第50話: 関門都市メルヴ
砂が、掌に触れた。
乾いて、細かくて、握っても指の間からこぼれていく砂だった。マレーナは荷馬車を降りて、その砂を一度掌に掬った。冷たくはなかった。日に灼かれて、ぬるかった。
西の土とは、まるで違った。
二十日余り、二人と隊商は東へ歩いてきた。
オーレンを出て、塩坑のある南の山を背に回し、葡萄酒の西部を遠く左に見送って、やがて緑が尽きた。木が消え、草が薄くなり、地が乾いていった。最後に残ったのは、砂と岩だけだった。
高原は、広かった。空が、低かった。岩が、赤茶けて、剥き出しに転がっていた。塩坑の暗い坑道とも、谷の白い雪とも、王都の石畳とも、何ひとつ似ていなかった。
マレーナはその景色を、初めて見る目で見た。
「妙な土地だな」レオが言った。
馬から降りて、彼は地を踏んだ。靴の下で、砂が乾いた音を立てた。彼は厩の仕事で土の固さを足で読む癖があった。その足が、ここの地を測りかねていた。
「水の匂いが、しない」彼は言った。
「ええ」マレーナは言った。「川を、もう三日見ていません」
彼女は掌の砂を、また地に落とした。さらさらと、影もなく落ちた。荷縄の固さも、塩袋の湿りも、ここにはなかった。指先が読むものが、西とは違った。
隊商の先頭で、ヴィンスが手綱を引いていた。
几帳面な隊商頭は、この遠出のために、西の隊商頭たちと幾度も段取りを練ってきた。水袋の数。替えの蹄鉄。日の高いうちは歩かない取り決め。砂の道は、西の道とは、歩き方からして違った。
「マレーナさん」ヴィンスが、前方を指した。「あれです」
マレーナは彼の指の先を見た。
岩の谷間に、町があった。
高い岩壁に挟まれた、細い谷の底に、町が一つ、貼りついていた。
日干しの土の家が、岩の色とほとんど同じ色をして、重なり合っていた。その中央に、一本の道が通っていた。谷の東の口に、石を積んだ門があった。門の両脇に、人影が立っていた。
「関門都市メルヴ」マレーナは言った。
ヤルノが、符牒帳に書かせた名だった。東の入口。関守一族の町。荷の二割から三割を取る関。
頭の三行の一つが、今、砂の上に、実物として立っていた。
「あの門しか、ないな」レオが言った。
彼は谷の左右の岩壁を見上げた。切り立っていて、登れそうになかった。
「岩が、壁になっている」彼は言った。「谷の底を抜けるには、あの門を通るしかない。脇に逸れる道がない」
「ヤルノの言った通りです」マレーナは言った。「一本道の、関」
彼女は谷を見た。岩が、両側から道を挟んでいた。人の手で作った壁ではなかった。けれど、人の手で作った壁より、ずっと頑丈だった。
動かせない関だ、とヤルノは言った。その意味が、掌に乗るように分かった。
二人と隊商は、谷を下りて、門へ近づいた。
近づくほど、町の匂いが濃くなった。香辛料の匂い。動物の匂い。それから、嗅いだことのない、何かを焼く匂い。広場で嗅いだ胡椒の匂いの、もとがここにあった。
門の前に、卓が一つ、出されていた。
卓の向こうに、男が座っていた。
恰幅のいい、髭の濃い男だった。
頭に大きな巻き布を巻き、指に厚い金の輪をいくつもはめていた。卓の上に、肘を置いて、近づく隊商を、目だけで追っていた。座ったまま、立ち上がりもしなかった。
「あれが」レオが、低く言った。「関守か」
「たぶん」マレーナは言った。
男の脇に、武器を持った者が、四、五人立っていた。けれど、男自身は、武器を持っていなかった。座って、肘を置いて、ただ待っていた。
待っているだけで、荷の二割が落ちてくる男の座り方だった。
マレーナは卓の前に立った。
男は彼女を見た。それから、その後ろの隊商を見た。荷馬車。馬。荷の梱。男の目が、荷の数を数えた。商人の目だった。値踏みする目だった。
「西の隊商か」男が言った。
訛りの強い、けれど聞き取れる言葉だった。東西の隊商を相手にしてきた関守の言葉だった。
