第34話: 握り直す手
差し出された荷札の束が、まずマレーナの指先に乗った。
まだ何も書かれていない、薄い木の札だった。けれど掌が、その軽さの先にあるものを読んだ。この一枚ずつに、これから谷の名が一つずつ載る。札は軽い。載るものが、軽くない。
辺境伯が通行料を二割緩めると決めて、二日が経っていた。
城の蝶番は、まだ油を差されていなかった。けれど谷の織機は、もう止まっていなかった。
織り小屋の床に、反物の梱が並び始めていた。
雪明かりの差す土間に、織り上がったばかりの毛織が、巻かれて積まれていく。その隣に、南から運んできた塩樽が二つ。鉄の塊を包んだ油布。革の束。葡萄酒の小樽。北の毛と南の品が、一つの小屋の中で、初めて肩を並べていた。
「これだけ並ぶと」レオが、梱の山を見て言った。「壮観だな」
「往きと、帰りです」マレーナは言った。「南の塩がここまで上がってきて、北の毛がここから南へ下りる。馬車を、片道も空にしません」
彼女は、積まれた反物の一巻に掌を当てた。羊毛の脂の、かすかに温い感触が、指の腹に触れた。
「いい毛、です」マレーナは言った。
言ってから、自分の言い方が、いつのまにかニナに似ていることに気づいた。
ニナが、土間の隅で、若い織り手たちに何か教えていた。
膝に板を置き、炭を握っていた。三日でなく、もう六日、文字を習った手だった。右に傾いた癖は残っていたが、書く線に迷いが減っていた。
「ここ」ニナが、板を指した。「自分の名前。書けたら、この札にも書くの。自分が織った一反に、自分の名前をつけるの」
若い織り手の一人が、ぎこちなく板に名を書いた。書き終えて、自分の書いた線を、しばらく見つめていた。
「これが」その娘が言った。「あたしの、名前」
「うん」ニナは頷いた。「それが、南の人に届く名前」
マレーナは、符牒帳を開いた。
角のすり減った、十年の帳面だった。けれど今、彼女が開いたのは、まだ手擦れのない、真新しい頁だった。
その頁に、谷の名を書いていく。一反ごとに、織り手の名を。反物の番と、織り上がった日と、織った者の名を、一行ずつ。
「マレーナさん」ニナが、寄ってきた。「それ、何を書いてるんですか」
「荷の控えです」マレーナは言った。「どの反物を、誰が織ったか。それを書いておきます。——南で良い反物だと褒められたとき、誰の手柄かすぐ分かるように」
ニナの目が、見開かれた。
「誰が織ったか」ニナは言った。「南の人が、分かるんですか」
「ええ」マレーナは言った。「この帳面と荷札に名があれば。——南でこの一反を買った人が、織った人の名を知ります」
ニナは、自分の手の中の炭を見た。それから、土間に積まれた反物を見た。
「あたしの織った反物にも」ニナは言った。声が、少し掠れた。「あたしの名前が、つきますか」
「つきます」マレーナは言った。「あなたが、つけます」
ニナは、しばらく動かなかった。
それから、積まれた反物の山へ歩いていった。一反、また一反と、巻かれた毛織を見ていった。やがて、その中の一反の前で、止まった。
「これ」ニナは言った。「あたしが、織りました。冬の入りから、ずっと」
誰に言うのでもない声だった。手が、その反物の縁にそっと触れた。
「これに」ニナは言った。「あたしの名前を、つけます」
彼女は、荷札を一枚取った。土間に膝をつき、板で覚えたばかりの線を、慎重に、札へ写した。右に傾いた、下手な文字だった。けれど、一字も間違えなかった。
書き終えて、ニナは、その札を反物に結びつけた。
「届くんだ」ニナは、巻かれた毛織に手を当てたまま言った。「あたしの名前で。雪を知らない、遠い土地の誰かに」
マレーナは、符牒帳の頁に、ニナの名を書いた。
反物の番。織り上がった日。織った者——ニナ。一行が、新しい頁に加わった。十年、塩坑の親方や隊商頭の名を刻んできた帳面に、谷の若い織り手の名が、初めて並んだ。
