公爵様のお戻り
「奥様、申し訳ありませんっ!」
メイドは床に這いつくばるようにして謝罪した。周りに居合わせた使用人たちも皆、不安そうに見守っている。私が彼女を罰するのではないかと危惧しているのだ。
確かに、この程度のことでも使用人を鞭打ちする主人の話を聞いたことはあるが、私にそんな趣味はない。
「あ、あの……私……本当に申し訳ありませんっ!」
私は床に額をつけたメイドに手を差し出した。彼女の手を握り、その場に立ち上がらせる。
今にも泣きだしそうな顔をして、体を震わせている彼女の足元に視線を落とすと、泥水で靴下がぐっしょりと濡れていた。これではおそらく靴の中にも水が入っているはずだ。
「突然現れて、驚かせてしまったようね。大したことじゃないから、お仕事を続けて」
すかさずモルガンも詫びの言葉を口にする。
「申し訳ありません、奥様。この者の不注意を私からもお詫びいたします。すぐにお着替えを……この者はどういたしましょうか?」
その言葉に、自分が今、女主人としての対応を試されているのだと言う気がした。だとしたら、この場を単純に大丈夫だと見逃すだけで収めてはいけない。
「あなた、お名前は?」
「えっ、あ……エルマと言います」
不意に名前を問われて、メイドはぴくっと身を震わせた。罰を覚悟したのだろう。
「では、エルマ。着替えるから手伝ってもらえるかしら?」
「へっ、あっ……はい!」
「それとエルマも、靴と靴下を履き替えなさい。そのままでは足が冷えてしまうわ」
言いながらエルマに微笑みかけると、その意図が伝わったのか、表情がみるみる明るくなった。
「承知いたしました、お手伝いいたします! ありがとうございますっ、奥様!」
モルガンをはじめ張りつめた空気の中で見守っていた使用人たちが、一斉に息を吐いた。
「そういえばモルガン、ひとつお願いがあるんですが」
「はい。何でしょうか、奥様?」
「その、奥様という呼び名だけれど、少し気が早いと思うの。今はまだ婚約したというだけなので、別の呼び方をお願いしたいのだけれど……」
「承知いたしました。……では、お嬢様とお呼びするのでいかがでしょうか?」
「いいですね。それでお願いできますか?」
「はい、お嬢様。……では皆にも、そのように伝えます」
ついでのことではあったが、使用人たちに呼び名を徹底することができた。
そうして三日が経った。
この日はモルガンに城の最上階を案内してもらっていた。最上階の奥まったところにあったのは、兵士に扉を厳重に守られた一室。
「こちらのホールは、宝物庫となっております」
その広い室内には、公爵家に伝わるさまざまな美術品が整然と収められていた。宝石、宝剣、絵画に並んで、肖像画が掛けられている。歴代の公爵家一家が描かれたものだ。
モルガンが、先代の公爵夫妻のものだと教えてくれた何枚かの肖像画のうちの一枚に、騎士服を着て、帯剣した夫人の立ち姿が描かれていた。その凛とした眼差しと佇まいに、同性ながら見とれてしまう。
「前の公爵夫人は、騎士でもあったのですか?」
「はい。亡くなられた奥様は、騎士として、前公爵様と一緒に戦場に出られていました。魔物の討伐にも、常に一緒に出られていたんです。当代のノルマン様のお顔立ちは、そのお母上によく似ておいでです。主君の碧い瞳は、お母上譲りなのです」
描かれている女性騎士の碧い瞳に、どこか初めて見る気がしない。
「実は私、婚約者である公爵様のお顔を知らないんです。現ご当主の公爵様の肖像画はどちらでしょう?」
「なんと……そうでしたか。ノルマン様の正式な肖像画はまだ描かれていないんです。なにせ、爵位の継承が急で、その後も魔物の討伐などで何かとお忙しかったものですから。ですが、お小さい頃の私的なものでしたら、いくつか掛けてあるお部屋があります。弟君のジュール様と並んで描かれているものがほとんどですが」
「そのジュール様も、公爵様と共に討伐に出ているのですか?」
「いえ……」
冗長だったモルガンが、口ごもる。それに少し引っかかるものを感じて彼を見ると、それまでと変わらぬ口調で続けた。
「ですが、ジュール様はモントロー騎士団の団員としての別の任務で、公爵様とは別行動をとっております。ジュール様の行動については、私どももはっきりとは把握してはいないのですよ」
つまりは、血のつながった最も信頼できる弟として、公爵の陰の右腕となり、秘密裏に動いているということか。だから、私にどこまで言っていいものか悩んで、口ごもったというところだろうか?
「公爵様とジュール様は、とても仲のよろしいご兄弟なのです。……では、お二人の肖像画が掛けられている部屋にご案内いたしましょう」
モルガンに促されてホールを出ると、使用人がこちらへ向かって走ってくる。
「執事様! 先ほど報せがあり、まもなく公爵様と騎士団がお戻りになられるそうです!」
その報せに、私たちは公爵一行を出迎えるため、急いでホールに降りた。
いまだ顔も知らない公爵に初めて会うのだと思うと、緊張で体が強張る。
使用人たちと並んでその到着を待っていると、騎士たちを従えてやって来たその人の姿に、私はぎょっとした。しかし使用人たちには見慣れた光景なのか、特に表情を変えてもいない。
騎士団の先頭を歩いてきた彼の服やマントのあちこちには、魔物のものと思われる紫色の血が生々しいシミを作り、その頬にも、拭いきれなかった魔物の血がべったりと乾いてこびりつくように残っていた。
まさに、冷血公爵の異名の通り――。
だが、その一瞬で、私はすべてを理解する。
黒髪の下に灯る碧い瞳に、私は覚えがあったのだ。