「ええ」マレーナは言った。「西から来ました」
「珍しい」男が言った。「西の女が隊商を連れて、ここまで来るのは」
彼は卓の上で、指の輪を、ひとつ、回した。
「わしは、ジャマル」彼は言った。「メルヴの関を、預かっている」
「マレーナです」彼女は言った。「トルプ商会の――」
言いかけて、彼女は、止めた。
トルプ商会。十年、その名で商ってきた。けれど、その名は、もう自分のものではなかった。兄の手にあった。彼女が今、背に負うのはハルダーと並ぶ、二人の名の路だった。
「オーレンから来た、交易の差配です」彼女は、言い直した。
「差配」ジャマルが言った。
彼はその言葉を、舌の上で転がすように言った。それから、目を細めた。
「お前は」彼は言った。「誰の血筋だ」
マレーナはその問いを、聞いた。
「血筋」彼女は言った。
「そうだ」ジャマルが言った。「東で商うなら、まず血筋だ。お前の一族は、どこの誰だ。父は誰だ。祖父は誰だ。――その血が、東のどの一族と誓いを交わしている」
マレーナは答えに、詰まった。
西では、聞かれたことのない問いだった。西では、握手を交わし、記録を見せ、信用を積めば、それで路が繋がった。父が誰かなど、問われなかった。
「わたくしの父は」彼女は言った。「西の、交易商でした。トルプ伯爵といって――」
「知らんな」ジャマルが言った。
ひと言だった。
「東の一族で、トルプという名を聞いたことはない」彼は言った。「お前の父は東のどの一族と、血の誓いを交わしている」
「……交わしては、いません」マレーナは言った。
「では」ジャマルが言った。「お前は、誰でもない」
彼はそう言って、また指の輪を回した。
「血の外の者だ」彼は言った。「東では、血の外の者は商人ではない。ただの、通りすがりだ」
マレーナはその言葉を、聞いた。
誰でもない。血の外の者。通りすがり。――十年、彼女が西で積んできたものが、その三つの言葉の前で、音もなく崩れた。
彼女は懐から、符牒帳を取り出した。
角のすり減った、手擦れの帳面だった。十年の握手が、一行ずつ、刻まれていた。西で、これを開けば、たいていの相手は黙った。記録が、信用を証した。
「これを」彼女は言った。「ご覧ください。わたくしが十年、西で交わしてきた取引の記録です。ゴット親方。隊商頭たち。一つずつ、握手で結んだ路の――」
「紙だな」ジャマルが言った。
彼は帳面を、見もしなかった。
「西の者は」ジャマルが言った。「すぐ紙を出す。証文だの、記録だの。――東では、紙を信じない」
「これは」マレーナは言った。「ただの紙では」
「紙だ」ジャマルが言った。「誰が書いた紙か、東の誰が知っている。お前が一人で書いた紙を、わしがなぜ信じる」
彼は初めて、身を乗り出した。
「東で信じられるのは」彼は言った。「血と、誓いだけだ。父から子へ、血で繋いだ約束だけだ。お前の紙には血が一滴も流れておらん。だから、ただの紙だ」
マレーナは符牒帳を、握ったまま、立っていた。
掌に、帳面の角が当たっていた。十年、すり減らしてきた角だった。西では、この角が、信用の重みを掌に伝えた。けれど今、その角は、何の重みも、相手に伝えていなかった。
西では、握手が人を量った。記録が信用を証した。銀が決済を済ませた。
ここでは、その三つとも、通じなかった。
握手は、血の外の手だった。記録は、血の流れぬ紙だった。そして銀は――まだ、その先があった。
「で」ジャマルが言った。「お前は、何を運んでいる」
「西の品です」マレーナは言った。「塩。鉄。毛織。それから――東で、香辛料と薬種を仕入れて、西へ持ち帰るつもりです」
「香辛料を、買う」ジャマルが言った。「銀で、か」
「ええ」マレーナは言った。「銀で、払います」
ジャマルがにやりと、笑った。
その笑いを、マレーナは、見た。商人を何百人も値踏みしてきた男の笑いだった。獲物を見る笑いだった。