「これで」マレーナは、その一行を見ながら思った。
符牒帳は、十年、人を看板でなく名で記してきた帳面だった。けれど今日まで、そこに記されたのは、商談の卓に立つ者の名ばかりだった。ガービン。タウン。ゴット。皆、握手を交わす相手だった。
今、その頁に並んでいるのは、握手の卓には立たない者の名だった。雪の谷で機を打つ、文字を六日習っただけの娘の名だった。
名は、看板を持つ者だけのものではなかった。
その当たり前のことを、マレーナは十年かけて、ようやく谷で書いていた。
「マレーナ」
レオが、隣に来ていた。新しい頁を見下ろしていた。
「あんたの帳面に」彼は言った。「織り手の名が、載るのか」
「ええ」マレーナは言った。「南の塩坑の親方の名も、北の谷の織り手の名も、同じ帳面です。——同じ重さで」
レオは、その頁を、しばらく見ていた。
「親父は」彼は、低く言った。「谷の毛を、巻数でしか見ていなかった。何反買って、何銭で売るか。——名で、見ていなかった」
彼の右手が、襟の銅貨に行きかけた。けれど、途中で止まった。彼は、その手を、積まれた反物の方へ伸ばした。ニナが名を結びつけた一反に、大きな手で、そっと触れた。
「あんたは」レオは言った。「巻数を、名に変えたな」
「いいえ」マレーナは言った。「もともと、名でした。誰かが織った一反です。——巻数で数えていたのは、わたくしたちの方です」
レオの口の端が、わずかに上がった。けれど、競りの広間の笑みではなかった。何かを、静かに受け取った顔だった。
奥の壁から、低い唸りが起きた。
オトマルだった。
白く濁った左目を伏せたまま、老人は革前掛けの腰に手を置いて、土間の梱を見ていた。北の毛と南の品が肩を並べて積まれる小屋を、ずっと見ていた。
彼は、ゆっくりと歩み出た。ニナが名を結びつけた一反の前で、足を止めた。
痩せた手を伸ばし、目をつぶって、その反物を指の腹で撫でた。反物の良し悪しを撫でて言い当てる、その同じ手つきだった。
「ニナの織りだ」オトマルは言った。
目を閉じたまま、言い当てた。
「縦糸が、去年より締まっとる」老人は言った。「冬の入りに、根を詰めて織ったな。——指が、覚えとる」
ニナが、頬を赤くした。
「伯父さん」ニナは言った。「目、つぶってるのに」
「手が、見とる」オトマルは言った。
彼は、目を開けた。反物に結ばれた荷札の、ニナの下手な文字を見た。
「この札の名は」オトマルは言った。「お前が、書いたか」
「うん」ニナは言った。「あたしが」
老人は、その荷札を、しばらく見ていた。それから、何も言わず、また喉の奥で低く唸った。
けれどその唸りは、いつもの突き放す唸りではなかった。言葉にならないものを、一つ、喉の奥に押し戻す唸りだった。
梱が、組み上がっていった。
昼を過ぎる頃には、土間の反物がすべて荷の形に積み直され、塩樽と鉄と革の間に、谷の毛織が収まっていた。一つの荷の中で、南の品と北の毛が、信用状という一枚の紙で結ばれていた。
マレーナは、その荷の脇で、符牒帳を閉じた。
「これで」彼女は言った。「南へ出せます」
織り小屋に、いつのまにか谷の者が集まっていた。若い織り手も、年嵩の者も。あの暖炉のそばで「あんたの紙が、あったな」と最初に口を開いた男も、戸口に立っていた。皆が、初めて南へ出る谷の荷を、見ていた。
「差配さん」その年嵩の男が言った。「この荷が、南へ着いたら」
「ええ」マレーナは言った。
「谷の名が」男は言った。「南の人に、届くんだな」
「届きます」マレーナは言った。「一反ずつ。織った者の名で」
男は、しばらく荷を見ていた。それから、節くれだった手で、自分の顎を撫でた。
「長いこと」男は言った。「谷の毛は、買い叩く者にしか、見てもらえなんだ。何反で、なんぼ。それだけだった。——名なんぞ、誰も聞かなんだ」
