3.袋を知らないかい?
「お父さん、クリスマスが終わるまで帰ってこれないそうよ」
病院から出た帰り道に、母は早口でそんなことを言った。
母にしては小さな声だったけれど、ぼくにはかろうじて聞き取れていた。
ただ、すぐには意味がわからなかった。
「どうして?」
「お医者さんがそう言ってるそう。まだ様子を見ておきたいんだって。まったく、なんだっていうのよ。……手術だってうまくいったはずでしょう」
母の言葉は、もはやぼくには語りかけていなかった。
響きの中にいらだちがあった。それでぼくは口をつぐんだ。
母はそんなぼくの様子にも気がついていなかったようだった。
いま思えば、きっと母は不安だったのだろう。
父の帰りを心配していた少し前のぼくよりも、はるかに。
一方で、ぼくは父と顔を合わせたばかりで、不安は一気に吹き飛んでいた。
こんなに元気なのだから、すぐに戻ってくる。
やっぱり、そうだ。
いなくなるなんてありえない。
そんな風に、ほっと一息ついていた矢先のことだったから、ぼくには理解出来なかった。
はっきりいって、父は完全な健康体に見えた。
あんなに元気そうな人間が、入院しなければならない意味がわからなかった。
並んで歩きながら、ぼくは母の横顔を見上げた。
母はきゅっと口を結んだまま、真直ぐ前を見ていた。
ぼくの視線に気づかなかったのだろう、こちらには目も向けなかった。
話しかけるタイミングを失い、ぼくは黙って母についていった。
その日の空は珍しく晴れていた。
雲は相変わらず多いけれど、確かな日差しがその隙間から差し込んできている。
病院の植え込みの影に一つかみ、誰かが握って投げたような形で凍りかけのものが固まっていた。
そして植え込みの影から目を離したとき、唐突に、ぼくは衝撃を受けた。
どん、と何かに強くぶつかり、ぼくはあわてた。
バランスを崩してしりもちをついた。
何が起こったのかすぐにはわからなかったけれど、よそ見をしていたせいで、向こうから歩いてきた誰かとぶつかったのだと、ぼくを見下ろす大人の姿を見て理解した。
「……きみ、大丈夫だったかい?」
その大人の人は、青い作業服を着ていた。
彼はぼくに右手を伸ばしており、笑顔を浮かべていた。
ぼくはその手をとり、彼に立たせてもらった。
二十歳をすぎたぐらいの、まだ若い男の人だった。
やせており、整った顔立ちをしている。
髪は長めで、金色に近い茶色に染まっていた。
「よし。ちゃんと前を見て歩きなよ」
彼はそこまで言ってから、ふと、ぼくの顔を何かに気がついたような不思議そうな目で見た。
大きく開いた目がまばたきをした。
「きみ、少し教えて欲しいんだが……」
「ねえ、ちょっと、どうしたのよ?」
そのとき、すでに数歩先を行っていた母が戻ってきてぼくに言った。
それから目の前の男の人にちらりと目を向けた。
母は口には出さなかったけれど、その目は早くも何らかの誤解をしているようだった。
だからぼくは簡単に説明をした。
この人にぶつかってしまい、助け起こされた。
ただそれだけ。
「ああ、そうなの」
母はうなずくと、男の人に向き直った。
「それは、どうもすみませんでした。息子の不注意でご迷惑をおかけしまして……ほら、あなたも謝りなさい」
ぼくは軽くお辞儀をしようとしたが、その前に男の人が右の手のひらをこちらに向けていった。
「いえ、いいんです。それより、ちょっとお聞きしたかったのですが……」
彼は母からぼくに目を移し、そして言った。
「きみ、袋を知らないかい? このくらいの」
彼は手で大きさを示しながらいった。
せいぜい、十センチぐらいの大きさだった。
袋?
ぼくは頭の中を探した。
記憶の中で、考えつくものは、すぐには見つからなかった。
「知らないです」
「そうなんだ。……見たこともない?」
彼はじっとぼくのことを見つめた。
ぼくにはさっぱりわからない。
次に彼は、母へ目を向けた。
「わたしも知らないです。探し物ですか?」
彼はうなずき、ええ、大事なものなんです、と答えた。
見つかるといいですね、そう言いながら母はぼくの手を握ってその場を離れた。
あとで母は、こっそりとぼくに言った。
「妙な人だったね。最近、ああいう人、増えてきてるのかしら」




