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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第35話: 北と南が、信用で繋がる

 戻ってきた橇の縄を解いた瞬間、マレーナの掌に、湿った麻の重さが落ちてきた。


 谷を出た橇が、南で品を積み替え、また北へ戻ってきた。その縄だった。十日前、谷の毛を載せて下っていった同じ橇が、今は塩樽と鉄と革を載せて、戻ってきていた。


「往って」マレーナは言った。「帰ってきました」


「ああ」レオが、隣で縄の結び目を解いた。「片道も、空にしなかったな」




 谷の口に、橇が止まっていた。


 雪は、まだ谷を覆っていた。けれど、道の真ん中だけは、踏み固められて黒く湿っていた。橇の鈴の音を聞きつけて、谷の者が織り小屋から出てきていた。


 十日前、谷の毛を載せた橇が、ここから南へ下りていった。その橇が今朝、北へ戻ってきた。荷台には、南の塩樽が三つ。鉄の塊を包んだ油布。なめした革の束。そして、空でない布袋がいくつも。


「これが」谷の年嵩の男が、橇の荷を覗き込んだ。「南の、品か」


「ええ」マレーナは言った。「谷の毛が南で売れた。その分が塩と鉄と革になって、戻りました」


 男は、塩樽に手を当てた。それから、その手を、ゆっくりと引いた。


「谷の毛が」男は言った。「塩に、なって帰ってきた」




 橇を引いてきた隊商頭が、マレーナへ一枚の紙を差し出した。


 南のオーレンの、ヴィンスからの控えだった。谷の反物が幾反、誰の手に渡ったか。その代わりに塩が幾樽、鉄が幾本、北へ向かったか。一行ずつ、几帳面な字で記されていた。


「ヴィンスが」隊商頭は言った。「これを、必ず谷の差配へ渡せと」


 マレーナは、その控えを受け取った。指先が、紙の几帳面な折り目を読んだ。ヴィンスらしい折り目だった。父ドルフに面と向かって褒められなかった男の、人を疑わせない折り目だった。


「ニナ」マレーナは、戸口の奥へ呼んだ。「あなたの反物がどこへ行ったか、控えがあります」


 ニナが、織りかけの手を止めて、駆けてきた。




「あたしの」ニナは言った。「反物の、行き先」


「ここに」マレーナは、控えの一行を指した。「あなたが名をつけた一反。南のオーレンで、ある乾物商が買いました。ベルクという人です」


「ベルク」ニナは、その名を、口の中で繰り返した。


「寒い土地へ送る荷に」マレーナは言った。「混ぜたそうです。あなたの一反はオーレンより、もっと北寄りのどこかへ行きました。雪の深い、別の谷かもしれません」


 ニナは、控えの一行を、食い入るように見ていた。読めない字だった。けれど、その一行のどこかに、自分の織った反物の行き先が書いてある。それだけで、彼女の目は離れなかった。


