第20話: 兄、頭を下げる
戸口に立つ兄の手を、マレーナは見た。
握手をしたわけではない。けれど、十年ぶりに見るその手は、よく見えた。指が細くなっていた。爪が伸びて、縁に土が入っている。仕立ての良い服の袖から出たその手は、何も握っていなかった。荷も、馬の手綱も、握手も。
兄は、戸口で立ち止まっていた。
「マレーナ」兄は言った。
その声を、十年ぶりに聞いた。
「お入りください」マレーナは言った。
声は、思ったより落ち着いていた。自分でも、不思議だった。算盤の縁を撫でる癖は、もう出ていなかった。兄が現実にそこに立つと、揺れは、かえって静まった。
兄は、敷居をまたいだ。一歩、また一歩。食堂の床を踏む足取りが、おぼつかなかった。峠を五日歩いてきた足だった。
マレーナは、兄に席を勧めた。兄は、座らなかった。立ったまま、食堂を見回した。壁に貼られた証文。窓の外の広場。荷を積む荷夫たち。その景色を、兄の目が、ゆっくりとなぞった。
「賑わっているな」兄は言った。
「ええ」マレーナは言った。
「これが、全部、お前の路か」
「わたくしと、レオ殿の路です」
マレーナは、壁際を見た。レオが、腕を組んで立っていた。何も言わなかった。兄を見もしなかった。ただ、そこにいた。後ろではなく、横でもなく、少し離れた壁際に。決めるのはマレーナだと、その立ち方が言っていた。
兄は、ようやく椅子に座った。
座ってから、撫でつけた髪に、手をやった。図星を突かれたとき。決まりが悪いとき。父譲りの、あの仕草だった。
「水を、いただこうか」兄は言った。
マレーナは、白湯を出させた。兄は碗を取り、一口飲んだ。喉が、鳴った。
「父が死んでから、十年だ」兄は言った。
「左様です」
「商会は、傾いた。知っているだろう」
「噂は、聞きました」
兄は、碗を置いた。
「塩が、手に入らんのだ」兄は言った。「鉄もだ。隊商頭が、誰も荷を運ばん」
「依頼状は、出されましたか」マレーナは言った。
「出した。当主の印を押してな。報酬も弾んだ。それでも応じん。薄情な連中だ」
「ゴット親方の八枚は」マレーナは言った。「届きましたか」
兄の手が、碗の縁で止まった。
「あれは……グレスが出した。形は同じだったはずだ」
「形は、同じだったかもしれません」
「ならば、なぜ来ない」
マレーナは、答えなかった。兄自身に、考えさせた。
「番頭は」
「グレスも使えん」兄は言った。「あいつが塩の値を読み違えた。高値で買い込んで、蔵を埋めた。あいつのせいで、商会の銀が回らん」
「塩の値は、いつ読み違えましたか」
「春先だ。二十五銀の頃に大量に積んだ」
「今は」
「……十二銀を下回った」
「それは」マレーナは言った。「路が戻ったからです。路が抜ければ値は落ちる。塩坑の出が読めれば、わかることでした」
兄の声が、早くなった。
「私が悪いのではない」兄は言った。「隊商頭が薄情で、番頭が無能だっただけだ」
「兄上は、何をなさいましたか」
「私は」兄は言った。「当主として、やるべきことをやった」
マレーナは、兄を見た。
十年前と、同じだった。図星を突かれると声が早くなり、見栄を張るほど墓穴を掘る。
けれど、マレーナの胸の底で、何かが動いた。父の死の夜、初めて当主の顔をした兄。一月後、商会の門の内側で、こちらを見もしなかった兄。雪の残る石畳。あの十年が、底からゆっくりと、動いた。
声を荒げなかった。恨み言を並べなかった。ただ、兄の言葉の合わないところを、静かに見ていた。
「兄上」マレーナは言った。「隊商頭は、なぜ荷を運ばないのでしょう」
「薄情だからだ」兄は言った。
「報酬を弾んでも、ですか」
「ああ。だから、薄情だと言っている」
「報酬で動かない隊商頭が」マレーナは言った。「では、何で動くのでしょう」
「それは……お前が何か囲い込んだのだろう」
「囲い込んでは、おりません」マレーナは言った。「ただ、握手をしただけです」
兄は、口を開きかけて、止まった。
マレーナは、続けなかった。
