畜たちの観測ログ

第11話:マズローの五階層、飢えた社畜たちの観測ログ


 深夜3時00分。

 超高精度フルダイブVR世界。

 

 第1段階の門番を突破し、僕が足を踏み入れたのは、第2段階(組織の理)の最初のダンジョン――『帰属の迷宮ギルド・ラビリンス』。

 先ほどまでの静謐な奈落とは打って変わり、ここは不気味なほどの「群れ」の気配に満ちていた。


「キシャァァァァ!」


「ウソツキ……、オレノ、セイカ……ッ!」


 通路の奥から這い出てきたのは、ドロドロとした泥のような塊。

 敵の正体は『忖度そんたくスライム』、そしてその背後に群れる『サイレント・アサイン(無言の押し付け)』。

 彼らは一見すると個々のモンスターだが、奇妙な粘着質のエナジーで互いに連結し、巨大な壁となって僕の行く手を阻んでいる。


「ふむ。個体の戦闘力はゴミ同然ですが、群集心理という名のパッシブ・バフで補正がかかっていますね。これでは物理的な斬撃ロジックを点頭させても、別の個体がすぐに埋めてしまう」


 懃懃無礼に呟きながら、僕はレイピアの柄をトントンと叩く。

 単一の正論では、集団の生む泥の壁は突破できない。どうしたものか。


「鈴木さん。まだ彼らを『敵』として排除しようとしているのですか? それでは組織の階層レイヤーは上がらないわよ」


 酒場の中央から、スリットの深いドレスを翻して歩み寄ってきたのは、幸運の博打打ち、トミーだ。

 彼女は手にしたグラスの琥珀色の液体を揺らし、妖艶な笑みを浮かべる。


「彼らはね、あなたを攻撃したいわけじゃないの。ただ『飢えて』いるのよ。それも、ひどくね」


「飢え、ですか。僕の目には、ただこちらのMPを吸い取ろうとするバグに見えますが」


「ビジネスもゲームも同じ。組織という名の群れを動かすには、まず彼らが『どの階層で飢えているか』を正しく【鑑定】しなさい。……ほら、思い出しなさいな。現代ビジネスにおける不朽の人間分析――【マズローの欲求階層説】を」


「マズロー……。人間の欲求は5つのピラミッド構造になっており、低次の欲求が満たされると、高次の欲求へ移行するという、あの古典理論ですか」


「そうよ。あのスライムたちをよく見てごらんなさい。彼らが求めているのは、最下層の『生理的欲求(生存)』かしら? それともその上の『安全の欲求』? それとも……」


 トミーの言葉に、僕は薄く目を開け、視界のグリッドを最大に広げた。


 【構造の把握アナライズ】を発動し、押し寄せるスライムたちのステータスをディープ・スキャンする。

【Monster:忖度スライム(中身:精神疲弊した一般社員の残滓)】

【ステータス:欲求飢餓状態】

【現在の欠乏:第3階層『社会的欲求(組織への帰属・他者との繋がり)』および、第4階層『承認欲求(価値の肯定)』】


「……なるほど。そういう仕組みですか」


 僕は得心し、レイピアを鞘に収めた。

 彼らはただ、理不尽な魔王(社長)の恐怖政治によって、組織内での『居場所』を奪われ、自分の存在価値を『承認』されずに腐敗した、迷える子羊(社畜)の成れの果てだ。

 ならば、僕が放つべきは攻撃の術式ではない。


「術式展開――【帰属の聖域サークル・セーフティ】」


 僕が地面を踏みしめると、僕を中心に黄金のロジック・サークルが広がっていく。

 それは、彼らの『居場所(社会的欲求)』を保証し、それぞれの数字と成果を客観的に『承認』する、絶対的な評価基盤の展開。


「皆さん、お疲れ様です。あなた方のこれまでの『忖度』という名のデータ収集、および『無言の押し付け』に耐えたリソース管理能力は、すべて記録されています。あなた方の苦労は、決して無駄ではありません」


 僕が懃懃無礼な、しかし100%の客観的事実に基づいた「承認」の言葉を投げかけた瞬間。

 ドゴォォォォォォン!!!

 スライムたちの連結部(同調圧力)が、内側からの劇的なロジック・バーストによって物理的に爆散した。

 敵は霧散し、光の粒子となって僕の足元へ降り注ぐ。


【Skill:マズロー・アナライズが発動】

【エネミーの欲求階層を特定・充足させました】

【経験値2,400を獲得。パーティーキャパシティが拡張されました】


「あら、お見事。やっぱりあなたは、最高に面白いシナリオを書いてくれるわね、私たちの主人公プロタゴニスト


 トミーが満足げにグラスを掲げるのを背に、僕は静かに次のエリアへと歩を進めた。

 ──そんな脳のデフラグから、わずか4時間後。


 午前8時45分。

 現実世界、株式会社クリエイティブ・ズー(クズ社)のオフィス。

 

 そこは、深夜の迷宮よりもはるかに深刻な「欲求の飢餓地帯」だった。

 フロアの空気はどんよりと重い。

 それもそのはず、今日は週に一度の「全体進捗会議」の日だからだ。


「おい、営業二課! 今月の数字は何だこれは! やる気があるのか!」


 会議室に、五味社長の『精神論の咆哮』が響き渡る。

 営業二課の雑賀さいが課長は、脂汗を流しながら「申し訳ありません、マンパワーが足りず……」と平伏していた。

 

「言い訳するな! 根性が足りないんだよ! 売れるまで帰ってくるな!」


 五味社長の言葉は、社員たちのピラミッド最下層――『安全の欲求(クビにならない安心)』や『生理的欲求(睡眠・健康)』すらも容赦なく脅かし、破壊していく。

 隣の席では、営業事務の佐藤さんが、書類を抱えたまま小刻みに震えていた。

 

