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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第51話: 砂は嘘をつかない

 朝、砂が、また温度を変えていた。


 夜のあいだ氷のように冷えていた砂が、日が昇ると、また少しずつぬるみ始めていた。マレーナは岩陰で目を覚まし、その砂に指を当てた。一日のうちに、これほど温度の変わる土は、西にはなかった。


 その指先に、馬の足音が、伝わってきた。




 砂を踏む足音だった。西の隊商のものより、軽く、速かった。


 マレーナは立ち上がった。岩陰から、谷の道を見た。関の門のほうから、一頭の馬が、こちらへ近づいてきていた。


 乗り手は、布を頭に巻いた女だった。


「レオ」マレーナは言った。


「ああ」彼は、もう起きていた。馬の鞍を直す手を止め、同じ方向を見ていた。「東の者だな。関守の手の者か」


「分かりません」マレーナは言った。


 女の馬は、まっすぐ、二人の火の跡へ向かってきていた。




 女は、火の跡の手前で、馬を止めた。


 日に灼けた、浅黒い肌だった。黒髪を布で覆い、その布の下から、耳がのぞいていた。耳には、細い銀の環が幾重にも通されていた。馬から下りるとき、その環が、涼やかに鳴った。


 手の甲に、入れ墨があった。文字とも、絵ともつかない、紋のようなものだった。


 女は、二人を、見た。笑ってはいなかった。けれど、敵意も、なかった。ただ、測る目だった。




「西の隊商か」女は言った。


 訛りはあったが、関守と同じく、聞き取れる言葉だった。


「ええ」マレーナは言った。「西から来ました」


「関の手前で、野宿していたな」女は言った。「ジャマルに、追い返されたか」


「いいえ」マレーナは言った。「一晩、考えていました」


 女が、片方の眉を、わずかに上げた。


「考える」女は言った。「関の手前で、一晩。――珍しい西の者だ」




 女は、馬の手綱を岩に結わえた。


 それから、二人の隊商の荷のほうへ、歩いていった。許しも乞わず、まっすぐに。荷馬車の梱に近づき、その一つに、手を当てた。


「西の差配」女は、背を向けたまま言った。「あなたを試させてもらう」


「試す」マレーナは言った。


「砂は、口先の信用を一番嫌うのでね」女は言った。


 彼女は荷の梱の隙間から、小さな包みを一つ、抜き取った。マレーナが、東で仕入れた見本にと、広場で買った香辛料だった。




 女は、その包みを開いた。


 中の黒い小さな粒を、一つまみ手に取った。それを鼻に近づけ、ゆっくりと、匂いを嗅いだ。目を閉じていた。


 それから、その一つまみを、舌に乗せた。


 噛んだ。一度、二度。口の中で転がすように。


「胡椒だ」女は言った。「だが、古い。三月みつきは、蔵で眠っていた。香りの角が、丸い」


 マレーナは、その言葉を、聞いた。




 広場の商人は、新しい胡椒だと言って、その包みを売った。マレーナは、それを疑わなかった。匂いも嗅いだ。けれど、新しいか古いかまでは、読めなかった。


 この女は一嗅ぎと一噛みで、それを言い当てた。


「あなたは」マレーナは言った。「香辛料の、商人ですか」


「隊商長だ」女は言った。「ブハルの。――サイラという」


 彼女は初めて振り返った。


「あなたは」サイラは言った。「何という」




「マレーナです」彼女は言った。「オーレンから来た、交易の差配です」


「差配」サイラは言った。


 彼女はその言葉を、舌の上で測るように繰り返した。関守ジャマルと、同じ仕草だった。けれど、目が、違った。ジャマルは値踏みする目だった。サイラの目は、もっと深いところを、測ろうとしていた。