答えを、自分で言わなかった。兄に、考えさせた。報酬で動かない隊商頭が、何で動くのか。十年前、追放の日に告げたことだった。握手は、看板にではなく、人に向けられる。兄は、聞かなかった。今、その答えが、目の前にある。
兄は、しばらく黙っていた。それから、また髪に手をやった。
「お前は」兄は言った。「隊商頭と、握手をしているそうだな」
「ええ」
「当主の私ではなく、お前と」
「ええ」マレーナは言った。「十年、そうしてきました」
「なぜ、私とではないのだ」
「握手は、選ぶものだからです」マレーナは言った。「看板にではなく、人に向けて」
兄の顔が、歪んだ。怒りでも、悲しみでもない、もっと複雑なものだった。父に妹と比べられ続けた、その劣等感が、顔の奥から滲んだ。
「私が当主だ」兄は言った。
小さな声だった。がらんとした広場で呟いたという、あの言葉だった。けれど、ここでは、誰も否定しなかった。マレーナも、レオも。ただ、その言葉は、何も呼ばなかった。荷も、隊商頭も、握手も。
兄は、立ち上がった。
それから、ゆっくりと、頭を下げた。
仕立ての良い服のまま。撫でつけた髪のまま。腰を折って、妹の前で、頭を下げた。マレーナは、その姿を見た。兄が頭を下げるのを、生まれて初めて見た。
「マレーナ」兄は言った。「家のために、戻ってくれ」
声が、震えていた。
「お前が戻れば、隊商頭も戻る。塩も鉄も、また動く。父が興した商会だ。このまま潰すわけにはいかん」
兄は、頭を下げたまま、続けた。
「お前は、私の妹だ。トルプの娘だ」兄は言った。「家のために、戻ってくれ。番頭の段取りをお前が見てくれればそれで商会は元に戻る」
マレーナは、兄の言葉を、聞いていた。
家のために。父の興した商会。家の名。兄は、その言葉を、いくつも並べた。けれど、その言葉の下に、別のものが透けていた。番頭の段取りを見てくれ。それで商会は元に戻る。
欲しいのは、妹ではなかった。妹の、段取りだった。看板を、もう一度回す手だった。
「兄上」マレーナは言った。「頭を、お上げください」
兄は、頭を上げた。
その目が、マレーナを見た。すがるような目だった。十年前、商会の門の内側で、こちらを見もしなかった目とは、別の目だった。
「戻ってくれるか」兄は言った。
マレーナは、答えなかった。
兄を、見据えた。擦り切れた袖口。泥の汚れた裾。細くなった指。爪の土。当主の威厳を保とうとして、保てなかった顔。父の評価という亡霊に、取り憑かれたままの顔。
哀れだった。憎い相手のはずだった。けれど、目の前の兄は、ただ、弱い人だった。
「当主として」兄は続けた。「できることは、やった。やったのだ」
誰への言い訳か、マレーナへか、自分へか。その言葉が、また出た。
「なのに、誰も来ない。看板があって、印があって、報酬も積んだのに」
マレーナは、何も言わなかった。
「なぜだ」兄は言った。「なぜ、お前のところへは来るのだ」
マレーナの胸の底で、十年が、また動いた。
恨みが、あった。確かに、あった。けれど、それだけではなかった。父の商会が傾いたことへの痛みも、あった。目の前の兄への、説明のつかない憐れみも、あった。それらが、胸の中で揺れていた。
「兄上」マレーナは言った。
「ああ」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「何だ」
マレーナは、兄を見た。声は、静かだった。
「十年前、わたくしを商会から出されたとき」マレーナは言った。「兄上は、商いは男の仕事だと、おっしゃいました。覚えておいでですか」
兄の顔が、こわばった。
兄は、すぐには答えなかった。
髪に手をやった。それから、視線が、泳いだ。帳場の数字を前にしたときの、あの目だった。
「あれは」兄は言った。「あのときは……」
言葉が、続かなかった。
マレーナは、待った。兄が、何を言うのか。すまなかった、と言うのか。あれは間違いだった、と言うのか。十年前の追放を、詫びるのか。
兄は、口を開いた。
「あのときは、私も若かった」兄は言った。「父が死んで、当主になったばかりだった」
「左様ですか」