「ならば」ジャマルが言った。「関を通る荷から、二割をいただく」
「二割」レオが、初めて口を開いた。「荷の二割を、関で取るのか」
「そうだ」ジャマルが言った。彼はレオをちらと見た。「西から来た、お前の連れの男も商人か」
「レオ・ハルダーだ」レオが言った。
「ハルダー」ジャマルが言った。「それも、知らん名だ」
ハルダー、とマレーナは、胸の内で思った。
西では、ハルダーは、隣領一の豪商の名だった。資本も、隊商も、伝手も持つ名だった。けれど東では、その名も、トルプと同じだった。聞いたことのない、知らない名。ただの、よそ者の二人組。
大商会連合の総帥ヴェルナーでさえ、ここでは血筋を問われるのだろう。
西で築いた看板は、関の手前で、すべて置いてこなければならなかった。
「二割は」マレーナは言った。「高すぎます」
「高くない」ジャマルが言った。「みな、払う。お前の前の隊商も、その前の隊商も、二割を払って通った。――嫌なら、通らねばいい」
「別の路は」マレーナは言った。
「ない」ジャマルが言った。「東へ抜けるには、メルヴの関しかない。お前も、もう見ただろう。あの岩を」
彼は谷の両側の岩壁を、顎で示した。
「あれを、お前が登れるなら、登れ」彼は言った。「登れんなら、ここを通る。ここを通るなら、二割だ」
マレーナはその言葉の、構造を見た。
関守は、何も作っていなかった。何も運んでいなかった。岩の谷間に、座っているだけだった。けれど、東へ抜ける路が一本しかないから、その一本に座る者の前を、すべての荷が通った。
ゴット親方は、塩を掘っていた。オトマルの谷は、毛織を織っていた。物を作る者は、信用で繋げた。けれどこの男は、何も作っていなかった。ただ、路の細いところに、座っていた。
座っているだけで、二割が落ちる。
それが、関守の利だった。
「ジャマル殿」マレーナは言った。「一つ、お訊きします」
「何だ」
「あなたは」マレーナは言った。「なぜ、銀を運ぶ隊商しか、通さないのですか」
ジャマルの、指の輪を回す手が、止まった。
彼は初めて、マレーナの顔を、まともに見た。値踏みでも、嘲りでもない目だった。少し、警戒する目だった。
「妙なことを訊く女だ」彼は言った。
「東で品を買うには、銀が要ります」マレーナは言った。「だから東へ向かう隊商は、みな銀を積みます。あなたはその銀の通る量で、二割を量っている。――関守の利は、銀の流れに結びついている。違いますか」
ジャマルが答えなかった。
答えないことが、答えだった。
マレーナはその沈黙を、聞いた。算盤の珠が、頭の中で、ひとつ、傾いた。
「銀が、関を通る」彼女は言った。「だから、あなたは座っているだけで利を得る。銀の流れの細いところに、座っているから」
「だから、何だ」ジャマルが言った。
彼の声に、初めて、固さが混じった。
「いえ」マレーナは言った。「ただ、確かめただけです」
彼女はそれ以上、言わなかった。
まだ、何も見えていなかった。ただ、関守の利が、銀の流れに結びついている、ということだけが、掌に乗った。それが何になるのか――その先は、砂の上に、まだ、影も差していなかった。
「レオ」彼女は、小さく言った。
「ああ」
「この人は」彼女は言った。「銀がここを通ることで、暮らしている人です。銀の量が、この人の利です」
「だから」レオが言った。「銀の流れを握れば、この男の利の前提が崩れる、と」
「分かりません」マレーナは言った。「まだ。けれど――引っかかりました」
彼女は符牒帳の角を、指の腹で撫でた。けれど、書かなかった。書くには、まだ、影が薄すぎた。
ジャマルが卓の上で、両手を組んだ。
「西の女」彼は言った。「お前は、口が回る。だが、口で関は通れん」
「ええ」マレーナは言った。
「二割を払うか」彼は言った。「払わぬなら、引き返せ。どちらかだ。――それとも」
彼はそこで、言葉を切った。