「女で、隊商を連れて、ここまで来たか」サイラは言った。「ジャマルが、面白がるはずだ」


「ジャマル殿を、ご存じなのですか」マレーナは言った。


「東の商人で、メルヴの関守を知らぬ者はいない」サイラは言った。「みな、あの男に二割を払って、東へ通る」




「あなたも」マレーナは言った。「払うのですか」


 サイラの、銀環が、ひとつ鳴った。


 指で、鳴らしたのだった。耳の環を、一つ、指先で弾いた。何の癖か、マレーナには、まだ読めなかった。けれど、その音のあとにサイラの声が、少し低くなった。


「払う」サイラは言った。「血の掟が、そう決めている。関を通る者は、関守に払う。――気に入らぬが、払う」


「気に入らぬのに、払うのですか」マレーナは言った。


「掟だからだ」サイラは言った。


 それ以上は、言わなかった。




 マレーナは、その短い間を聞いた。


 気に入らぬが、払う。掟だから。――その二つの言葉のあいだに、何かが、挟まっていた。誇りでも、諦めでもない、もっと重いものだった。けれど、サイラは、それを言わなかった。言わずに、銀環をもう一度、指で鳴らした。


 苛立ちの音だ、とマレーナは思った。たぶん、自分への。




「では、問おう」サイラは言った。


 彼女は火の跡をまたいで、マレーナの正面に立った。


「あなたは」サイラは言った。「西で、何を積んできた。どうやって、人と商ってきた。――銀か。剣か。それとも、一族の血か」


「いいえ」マレーナは言った。「そのどれでも、ありません」


「では、何だ」


 マレーナは、懐から、符牒帳を取り出した。




 角のすり減った、手擦れの帳面だった。


 昨日、関守ジャマルの前で、これを開いた。ジャマルは、見もしなかった。けれどマレーナは、もう一度これを差し出すことにした。


「これです」彼女は言った。「十年、西で交わしてきた取引の、記録です」


 サイラは、その帳面を、見た。


 ジャマルのように、目を逸らしはしなかった。受け取って、開いた。中のびっしりと書かれた行を、上から下まで目で追った。




「字だな」サイラは言った。


「ええ」マレーナは言った。「人の名と、交わした約束と、果たした記録です」


「読めぬ」サイラは言った。「西の字は、読めぬ。だが――」


 彼女は、頁を一枚、めくった。それから、もう一枚。指の腹で、紙の厚みを、確かめるように触れた。


「びっしりと、書いてある」サイラは言った。「一行ずつ。十年分。これを、あなたが一人で書いたのか」


「ええ」マレーナは言った。「一人で」




 サイラの指が、頁の上で、止まった。


 ほんの一瞬、何かを、測る目になった。マレーナの符牒帳の角が、すり減っているのを、サイラは見ていた。十年、握りすぎて、丸くなった角だった。


 その一瞬を、マレーナは、見逃さなかった。


 この女は、紙の中身を読めない。けれど、紙の使い込まれ方は、読んでいる。――商人の目だ、とマレーナは思った。自分と、同じ種類の目だ。




 けれど、その目はすぐに閉じた。


 サイラは、符牒帳を、ぱたりと閉じた。そして、マレーナに、突き返した。


「ただの紙だ」サイラは言った。


 マレーナは、帳面を、受け取った。


「あなたの帳面に」サイラは言った。「一族の血は、流れていない。誰の血も、ここには通っていない。――それは、ただの紙だ」




「血」マレーナは言った。


「東で信じられるのは、血と誓いだけだ」サイラは言った。「父から子へ、血で繋いだ約束。一族と一族の、誓い。――そこには、嘘をつけば血が穢れるという、重さがある」


 彼女は自分の手の甲の紋を、示した。入れ墨の紋だった。


「これは、わたしの一族の紋だ」サイラは言った。「この紋を裏切れば、わたしは砂に捨てられる。だから、わたしの約束には、血の重さがある。――あなたの紙には、それがない」




「あなたが、一人で書いた紙だ」サイラは言った。「あなたが嘘を書いても、誰も知らぬ。あなたが裏切っても、血は穢れぬ。何の重さもない。――だから、ただの紙だ」


 マレーナは、その言葉を、聞いた。


 昨日、ジャマルも、同じことを言った。紙には血が流れていない、と。けれど、サイラの言い方は、ジャマルとは違った。ジャマルは、嘲っていた。サイラは――嘲ってはいなかった。本気で、紙を、信じていなかった。


