解かれた封印
「ほらっ、何ともない、で……うっ……」
そう口にしながら、レイラの様子がみるみるおかしくなっていく。
たちまち顔が発熱したかのように真っ赤になり、息遣いが不自然なほど荒くなった。
やがて不可解に全身を、もじもじと捩るように震わせ始めたレイラを、ジュールは小馬鹿にしたように見下ろす。
「そーんなことだろうと思ってたよ。いいざまだね。頭が悪くて、お尻の軽―い王都のご令嬢が、いかにも考えそうな陳腐な手だね」
ノルマンもステファンも、凍るような視線をレイラに向ける。
こんな光景を、いつか王都の夜会で見かけたことがある。
なかなか振り向いてくれない意中の相手を思いつめた挙句、強引に既成事実を作るために用いられる媚薬。倫理に外れたことと承知で、相手に媚薬を盛るのだ。
媚薬には必ず、微量の魔物の血が用いられる。魔物の血が発する瘴気には、人の理性を失わせ、欲望を際立たせる効果があるからだ。それゆえにノルマンに媚薬は効かない。頻繁に魔物の瘴気に接しているノルマンには、それにかなりの耐性ができている。
しかし、同性としてこのままレイラの醜態を眺めているのに、あまりいい気分はしない。
レイラの様子を見るに、媚薬は裏通りの怪しげな店で金を積めば手に入る、ありふれたもののようだ。この程度のものなら城内に解毒剤が備えられているはず。
しかし、解毒剤を取りに行こうと一歩後ろに下がった私を、レイラは見逃さなかった。
「何よっ、どうしてあんたみたいな奴が公爵様の婚約者なのよ! せっかく小伯爵を奪ったと思ったのに、どうして次は公爵様なの! いつもいつも、どうして……私のほうがずっと可愛いのにっ! 公爵様だって、そんな女とは仕方なく婚約しただけでしょ? 私のほうがいいでしょっ!」
力いっぱいの悪態をついたレイラに、ノルマンが嘲笑で応えた。
「自分のほうが可愛い、か……ははっ、笑えるな。王都の愚かな令息たちは、そんなくだらない理由で相手を選ぶのか。だからお前の周りには、いつもろくでもない男しかいないんだろうな。言っておくが、俺はお前のような女はお断りだ。言葉を交わす価値も感じない」
媚薬のせいだろう、レイラの顔はいよいよ真っ赤になり、玉のような汗が吹き出ている。
「うっ……はぁ……体が熱くてたまらないのよぉ……なんとかしてよっ……うっ……ふぅ……んっ……もう、誰でもいいからぁ……」
開け放たれた執務室の扉の外には、騒ぎを聞きつけた大勢の騎士と使用人が集まって来ていた。レイラの痴態を目にした者たちは皆、おぞましいものを見たかのように眉を顰める。
だが、そんな悲惨なレイラの姿にも、ノルマンは慈悲の欠片も見せなかった。
「毒ではなかったとしても、城内に忍び込み、怪しい薬を俺に盛ろうとした。それに次期公爵夫人であるディアロッテ嬢にも怪我を負わせた罪は明白だ。この見苦しい女を地下牢へ引きずっていけ!」
下級兵士たちに容赦なく縄をかけられたレイラは、息遣いを荒くしながらも抵抗する。
「ちょっと! くうっ……私は、貴族なのよっ! はぁ……平民のくせに! 手荒なことをしないでよっ! ……はぁ……うっ……」
「そうだ、言っておくべきことがあったな」
ノルマンは、兵士に縄を引かれて出て行くレイラの背中に呼び掛ける。
「お前の父親、クレモ男爵は今、王太子殿下の命の下、王都で罪人として投獄されている。危険な魔物を無許可で売買し、王都に持ち込んだ大罪だ。加えて怪しい邪術を行った疑いもある。すでにクレモ男爵家には貴族籍の剥奪と爵位の返還が決定された。つまり、お前はもう貴族ではない、平民だ」
貴族を害した平民は、重罪に処される。平民ならば、処刑を免れることはできない。
レイラはその意味を理解し、悲鳴のような声を上げた。
「う……うそっ……嘘よっ!」
