第21話: 渡せないもの
マレーナは、少しの間、黙っていた。
兄が顔を上げている。すがるような目で、こちらを見ている。窓の外の広場では、荷夫が梱を積む音が響いていた。鉄のたがが石畳を転がる音。馬が鼻を鳴らす音。変わらない商いの音が、食堂の外をなぞっていた。
兄の目は、十年前と違う目だった。あの日、追放を告げた兄は、こちらを見ていなかった。目を合わせることなく、「商いは男の仕事だ」と言い放った。今日の目は、妹を見ていた。すがっていた。だが、見ているものは同じだった。妹の段取り。妹が回す手。看板を取り戻す道。
マレーナの胸の底で、十年が揺れていた。恨みが、あった。父の商会への痛みが、あった。目の前の兄への、名前のつかない憐れみが、あった。それらが混ざったまま、定まらずにいた。
定まっているのは、一つだけだった。
「兄上」マレーナは言った。
声は、落ち着いていた。揺れていたものが、言葉になる前に静まっていた。
「はい」兄は言った。体が前に傾いた。
「一つ、確かめさせてください」
「なんだ」
マレーナは、兄の目を見た。
「兄上は、わたくしに戻ってきてほしいとおっしゃいました」
「ああ」
「番頭の段取りを、見てほしいとおっしゃいました」
「そうだ」
「では」マレーナは言った。「兄上がほしいのは、わたくし自身ではなく、わたくしが回す段取りです」
兄は、口を開きかけた。閉じた。
「違いますか」マレーナは言った。声に、責める色はなかった。ただ、確かめていた。
兄は、しばらく黙っていた。撫でつけた髪に、手が触れた。父譲りの、あの仕草だった。
「……商会が立ち直ればそれでいい」兄は言った。「お前が差配をすれば、商会は元に戻る。それだけだ」
マレーナは、頷かなかった。
「兄上」マレーナは言った。「わたくしに戻る道はありません」
食堂が、静まった。
兄の顔が、こわばった。すがるような色が、まず驚きになり、それから何か別のものになった。
「なぜだ」兄は言った。
「わたくしは十年かけて、オーレンに路を作りました」マレーナは言った。「この路は、わたくしとレオ殿の二人のものです。王都へ戻る道は、これからもありません」
「だが、元はトルプの路だ」兄は言った。「父が興した商会の路だ。お前もトルプだろう」
「看板はトルプです」マレーナは言った。「ですが、この路の握手は、トルプの看板ではなく、わたくしに向けられています。看板を持ち帰っても、握手は動きません」
兄は、また口を開きかけた。
「ゴット親方は、わかっておいでです」マレーナは言った。「ガービンも、タウンも、ヴィンスも。それは兄上も、ここへ来るまでに、身をもって確かめておいでのはずです」
兄の手が、碗の縁で止まった。止まったまま、動かなかった。
「では」兄は言った。声が低くなっていた。「お前は、商会を見捨てると言うのか」
「見捨てるとは、申しておりません」
「戻らんのだろう」
「ええ」マレーナは言った。「戻りません」
「同じことだ」
「違います」
兄が顔を上げた。マレーナは、兄の目をまっすぐ見た。
「兄上には、渡せないものがあります」マレーナは言った。「十年の握手の重さです」
食堂が、静まり返った。
荷夫の音が、遠くなった。馬の声も、石畳の音も、どこか遠いところへ退いた。兄は、その言葉を、ゆっくりと聞いていた。否定も、反論もしなかった。ただ、顔の奥で何かが動いた。父に妹と比べられ続けた、その痛みが、顔の底から滲んだ。長い年月に積もったものが、一瞬、表に出た。
マレーナは、その顔を見た。
哀れだった。憎い相手のはずだった。けれど、今の兄は、ただ弱い人だった。看板だけを相続して、握手を相続できなかった、ただの弱い人だった。
「十年の握手は」マレーナは続けた。「わたくしが一軒一軒、名前を呼んで結んだものです。ゴット親方の、荒れた掌。ガービンの、嵐の夜に引いた荷縄の感触。タウンの、買い控えを信じてくれた春。それらは、記録と時間と、信じてもらう積み重ねによってできています。看板でも、当主の印でも、報酬でも、移すことができません」
兄は、黙っていた。
「お渡しできるものが、一つあります」マレーナは言った。
兄の目が、わずかに動いた。
「王都の民へ向けた窓口は、今もオーレンで開いています。十二銀固定。値は動きません。隊商の段取りも、ここで動いています」
「……それは」