【Enemy:五味社長が全体デバフ『恐怖マネジメント(フィア・プレッシャー)』を展開】

【社員全員の生産性が40%低下。思考停止状態に陥っています】


 鈴木の網膜に、灰色のノイズが走る。

 会議が終わると、フロアは生きる屍の山と化していた。

 雑賀課長はデスクで頭を抱え、元・エース営業マンの高橋さんは「あーあ、またこれだよ。無駄無駄、この会社じゃ何やっても無駄」と、よれよれのスーツのまま死んだ目でタイピングしている。


(典型的な、マズローの第2階層『安全』および第3階層『帰属』の破壊行為ですね。恐怖で支配された組織は、自己実現どころか、生存のための保身(忖度)にしかリソースを使えなくなる。……非常にコスパが悪い)


 僕は静かに立ち上がった。

 第2段階のクエスト――パーティー(仲間)の獲得。その最初の対象を【観測】する。

 ターゲットは、過酷な荷役作業と無理な納期で腰を痛め、倉庫の隅でため息をついている物流部門の渡辺剛さんだ。


「渡辺さん。少々よろしいでしょうか」


 僕は缶のホットコーヒーを一本、渡辺さんの前に置いた。


「……鈴木さんか。悪いな、今、営業二課からの『差し込み発注』の処理で手が回らなくてさ。営業部長からも『今日中に全部出荷しろ、根性見せろ』って怒鳴られてよ。もう、体も限界だわ……」


 渡辺さんの肩は落胆で丸まり、目は完全に「諦め」の色に染まっている。

 彼の背後には、べったりと『サイレント・アサイン(付箋コウモリ)』の荷重デバフが張り付いていた。

 

(彼は今、物理的な疲労による『生理的欲求』の危機と、理不尽な命令による『承認欲求』の飢餓状態にある)


「渡辺さん。あなたの現在の稼働状況を、僕のシートで【観測】させていただきました」


 僕はiPadの画面を渡辺さんに提示する。そこには、過去3ヶ月の物流データの詳細なグラフが描かれていた。


「営業二課の雑賀課長、および春日部長の突発的な差し込み発注は、全体の23%。これらはすべて『予測可能な季節変動』であるにもかかわらず、彼らの計画性のなさによって、あなたの『肉体リソース(健康)』へと理不尽に転嫁されています」


「え……?」


「あなたが腰を痛めてまで耐えているのは、根性が足りないからではありません。組織の『構造の欠陥』です。そして――」


 僕は懃懃無礼な笑みを、より深く刻む。


「あなたの迅速な現場管理がなければ、我が社の顧客満足度は今頃15%低下していました。あなたがこの会社の『最後の盾』です。それを認めず、ただ怒鳴り散らす上層部の脳細胞は、少々可哀想な状態にあると言わざるを得ません」


「鈴木さん……。お前、俺の仕事を、そんな風に見、見てくれてたのか……っ!」


 渡辺さんの大きな目が、カッと見開かれた。

 その瞬間、彼の背中に張り付いていた付箋コウモリが、僕のロジックによって一瞬で消滅した。

 

【Skill:マズローの階層充足(承認・安全)が現実世界で発動】

【対象:渡辺剛のモチベーションが180%に急上昇しました】


「俺……、ただの便利屋扱いされてると思ってた。でも、鈴木さんがそこまで数字で証明して、俺の価値を認めてくれるなら……。俺、まだ戦えるわ!」


「ええ。ですが無理な残業は不要です。営業二課の差し込み仕事については、私がこれから『ルールという名の呪言』でシステム的に遮断してきますので。渡辺さんは定時で上がって、腰を休めてください」


「す、鈴木さん……! あんた、マジで神かよ……!」


 渡辺さんが感動のあまり僕の手を握りしめた瞬間、システムログが脳内で爆音を立てた。


【パーティーメンバー候補:渡辺剛(肉体の守護者)との共鳴度が最大に達しました】

【パッシブスキル『現場の信頼』が有効化:鈴木の交渉時の説得力が30%上昇】


 倉庫を出ると、そこには一部始終を陰から見ていた佐藤さんが、両手を胸の前で握りしめて待っていた。


「鈴木さん……! すごいです、あの気難しい渡辺さんが、あんなに嬉しそうな顔をするなんて……! 鈴木さんは、本当にお医者様みたいです。みんなの傷ついた心を、ロジックで治しちゃうんですね!」


 佐藤さんの大きな瞳が、キラキラと眩い高画質エフェクトを放ちながら僕を見つめる。

 睡眠不足の脳に、彼女の全肯定の母性が、極上の栄養剤ポーションのように染み渡っていく。


「いいえ、佐藤さん。僕はただ、クソゲーの仕様を適正化しているだけですよ」


「もう、またそうやって格好つけるんだから! でも、そんな鈴木さんが、私は世界で一番……その、頼もしいと思います!」


 真っ赤になって俯く佐藤さんを見ながら、僕は自分の最大MPがさらに引き上げられるのを感じていた。

 

 さあ、外堀は埋まりつつある。

 現場の「信頼」という名のリソースを掌握した僕の視界には、次なる攻略対象――営業二課の雑賀課長と、春日営業部長の傲慢な顔が、はっきりと『バグ(標的)』としてロックオンされていた。


「さて、佐藤さん。次は少々、無能な上司たちの脳内デフラグに行ってきます」


「はい! お供します、鈴木さん!」


 魔王城(クズ社)の崩壊は、この飢えた社畜たちの覚醒から始まるのだ。


【本日残りMP:870/1600(最大値上昇)】

【現実の解像度:17.5%(世界の色彩がさらに鮮明化中)】

【鈴木の獲得称号:『飢えを満たす観測者』】

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