 いや、とマレーナは思い直した。本気で紙を、信じたがっていなかった。




「サイラ殿」マレーナは言った。「一つ、お訊きします」


「何だ」


「血の重さがあれば」マレーナは言った。「人は、決して裏切らないのですか」


 サイラの、銀環が、鳴った。


 今度は、指で弾いたのではなかった。彼女がほんの少し顔を動かしたとき、環がひとりでに鳴った。


 マレーナは、その音を聞いた。さっきの、指で弾く音とは、違った。指で鳴らすのは、苛立ちの癖だった。けれど、今のは、揺れた音だった。サイラ自身が、その問いに、揺れた音だった。




「裏切らぬ」サイラは言った。


 けれど、その答えは半拍遅かった。


「血の掟は、人を縛る」サイラは言った。「血の外には、水も荷も分けぬ。血の内には、命を懸ける。――それで、隊商は、砂を渡れる。それが、東の作法だ」


「血の外には」マレーナは言った。「水も、分けないのですか」


「分けぬ」サイラは言った。


 その短い一言は、固かった。固すぎた。固いものはたいてい、何かを抑えている。マレーナは十年、人の手の固さでそれを読んできた。




 サイラは、火の跡を、見下ろした。


 昨夜、二人が焚いた火の、消えた跡だった。黒く焦げた砂と、燃え残りの草が、そこにあった。


「あなたは」サイラは言った。「昨夜、ここで火を焚いた。二人で。――もしこの火のそばに、見知らぬ者が水を求めて来たら。あなたは、分けるか」


 奇妙な問いだった。マレーナはその問いの裏に、何かがあると感じた。


「分けます」マレーナは言った。「一杯くらいは」


「血の外の者にも、か」


「水に、血の内も外も、ありません」マレーナは言った。




 サイラが、黙った。


 長い沈黙だった。砂を渡る風の音だけが、二人のあいだを、通った。サイラの目が火の跡から、マレーナの顔へ移った。


 その目を、マレーナは、見返した。


 測る目だった。けれど、さっきまでとは測っているものが違った。荷でも、紙でもなかった。マレーナという人間そのものを、サイラは、測っていた。


 そして、その目の奥に疲れがあった。




 誇りで張り詰めた立ち姿の、奥のほうに。


 二十年、砂を渡ってきた隊商長の、揺るがない背筋の下に。マレーナは、それを、見た。誇りだけでは、説明のつかない、古い疲れだった。


 血の外には、水も分けぬ、とサイラは言った。固い声で。けれど、その固さの裏でサイラは、火の跡を見ていた。見知らぬ者が水を求めて来たらと問うたとき、サイラの声は、自分のことを訊いているように聞こえた。


 マレーナは、それ以上は、読まなかった。読めば、踏み込みすぎる気がした。




「西の差配」サイラは言った。


 声がまた、元の硬さに戻っていた。


「あなたの言うことは、聞こえはいい」サイラは言った。「水に、血の内も外もない。紙に、十年の信用が積んである。――聞こえは、いい」


「ええ」マレーナは言った。


「だが、聞こえのいい言葉は」サイラは言った。「砂では、いちばん信じられぬ」


 彼女は自分の馬のほうへ歩き始めた。




「砂は、嘘をつかない」サイラは言った。


 背を向けたまま、彼女は言った。


「人は、つく」サイラは言った。「聞こえのいい言葉を並べて、人はいくらでも嘘をつく。砂は、つかぬ。歩けば歩いた分だけ、足が沈む。隠せぬ。――だからわたしは、人の言葉でなく砂を信じる」


「では」マレーナは言った。「わたくしの言葉も、信じませんか」


「信じぬ」サイラは言った。「血の外の者を、わたしは入れない」




 マレーナはその背に、言葉を返さなかった。


 昨日、関守ジャマルの前で、彼女は引き返さなかった。今日も、引き返す気は、なかった。けれど、ここで言葉を重ねても、サイラの背はこちらを向かないと分かっていた。


 言葉では、ない。この女は、言葉を、いちばん信じない。


 マレーナは符牒帳を握ったまま、立っていた。掌に、すり減った角が、当たっていた。十年、信用の重みを、掌に伝えてきた角だった。けれど今、その角はサイラの背に、何も伝えていなかった。




