君しかいないんだ!
センチネル本部のガラス張りの会議室には、この建物内で最も高い地位にある数名の職員が集結し、前方の壁面に設置された大型のスマートボードに注目していた。
「よしオブライエン君、報告を聞かせてくれ」
全員が着席したのを確認すると、ハイタワーはスマートボードの前に立つマリー・オブライエンに促した。
「オフィスの記録を調べたところ、マンスローターが倉庫から盗んだ物が何なのか判明しました」
「それで?」
マリーは一呼吸置いて話を続ける。
「ビルの倉庫に保管されていたのは極めて致死性の高い神経ガスのようです」
出席している職員の間に動揺が走った。
神経ガス。
神経伝達に必要なコリンエステラーゼの働きを阻害する効果を持つ化学兵器の一種で、ガスを吸った者は中枢神経系が破壊され、呼吸器の筋肉が麻痺して最終的には窒息死に至る。
代表的な神経ガスにはサリンやタブン、VXガスなどがあり、国連からは大量破壊兵器に指定されている。多くの国では製造するだけで重罪に問われる。
スマートボードにはその神経ガスの詳細なデータが表示されていた。
「ガスの威力は最も人口密度の高い地域で使用した場合、想定される死者はおよそ十万~二十万人。ドローンなどで移動しながらガスを散布されるとその数は幾何級数的に跳ね上がります」
「……何てこった」
プリヤが呻くように呟いた。
「つまりこういうこと? 何をしでかすかわからない頭のおかしな殺人鬼が一度に数十万もの人間を殺せる大量破壊兵器を持ち歩いているってワケ?」
華怜が訊ねる。
「そういうことになります」
室内の空気がにわかに張り詰める。
「神経ガスの製造は国際法で禁じられているんじゃないのか?」
「ええ、ですからこれを造った人は物凄く法律に疎いか、あるいはわざと無視したということになります」
プリヤの疑問に、マリーは皮肉を込めて返す。
クルーガーはサイバーマトリックス社が製造した兵器を他国に横流ししていた。つまり“これを造った人”というのは暗にサイバーマトリックス社であることを示唆している。
元々黒い噂の絶えない会社だ。何をしていてもおかしくはない。
しかしサイバーマトリックス社はあくまでも関与を否定するだろう。あれは社員個人が製造したものだ、と。
「大変なことになったわね……そういうことなら大至急、大量のガスマスクと防護服を用意しないと――」
「いえ……ガスマスクは役に立ちません。このガスは皮膚からも吸収されるので。防護服は圧倒的に数が不足しています」
アイリの提案に、マリーは沈痛な面持ちで口を挟む。
「じゃあ使用される前に捕まえるしかないってことか……」
警備アンドロイドの戦闘能力ではマンスローターを捕まえることは出来ない。防護服を着て戦闘するのは不可能。
つまりマンスローターを逮捕する際は、常に神経ガスの脅威を意識しながら戦わなければならないということだ。もし失敗すれば自分達だけでなく多くの人命を失う恐れがある。
「それともう一つ、マンスローターは神経ガス以外にも最新式の戦闘用バイオロイド数体を盗んでいきました。恐らくそれらのパーツを自分の身体に組み合わせて大幅にパワーアップしていると思われます。捕まえる時はくれぐれも用心してください」
ただでさえ悪い知らせが続いて空気が悪くなっているところに、追い打ちをかけるようにマリーが報告を続ける。
しばらく誰も何も言わなかった。その場にいた誰もが、一人の犠牲者も出さずにマンスローターを逮捕するのは不可能に近いことを悟っていた。
沈黙を破るようにして先に口を開いたのはアイリだった。
「ここで手をこまねいていても仕方がないわ。動かせる人員を総動員してマンスローターを探し出すしかないわね」
「いや、半分はグリッドランナーの捜索に当たって貰う」
ハイタワーの言葉に、アイリだけでなく会議室の全員が驚愕の表情を浮かべた。
「気は確かなの? 今がどれだけ深刻な状況か理解してる?」
「もちろん理解はしているさ。少なくともお前よりはな。しかしグリッドランナーも同じくらい深刻な脅威だ。同時平行で捜索した方が良い」
「良く言うわ。そもそもアンタがあの時、グリッドランナーにかまけていたせいでマンスローターを取り逃がした上に神経ガスを盗まれる羽目になったんじゃない」
「黙れ! お前の意見など聞いていない。ここのボスは私だ。一時的に処分を取り消されているとはいえ謹慎中の身だということを忘れるな。他に異議のある者はいるか?」
他の職員も、異論がありそうな表情をしていたが、口に出すまでには至らなかった。