彼は、荷の上の谷の反物を見た。
「初めてだ」男は言った。「谷の名が、谷の外へ出るのは」
オトマルが、荷の前に立った。
組み上がった谷の荷を、白く濁った左目で、長いあいだ見ていた。
「マレーナさん」老人は、荷を見たまま言った。
「はい」
「この荷は」オトマルは言った。「来季の毛だ。まだ織っとらん毛を、あんたは先に銭で買うた。谷が冬を越せるように、と」
「ええ」マレーナは言った。
「銭を先に出した者は」オトマルは言った。「ふつう、損をする。谷が来季、約束の毛を織れんかったら。羊がまた死んだら。——あんたが、かぶる」
彼は、マレーナを見た。
「あんたは」老人は言った。「谷が織れんかったときの損を、自分でかぶる紙を、谷に出した。なぜだ」
マレーナは、その問いを聴いた。
昨日も、一昨日も、この老人は問いを返してきた。なぜ組んだ。なぜ信じた。問いを重ねるたび、谷の固く閉じた場所が、一つずつ軋んでほどけていくのが、彼女には分かっていた。
「損は」マレーナは言った。「かぶりません」
オトマルの眉が、わずかに動いた。
「谷が冬を越せば」マレーナは言った。「来季、毛が織られます。織られた毛は、南へ出る。南で売れれば、わたくしの路が太る。——わたくしは、谷の損をかぶるのではありません。谷が立つことに、賭けています」
「賭け、か」オトマルは言った。
「ええ」マレーナは言った。「けれど、当てのない賭けではありません。わたくしは、谷の織りを見ました。ニナの反物を見ました。あなたが目をつぶって反物を撫でる手を、見ました。——この谷は、立ちます。わたくしは、それに賭けます」
オトマルは、長いあいだ、何も言わなかった。
やがて、彼は、低く唸った。
「あんたは」老人は言った。「谷を、信じたな」
「ええ」マレーナは言った。「谷が、わたくしたちを信じてくれたように」
オトマルは、革前掛けの腰から、右手を持ち上げた。
一昨日、頭を下げたレオへ差し出した手だった。二十数年、誰の手も握らなかった手が、あの日、初めてレオの手を握った。
けれど今、その手が向かう先は、レオではなかった。
「マレーナさん」オトマルは言った。「あんたの手を、寄越せ」
マレーナは、戸惑った。
「わしは」老人は言った。「一昨日、ハルダーの手を握った。あれは、昔の冬の話だ。済んだ話だ。——だが、この荷は、昔の話じゃない」
彼は、組み上がった谷の荷を、顎でしゃくった。
「これは」オトマルは言った。「これからの冬の話だ。谷と、あんたと、ハルダーが、一緒に組む路の話だ。——昔を赦すのと、これから一緒に組むのは、別の握手だ」
マレーナは、その言葉を、掌で受け取ったように感じた。
一昨日の握手は、贖いだった。傷ついた者が、罪を背負った者をもう一度信じる握手だった。
今、老人が差し出しているのは、別の手だった。これから先の路を、一緒に組む者へ差し出す手だった。
「組むなら」オトマルは言った。「もう一度、握り直す。昔のためじゃない。これからのために」
マレーナは、右手を差し出した。
オトマルの手が、その手を握った。
節くれだった、織りで親指の腹の潰れた手だった。十年、人の握手を掌で量ってきたマレーナの手が、その固さを読んだ。けれど、いつものように、相手が約束を守る気かを量る読み方ではなかった。この手は、もう量る必要がなかった。二十数年閉じていた手が、今、自分から開いて、握りに来ていた。
「重い」マレーナは、思わず言った。
「ああ」オトマルは言った。「二十数年、握らなんだ手だ。重いはずだ」
彼は、わずかに口の端を動かした。笑わない老人の、笑いに最も近い動きだった。
「ハルダーの」オトマルは、握ったまま言った。「お前も、手を出せ」
レオが、戸口から進み出た。
「あんたも」老人は言った。「この路を組むなら、ここで握れ」