「あたしの反物が」ニナは言った。「あたしの知らない谷の誰かを、暖めてる」


「ええ」マレーナは言った。「今ごろ、肩に掛けられているかもしれません」


 ニナは、自分の手を、見た。冬の水で赤くひび割れた、織りの手だった。


「届いたんだ」ニナは、小さく言った。「ほんとに」




 橇から、塩樽が下ろされた。


 谷の暮らしに、塩はずっと足りていなかった。辺境伯の専売が南の塩を絞り、谷には薄い塩しか回ってこなかった。今、その塩樽が三つ、織り小屋の前に下ろされた。


 オトマルが、織り小屋の戸口に立っていた。


 白く濁った左目で、下ろされた塩樽を見ていた。それから、その隣に積まれた谷の織機の音を聞いた。十日前より、機を打つ音が、増えていた。


「マレーナさん」オトマルは言った。


「はい」


「あの橇は」老人は言った。「谷の毛を運んでいった。そして塩を積んで戻った。——同じ橇が、だ」


「ええ」マレーナは言った。「往きに毛を、帰りに塩を。一つの橇が北と南を、二度通ります」


 オトマルは、しばらく塩樽を見ていた。


「二十数年」老人は言った。「谷に来る橇は、いつも空で来た。谷の毛を安く積んで、空で帰る橇か——あの冬のように、来ると言うて来ない橇か。どちらかだった」


 彼は、塩樽に、痩せた手を置いた。


「毛を積んで来て、塩を積んで帰る橇は」オトマルは言った。「初めて、見た」




 その日の昼過ぎ、カルン市から、一人の商人が谷へ上ってきた。


 ザイツだった。カルン市の毛織商で、レオの父の代から細く付き合いのある男だった。谷の窮状を遠くから案じ、王都のザイツ宛にレオへ文を送ったのも、この男だった。


「ザイツどの」レオが、戸口に出た。「わざわざ、谷まで」


「橇が谷へ戻ったと聞いた」ザイツは言った。「南の塩を積んで、な。カルン市でも、その話で持ちきりだ」


 彼は、谷の口に止まった橇を見た。下ろされた塩樽を見た。それから、織り小屋の方を見た。機を打つ音が、いくつも漏れていた。


「半月前まで」ザイツは言った。「この谷は、死にかけていた。羊が死に、毛が売れず、辺境伯に絞られて。——それが、どうだ。橇が往って、塩を積んで帰る」


 彼は、マレーナを見た。値踏みする目だった。けれど、敵意ではなかった。


「あんたの紙だな」ザイツは言った。「前貸しの、信用状とやらの」




「ええ」マレーナは言った。「谷が冬を越せるよう、来季の毛を先に買い取る約束です。銀のない谷に、信用で先に銭を出す紙です」


「銀のない者に、信用で先に出す」ザイツは、その言葉を繰り返した。「そんな紙は、聞いたことがない」


「まだ」マレーナは言った。「どこにもありません」


 ザイツは、しばらく黙っていた。それから、思い切ったように、口を開いた。


「マレーナ殿」彼は言った。「一つ、頼みがある」


「何でしょう」


「その紙を」ザイツは言った。「わしにも、一枚、回してくれんか」


 マレーナの指が、符牒帳の角で、わずかに止まった。




「わしも」ザイツは言った。「谷の毛を扱いたい。カルン市で谷の織りを売りたい。——だが、谷はわしを信じん。カルン市の商人は、谷を絞る辺境伯と同じ側だと思われとる。わしが谷へ頼みに行っても、戸を閉められる」


 彼は、織り小屋を見た。


「だが」ザイツは言った。「あんたの紙があれば、違う。あんたが谷に信じられとる。その信用の紙をわしが一枚持っていれば——わしも谷へ毛を頼める。あんたの信用を借りる形で、な」


 マレーナは、その言葉を、聴いた。


 聴きながら、掌の奥で、輪郭のなかったものが音もなく形を取り始めるのを感じた。




「お待ちください」マレーナは言った。「ザイツどの。今あなたは——わたくしの信用を借りる、とおっしゃいました」


「ああ」ザイツは言った。「言葉が過ぎたか」


「いいえ」マレーナは言った。「過ぎていません。むしろ、その逆です」


 彼女は、言葉を切った。


 符牒帳を、胸の前で持ち直した。角の手擦れが、掌に触れた。


「ザイツどの」マレーナは言った。「わたくしの信用状は、谷とわたくしの、二人の約束です。谷が毛を出し、わたくしが銭を出す。その二人だけの紙でした」


「ああ」


「けれど」マレーナは言った。「今あなたは、その紙を一枚譲ってほしいと言った。あなたが持てば、あなたも谷と商える。——つまり、わたくしの信用が紙に乗ってあなたへ移る」


 ザイツは、よく分からないという顔をした。


「移る」彼は言った。「信用が紙に乗って」


「ええ」マレーナは言った。「人から、人へ」




 レオが、マレーナを見ていた。


 彼女の声が、いつもと少し違うことに、気づいていた。商談の声でも、谷を案じる声でもなかった。何か、新しいものの輪郭を、指先で確かめている声だった。


「マレーナ」レオは言った。「どうした」


「レオ」マレーナは言った。「考えてください」


 彼女は、橇を指した。塩を積んで戻ってきた橇を。


「今、谷とわたくしの間に一枚の信用状があります」マレーナは言った。「これは二人の約束です。けれど、もしこの紙が第三者へ譲り渡せる紙だったら——どうなりますか」


「譲り渡せる」レオは言った。


「ザイツどのがこの紙を一枚持てば、ザイツどのも谷と商える」マレーナは言った。「ザイツどのが、また別の誰かへ譲れば、その人も谷と商える。——信用が谷とわたくしの二人を離れて、紙の上を渡り歩く」