ノルマンの言葉に、レイラはありったけの力を振り絞る。腰に打たれた縄を引く兵士に体当たりすると、こちらに向き直った。媚薬の効果で真っ赤になって汗を吹き出している苦し気な表情を、思わず目をそらしたくなるほどにまで醜く歪めて。
「私が、平民なんて、そんなわけがないっ! お父様が罪人だなんてっ!」
「残念ながら本当だ。……早く連れていけ」
兵士が再びレイラの縄を強く引いた、その時。
レイラの胸元から、黒い煤のようなものが溢れるように湧いてきた。その源は、胸元に覗くネックレスについた赤黒い石。
「うっ! 何なのっ、これ! いやー! あっちに行ってよっ! 来ないでーーーーーーっ!」
それは立ち込める靄のようになり、見る見るうちにレイラの全身にまとわりつくように漂い始める。
レイラの周囲にいた兵士たちも、自分の身にも迫るそれを必死に手で振り払う。
たちまち黒い靄がレイラの全身をすっぽりと飲み込んでしまった。
「離れろっ!」
ノルマンの声に、今や黒い靄の塊となったものから、兵士たちが一斉に距離を取り、騎士たちは剣を抜いて構える。
黒い塊は一度その影を濃くすると、一瞬で散るように空中に解けた。中から現れたのは、辛うじてレイラの形を残した、禍々しい生き物。
(人じゃない――魔物!)
見開かれた両眼は、もはや人には見えない赤黒い光を帯び、唇の両端には長く鋭い牙が覗く。全身が見る間に元の体の倍以上に膨張すると、それに耐えられず着ていた服が引きちぎれ、無残なぼろ切れに変わり果てた。
「レイラっ!」
咄嗟に呼び掛けた私に、レイラの姿を残した魔物は、くわっと鋭い牙の生えた口を開いた。
その魔物の口から吐き出されたのは、紫色の煙。湧き出た雲のように、辺りにもわりと広がっていく。その煙を吸い込んだらしい数人の兵士が、喉を掻き毟るようにしてその場に膝をついた。
「気をつけろ、毒煙だ! 吸い込むな!」
ノルマンが叫び、口元を腕で覆う。
ステファンとジュールは、戦う術を持たない者たちに、すぐさまここから去るように手を振った。
「義姉上も早く、逃げて!」
ノルマンを筆頭に、騎士たち、兵士たちが剣を手に斬りかかる。
しかし、さらに広がる毒煙に阻まれて、剣が届く距離にまで詰められない。
屋外での戦闘なら、風に流され空に散るはずの毒煙も、無風の城内ではその場に漂い続け、毒する範囲を広げていく。
ならばと、弓を構えた兵士たちが後方から矢を放つ。
だが一瞬にしてその矢はすべて、魔物の腕と長く伸びた爪に払われ、傷一つ負わせることなく、ばらばらと虚しく床に落ちる。
振り下ろされる剣も次々と薙ぎ払われる。どうにか斬りつけることに成功しても、魔物の傷はたちまち塞がっていくので、キリがない。
(逃げる、でいいの?)
ルオンなら、一瞬にしてこの場を浄化できるはず。
でも、それは。
逡巡して足を止めた私を、魔物が認めた。不吉な赤黒い目がぎろりと光る。
(ああ、間に合わない――)
腕を振り上げた魔物がこちらに向かってくる気配がして、私は死を覚悟した。
同時に何かに覆いかぶさられ、床に転がった私は血の臭いを嗅いだ。
恐怖にぎゅっと瞑っていた目を開けると、ノルマンにしっかりと抱きしめられていた。
「うっ……」
ノルマンが小さく呻いた。
私をかばって魔物の爪を背中に受け、切り裂かれた騎士服から血を滴らせている。魔物の爪の毒に侵され、さすがのノルマンも苦痛に顔を歪めた。
私をかばおうとさえしなければ、ノルマンなら難なく避けられたはずなのに。
それなのに彼は――。
傷口から侵入した毒は、毒煙よりも早く体内にまわる。気丈に立ち上がろうとするが、ノルマンの意識は混濁しかけていた。
ステファンやジュールたちが応戦するものの、魔物は再び私に覆いかぶさるノルマンに狙いを定める。もう、迷ってはいられない。
「ルオンっ――!」
何もない空間に裂け目が走り、強い光が差した。