「サイラ殿」マレーナは言った。


 サイラが馬の手綱を解く手を、止めた。


「あなたは」マレーナは言った。「西の紙を、信じないと言いました。けれど、わたくしの符牒帳を最後まで読もうとしました。頁を二枚、めくりました。角のすり減り方を、見ました」


 サイラの、銀環が、鳴った。


 指で、弾いた音だった。




「読めぬ字を」マレーナは言った。「読もうとする人は、本当は紙を嫌っていない人です」


 サイラは、振り返らなかった。


 けれど、手綱を解く手は、止まったままだった。砂を渡る風が、二人のあいだをまた通った。サイラの銀環が、風に、かすかに鳴った。今度は、指で弾いたのでも揺れたのでもない、ただの風の音だった。


「西の差配」サイラは言った。「口が、回るな」


「いいえ」マレーナは言った。「見たことを、言っただけです」




 サイラが、馬に、乗った。


 鞍の上から、彼女は初めて、まっすぐにマレーナを見下ろした。日に灼けた顔の、その目がマレーナを捉えていた。


「あなたは」サイラは言った。「西の女だ。けれど――」


 彼女はそこで、言葉を切った。


 何かを、言いかけて、飲み込んだ。マレーナは、その飲み込まれた言葉が何だったのか、読もうとした。けれど、読めなかった。サイラの目の奥に、一瞬よぎったものがあった。それだけだった。




 西と、東で。


 看板を持たず、女で、一人で隊商を率いる商人。――マレーナは、サイラの目の奥に、それを見た気がした。サイラもまたマレーナに、同じものを見たのかもしれなかった。


 けれど二人とも、それを言葉にしなかった。


 まだ、早すぎた。砂の上で、たった一度、対峙しただけだった。互いの目の奥を確かめるには、まだ何も起きていなかった。




「西の紙が」サイラは言った。「砂を越えられるものか」


 それは、問いではなかった。突き放す言葉だった。


「では、問おう」サイラは言った。


 彼女は馬の上から、マレーナを見下ろした。誇り高い、隊商長の目だった。


「あなたの信用とやらは」サイラは言った。「盗賊の刃より、速いか。砂嵐より、遠くまで、届くか」




 マレーナは、すぐには答えなかった。


 盗賊の刃より、速いか。砂嵐より、遠くまで、届くか。――それは昨日、関守ジャマルが突きつけた壁と同じ場所を指していた。銀を積めば、盗賊が来る。銀がなければ、関を通れぬ。そして今、サイラはその盗賊と砂嵐の向こうまで、お前の紙が届くのかと問うていた。


 まだ、届かなかった。マレーナの符牒帳は、関の手前で、止まっていた。


「分かりません」マレーナは言った。「今は、まだ」




「だろうな」サイラは言った。


「けれど」マレーナは言った。「届かせる方法を、探します」


 サイラの、銀環が、鳴った。


 マレーナには、もうその音の意味が、少し分かっていた。指で弾くのは、苛立ち。けれど、今のは、違った。少しだけ、面白がる音だった。たぶん、本人も、気づいていない音だった。