誰もハイタワーの主張を完全否定するほどの根拠を持っていなかったからだ。
しかしアイリは確信していた。
マンスローターに殺害されたクルーガー、そしてその現場近くから突然現れたハイタワー。極めつけは殺害現場に居合わせたと思われるグリッドランナーを、ハイタワーが執拗に殺害しようとしていたこと。
アイリの推測が正しければ、彼の一連の不可解な行動の裏には大きな不正が隠されている。
もはや看過することは出来なかった。躊躇している暇はない。
「マリー、ちょっと良い?」
会議が終わると同時に、アイリはマリーに歩み寄って小声で話しかけた。
「ああ、アイリさん。一体支部長は何を考えてるんでしょうね、この一大事にあんなこと言って……」
「そのことなんだけど、実は内密に頼みたいことがあるの」
「何です?」
「ハイタワーのことよ。彼がここ数日、誰と連絡をとっていたか詳細な記録を調べて欲しいの」
「え、何の為に?」
そこでアイリはマリーの耳元に顔を近づけ、さらに声を潜めて言った。
「ここだけの話だけど、恐らくあいつはサイモン・クルーガーの犯罪に関わっている」
「そんなまさか……」
「クルーガーが指名手配された時、頑なに反対したでしょう? そして今夜、クルーガーが殺された現場の近くにいた」
アイリの言わんとすることを悟ったマリーは、目を見開いて驚愕の表情を見せる。
「で、でも記録なんてどうやって調べたら……」
「ハイタワーが使っているコンピュータ端末があるでしょう? あそこから情報を抜き取るのよ」
「待ってください、支部長の端末をハッキングしろって言うんですか? そんなことをしたらクビになるどころじゃ済みませんよ」
「わかってる、確信がなかったらこんなこと頼まないわ。あの男は間違いなく今回の事件に関与している」
「アイリさん……妹さんの誘拐の件で支部長を恨むのはわかりますけど……」
「そのことは何の関係もない。あの男のせいで大勢の人の命が危険に晒されているのよ。見過ごせる訳ないでしょう。責任は私が取るから」
「当てにならないんですけど……」
アイリは命令違反の常習者で有名だ。目的の為なら手段を選ばず、ルールから逸脱した行動を取ることも一度や二度ではない。それでも解雇されずに済んでいるのは、彼女が誰よりも優秀で、それだけ成果を残しているからだ。
だがマリーは違う。アイリに自分を庇えるほどの力があるとは思えない。
しかしそれでもマリーは、アイリの主張に正当性を感じていた。確かにハイタワーの言う通りにしていれば、大勢の犠牲者が出る可能性が高い。
アイリにはかつて上司のパワハラやセクハラから助けて貰った恩もある。
悩みに悩んだ結果、マリーは「ハア……」と嘆息してこう言った。
「……わかりましたよ。もしクビになったら再就職先の口利きしてくださいね」
「ありがとう」
「失礼します。よろしいでしょうか」
話が済んで、会議室を後にしようとすると、一人の女性職員が血相を変えて入室してきた。
「たった今、マンスローターがSNSに犯行声明をアップロードしました!」
女性職員は前方のスマートボードを操作して動画を再生した。すでに半数以上の職員が解散しようとしていたが、全員食い入るように画面に表示された動画に目を向けた。
『メガトーキョーの愚民共。テメーらは今までずっとサイバーマトリックスの悪行の数々を知りながら見て見ぬふりをしてきた。今日、その報いを受ける時だ。ここにあるのは何十万もの人間を一瞬であの世送りに出来る毒ガスだ。テメーらが助かる道は一つ、サイバーマトリックスの幹部連中を一人でも多く俺のところに連れて来い。さもなくば大勢の人間が死ぬことになる』
動画はどこかの電車内を映していた。傍らには神経ガスの容器も確認出来る。
「少し前、都市の環状線を走る列車が何者かに乗っ取られたとの通報がありました。恐らくマンスローターの仕業かと」
「何だと?」
ハイタワーが青褪めた顔で言った。
「マンスローターの要求は、サイバーマトリックス社の経営陣全員の命を差し出すこと。その後、彼らを殺すまで決して自分の邪魔をしないこと。今から一時間以内に要求が聞き入れられなかった場合、神経ガスを散布すると脅してきています」
にわかに会議室内に動揺が走る。
「電車で移動しながら散布されたら死者の数は最悪、百万人を超える可能性もあります……」
「……それが奴の狙いって訳か」
マリーの絶望的な予測に、アイリが歯噛みする。
環状線はメガトーキョー全体を網羅するように走っている。ガスをばら撒くのに、これほど適した環境はない。
