エピローグ
幼い頃、ヘルミナは自分を見てくれる家族がほしかった。何の価値も見出されることのなかったあの家で、孤独な子ども時代を過ごしていたヘルミナを見つけて抱き上げてくれたのはカイルで、その事実は一生変わることがない。カイルが生きていれば、あるいはアゼルが言ったようにカイルへの印象が覆る日もきたのかもしれないが、当人が既に墓の下にいる今、ヘルミナにとってカイルという兄は永遠の存在だった。だから、ヘルミナは、アゼルが気に入らないのはそこなのだろうと思っていた。
生まれた時から跡取りと定められていたアゼルは兄姉達の中でも一番に優秀だったが、それは彼が誰よりも厳格に育てられたということでもあった。対してカイルのほうは、アゼルと年子でありながら生まれながらに何も期待されず、半ば飼い殺しのように放置されながらも、それでいて母からの歪んだ愛情を一身に受けていた。アゼルはカイルを憎んでいると言ったが、ヘルミナはそれは彼らの環境の違い故なのだろうと認識していた。だから、アゼルがヘルミナのことを欲しがるのも、ヘルミナがカイルに大切にしてもらっていたからだろうと。アゼルからは一度否定されたが、ヘルミナにはそうとしか思えなかった。
このことについて、後になってからヘルミナから聞かされたアゼルは「……お前がそこまで頭が回らない馬鹿だとは思わなかった」と非常に冷たい目で見下げ果てたように吐き捨てたきり、後はもう呆れ果てたように何も言わなかったのだが、とろい鈍いと言われ続けてきたヘルミナは頑なにそれを信じていたのである。
けれどある時、ヘルミナがアゼルに散々脅され、軟禁され、最後には殺害予告までされて泣く泣く彼との籍を入れてしばらく経った頃、邸に不審者が侵入する事件があった。
その頃、あれほど酷かったアゼルの態度は、名目上ヘルミナが彼の妻となってから何故かなりを潜めて落ち着いていた。相変わらず逃げた足を引き摺り戻してでも閨には付き合わされたし、ヘルミナに対する冷徹な言葉も叱責も変わらなかったが、無闇やたらと打たれることや痛めつけられることは減った。いや、ほとんど無くなったと言ったほうが正しかっただろうか。
ヘルミナも大層困惑したが、アゼルはまるで憑き物が取れたかのように、籍を入れて以来ヘルミナに対して強硬な態度を取ることがなくなった。変わらず横柄で尊大ではあったが、それは人柄自体がそう生まれついているので今更変えようもないのだろうと諦めた。
法的に逃げ場を潰したことで、ヘルミナがもうどうすることもできないことを知っていたからか、アゼルはもうヘルミナにあまりとやかく言うこともなくなった。邸の使用人の数が増えることはなく、相変わらずヘルミナは妻とは名ばかりの使用人の真似事のようなことを強要させられていたが、暴行がなくなればそれ自体もそれほどの苦ではなかった。不本意なことに、アゼルと入籍してからヘルミナにとっては良いことのほうが増えて、その中の一つが、一人でも庭に出ることが許されたことだった。
今までは、アゼルがいない間に邸から出ることは厳格に禁止されていた。破ろうとして足枷を付けられたこともあったし、それでも逃げることを諦めなかったヘルミナが何度目かの折檻を受けた時は、危うく脚の腱を切られる一歩手前の状況にさえ陥ったことがある。つくづくアゼルの異常さを痛感したその事態以来、外に出ることを諦めていたヘルミナにとって、そのアゼルからの許可はここ数年で一番の喜びだった。どれほど嬉しかったかといえば、ヘルミナの自由を奪っているのが他ならぬアゼルであることを一瞬忘れ、「ありがとうございます、兄様!」と笑顔で礼まで言ってしまった結果、また兄と呼んでしまったことも置いておいて、アゼルに非常に奇妙なものを見る目で見られたほどだった。
とにもかくにも、邸の庭のみという厳命はあったものの、自由に外を歩く時間を得ることのできたヘルミナはそれから毎日のように庭に降りた。
その日も庭に降りて、気の向くままにぼんやりと散策をしていた。
アゼルは母の死後も本邸に戻ることはなく、王宮に程近い今までと同じ邸に居を置いていた。アゼルの邸の庭は、持ち主の興味の薄さが反映されたように上品ではあったが素っ気なく、広さも森に近かった本邸と比べればいくらか狭くはあったが、それでも貴族としての体裁を考えれば立派なものだった。
ヘルミナが、咲き誇るリラの花を眺めていた時、背後の茂みから音が聞こえた。庭は厳重な柵と塀で囲われていたため、人が迷い込んでくることこそなかったが、動物はその限りではない。リスか、猫だろうか、と振り向いたヘルミナの視界に、凶刃の煌めきが反射したのは一瞬のことだった。
突如現れた不審な男が振りかぶった刃は、そのままでは間違いなくヘルミナを襲っていた。
そうはならなかったのは、ヘルミナが振り向くより先に、その眼前に割って入った男がいたからである。