 レオの目が、わずかに見開かれた。




「待て」レオは言った。「それは——その紙さえあれば、あんたがいなくても、谷と商えるということか」


「ええ」マレーナは言った。


「あんたの十年の握手がなくても」レオは言った。「紙が握手の代わりをする」


「いいえ」マレーナは静かに首を振った。「握手の代わりではありません。握手を運ぶのです」


 彼女は、符牒帳を開いた。十年、人の名を刻んできた帳面だった。


「わたくしの握手は」マレーナは言った。「わたくしの手の中にしかありません。わたくしが谷へ行かなければ、谷とは繋がれない。けれど、もし信用が紙に乗って人から人へ渡れるなら——わたくしの一つの握手が、十人、百人の商いを繋ぐ紙になります」


「百人の」レオは言った。


「わたくしの体は一つです」マレーナは言った。「十年かかって結べた握手は、数えるほどです。けれど、紙なら——わたくしが眠っている間も、谷の信用を誰かへ運べる」




 マレーナは、雪の谷を見た。


 織り小屋から、機を打つ音がいくつも上がっていた。その奥で、雪解けの水が岩の間を細く流れる音がしていた。機の音と水の音が、谷の底で一つに重なっていた。


「ザイツどの」マレーナは、ザイツへ向き直った。「今日、その紙はお渡しできません。まだ、わたくしの頭の中にしかない仕組みです。けれど——」


「けれど」


「いつか」マレーナは言った。「あなたが谷と商える紙を、お渡しします。あなたが持てば、あなたも谷の冬を支えられる。あなたがまた誰かへ渡せば、その人も。——信用が人から人へ渡り歩く紙を」


 ザイツは、半ば呆れ、半ば惹かれた顔で、マレーナを見ていた。


「あんたは」彼は言った。「谷を一つ救うだけでは、足りんのか」


「足りません」マレーナは言った。声に、迷いはなかった。「谷はたくさんあります。カルンにも、その奥にも。北にも、南にも。——一つずつ握手して回るには、わたくしの手が足りません」




 ザイツが帰った後、マレーナは、橇の脇で長いあいだ立っていた。


 レオが、隣に来た。


「あんたの頭の中で」彼は言った。「何かが、組み上がったな」


「ええ」マレーナは言った。


「聞いても」レオは言った。「いいか」


 マレーナは、符牒帳を開いた。新しい頁に、炭で、ひとつの図を描いた。谷と、自分と、ザイツ。三人を、線で繋いだ。その線の上に、一枚の紙を置いた。


「これまで」マレーナは言った。「信用は人と人の間に、握手でしかありませんでした。わたくしと谷。わたくしとゴット親方。一つずつ、わたくしの手で結ぶしかなかった」


「ああ」


「でも、この紙は」マレーナは図の上の紙を指した。「谷を生かし、辺境伯の蔵を回し、南と北を繋ぎました。一枚の紙が、これだけのものを動かした。——なら、この紙を人から人へ渡れる紙にすれば」


 彼女は、図の線を、ザイツの先へ、もう一本伸ばした。


「ザイツから、また別の商人へ。その商人から、また次へ」マレーナは言った。「わたくしの信用が紙に乗って、大陸を渡り歩きます。わたくしが行ったことのない谷も、会ったことのない商人も、この一枚で繋がる」




「これは」マレーナは言った。「谷だけの話では、ありません」


 彼女は、図を見下ろした。


「谷を救うために組んだ紙です。けれど、この紙の仕組みそのものに——値があります」


 レオは、その図を、長いあいだ見ていた。


「あんたは」彼は、低く言った。「谷の冬を、一つ越えさせた。それだけだと思っていた。だが——」


「ええ」マレーナは言った。「これは谷の冬の話ではなく、もっと大きな何かの、最初の一枚かもしれません」


 彼女は、その図の上に、掌をそっと置いた。


 まだ、形のない仕組みだった。名前もなかった。けれど、谷を生かした一枚の紙が、もっと遠くまで届く器になりうると、彼女には見えていた。十年、人の握手を一つずつ手で結んできた女が、初めて、握手を紙に乗せて遠くへ送る道を見ていた。