マレーナと、その後ろの隊商を、もう一度、ゆっくりと、見回した。荷馬車。馬。荷の梱。それから、二人の腰のあたりを。
「お前たち」ジャマルが言った。「銀を、積んでいるか」
マレーナは答えなかった。
ジャマルがにやりと、笑った。さっきの、獲物を見る笑いだった。
「積んでいるな」彼は言った。「香辛料を買うと言った。銀がなければ、買えん。お前たちは、銀を積んでいる」
彼は身を乗り出した。
「ならば、言っておく」ジャマルが言った。
彼は卓の向こうから、マレーナの目を、まっすぐに、見た。
「銀を積めぬ者は」彼は言った。「通さぬ」
マレーナはその言葉を、聞いた。
「銀を積んでいる者だけが」ジャマルが言った。「東で品を買える。だから、銀を積んでいる者だけを通す。――銀を積まぬ隊商など、東へ行く意味がない。物乞いと同じだ。関は、物乞いは通さぬ」
マレーナは立っていた。
砂が、足元で、乾いた音を立てた。
銀を積めぬ者は、通さぬ。――銀を積んでいる者だけが、関を通れる。
けれど、と彼女は思った。けれど、ヤルノは言った。銀を積んだ隊商が、高原で盗賊に狙われる、と。仲間を一人、砂に埋めた、と。
銀がなければ、関を通れない。
銀を積めば、盗賊が来る。
二つが、砂の上で、噛み合った。
「レオ」彼女は言った。
「ああ」
「ヤルノの言ったことを」彼女は言った。「覚えていますか。三つの壁を、別々のものだと思っていました。関と、盗賊と、血。三行の、別々の壁だと」
「ああ」レオが言った。
「違いました」マレーナは言った。「三つは、噛み合っています」
彼女は谷の奥の、町を見た。土の家が、岩に貼りついていた。その向こうに、まだ越えていない高原が、広がっていた。
「関は」彼女は言った。「銀を積めぬ者を、通さない。だから東へ行くには、銀を積むしかありません。けれど――銀を積めば、高原で盗賊が狙う」
「銀がなけりゃ通れず」レオが言った。「銀を積めば狙われる」
「ええ」マレーナは言った。「袋小路です」
彼女は符牒帳を、握ったまま、立っていた。
西では、いつも、どこかに抜け道があった。旧書式には記録があり、看板の罠には握手があった。けれど今、抜け道が、見えなかった。関も、盗賊も、血も、すべてが噛み合って、一つの壁になっていた。
「マレーナ」レオが言った。
彼は襟の銅貨に、手を伸ばしかけた。それから、止めた。塞がった腕の癖だった。考えるときの癖だった。
「引き返すか」彼は言った。
マレーナは彼を見た。
「ヤルノの言った通りだ」レオが言った。「誰も拓けん、と。資本のある大商会でも、剣のある連中でも。――俺たちの紙と握手で、どうこうできる場所じゃないかもしれん」
マレーナはすぐには、答えなかった。
関守ジャマルが、卓の向こうで、二人を見ていた。引き返すか、二割を払うか。どちらかを待つ顔だった。何百回も、その顔で、隊商を見送ってきた顔だった。
マレーナは砂を、もう一度、掌に掬った。
ぬるくて、乾いて、握ってもこぼれていく砂だった。西の土とは、まるで違った。指先が読むものが、何もなかった。
けれど、と彼女は思った。
「引き返しません」彼女は言った。
「マレーナ」
「まだ」彼女は言った。「何も、試していません。二割を払うか、引き返すか――その二つしか、わたくしは、まだ試していません」
彼女は掌の砂を、地に落とした。さらさらと、影もなく落ちた。
「この袋小路に」彼女は言った。「本当に、出口がないのか。それを、まだ確かめていません」
ジャマルが卓の上で、声を立てて、笑った。
「西の女」彼は言った。「お前は、面白い。だが、出口はない。何百年も、誰も見つけられなかった出口を、お前が見つけられると思うな」
「ええ」マレーナは言った。「見つけられないかもしれません」
彼女はジャマルを、見た。それから、関の門を見た。
石を積んだ古い門の、要石に、紋が一つ、彫られていた。風と砂に削られて、半ば消えかけていた。けれど、辛うじて読めた。