ヘルミナに襲いかかろうとした不審者は、今までそこにいなかったはずのアゼルの長い脚によって容赦なく蹴り飛ばされ昏倒した。その勢いに自分が今まで振るわれてきた暴力はそれでもアゼルの身からすれば控えめなものだったことに気づかされたヘルミナはただただ唖然としていたが、ヘルミナがへたり込んでいるうちに現れたアゼルの部下らしき男が伸びてしまった不審者を回収していき、アゼルと二人きりに残されてようやく我に返った。
「足枷のほうが手間がなかった」
突然の事態に衝撃が過ぎて何も言えなかったヘルミナを上から下まで見下ろした後、眉を顰めたアゼルが言ったのはそれだけだった。
後からヘルミナがしつこく食い下がってアゼルから断片的に聞き出したところによると、あの不審者は元々亡くなった母の手の者だったらしい。ヘルミナは何も知らなかったが、母はヘルミナが家を放逐された後もヘルミナに対しての恨みを募らせており、アゼルの邸にも度々手を回してはヘルミナのことを殺そうとしていたという。今まではアゼルが非人道的の極致のような状態でヘルミナを閉じ込め、彼の配下の人間に監視させていたため問題が起こらなかったのだと聞いて、ヘルミナは黙り込んでしまった。その点についてアゼルに感謝をすればいいのか、それでも彼の仕打ちを考えれば複雑になる胸中の感情に従うべきなのか、判断がつかなかったからである。
だが、かかる火の粉を払っていただけなのだとしても、アゼルにヘルミナをどうしても守らなくてはならない理由はない。そもそも、不可解が過ぎて目を逸らし続けてきていたが、アゼルがヘルミナを妻に据えた理由自体、ヘルミナは本当のところを知らないのである。
勝手にカイルへの私怨故だろうと予想していたヘルミナは、アゼルがヘルミナに男の性として女としての役割を求めることがあっても、まさかヘルミナに、ヘルミナという個人の人格を持った一個の存在に、憎からず思うところがあるとは欠片も考えたことがなかった。
ヘルミナを奪う必要があるにしても、わざわざ労力を払って法的な妻とする手間などかけずに、都合の良い愛人にすればよかったのだ。内縁の女として置いておけば、アゼルは他の神の名のもとに祝福される女性と結婚することができるし、ヘルミナのことも手放さないで済む。世間体についても、アゼルの手腕ならばどうとでも握り潰せる話だろうと思えた。つまるところ、すべてが不可解だったのである。
「…………………………お前は、本当に、そこまで愚かなのか」
意を決したヘルミナからびくびくと尋ねられたアゼルは、ヘルミナの顔が蒼白になるほど長い長い沈黙の後、やっとそう言った。乾いた声は侮蔑を通り越して、どこか疲労さえ滲ませるほどで、ヘルミナの質問に不快になったのは間違いないようだったが、それを怒りに転化させる前に呆れがきたといった様子だった。
意外過ぎるアゼルの反応にヘルミナは戸惑った。だが、昔から散々に周囲から言われ続けたようにヘルミナが愚かなのは確かだとしても、アゼルも何一つとして口に出してヘルミナに伝えてはいない。愚かだと思うならばせめて説明くらいはしてほしい、と切々と訴えたヘルミナの心が通じたのかどうかは定かではなかったが、いつ顔を合わせても物言いたげな様子のヘルミナにアゼルが折れたのは一月後のことだった。
「お前を娶ったのは、私がお前に無性に苛立たされるからだ」
答えではあったが、理解の及ばない答えであった。
ますます困惑しきって眉を下げたヘルミナに、アゼルは頑なに視線を合わせない。
「この血筋の特徴は狂気と残忍さ。生まれる者は皆、血に組み込まれているように情を持たない化物ばかり。だというのに、お前は何だ。お前を見ていると腹立たしいほど苛立つ。何故この穢れた血の中にあって、お前だけ…………」
頭痛を堪えるように、アゼルは目元に手をやって言葉を切った。顔を完全にヘルミナから背けられていて、その表情を窺い知ることはできない。ヘルミナは間の抜けたような気持ちでアゼルの話を聞きながら、以前にも双子に似たようなことを言われたことを思い出していた。生まれるところを間違えた、と言われたあの時は、単なる意地悪としか思わなかったことを、本当は皆ヘルミナに対して同じように思っていたのだろうか。
「この血筋にあり得ない呑気な愚かさ、人を疑うことも知らない愚直さは目に付く。目障りだった。同時にその目が私に向かないことが苛立たしかった。私はお前をずっと見ていたというのに、お前は私を見ない。お前がカイルを選んでからはもうずっと、いっそ嬲り殺してやりたい気持ちだった。この感情が何なのか、私にさえわかるものか」
半ば吐き捨てるように冷徹に言い切って、後には長い沈黙があった。アゼルも、ヘルミナも、どちらも互いに口を開かなかった。ヘルミナは奇妙な心持ちになっていた。まさかそのような感情を自分がアゼルに対して向けることがあるとは、露とも想像したことがなかったからである。
