安眠がほしい
自分よりも圧倒的に強くて、自分を傷付けるものを絶対に許さない。
そういう男にかき抱かれて眠った夜のあの安堵感。
心地よい熱に包まれて、夢なんて一欠片も見ずに済んだあの夜がもう一度、もう何度も、できれば毎晩ほしい。
そんな欲求を抱えてはいるものの、それが叶わず十日ほどの時が過ぎていた。
世間一般的にいうといかがわしい事をしたあの日以降、自分達は微妙な距離感になっていた。
そうなる前ほど避けられているというわけではないが、元に戻ったわけではない。
目を合わせて会話してくれるようにはなったけど、物理的に距離を取られている。
ああなる前は当たり前のように自分の隣を陣取っていたくせに、今は少し離れたところから様子を伺うように。
近寄ろうとしてもそれとなく遠ざかられる。
人間に慣れきっていない野生動物か何かの相手をしている気分だ。
ひょっとしてあの夜に何かよからぬことでもやらかしたか言ったかしてしまったのだろうか、色々必死過ぎていっぱいいっぱいだったので何が何やらという感じだけど。
機械に散々嬲られていたからと実はちょっとだけ余裕ぶっていたりもしたのだけど、全然そんなことはなくて、というかもうほぼ別世界だった。
無機質な機械から与えられるそれと自分を求める男から与えられるそれは全くの別物で、だからなんというか。
思い出したら恥ずかしくなってきた、もうちょっとどうにかならなかったのかあの時の自分。
情事の部分は恥の部分が多くてあんまり思い出せない。
けど、その後与えられた安眠があまりにも心地よかった、悪夢なしで寝られたのが最高すぎた。
一度不快のない夢を見てしまうと、その後どうしようもない悪夢を見て飛び起きた時に余計に恐ろしくて。
だから、もう一回、もう一回とは言わず何度でも。
いかがわしいことをしたいわけではない、ただ、あの安眠がほしい。
悪夢を見ずにいられる安心感を、悪夢から飛び起きたところで縋りつける存在がいるというべらぼうな安堵感が、ほしい。
重ねて言うがいかがわしいことがしたいわけではない。
いかがわしいことの先にあったあのよく考えると納得しかない安心感に包まれて眠りたいだけなのだ。
しかし、どうすればそうなるのかを考えると、どうしたものか。
まず、一番確実性が高いのはストレートに「一緒に寝て欲しい」と頼み込むというもの。
確実性は高い、ただ一緒に寝るだけだったら許してくれそうな気もする。
今は近寄ってはくれないけれど、悪夢に苦しんでいるからどうにかしてくれと泣き落とせばどうにかなる気がする。
ただ、それを実行できるかどうかという全く別の問題が浮上する。
言えるわけがない。
あたしは子供か? 安心感を得たいがために誰かと一緒に眠りたいとか、一応成人女性だぞこっちは。
あと最悪、言葉を誤っていかがわしい事をしたがっているはしたない女とでも思われる可能性すらある。
というかいかがわしい事をしてでもあの安心感を得たいと思っていたりもするのであながち間違いでもなかったりする。
嫌ではなかったので、恥ずかしかったけど。
多幸感すらあったので、口にする事はできそうにもないけれど。
なんてことを悩みに悩んで、いっそ最終兵器スーパーアドバイザー・ツヤコのお世話になろうか、滅茶苦茶面白がられるだろうし大恥をかくのは避けられないけど、なんて思っていたあたしに突如吉報が届いた。
マグロちゃんの再来である。
飼い主がぎっくり腰で入院したらしい、それで数日預かることになったってひゃっほい!!