「列車を停止させれば良いだろう」
こともなげにハイタワーが言うと、女性職員は――
「無理です、マンスローターが列車の保安システムをハッキングして停止出来ないようにしています」
「馬鹿な、仮に保安システムを無効にしたとしても遠隔から停車させられるはずだ!」
「もちろん可能ですが、もし停車させたら即座にガスをばら撒くとマンスローターが脅迫しています」
「くそっ……!」
もし停車させると間接的に多くの命を奪ってしまうことになる。そんな判断を下せるほどの度胸が鉄道会社にあるとは思えない。
日本の鉄道は世界でも最高レベルの安全策を講じているが、サイバーセキュリティに限っては、何年も前から脆弱性を指摘されていた。
「……やむを得ん。我々で何とかするしかない。情報を精査した後、もう一度作戦会議を行うぞ」
意気消沈した様子で、ハイタワーが退室した。
マンスローターの犯行声明によって、メガトーキョーは大混乱に陥っていた。
人々は避難しようにも不確定な情報が錯綜していて、どこに逃げれば安全なのか判断が下せない状態だった。交通情報を確認すると、至る所で事故や渋滞が発生している。
サイバーマトリックス社の本社ビルには抗議者が殺到し、一部が暴徒化して火炎瓶を投げ込む者も現れ、警備員が催涙弾を発射して応戦するという、非常に混沌とした様子がSNSに投稿されていた。
今やメガトーキョーの全住民が、命の危険に晒されている。
その中には海斗の知り合いも含まれている。海斗は自分が何をすべきなのか考えあぐねていた。
上月から連絡が入ったのはその時だった。
「上月さん、どうかしたんですか?」
『……浅宮君、動画は見たか?』
上月は頭を抱えていた。
「見ましたけど」
『状況は最悪だ……クルーガーの犯した罪のせいで大勢の人々の命が脅かされている。もはやセンチネルだけで手に負える状態ではない』
「そんなことはないでしょう。センチネルにはサイボーグ専門の精鋭部隊がいるんだから」
『それが……信じられない話だが彼らはまだ君を捕まえようと探しているそうだ』
「はあ、何でそうなるんですか?」
訳のわからない話に、海斗は頭が混乱してきた。
『わからないが、恐らくクルーガーの共犯者が組織の中に紛れ込んでいるんだと思う。それで口封じの為に君をしつこく追い回しているのだろう』
「そういえば変なギプスを着けた男が俺を殺そうとしてたな……」
かなり地位の高い人物なのか、男はフォックストロットに命令を下していた。仮にこれが事実だとしたら、センチネルはトップから腐っていることになる。
そもそもあそこで邪魔が入らなければマンスローターを捕まえることが出来たのだ。完全な戦犯である。
もう一つ気がかりなのは、暗がりで良く見えなかったが、あの場にヒカリの姉らしき人物がいたような気がすることだ。
気のせいであれば良いのだが。
「それで、俺にどうしろって言うんです? まさかマンスローターを捕まえてくれとか言うんじゃないでしょうね?」
『…………』
上月は何も言わず、申し訳なさそうに目を伏せる。それが肯定を意味しているのは返答を聞かなくてもわかった。
『はっきり言ってセンチネルは今、機能不全に陥っている。このままだと数え切れないほどの人命が失われることになってしまう。勝手に君の身体を改造しておいて理不尽な物言いだとはわかっている。だが頼れるのはもう君以外にいないんだ』
「そんなことはないでしょう。センチネルにはフォックストロットがいるじゃないですか」
『口を挟むようで申し訳ありませんがその認識には少々誤りがあります』
海斗達の会話に割り込んできたのはプリスだった。
『フォックストロットでは仮にマンスローターの逮捕に成功したとしても、一人の犠牲者も出さずに任務を遂行するのは極めて困難だと推測されます』
「じゃあ俺なら出来るとでも?」
『はい、実際に海斗様の戦闘能力はフォックストロットを遥かに凌駕しています』
「そんなこと……マンスローターとやり合った時だって結構ギリギリの状況だったんだよ?」
『それはまだご自身の力を自覚されていないだけです。現に海斗様はマンスローターとの戦いで、ほとんど攻撃を受けずに二度も撃退しました』
「それは……」
確かに何発か食らいはしたものの、内容的に言えばほぼ圧勝に近い勝利だった。
だがそれは単なるビギナーズラックというヤツではないのか。相手が油断していただけという可能性だってある。自分がプリヤ達よりも強い、なんてことが本当にあり得るのだろうか。