「トルプ商会の看板を通しては、動きません」マレーナは言った。「ここで受け取るのは、オーレンの路を通じた塩と鉄です。兄上の商会を介さず、直接、王都の家の者へ届きます」
「私の商会は、どうなる」
「それはわたくしには、関わりのないことです」
兄の顔に、怒りが上がりかけた。上がりかけて、消えた。
怒るだけの気力が、もうなかったのかもしれなかった。五日、峠を歩いてきた体だった。頭を下げることを覚えた、その重さもあった。看板に価値があると信じていたものが、この食堂で少しずつ崩れていく、その疲れもあった。
「ならば」兄は言った。「お前は、私を赦さないと言うのか」
マレーナは、少しの間、考えた。
「赦すとか、赦さないとかではありません」マレーナは言った。「わたくしは、兄上が追放の日に取り戻せなかったものを、今も取り戻せていません。十年の時間です。その事実は、変わりません」
「……すまなかった、と言えば」
言いかけて、兄は止まった。「と言えば」の先が、続かなかった。詫びの言葉を、詫びとして口にすることが、できなかった。当主の面子と、十年の見栄の重さが、その言葉を飲み込んだ。
マレーナは、その沈黙を、聞いていた。
兄が詫びの言葉に辿り着こうとして、辿り着けなかった。その沈黙を、かつてのマレーナは、怒りの燃料として蓄えていたかもしれなかった。だが今は、その沈黙が、ただ、重かった。憐れみとも怒りとも違う、説明のつかない重さだった。
「兄上」マレーナは言った。
「ああ」兄は言った。
「わたくしは、報復をするつもりはありません」
兄が、顔を上げた。
「トルプ商会が傾くことで、王都の誰かが困るなら、そのためにできることはします。だが、それはわたくしが王都の民のためにすることです。兄上の商会のためではありません」
「区別できるのか」兄は言った。
「できます」マレーナは言った。「わたくしの符牒帳には、一軒ずつ、名前が書いてあります。貴族の名代も、裏町の農婦も、同じ頁に並んでいます。商会の看板は、書いていません。人の名前を書いています。窓口から届く塩と鉄は、その人たちへ届けます。トルプ商会を通してではなく」
兄は、しばらく黙っていた。
「それで」兄は言った。「私の商会は、どうやって立て直せばいい」
「それは」マレーナは言った。「わたくしにお訊ねになる問いではありません」
兄は、立ち上がった。
ゆっくりと、椅子から立ち上がった。仕立ての服が、よれていた。袖口の擦り切れが、食堂の光の中で見えた。マレーナは、その服を見た。十年前、追放の日の兄は、新しい仕立ての服を着ていた。今の服は、何度も着込んで、縁がほつれていた。当主の威厳を保とうとしているが、服が、その時間の重さを語っていた。
「わかった」兄は言った。「お前は、戻らない」
「はい」
「私の商会も、助けない」
「窓口は、今も動いています」マレーナは言った。「王都へ届く路は、ここにあります。ただ、その路を通るのは、トルプ商会の荷ではなく、わたくしの荷です」
兄は、黙っていた。
「それが、お前の答えか」
「はい」マレーナは言った。「それが、わたくしの答えです」
兄は、壁際のレオを、一度だけ見た。
レオは、腕を組んだまま動かなかった。何も言わなかった。この男のことを、兄はどう見ているのか、マレーナにはわからなかった。ただ、レオは、ただそこにいた。決めるのはマレーナだという立ち方で、食堂の端に立っていた。
「もう一つ、訊いてもいいか」兄は言った。マレーナを見て、言った。
「どうぞ」
「お前は」兄は言った。「あのとき、父が死んで、私が当主になったとき。あの一月を、何と思っていた」
マレーナは、答えを急がなかった。
あの一月。父が死んだ夜から、追放の朝まで。兄が初めて当主の顔をした夜。帳場が兄のものになっていく日々。そして、雪の残る石畳。
「兄上が、一人で背負っておいでだと思いました」マレーナは言った。
「……そうか」
「帳場は、わたくしのほうが得意でした。当主の顔は、兄上のほうが。父はその両方を必要としていました。一月の間、二人で回せたかもしれないと、今でも思います。わたくしには、それだけです」
食堂が、また静まった。
兄は、その言葉を、どう受け取ったか。顔に、何かが通った。怒りでもなく、安堵でもなく、もっと古い何かだった。父に妹と比べられ続けた、その傷の奥にある何かが、一瞬だけ、表に出た。
「すまな」
