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1.落ちていた白い布

 父が入院したのはその年の十一月の終わりだった。

 当時、母はぼくに入院の原因をちゃんと教えてくれなかった。

 だから、父はすぐに病院から戻ってくるのだとぼくは思っていた。

 なにしろ、父はそれまで普通の生活をしていたのだし、救急車で運ばれることもなかった。


 母の車で病院の駐車場まで行き、父は母、ぼくの三人で入り口まで歩いた。

 ぼくと母は病院へは入らなかった。


「そのうち見舞いに来てくれるんだろうな?」


 父は笑顔でぼくに問いかけ、ぼくは嫌そうな顔をした。

 病院の匂いや雰囲気が嫌いだったからだ。

 医者から呼ばれるのを待っているたくさんの人がそこら中に座っていて、看護婦たちがせかせかと歩き回る。

 時折、誰かを呼ぶ声が唐突に響く。

 病院はなんだか、悪い夢の中に似ているように思っていた。


「だって、すぐに帰ってくるんでしょう?」


 そうぼくがたずねると、父はとぼけたような顔をした。


「どうかな」


 あとから聞いたところによると、そのとき父は皮膚がんの一種にかかっていたらしい。

 決して重度なものではなかった。

 しっかりと治療すればちゃんと治る。

 そう説明を受けていたそうだけれど、それでも不安はあったはずだ。


 しかしそのときのぼくはそんなことは知らなかった。

 母と一緒に車へ戻ると、しばらくのあいだ父のいない、静かな生活のことを想像して微笑んだ。

 父のことは嫌いじゃなかったけれど、ときどき、面倒くさいことを言い出すことがあった。

 ほろ酔いになったときが一番危ない。


「リモコンを持ってきてくれ、おお、ちょうどバレーがやってるな、そうだ、二階にある父さんのアルバムを持ってきてくれ、昔の父さんはバレーで県代表に選ばれるぐらいすごかったんだ、ほら、納屋にバレーボールがあっただろう、そうそう、今から父さんとバレーをしよう、どこでだって? ここでだよ、もちろん」


 その結果、父は、リビングの花瓶にバレーボールをぶつけて割ってしまったりする。

 そうして母に怒られる。

 めったにあることじゃないし、いつも花瓶を割るわけでもないけれど、月に一度ぐらいは似たような出来事が起こる。


 静かに本を読んでいたいぼくにとって、父は、いわば、お邪魔虫だった。

 酒を飲まないときの父はぼくと同じように新聞や雑誌をよく読んでいたけれど、残念なことに、父はお酒を毎日のように口にしていた。

 それだけが父の唯一の、そしてささやかな欠点だった。


 母が車のエンジンを始動させ、ゆっくりと駐車場から発進させた。

 ぼくらは昼食をとるため、駅前に向かった。

 再び、駐車場に車を止めると、パーキングブレーキをかけてから、母がいたずらっぽくぼくにいった。


「お父さんに内緒で、美味しいもの食べちゃおうか」


 ぼくは大げさにうなずいてみせた。


 当時のぼくは今よりも大きな街に住んでいた。

 駅前にはたくさんの人たちが待ち合わせをしており、もちろん、イルミネーションも灯されていた。

 二十数年後の今のぼくが通勤に使っている駅にあるものよりも、ずっと豪華なものだった。


 駅の正面右手のビルには緑と赤でクリスマスツリーの模様が描かれており、てっぺんには星型に彩られた光が点滅していた。

 左手のビルにはテラスがあり、そこには本物の木が数本植えられていて、木の一つ一つにカモシカとサンタが規則正しいリズムで姿を現していた。


「もうすっかりクリスマスだね」


 母はそういったが、ぼくにはぴんと来なかった。

 子どものころのぼくにとって、一月先のことはずっと未来のことだった。

 父が酔っ払って変なことを強要するのも、似たようなペースではあったけれど、そっちは頻繁にあることのように思えていた。

 不思議なものだ。


「サンタさん、ちゃんと来るかな?」


 サンタはいないと考えていたぼくは、にやにや笑いながら母に言った。

 母はふふっと笑い、ぼくの肩におおいかぶさるように首に手をからませると、こうたずねた。


「お父さんになにお願いしたのよ? いいものもらいなさいよ、ちょっとのあいだ使うおもちゃなんかじゃなくてさ。お母さんのこの言葉、きっとあとで感謝するんだから」

「秘密。サンタさんは、好きなものはなんでもくれるんだから、何でもいいんだよ」

「あっ、その顔。さてはゲームだな」


 そんな風に笑いながら、ぼくらは駅前を離れていった。

 歩きながら、母の昔の知り合いがフランス料理店をはじめた、という話を聞いた。

 今日はその店へ行くつもりらしかった。


 ふいに、ちゃりん、と音がしたのはそのときだった。

 おや、と思いぼくはその音がした足元を見た。


 そこには、なんと言えばいいのだろう、小さな布が落ちていた。

 真っ白で、はじめはティッシュのようにも見えた。ぼくはかがみこみ、その布を拾った。

 すごく柔らかな感触だった。


 手のひらにのせる。

 大きさはお守りぐらいのものだ。

 すごく軽くて、鳥の羽のように、ふっと吹けば飛んでいってしまいそうだった。

 布の端に、金色の丸いものがついている。

 鈴に似ている、だけど少し形は違うそれが、さっきのちゃりんという音を出したようだった。


 ぼくは空を見上げた。

 どこかから落ちてきたように思えたからだ。

 空は灰色の雲に覆われており、時期的には少し早い雪が降り出してきそうだった。


 やがてぼくは納得した。

 その道には街路樹が立ち並んでいて、クリスマスの飾り付けがされている最中だった。

 ちょうどそばの木が作業中で、赤いぴかぴか輝く丸い玉や、イルミネーションにつなぐコードが青い作業服を着た男の人の手にあった。

 この白い小さな布は、それらの木につける装飾のうちの一つなのだろう。


「……どうしたの?」


 先を行っていた母が振り返ってぼくにたずねた。

 いま拾ったものについて話そうかどうか迷ったけれど、ぼくはこう答えた。


「ううん、なんでもない」


 そうして白い布をズボンの後ろのポケットに入れた。

 母に話せば「じゃあ、返してきなさい」といわれそうだったからだ。

 仕事中の大人に声をかけるのは気がひけたし、こんなゴミのようなものをわざわざ返すのもめんどうくさかった。 


「変なの。……それにしても、なんだか不思議ね」

「何が?」

「誰かが言い出したわけでもないのに、いつのまにかこうやって、みんながクリスマスの雰囲気を作りはじめてるんだよ。それって、すごくない?」


 母はそういってぼくを見つめた。

 ぼくは小憎らしい返事をした。


「……お父さんがいってたよ。おもちゃ会社がさ、おもちゃを売りたいから、こうやってクリスマスをやってるんだってさ。バレンタインデーも一緒なんだって。大人は苦労してるよなあ、だってさ」

「夢がないのね、あの人も、あなたも」


 母は残念そうにため息をついたあと、ほら、さっさといくよ、といってぼくをせかした。

 そうしてぼくたちはフランス料理を食べた。

 ちょっと妙な味がするものもあったけれど、大抵のものはおいしかった。

 母も昔の友達と話をし、おいしいものを食べて満足そうだった。


 車に戻ったとき、ぼくは拾った布のことをすっかり忘れていた。

 ポケットにいれたまま、洗濯物に出してしまったぐらいだ。

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