天秤の紋だった。
左右に、皿が一つずつ。真ん中に、支点が一つ。
ものを量る、秤の形だった。
マレーナは母から受け継いだ、銀の天秤の留め金を、腰帯に下げていた。十年、それを下げて、西の路を渡ってきた。秤は、商人の道具だった。物を量り、値を量り、信用を量る道具だった。
その同じ秤が、この東の関の門に、彫られていた。
西も、東も、商人は、秤で量る。けれど――この門の秤が量っているのは、二割の通行料だった。物でも、信用でもなく、ただ、座って取る利だった。
「ジャマル殿」マレーナは言った。
「何だ」
「今日は」彼女は言った。「引き返しも、払いもしません。一晩、考えさせてください」
「好きにしろ」ジャマルが言った。「関の手前で、野宿でもするがいい。考えても、答えは変わらん。――銀を積めぬ者は、通さぬ。それだけだ」
彼はまた、指の輪を回した。話は終わりだ、という仕草だった。
マレーナは隊商のほうへ、歩いて戻った。
ヴィンスが不安そうに、彼女を見た。レオが、その隣を、黙って歩いた。
関の門が、背後に立っていた。要石の、削れた天秤の紋が、夕日に、薄く照らされていた。
砂が、足元で、乾いた音を立てた。掌には、まだ、ぬるい砂の感触が、残っていた。
西の十年が、ここでは、一枚の紙の重みもなかった。握手も、記録も、銀の決済も、すべて、関の手前で、力を失っていた。
けれど、と彼女は思った。けれど、出口がないと、まだ、決まったわけではない。
その夜、二人は、関の手前の岩陰に、火を焚いた。
高原の夜は、昼と打って変わって、冷えた。砂が、夜には冷たくなった。マレーナは、その冷たい砂に、指を当てた。昼はぬるかった砂が、夜は氷のように冷えていた。
火の向こうで、レオが、馬の世話をしていた。砂の夜の冷えから馬を守るために、布をかけてやっていた。当主の手とは思えない、馬丁の手つきだった。
「マレーナ」彼は、手を動かしながら、言った。
「ええ」
「あんた、さっき妙なことを訊いてたな」彼は言った。「関守に。なぜ銀を積んだ隊商しか通さないのか、と」
「ええ」マレーナは言った。
「あれは」レオが言った。「何だ。ただの嫌味か」
「いいえ」マレーナは言った。「確かめたかったのです」
彼女は火を見た。乾いた草を焚いた火が、ぱちぱちと、爆ぜていた。
「あの関守の利は」彼女は言った。「銀の流れに、結びついています。銀が関を通るから、彼は座っているだけで二割を取れる。――もし銀が関を通らなくなったら。あの人の利は、どうなるでしょう」
レオが馬の世話の手を、止めた。
「銀が、関を通らなくなる」彼は言った。「どうやって。東で品を買うには、銀が要る。銀を運ばなけりゃ、買えん」
「ええ」マレーナは言った。「今は、そうです」
彼女は符牒帳を、膝の上に置いた。けれど、開かなかった。
「結婚した日に」彼女は言った。「ふと口にしたことを、覚えていますか。銀を運ばずに商えないか、と」
「覚えてる」レオが言った。「手形、とか、信用の組合、とか言ってたな」
「あの晩は」マレーナは言った。「ただの、思いつきでした。砂の上に差した、一瞬の影のような」
彼女は火の向こうの、関の門を見た。夜の闇に、門は、黒い影になっていた。
「けれど今」彼女は言った。「その影が、少しだけ形を持ち始めた気がします。――銀を運ばずに商う方法。それがもし本当にあったら。あの関守は、銀の流れを握れなくなる。盗賊も、銀のない隊商を狙う意味がなくなる」
「二つの壁が」レオが言った。「一度に、崩れる」
「もしかしたら」マレーナは言った。「もしかしたら、です」
「だが」レオが言った。「東は、紙を信じない。さっき関守がそう言った。よそ者の紙など、なおさら。銀を運ばない紙の商いなど、ここでは嗤われて終わる」
「ええ」マレーナは言った。「その通りです」
彼女は火を見た。