「探せ」サイラは言った。「砂が、あなたを試すだろう。――砂は、口先を、いちばん嫌う」


 彼女は、馬の腹を、軽く蹴った。




 馬が砂を踏んで、関の門のほうへ駆けていった。


 軽く、速い足音だった。耳の銀環の音が、遠ざかりながら、しばらく風に乗って聞こえていた。やがてそれも、砂の音に紛れて消えた。


 マレーナは、その背を、見送った。


「あれが」レオが、隣で言った。


 彼はいつのまにか火の跡の脇に立って、一部始終を見ていた。口を、挟まなかった。昨日のジャマルのときも、そうだった。マレーナが対峙するあいだ、彼は、見守っていた。




「東の、隊商長だそうです」マレーナは言った。「ブハルの。サイラ、と」


「血の外の者は、入れない、か」レオが言った。「手強いな。ジャマルより、たちが悪いかもしれん」


「ええ」マレーナは言った。


 彼女は符牒帳を握ったまま、立っていた。けれど、その手はもう重く感じなかった。サイラに突き返された帳面は、確かに東では、ただの紙だった。けれど――


「レオ」彼女は言った。「あの人は、わたくしの紙を最後まで読もうとしました」




「読めない字を、ですか」レオが言った。


「ええ」マレーナは言った。「読めない字を。頁を、めくって。角のすり減りまで、見ました」


 彼女は、関の門のほうを、見た。サイラの馬は、もう、見えなかった。砂と岩の谷の、その向こうへ、消えていた。


「紙を、本気で嫌う人は」マレーナは言った。「他人の紙を、読みません。あの人は嫌っているふりをして――本当は、信じられる紙を探しているのだと思います」




「それを」レオが言った。「あんたが、見抜いたのか」


「見抜いた、というほどでは」マレーナは言った。「ただ、手が止まっていました。手綱を解く手が。わたくしが角の話をしたとき、止まりました」


 レオが、口の端を、上げた。


「かなわんな」彼は言った。「あの女の手の動きまで、見てたのか」


「手しか」マレーナは言った。「読めるものが、ありませんでした。言葉は、通じませんでしたから」




 彼女は符牒帳を、懐に戻した。


 角の、すり減った帳面だった。サイラには、ただの紙だった。けれどマレーナには、まだそれが武器だった。ただ、その武器を東でどう振るうのか――それが、まだ見えなかった。


「あの問いに」マレーナは言った。「答えなければなりません」


「問い」レオが言った。


「わたくしの信用は」マレーナは言った。「盗賊の刃より、速いか。砂嵐より、遠くまで、届くか。――サイラ殿の、最後の問いです」




「答えは、あるのか」レオが言った。


「まだ」マレーナは言った。「ありません」


 彼女は足元の砂を、一度、掌に掬った。


 朝の砂は、もう、ぬるんでいた。夜の冷たさは、消えていた。握ると、指の間からさらさらとこぼれていった。西の土のように、掌に残らなかった。


「けれど」マレーナは言った。「あの人は、紙を探しています。盗賊より速く、砂嵐より遠くまで届く紙を、誰よりも探しています」




「あの人が、探しているもの」彼女は言った。「それが、わたくしの作るものと、同じなら――」


 彼女は、掌の砂を、地に落とした。


「同じなら」レオが言った。


「あの人は」マレーナは言った。「わたくしの紙を、最初に信じる東の人になるかもしれません」


 砂が、足元で、乾いた音を立てた。関の門の向こうで、サイラの銀環の音はもう聞こえなかった。けれど、その音の余韻がまだ、マレーナの耳の奥に残っていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第五十一話「砂は嘘をつかない」。東の砂で、二人が、一人の女隊商長と出会う話です。


サイラは、東方の商都ブハルの女隊商長です。誇り高く、直截で、来る者を待つのではなく、自ら相手を試しに来る人です。香辛料を一嗅ぎ、一噛みで古いと言い当て、マレーナの符牒帳を「血の流れぬ、ただの紙だ」と嗤います。マレーナにとって、東で初めて出会う、自分と同じ「女で、看板でなく個で立つ商人」です。


書いていて意識したのは、サイラを、ただの壁にしないことでした。彼女は西の紙を信じません。けれど、マレーナの読めない帳面を、最後まで読もうとします。頁をめくり、角のすり減りまで見ます。紙を本気で嫌う人は、他人の紙を読まない――マレーナは、そこに気づきます。サイラは、嫌っているふりをして、本当は、信じられる紙を、誰よりも探している人なのかもしれない、と。


なぜサイラが、それほどまでに紙を、人を、信じたがって信じられないのか。その理由は、まだ書きません。誇りの奥にある古い疲れ、銀環を指で鳴らす癖――マレーナが読み取れたのは、その片鱗だけです。サイラ自身の砂の記憶は、もう少し先の話で、彼女の側から描きます。


次の話、銀を積んだ隊商が、高原で狙われます。マレーナの十年の信用が、本当に砂の上で紙くずになるのか――困難の、底です。


◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇


「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第三巻、東の路へ。西と東で、同じ目をした二人の女商人が、砂の上で、ようやく出会いました。


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