兄は、言いかけた。言葉の頭だけが声になって、その先で止まった。喉が動いた。飲み込んだことが、見えた。
マレーナは、その沈黙を、待った。
続かなかった。兄は、それ以上、言わなかった。言えなかった。十年積んだ見栄の重さが、最後の最後で、その言葉を止めた。
マレーナは、そのことを、責めなかった。責める気も、なかった。ただ、確かめた。兄は、今日も、その言葉には、辿り着けなかった。それが、事実だった。
「帰ります」兄は言った。
「お気をつけて」マレーナは言った。
「……峠が、堪えるようになった」兄は言った。小さな声だった。独り言のような声だった。
マレーナは、何も言わなかった。
兄は、戸口へ歩いた。一歩、また一歩。来たときと同じ、おぼつかない足取りで、食堂の床を踏んだ。戸口で、一度だけ立ち止まった。振り返ったわけではなかった。ただ、立ち止まった。
それから、外へ出た。
足音が、遠ざかっていった。
石畳を踏む音。広場をよぎる音。荷夫たちの間をすり抜けていく音。やがて、その音も、馬の声や積み荷の音に紛れて、聞こえなくなった。
マレーナは、窓の外を見た。
兄の背中が、広場を横切っていた。仕立ての服の肩が、やや落ちていた。何も持っていなかった。来たときと同じように、荷も、馬も、看板も持たずに歩いていた。ただ、来たときより少し、足取りが遅かった。
その背中を、マレーナは見送った。
追わなかった。呼び止めなかった。
兄の背中は、広場の端へ近づき、やがて路地の角へ消えた。
食堂が静かになった。
レオが壁際から動いた。音もなく、食堂の卓のそばへ来た。マレーナの向かいに立ち、それから、椅子を引いて座った。何も言わなかった。碗に残った白湯を、一口飲んだ。それだけだった。
マレーナも、何も言わなかった。
窓の外の広場が、また動き始めていた。荷夫が梱を積み直している。馬が足踏みしている。天秤亭の周りの商いの音が、いつものように戻っていた。
「飯を食うか」レオが言った。
マレーナは、少しの間、窓の外を見ていた。
「いただきます」マレーナは言った。
夕方、符牒帳を開いた。
新しい頁に、今日の日付を書いた。それから、一行書いた。
兄、王都へ帰る。看板は、渡さず。路は、今も動く。
ペンを置いた。符牒帳を閉じた。
腰帯の算盤の縁に、親指が触れた。珠が、一つ、なじんだ音を立てた。
窓の外の広場に、夕の光が斜めに差していた。荷夫たちが今日の仕事を終え、積み上げた梱が広場の片隅に整然と並んでいた。塩の樽が三段、鉄の木箱が二列。オーレンの路が、今日も動いた証だった。
マレーナは、その梱を見た。
兄の答えは、出なかった。「すまなかった」は、今日も言えなかった。その事実は、変わらない。けれど、王都の民に届く塩と鉄は、今日も動いている。路は、止まっていない。
夕の光が、積まれた塩樽を染めた。荷縄の麻が、橙色に光った。
マレーナは、その色を、少しの間、見ていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第二十一話「渡せないもの」。ずっと書きたかった場面でした。
語録「兄上には、渡せないものがあります。十年の握手の重さです」は、arc2の最初の構想段階から決まっていた一言です。看板は渡せる。資産も、名も、印も。でも十年かけて一軒一軒と結んできた握手の重さは、どんな手を使っても移すことができない——マレーナがこの物語を通じて証明してきたことの核を、一文で言い表したつもりです。
バルトは今回も「すまなかった」を言えませんでした。言いかけて、喉の奥で飲み込みました。書いているこちらも、最後まで出るかどうかわからないまま書いていました。出なかった。彼が詫びに辿り着くのは、もっとずっと先の話です。でも彼なりに、この食堂で少し変わったものがあると、作者は思っています。変わったかどうかは、読者のみなさんに判断をお任せします。
マレーナは赦しませんでした。でも報復もしませんでした。王都の民には、今日も窓口から塩と鉄が届いています。兄個人への裁定と、民への責任は、彼女にとって別のことです。怒りで動かず、ただ、できることをする。この品位が、彼女の十年の商いの形でもあります。
次回、arc2もいよいよ終盤へ。お付き合いいただけると嬉しいです。
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