『すまない浅宮君。これは義務でも何でもない。この先どのような結果になろうと君には何の責任もない。だが、今このメガトーキョーの人々を救えるのは君しかいないんだ!』
「……そんな言い方卑怯ですよ」
責任感を感じさせないように精一杯優しく言ったつもりだろうが、その試みは完全に失敗している。
メガトーキョーに暮らす数千万人の人々の命運が、海斗の行動に左右されるというのだ。責任感を感じるなと言う方が無茶だろう。
何とも奇妙な話だ。前例のない未曾有の危機であるにも拘らず、それを阻止出来るのはたった一人の学生のみ。
果たして本当に自分にそんな力が備わっているのだろうか。大勢の住民を救う強大な力が。
今まで自分が特別な人間である、などと考えたことは一度たりともない。自分が出来ることは他人にだって出来る。それどころか他人の方が上手く出来る場合の方が多い。
海斗の養父はかつてセンチネル隊員だった。
父親の代わりに自分を育ててくれたその人は、非常に正義感が強く、曲がったことが大嫌いな性格だった。
ある時、どうして危険を冒してまでそんな仕事をするのか質問してみると、彼はこう答えた。
このメガトーキョーには大勢の人々が幸せに暮らしている。誰かが彼らの幸せを守らなければならないのなら、自分がその役目を引き受けたい、そう思ったからだと。
正直、自分はそこまでの覚悟は持てない。何の縁もない赤の他人の為に、そこまで身体を張る必要があるとは、どうしても思えなかった。
今だって数千万人の命が危険に晒されていると聞いても、あまりピンと来ないのが正直な感想だ。
だが、大切な人達の為なら……?
ルナ、葵、恵、プリヤ……あまり親しくはないが、同じ学校の生徒達、そしてヒカリ――
彼女達の誰か一人でも犠牲になったら、自分はどうすれば良いのだろう。想像したくはないが、否が応でも考えてしまう。
親しい人達の笑顔が次々と脳裏に浮かび、それがどす黒い霧に包まれる光景を想像した瞬間、気がつくと海斗は立ち上がって窓の外へと飛び出していた。
「一体どういうことなのハイタワー?」
ガラス張りのハイタワーの執務室にて、アイリは語気を鋭くして彼に詰め寄った。
「言った通りだ。お前達はグリッドランナーの捜索に当たって貰う」
「馬鹿言わないで。私達抜きでマンスローターを捕まえられる訳がないでしょう!」
「そうでもないさ。こっちにはこっちの作戦があるんだ」
「作戦って?」
「お前が知る必要はない」
「そんな理屈が通ると思う?」
「通ろうが通るまいがこれは決定事項だ。文句があるなら今すぐ辞めてくれて構わん」
あまりにも身勝手な言い分だ。業を煮やしたアイリは執務机に両手をついて、威圧的にハイタワーの目を睨みつけた。
「ハイタワー、これ以上暴走するなら上層部に報告するわよ」
「好きにすれば良いさ。命令違反ばかり繰り返すお前と私、上はどっちの言葉を信用するかね?」
「…………」
悔しいがその言葉には一理ある。ハイタワーは上層部にも多くの人脈を持っていて、報告したところで簡単にねじ伏せられるのは目に見えている。
今ここでアイリに出来ることは限られていた。
反論出来ないアイリに、ハイタワーは勝ち誇ったような笑みを見せる。
「ふん、わかったら仕事に戻れ。お前はただ命令に従っていれば良いんだ」
「……付き合ってられないわね」
呆れ果てた、とでも言いたげな口調で、アイリはハイタワーに背を向けて執務室を出ようとした。
「おいどこへ行く。勝手な行動は許さんぞ」
「私はマンスローターを捕まえに行く。止めたきゃ止めてみれば?」
「待て!」
後ろでハイタワーが叫ぶのも気にせず、乱暴な足取りで部屋を飛び出した。
マリーはマンスローターが乗った列車の情報収集で手一杯の状態だ。ハイタワーの調査にはまだ時間が掛かる。
こうなったら命令に背いてでも独自に作戦を立てるしかない。すぐにフォックストロットのメンバーを招集して――
と、そこまで考えたその時、ふいに発信元不明の電話がかかってきた。
「はい」
『……諸星アイリか?』
「そうだけど、おたくは?」
地を這うような低い声。一瞬、変質者かと思ったが、その声にはどことなく聞き覚えがあった。
『良いか、可愛い妹を死なせたくなかったらグリッドランナーを殺せ! それしか妹が助かる道はない!』
「一体、何を言って――」
意味不明な言葉に首を傾げていると、一枚のある画像が転送されてきた。
「――ッ!?」
転送された画像を見て、アイリは絶句した。そこには気を失って電車の座席にもたれ掛かっているヒカリの姿が写っていた。




