表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/53

タイトル未定2026/04/07 22:41

第五十二話

安命院の夜は、いつもより静かだった。

冬の風が障子を薄く揺らし、

外の木々がかすかに鳴る。

その音さえ、やよいの耳には遠く感じられた。


寝所の灯は弱く、

火は細い糸のように揺れている。

その光の中で、やよいは静かに横たわっていた。

呼吸は浅く、胸の上下はほとんど見えない。

しかし、その顔はどこか穏やかで、

長い旅路の終わりを受け入れた者のようだった。


枕元には、お凛と弥助が座っていた。

二人とも背筋を伸ばし、

師の呼吸をひとつも聞き逃すまいと

じっと見守っている。

涙はこぼれていない。

泣けば、やよいが心配する。

それを知っているから、二人はただ静かに座っていた。


やよいの目が、ゆっくりと開いた。

灯の光が瞳に映り、

その奥に、長い年月の記憶が揺れた。

やよいは、弟子たちの顔を順に見た。

言葉はない。

ただ、微笑んだ。


その微笑みは、

「よくやった」

「ありがとう」

「もう大丈夫」

そのすべてを含んでいた。


お凛の目が潤む。

弥助は唇を噛んで耐えた。

やよいは、ゆっくりと手を動かし、

枕元に置かれた一冊の書を指さした。


それは、やよいが生涯をかけて書き残した

「女人産科方医術抄」だった。

火の温度、匂いの違い、汗の質、

脈の揺れ、産の兆し、

すべてを記した、やよいの魂そのもの。


やよいは、かすれた声で言った。


「……書は……道しるべや……

 せやけど……書だけに……頼ったら……あかん……

 火を……見て……

 匂いを……聞いて……

 汗を……触って……

 命の……声を……感じて……

 自分の……医を……持ちなさい……」


お凛は深く頭を下げた。

弥助も拳を握りしめて頷いた。

二人の胸には、

やよいの言葉が深く刻まれた。


やよいは、もう一度だけ微笑んだ。

その微笑みは、

弟子たちを未来へ送り出すための

最後の灯だった。


呼吸が、ひとつ。

またひとつ。

静かに、浅くなっていく。


やよいの目が閉じた。

そのまま、

灯が消えるように、

音もなく、

やよいの命は静かに終わった。


お凛は泣かなかった。

弥助も泣かなかった。

二人はただ、

師の手をそっと握り、

その温もりが消えていくのを

静かに受け止めた。


「……安命院は、わたしたちが守ります」

お凛が小さく呟いた。

弥助も続けた。

「師匠の医は、絶やしません」


二人は、

やよいの書を胸に抱き、

灯を新しく灯した。

安命院は、

やよいの死とともに終わるのではなく、

ここからまた始まるのだ。


その夜、

やよいの魂は静かに夢へと入っていった。


気がつくと、

そこは大阪城の大きな門前だった。

冬の光が石垣に反射し、

風が吹き抜ける。

あの日と同じ匂いがした。

火の匂い、土の匂い、

人の声が遠くで響く。


やよいは、

幼い頃と同じように、

門の前に立っていた。


隣には、母がいた。

あの日と同じ姿で、

やよいの手を取るでもなく、

ただ静かにそばに立っていた。


二人は何も言わなかった。

言葉はいらなかった。

やよいは、母と並んで立ち、

遠くに広がる大坂の空を見つめた。


風が吹いた。

やよいの髪が揺れた。

母の袖も揺れた。


その風は、

長い旅路の終わりを告げる風ではなく、

新しい始まりへ向かう風だった。


やよいは、

静かに目を閉じた。


その瞬間、

すべてが光に溶けていった。


――やよいの人生は、

ここで静かに、

美しく終わった。







著者:比奈我弥生(ひながやよい


© 2026 比奈我弥生 All Rights Reserved.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