「お前にも、思うところはあるだろう」兄は言った。「だが、もう済んだことだ。今は、商会のことを考えてくれ。家のことを」
すまなかったとは、言わなかった。
言えなかった。当主としての面子と、追い詰められた窮状の間で、その言葉だけが、出てこなかった。済んだことだ、と言った。今は商会のことを、と言った。詫びを、飛び越えた。
マレーナは、目を伏せた。
兄は、頭を下げることは覚えた。けれどすまなかったとは言えなかった。頭は下げられても、その言葉だけは、出てこなかった。十年前の追放を、なかったことにして、家のために戻れ、と言った。
マレーナの胸の底で、動いていた十年が、ふと、止まった。
食堂が、静かだった。
窓の外で、荷夫が梱を積んでいる。馬が鼻を鳴らしている。耳に馴染んだ商いの音が、いつものように鳴っていた。けれど、食堂の中は、静まり返っていた。
壁際のレオは、動かなかった。口を、挟まなかった。腕を組んだまま、マレーナを見ていた。決めるのは、お前だ。その目が、言っていた。追い返しもしない。守りもしない。ただ、横にいる。
兄は、すがるような目で、マレーナの答えを待っていた。
「マレーナ」兄は言った。「戻って、くれるな」
マレーナは、答えなかった。
「頼む」兄は言った。「お前しか、いないんだ」
その言葉が、初めて、本当だった。
「私には」兄は言った。「隊商頭の心当たりが、もうない。お前が、全部、持っていった」
「持っていったのではありません」マレーナは言った。「繋いだのです。十年かけて」
「……それが、わかっていれば」
兄の声が、小さくなった。
「お前を、出さなかった」
続かなかった。その先は、詫びに繋がる道だった。けれど兄は、そこで止まった。
お前しか、いない。家のためでも、トルプの娘でもなく。ただ、お前しか、いない。荷を集める当てが、もうここしかない。だから、峠を越えて来た。妹の前で、頭を下げた。
マレーナは、兄を見た。
答えを出すまでに、量るべきものがあった。恨みと、父の商会への痛みと、憐れみと、王都の民への気がかり。それらが胸の中で揺れていた。けれど、一つだけ、定まったものがあった。兄が、すまなかった、と言えなかったこと。その一つが、確かな重さで胸に乗っていた。
なぜレオを見たか、自分でもわからなかった。支えを確かめたのか、十年を確かめたのか。壁際の男は、ただ、そこにいた。
それから、窓の外の、賑わう広場を見た。
答えは、まだ、出ていなかった。
マレーナは、ゆっくりと、口を開いた。
「兄上」マレーナは言った。
兄が、顔を上げた。
「わたくしは——」
窓から差し込む午後の光が、戸口の敷居を白く照らしていた。十年前は雪の石畳へ妹を送り出した敷居。今は落魄した兄が座り、外には賑わう広場があった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二部「看板の落日」、十話目の続きです。
兄バルトが、ついに天秤亭の戸口に立ちました。十年、顔を合わせなかった兄です。マレーナは、声を荒げず、恨み言も並べず、ただ静かに迎え入れます。
兄は、当主の威厳を保とうとして、すぐに崩れます。塩が手に入らないのは隊商頭が薄情だから、番頭が無能だから、と言い訳を並べ、責任を他へ移していきます。けれど、それでも荷が集まらないと知ると、ついに頭を下げました。仕立ての服のまま、撫でつけた髪のまま。「家のために、戻ってくれ」。けれど、その言葉の下に透けていたのは、妹ではなく、妹の段取りでした。看板を、もう一度回す手でした。
そして、追放したことへの「すまなかった」は、最後まで言えませんでした。頭は下げられても、その言葉だけが、出てこなかったのです。マレーナの胸の底で、十年封じてきた感情が、確かに動きます。けれど、彼女は表に出しません。即答もしません。兄に何を返すべきか、胸の中で量っています。
次回「渡せないもの」。マレーナは、何と答えるのか。もう少しだけ、お付き合いください。
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