「レオ」マレーナは言った。「あなたは笑いますか」


「何を」レオは言った。


「まだ、どこにもない紙の話です」マレーナは言った。「谷の冬も越えきっていないのに、わたくしは大陸じゅうの谷を繋ぐ紙の話をしています。——絵草紙だと、笑いますか」


 レオは、襟の銅貨に手をやった。


 けれど、押さえるためではなかった。指先で、その縁を、一度なぞった。


「俺は」彼は言った。「十年、あんたの絵草紙に負け続けた」


「絵草紙」


「競りの前の晩」レオは言った。「あんたが何を出してくるか、考えるのが面白かった。いつも俺の一歩先で、まだ誰も描いていない絵を描いていた。八枚の信用も、往復の路も、谷の前貸しも。——最初はみな、絵草紙だった」


 彼は、マレーナの炭の図を見た。


「だが」レオは言った。「あんたの絵草紙は、いつも後で本物になる」




 マレーナは、その言葉を、聴いた。


 レオは、自分の図を褒めていた。彼女の先を読む目を、十年負け続けたその目を、讃えていた。


 いつもなら、ここで胸が温かくなる。けれど、今日は、その温かさの底に、小さな棘があった。


(この人は)


 マレーナは、思った。


(わたくしの、目を讃えている)


 レオが見ているのは、いつも彼女の目だった。先を読む差配の目。絵草紙を本物に変える商才。それは、父が彼女を愛した、あの愛し方と、よく似ていた。父も、彼女の目を愛した。お前の目は、わしより先を読む、と。


 目を讃えられるたびに、嬉しさの裏で、いつも同じ問いが微かに起きた。


(この人が隣にいたいのは、わたくしの目なのか。それとも、わたくしなのか)


 けれど、マレーナは、その問いを、いつものように、奥へしまった。今は、それを問う時ではなかった。図の上の紙が、まだ温かい。仕組みが、まだ動き出したばかりだった。


「ありがとうございます」マレーナは言った。「では、この絵草紙も、本物にします」


「ああ」レオは言った。「俺は隣で荷を出す」




 夕方、ニナが、織り小屋から駆けてきた。


「マレーナさん」ニナは言った。「来季の毛の約束が増えました」


「増えた」


「谷の別の織り手も」ニナは言った。「前貸しの紙に、名前を入れてほしいって。あたしが訳して教えたから。みんな自分の名を、南へ出したいって」


 マレーナは、符牒帳を開いた。


 十日前、十七人だった谷の名が、今日、二十三人に増えていた。ニナが、谷の言葉で訳して回った成果だった。マレーナが外から差し出すのではなく、ニナが内側から書いた名だった。


「ニナ」マレーナは言った。「あなたが谷の符牒帳を書いていますね」


「あたしが」ニナは、頬を赤くした。「まだ、下手だけど」


「下手でも」マレーナは言った。「あなたが書いた名は谷のものです。わたくしが書いた名より、ずっと谷のものです」


 ニナは、自分の手を見た。それから、織り小屋を振り返った。機を打つ音が、まだ続いていた。


「あの音」ニナは言った。「今日、いつもより多いんです」


「ええ」マレーナは言った。


「みんな」ニナは言った。「自分の名を南へ出したくて、織ってるんです」




 日が、谷の縁に沈もうとしていた。


 マレーナは、戸口に立って、谷を見ていた。


 雪は、まだ残っていた。けれど、谷の道の真ん中は黒く湿り、軒の下では氷柱の先から雫が落ちていた。雫が落ちるたび、軒下の雪に小さな穴が穿たれていった。


 織り小屋の機の音と、雪解けの水音が、谷の底で重なっていた。


 谷の底で、二つの音がひとつの水に溶けていった。


 オトマルが、戸口の柱に、痩せた手を置いていた。


「あの音が」老人は言った。「戻ってきた」


「機の音、ですか」マレーナは言った。


「いや」オトマルは言った。「雪解けの音だ。冬のあいだ、谷は凍って音がせん。雪が解け始めると、谷じゅうで水が鳴り出す。——あの冬から、わしはこの音を恐れていた」


 彼は、軒の雫を見た。


「雪解けの音は」オトマルは言った。「冬を越せたか越せなんだかが、決まる音だ。あの冬は、この音が鳴る前に谷が飢えた」


 彼は、しばらく黙った。


「今年は」老人は言った。「この音を、恐れずに聞いとる」




 マレーナは、その横顔を見た。


 二十数年、雪解けの音を恐れてきた老人が、今、その音を、恐れずに聞いていた。


「来季の毛を」オトマルは言った。「あんたに先に売った。だから今年は、雪が解けても谷は飢えん。羊を増やす元手がある。小屋を直す木がある。——この谷で雪解けの音が、ただの春の音に戻ったのは、二十数年ぶりだ」