レオが、手を伸ばした。
握り合ったマレーナとオトマルの手の上に、レオの大きな手が、重なった。
煤と藁にまみれた、荷馬車の手綱で胼胝の固まった手だった。その手が、織りの老人の手と、十年の符牒帳を握ってきた差配の手を、上から包んだ。
三つの手が、土間の真ん中で、重なった。
マレーナは、その重なりを、掌の真ん中で感じた。
下に、織りの手。真ん中に、自分の手。上に、荷の手。北の谷と、南の路と、その間を繋ぐ自分。三つの手が、一つの荷の前で重なっていた。
一昨日、オトマルとレオの握手は、二人の手だった。赦す手と、赦される手だった。罪と贖いの、向かい合う二つの手だった。
今、重なっている三つの手は、向かい合っていなかった。同じ方を向いていた。これから組む路の方を、三つの手が、揃って向いていた。
「これで」オトマルは言った。
三つ重ねた手の、いちばん下から、老人の声がした。
「谷は」オトマルは言った。「一人で冬を越さんでよくなった」
手が、ほどけた。
オトマルは、自分の手を、革前掛けの腰へ戻した。けれど、もう引っ込めるのではなかった。仕事を終えた手を、置くように戻しただけだった。
「わしは」オトマルは言った。
彼は、土間の谷の者たちを、ゆっくりと見渡した。若い織り手を。年嵩の者を。戸口に立つニナを。
「二十数年」老人は言った。「同じことを、自分に言い聞かせてきた。——もう、谷を飢えさせはせん、と」
マレーナは、その言葉を聴いた。
それは、この老人が、谷の暮らしを背負って唱え続けてきた誓いだった。一人で、頑なに、二度と谷を飢えさせまいと固く握ってきた言葉だった。
「あの言葉を」オトマルは言った。「わしは、一人で背負うものだと思うとった。誰も信じず、誰にも頼らず、わし一人で谷を飢えさせまいと、頑なに握ってきた」
彼は、組み上がった荷を見た。南の塩と、北の毛が、一つに積まれた荷を。
「だが」老人は言った。「一人で握っとったから、あの冬、谷を飢えさせた。一人で、立派な紙を信じてしもうた。——一人は、間違える」
彼は、マレーナを見た。それから、レオを見た。
「もう、谷を飢えさせはせん」オトマルは言った。「だが、今度は、わし一人でじゃない。——この二人と、谷とで、飢えさせん」
織り小屋が、静まった。
暖炉の火の音だけが、残った。
マレーナは、その静けさの中に立っていた。
一昨日、オトマルは「織りは嘘をつかん。人は、つく」と言った。今日、老人は同じ唸りから、別の言葉を取り出していた。誓いの言葉は、二十数年、同じだった。けれど、その背負い方が、今日、変わっていた。一人で握る誓いから、四つの手で握る誓いへ。
「レオ」オトマルが、レオを呼んだ。
二十数年、苗字でしか呼ばなかった男を、初めて名で呼んだ。レオの肩が、わずかに動いた。
「ああ」レオが言った。
「お前に」老人は言った。「谷の、これからの冬を預ける」
レオが、老人を見た。
「父御は谷を見捨てて逃げた」オトマルは言った。「お前は、見捨てんと言うた。——なら、見届けさせてもらう。お前が谷の冬を本当に背負うかどうかを。わしが生きとるあいだ、ずっとだ」
「ああ」レオは言った。声が、わずかに掠れていた。「見届けてくれ」
「逃げたら」オトマルは言った。「わしは、また、お前の名を呪う」
「逃げない」レオは言った。
彼は、襟の銅貨に、手を置いた。今度は、ごまかすためではなかった。
「親父が逃げた冬を」レオは言った。「俺は、二度と谷に来させない。それが、この銅貨を継いだ俺のせねばならんことだ」
日が、傾き始めていた。
組み上がった谷の荷が、橇に積まれた。馬が繋がれ、谷の道を南へ下る支度が整った。
ニナが、自分の名を結びつけた一反の前に、立っていた。橇に積まれたその反物を、じっと見ていた。
「ニナ」マレーナは、その隣に立った。