廊下をドタバタと駆ける引きこもりに何があったと聞いてみたらそんな情報を入手した。
脚が短いと言われ続けたあたしの脚でも、引きこもりよりは速い。
そういうわけで引きこもりを置き去りにして談話室に全速力で駆け込んだ。
すでに取り合いが発生していた、ソファに座ったコトハとその災いが黒猫を取り合っている。
マグロちゃんは今コトハの膝の上にいるけど、コトハの災いがそれとなくマグロちゃんを自分の膝に誘導しようとしている。
「あ、お姉さん」
こちらに気付いたコトハが「敵が増えた」みたいな顔になった、そういう顔ができるようになったのは長年姉ポジで見守り続けた者としてはいい傾向だと思うけど、それとこれとは別問題なのでさっさとその膝の上の可愛い子をこっちに寄越せ。
ジリジリと滲み寄りつつ「久しぶりねえマグロちゃん」と猫撫で声で言ってみると、マグロちゃんのお耳がぴくりと動いた。
「猫を寄越せ!!」
後ろからそんな怒鳴り声と共にボサボサ頭の引きこもりが駆け込んできた。
思わずびくりと飛び跳ねる、叫び声にマグロちゃんもびっくりしたのか飛び上がってコトハの膝から俊敏な動きで離れ、部屋の隅っこへ。
「あっ……」
コトハが滅茶苦茶悲しそうな声をあげていた、普段なら慰めに行くところだが、今はそれどころではない。
マグロちゃん。
マグロちゃん確保が先決だ。
抱っこするのだ、撫でまくるのだ、あの可愛いの塊を。
勝った。
大勝利である。
思わず哄笑したくなるが、そんなことをすれば膝の上のマグロちゃんがびっくりしてしまうので、抑える。
けれども心の中は大パレード状態、マジで可愛い、ほんとかわいい、全ての悩みが吹っ飛ぶ。
さほど遠くないところから敗北者達が悔しげにこちらの様子を伺っている。
自分があちら側にならずに済んだ幸運を噛み締め、柔らかな重みと温もりを存分に味わう。
人生って案外いいことが転がっているものなんだな、かわいいねえマグロちゃん。
なんて思ってひたすらなでなでしていたらマグロちゃんの柔らかな身体がぴくりと動いた。
何だろうと周囲の様子を伺うと、悔し顔の敗北者達が綺麗さっぱりいなくなっていた。
代わりに、ものすごく機嫌が悪そうな大男がこちらをじいっと見ていた。
何で、そんな不機嫌なのか。
敗北者達がいないのはこの男の雰囲気にビビって退散したからだろう、マグロちゃんに夢中になっていた自分だけ全く気付かず逃げそびれたらしい。
どうしよう、何故そんなに不服そうな顔でこっちを睨んでくるのか、何もやらかしていないぞ最近は。
そう思って気付いた、ひょっとしてマグロちゃんと触れ合いたいのでは、と。
膝の上のかわい子ちゃんと大男を交互に見る。
そういえば前回、この男がこの子と触れ合っているところを見たことがない。
羨ましいのか、そうか。
なら名残惜しいけどとマグロちゃんを抱き上げて、差し出した。
勿体無い、勿体無いけれど仕方がない。
あと、自分の好き同士の触れ合いを見てみたいという下心もあったりする。
「…………何のつもりだ」
「前来た時、多分一回も抱っことかしたことなかったでしょう?」
この魅力を存分に味わうといい、それでコトハの鉄面皮が剥がれた時みたくこの男の表情筋が緩いものになればいい、と思った。
けれど彼は深々と溜息を吐いて、短く「いらん」と。
「えっ……!!?」
マグロちゃんを、こんな可愛い子との触れ合いの機会をいらないと、そんな馬鹿な。
あまりの衝撃に身を強張らせていると、こちらに近寄ってきた彼があたしの身体をひょいと抱き上げて、抱え込んだ状態でソファに座り込んだ。
背後から抱え込まれる形になった、傍目からみると幼子が少し大きめのぬいぐるみをギュッと抱きしめているような体制になっているっぽい。
「な、なに!!? いきなり何!?」