 彼は、マレーナを見た。


「あんたの紙は」オトマルは言った。「谷から、雪解けの音の怖さを取った」


「いいえ」マレーナは言った。「取ったのは、わたくしの紙ではありません。谷が立ったのです」


 オトマルは、答えなかった。


 ただ、軒の雫が雪に落ちる音を、長いあいだ、聞いていた。




 その時だった。


 谷の口の方から、ニナの声が上がった。


「マレーナさん」ニナが、駆けてきた。「隊商が」


「隊商」マレーナは言った。


「谷の道を」ニナは、谷の口を指した。「上ってきます。見たことない隊商です。すごく——立派な」


 マレーナは、谷の口へ目をやった。


 雪解けで黒く湿った北の道を、一つの隊商が、ゆっくりと上ってきていた。


 遠目にも、それは、谷に来る隊商とは違った。馬の数が多かった。荷馬車が、揃って同じ造りだった。馬具が、磨かれて光っていた。護衛らしい馬上の者が、隊列の前後に付いていた。


 谷の貧しい橇とも、オーレンの隊商とも、違っていた。




 マレーナの掌が、符牒帳の角を、わずかに握った。


 あの隊列には、見覚えがなかった。十年、隊商の足音で荷の重さと頭数を言い当ててきた彼女の耳にも、聞いたことのない、揃った蹄の音だった。


 貧しい谷へ上ってくるには、あまりに整いすぎた隊商だった。


「レオ」マレーナは言った。


 レオが、隣に立った。谷の口を上ってくる隊列を見て、その目から、砕けた色が消えた。


「あれは」レオは、低く言った。「谷の馬じゃない。カルンの馬でもない」


 彼は、揃った荷馬車を、見ていた。


「あの揃いの荷馬車は」レオは言った。「金のある商会の馬だ。——それも、かなりの」


 隊商は、雪解けの道を、ゆっくりと、しかし真っ直ぐに、谷へ向かって上ってきていた。


 まるで、谷で何が起きたかを、もう知っているかのように。


 マレーナは、符牒帳を、胸に固く抱いた。


 その角の、すり減った手擦れが、掌に触れていた。けれど今、その掌は、いつもの温かさを読んではいなかった。


 近づいてくる、見慣れぬ蹄の音だけを、聞いていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第三十五話「北と南が、信用で繋がる」。谷の名を載せた初荷が南へ着き、入れ替わりに南の塩と鉄が、谷へ戻ってきました。一つの橇が、往きに毛を、帰りに塩を積む。北と南が、信用状という一枚の紙で、初めて一往復しました。二十数年、谷に来る橇はいつも空で帰るか、来ると言って来ないかだった——とオトマルは言います。毛を積んで来て、塩を積んで帰る橇は、初めてだ、と。


書きたかったのは、その先です。カルン市の毛織商ザイツが、思いがけない頼みを口にします。「あんたの前貸しの紙を、わしにも一枚回してくれんか」。谷とマレーナ二人だけの約束だった信用状を、第三者が欲しがる。その瞬間、マレーナの頭の中で、何かが組み変わります。もしこの紙が、人から人へ譲り渡せる紙だったら——わたくしの一つの握手が、十人、百人の商いを繋ぐ紙になる。


マレーナの体は、一つです。十年かけて結べた握手は、数えるほど。けれど、信用を紙に乗せて運べるなら、彼女が眠っている間も、会ったことのない谷と商人が、一枚で繋がる。「これは、谷だけの話ではありません。仕組みそのものに、値があります」。谷を救うために組んだ一枚の紙が、もっと大きな何かの、最初の一枚になる——この物語が、ずっと先で辿り着く場所の、種が、ここに蒔かれました。


そして、雪解けの谷に、見慣れぬ立派な隊商が一つ、上ってきます。貧しい谷へ来るには、整いすぎた隊商です。まるで、谷で何が起きたかを、もう知っているかのように。次の話から、第二巻の本当の壁が、姿を現します。


◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇


「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。北の谷に春が来て、雪解けの音が、ただの春の音に戻りました。けれど、その道を上ってくる蹄の音は、春のものではありません。


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