「マレーナさん」ニナは言った。「あの反物、ほんとに、南へ行くんですか」
「行きます」マレーナは言った。「明日には、谷を出ます。十日ほどで、南のオーレンへ。そこから先は、もっと遠くへ」
「あたしの名前を」ニナは言った。「つけたまま」
「つけたまま」マレーナは言った。「南で、誰かがその一反を買います。寒い夜に肩へ掛けます。——その人は、ニナという名を知ります。雪を知らない土地で、あなたの名を」
ニナの目に、涙が滲んだ。けれど、今度は止まらなかった。頬を、一筋、伝った。
「あたし」ニナは言った。「谷から、出たことないんです。一度も。——でも、あたしの織った反物が、先に、出ていくんだ」
「ええ」マレーナは言った。「あなたより先に、あなたの名が谷を出ます」
ニナは、涙を拭った。それから、ぱっと顔を上げた。人見知りの色が、消えていた。
「あたし」ニナは言った。「もっと、織ります。来季も、その次も。谷の若い子に、字も教えます。みんなの名前を、書けるように。——みんなの反物が、南へ出るように」
「ええ」マレーナは言った。「そうしてください。——あなたが、谷の符牒帳を書く人になります」
「あたしが」ニナは、目を見開いた。「帳面を、書く人」
「あなたが谷の言葉で訳して、谷の名を書く」マレーナは言った。「わたくしの帳面は、外から差し出すだけでした。谷の帳面は、あなたが内側から書く。——その方が、ずっと谷のものになります」
ニナは、自分の赤くひび割れた手を見た。炭で文字を覚えた手だった。
「あたしの手で」ニナは言った。「谷の名前を、書く」
彼女は、その手を、固く握った。
橇が、動き出した。
谷の者たちが、戸口に出て、それを見送った。南の塩と北の毛を積んだ橇が、雪の道を、ゆっくりと谷の口へ向かった。
マレーナは、戸口に立って、それを見ていた。
掌に、夕暮れの冷えが触れていた。けれど、今朝の冷えとも、一昨日の冷えとも、違っていた。今、この掌に乗っているのは、谷の荷が初めて南へ下りていく、その始まりの冷えだった。
その冷えの先で、橇の鈴の音が、雪の道に細く尾を引いていた。
「マレーナ」
レオが、隣に来ていた。
「あんたの符牒帳に」彼は言った。「谷の名が、何人載った」
「十七人」マレーナは言った。「今日のところは。明日、また増えます」
レオは、谷の口へ消えていく橇を、見ていた。
「あの荷が」彼は言った。「南へ着いて、また北へ戻ってくる頃には」
「ええ」マレーナは言った。
「谷は」レオは言った。「もう、昔の谷じゃないな」
橇を見送る掌の奥で、別のものが静かに芽を出していた。
あの橇に積まれた荷は、信用状という一枚の紙で組まれていた。銀のない谷に、信用で先に銭を出す紙。その紙が、谷の冬を生かし、辺境伯の蔵を回し、そして今、谷の名を載せた荷を南へ送り出していた。
一枚の紙が、これだけのものを動かしていた。
彼女は、谷の口へ消えていく橇を、見ていた。
(この紙は)
彼女は、雪の戸口で、ひとり思った。
(谷を生かした。城を回した。荷を組んだ。——では、この先、もっと大きな谷を、もっと多くの城を、この一枚で回せるなら)
まだ、形のない予感だった。けれど、掌の奥で、何かが固く、熱を持ち始めていた。一昨日、城から下りる坂で覚えたあの熱が、今日、もう一段、はっきりとした形に近づいていた。
信用状は、谷だけのものではないのかもしれない。
いつか、大陸じゅうの谷と城を、この一枚の紙で繋げる日が、来るのかもしれない。
オトマルが、戸口に立っていた。
谷の口へ消えていく橇を、見ていた。崩れた羊小屋の向こう、谷の奥の広場の隅に、雪をかぶった二つの墓が低く頭を出していた。
「あの荷が」オトマルは、外を見たまま言った。「無事に南へ着いたら」
「はい」マレーナは言った。
「妹に」老人は言った。「教えてやりたい」