「少し、耐え難くなった」
ボソリとそんな呟きが聞こえてきて、あとはただ無言を貫かれた。
何なんだ一体。
けれども。
自分は今、好きな男に後ろから抱きしめられていて、そんな自分の膝の上にはすごく可愛い黒猫がいる。
何だ、この超絶ハッピー空間は、明日とかに死ぬんだろうかあたし。
猫を求めてやってきたツヤコに「おほほほほほほほ!!」と超笑われても彼は全く動こうとしなかった。
大笑いしたツヤコを睨んだようだけど、それだけだったらしい。
あらあらまあまあ、ってめっちゃ楽しそうにしていたツヤコだったけど彼が動こうとしないので最終的に今ちょっかいをかけることを諦めたのか、あたしに向かって「後日詳しいお話をお聞かせくださいね? 一番いいお菓子とお茶を用意しますわ」と言って去っていった。
ツヤコが去っていった後、こちらを抱きしめてくる力が少しだけ強くなった。
「わかっているとは思うが、行くなよ」
今回は行ってもいいか、何なら女性陣全員招集して女子会という形にしてしまえば安全か、なんて思っていたのでその言葉にどう答えるか悩んだ。
あとツヤコの食べ物類のセンスはとても素晴らしいので、そんな奴が用意する一番いいものとはいったいどれほどのものだろうかと好奇心と食欲が。
迷っているのを見抜かれたのか名前を呼ばれた、地獄の底から響いてくるような声だった。
「わ、わかったわかった。行かないから」
「なら、いい」
ほんのわずかに柔らかになった声が聞こえてきた。
それからしばらく経った頃、足音が聞こえてきたので顔を上げると長がやってきた。
長はこちらを見て、「お、おお?」と不可解なものを見るような顔をした。
そんな長の顔を見て、マグロちゃんがこちらの膝から離れていってしまった。
「あ」
咄嗟に伸ばした腕が大きな手に掴まれて引き戻される。
マグロちゃんはこちらへの未練なんて全くなさそうな様子で長の足元に駆け寄っていってしまった。
マグロちゃんを抱き上げた長は珍しく困った顔でこちらを見て一言。
「いちゃつくなら人目がないところにしなよ」
それだけ言って背を向けて去っていってしまった。
抱えていた温もりがいなくなってとても寂しい。
あといちゃつくとか言われたから頭が混乱する、そうか自分達は今、客観的に見るとそうなのか、と。
そうか、そうなのか、いちゃついているのか自分達は。
いきなり浮遊感が、立ち上がった彼にそのまま抱えられていた。
いわゆる姫抱きというやつだ。
「あの、そろそろ放してくれないかしら」
「何故?」
何故と言われても。
「人目がない場所でと言われただろう」
「はあ……」
「相変わらず鈍いなお前は。今自分がどこに連れ込まれそうになっていて、そこで何をされそうになっているのか考えつかないのか」
ちょっと考えた。
人目のつかない場所、軽率に思いついたのは一箇所。
何をとわざわざ含みを持たせた言い方をされたので、察するに。
何で急にそんなことに、あれ以降微妙に距離を取られていたのに。
「ああそうだ。これから先はお前への対応を変える。距離を取り続ければその反動で何をしでかすかわからないと今回ようやく気付いた」
何やら一人で勝手に気付きとやらを得たらしい男の顔を見ると、うっすら笑っている。
へらりとした笑みが自分の顔面に張り付いたのがわかった。
拒絶する気はないけれど、いきなりすぎやしないだろうか。
覚悟とかそういうの一切していないし、そのつもりだというのなら今日やる予定の特番の録画をしておいたのに。
それは配信でいいか、もう。
それはともかく今後の対応変えるって具体的にどんな、と聞く前に歩き出されてしまった。
この後どんな目に遭わされるのだろうか、その先にあの安眠があることを今はただ祈るばかりだ。