「銀を運ばない商いを、形にできたとしても」彼女は言った。「それを東の人に信じてもらわなければ、ただの紙です。そして東は、よそ者の紙を絶対に信じません。――そこが、いちばん厄介です」
「行き止まりじゃないか」レオが言った。
「ええ」マレーナは言った。「今は、行き止まりです」
彼女は冷えた砂を、また、掌に掬った。
昼はぬるかった砂が、夜は、氷のように冷たかった。同じ砂が、日の高さで、まるで違う温度になった。西の土は、こんなふうに、極端には変わらなかった。
「この土地は」彼女は言った。「何もかも、西とは違います。土の温度も、人の信じるものも、商いの作法も。――わたくしの十年が、ここでは本当に紙くずなのか。それとも、通じる形を作れるのか」
彼女は掌の砂を、握った。指の間から、冷たい砂が、こぼれていった。
「まだ、分かりません」彼女は言った。「けれど、確かめます。引き返すのは、確かめてからです」
レオが馬の世話を、終えた。
彼は火のそばに、戻ってきた。マレーナの隣に、腰を下ろした。乾いた草の燃える匂いに、馬と藁の匂いが、混じった。厩仕込みの匂いだった。
「あんたは」彼は言った。「いつも、そうだ。誰も見てないものに、先に手を伸ばす。十年前から、ずっと」
「読み違えることも、あります」マレーナは言った。「ここで、読み違えるかもしれません」
「ああ」レオが言った。「かもしれん。――だが、確かめるんだろう」
「ええ」マレーナは言った。
火が、ぱちぱちと、爆ぜた。
関の門が、夜の闇の中に、黒く立っていた。要石の、削れた天秤の紋は、もう、見えなかった。けれど、そこにあるのは、分かっていた。何百年も、東西の隊商の荷を量ってきた、古い秤の紋。
その秤が、量っていたのは、二割の通行料だった。座って取る利だった。
マレーナはその門を、しばらく見ていた。
いつか、と彼女は思った。いつか、あの門の秤に、別のものを量らせることが、できるだろうか。通行料でも、銀でもない、何か別のものを。
まだ、形はなかった。砂の上の、冷たい影だけが、そこにあった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第五十話「関門都市メルヴ」。二人が、いよいよ東の路へ踏み出す話です。
前の話で、マレーナは地図の白い余白に、関の手前で途切れる一本の線を引きました。この話では、その線を実際に砂の上で辿ります。辿り着いた先で待っていたのは、西とはまるで違う砂と岩の高原と――最初の壁、関門都市メルヴの関でした。
書いていて意識したのは、マレーナの「十年の武器」が、ここで初めて効かなくなることでした。西では符牒帳を開けば相手が黙り、記録が信用を証し、握手が人を量りました。けれど東の関守は、彼女の紙を見もせず「お前は誰の血筋だ」と問います。トルプも、ハルダーも、東では知らない名。多くの路を束ねてきた差配が、ここではただの「よそ者」です。
それでも彼女は、関守をただ恐れるのではなく、観察します。「なぜこの人は、座っているだけで利を得られるのか」「銀の流れと、関守の利は、どう結びついているのか」。これは、まだ答えにはなりません。けれど、後の話で芽吹くものの、いちばん最初の種です。
そして、彼女は気づきます。三つの壁が、別々のものではなく、噛み合っているということに。銀を積まなければ関を通れず、銀を積めば盗賊が狙う。袋小路です。この袋小路に、本当に出口がないのか――それを、彼女は、まだ確かめていません。
次の話、二人は、東の砂で、一人の女隊商長と出会います。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第三巻、東の路へ。十年の武器が通じない砂の上で、マレーナの本当の「先見の明」が、ここから試されます。
☆評価・ブックマーク・ご感想をいただけると、次の話を書く手が速くなります。