マレーナは、その横顔を見た。
「あの冬」オトマルは言った。「妹は、谷の毛が売れんと泣いた。織っても織っても、誰も買わなんだ。——その毛が今日、初めて名をつけて南へ出た。妹の墓に、それを教えてやりたい」
彼は、戸口の柱に、痩せた手を置いた。
「あの娘が育てた」老人は言った。「ニナの織った反物が、いちばん先に出た。妹の名は、つけられなんだ。だが、妹が遺した娘の名は、ついた」
老人の濁った左目が、橇の消えた谷の口を、まだ見ていた。
「ニナ」オトマルは、戸口の奥へ呼んだ。「明日、母さんの墓へ行くぞ。——お前の反物が、南へ出たことを、教えに」
戸口の奥で、ニナが、顔を上げた。
「うん」ニナは言った。涙の残る声だった。「行く」
日が、谷の縁に沈みかけていた。
マレーナは、谷の戸口に立っていた。
橇の鈴の音は、もう聞こえなくなっていた。けれど、織り小屋の暖炉は赤々と燃え、機を打つ音が、いくつも谷に戻っていた。明日織られる反物のための音だった。次の荷のための音だった。
彼女の掌に、まだ、三つ重ねた手の感触が残っていた。
下に、織りの手。真ん中に、自分の手。上に、荷の手。一昨日の、向かい合う二つの手ではなかった。同じ方を向いて重なった、三つの手だった。
握り直した手だった。
昔のためでなく、これからのために。
マレーナは、符牒帳を、胸に固く抱いた。
その角の、すり減った手擦れが、掌に触れていた。十年、人の名を刻んできた角だった。今日、その帳面に、谷の名が十七、新しく加わっていた。明日には、また増える。来季には、もっと増える。
戸口の傍らに、谷の織り上がったばかりの一反が、橇に積み残されて置かれていた。次の荷に積むための、一反だった。
沈みかけた日を吸って、その毛織の綾が、奥行きのある深い色に沈んでいた。
その縁に、まだ名のついていない荷札が、一枚、結ばれるのを待っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第三十四話「握り直す手」。前回オトマルがレオの手を握ったのは、昔の冬を赦す握手でした。今回握り直すのは、これからの路を一緒に組む握手です。「昔を赦すのと、これから一緒に組むのは、別の握手だ」——同じ手を、今度は仕事の相棒として握り直す。だから今回は、向かい合う二つの手ではなく、同じ方を向いて重なる三つの手にしました。
書きたかったのは、谷の名が初めて南へ出る瞬間です。マレーナは荷を「樽」でなく「人」で組みます。一反ごとに、織った人の名を符牒帳に書き、荷札に添える。ニナは、自分の織った反物に、自分の名をつけて南へ送り出します。谷から一度も出たことのない娘の名が、娘より先に谷を出ていく。看板を持たない谷の織り手の名が、塩坑の親方と同じ重さで、同じ帳面に並ぶ——それが、この物語の「信用は人に付く」のいちばん深いところだと思っています。
そしてオトマルの「もう、谷を飢えさせはせん」。この言葉は、ずっと彼が一人で握ってきた誓いでした。今回、それを「この二人と、谷とで」飢えさせない、と握り直します。一人で握っていたから、あの冬、間違えた。一人は、間違える。だから今度は、四つの手で握る。同じ誓いの、背負い方が変わった一日でした。
谷の荷が南へ着いて、また北へ戻る頃には、谷はもう昔の谷ではありません。そして、谷を生かした一枚の信用状を見ながら、マレーナの掌の奥で、何かが熱を持ち始めています。それが何になるのかは、まだ先の話です。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第二巻、北の毛織の谷編。谷の名を載せた最初の荷が、雪解けの兆す北の道を、南へ下りていきます。
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