ヘルミナは、もしかしたらこの兄は、自分が思っていたよりもずっと感性が子どもの人だったのだろうかと無言のまま考えていた。周囲よりも飛び抜けて優秀に生まれてきてしまったが故に、子どもらしい子どもであることを許されなかった環境故に、誰にも弱みも甘さも見せずに冷酷であらねばならなかったのかと。そのヘルミナの考え方は、たとえアゼルのことを知らない人間が聞いても、彼にヘルミナが受けた仕打ちのことを考えれば想定が甘すぎるというものだった。アゼル本人も言っているように、彼の残虐性と狂気は血筋に由来する生粋のものだ。だが、少なくともアゼルという人間が、相手を蹂躙し、力尽くで屈服させて、手元に置くことで支配するしか、何かを手に入れる術を持ち得なかったのは確かだった。
「兄様、私のことが好きなの?」
よくよく考え込んでもそうとしか聞こえなかったのだ。
ヘルミナ自身も驚いていたのだ。あまりにびっくりし過ぎて、兄と呼ぶなと言われていたことも忘れて、幼い少女のように皮肉も何もなく純粋に問いかけてしまった。アゼルも驚いたのだろう。珍しく呆気に取られたように――それは本当に珍しい表情だった――ヘルミナを見たが、衝撃が過ぎたのか何も答えない。
「どうしてですか?」
今やヘルミナの中には、怒りよりも困惑が強かった。双子から言われたように、ヘルミナは生まれるところを間違えたのかもしれないと初めて思う。これほどまでに人のことが理解できないとは思わなかった。それはアゼルが常識の枠に収まりきらない特殊な人格であることも多いに関係していたのだろうが、だからといって理解を放棄するわけにはいかなかった。何故ならこれは、ヘルミナの、一生のことなのだ。見て見ぬ振りをして、知らないままではいられなかった。
「好きなら、どうして酷いことをするの?」
ヘルミナは今や、自分の手の中にかつて幼い頃にあれほど欲しかった関心があることを本能的に察していた。それが一心にこの身に向けられているのだろうということも。だが、それと、ヘルミナがアゼルに受けた陰惨な仕打ちのことは、また別の話だ。
ヘルミナは愚かかもしれないが、すべての恨み辛みをすぐさま忘れ去れるほどに楽天的なわけではなかった。どころか、ヘルミナはきっと一生アゼルのことを許せることはないだろうと思ってしまった。ヘルミナはやはり、アゼルが憎い。それに、この身に刻みつけられた恐怖はそう易々と消えはしなかった。
だが、ヘルミナの問いかけにしばし硬直したように動かなかったアゼルは、やがてヘルミナの瞳を射貫くように見つめると、僅かに悪びれた様子もなく、だがどこか吐き捨てるようにヘルミナの予想外の返答を寄越した。
「……………………お前が私を憎悪するからだ」
決して振り向くことがないから、苛立たしく、憎らしい。
まるでヘルミナが悪いような口振りだった。絶句してしまったヘルミナから再び顔を背けて、アゼルはそれ以上はもう何も言わなかった。纏う空気は凍り付くようで、雰囲気からしてこれ以上の言葉は得られないだろうということは察せた。
ヘルミナは、途方に暮れたようにアゼルを眺めていたが、やがて深々と溜息を吐き出した。
この人は冷たい人だ。悪魔のような非人間だ。人の気持ちがわからず、情を解さず、理解しようともしない。だが、それは、この人が与えられてきたものの裏返しなのかもしれないと思った。少なくとも、あの家はまともな愛を覚えられるような場所ではなかった。ヘルミナがカイルという敬愛すべき兄を得られたのは、それ自体が得難い奇跡だったのだ。
「――――アゼル様。私は、貴方の妻として、子どもは生めない……かも、しれま……せん」
この流れで言ってしまうか言うまいか、迷いに迷った末に口にした。言葉尻の最後が萎んで力なく消えたのは、アゼルから向けられた圧が恐ろしくて言い切れなかったからである。
ひとまず、兄妹であるという無視できない大前提を置いておくとしても、爵位を引き継ぐ貴族に付き物なのが跡取りの問題だ。アゼルがヘルミナの他に愛人を取るつもりがあるのかは知らないが、ヘルミナを妻に据えたということは、最悪ヘルミナにその役目を想定している可能性があった。だとすれば、ヘルミナとしてはその事実はどうしても無視できなかった。
神の名において誓うことのできない関係でも、互いの間に愛があればまた事は違ったのかもしれない。だが、ヘルミナはアゼルを憎んでいるとは言えても愛しているとは口が裂けても言えなかったし、更に言うならば、アゼルの話もあってこれ以上濃くなった血というものに忌避感があった。そもそも、すべてがヘルミナにとっては唐突で、なにもかもまだ頭がついていけない。
そういった旨を、終始言葉を婉曲にあちらこちらへと彷徨わせながらも、なんとか伝え終えたヘルミナに、アゼルは意外にも怒りを見せることはなかった。あるいは、だからヘルミナが他に愛人を娶るようにと先を続けたのならば久方振りの静かな激高を買ったかもしれないが、幸か不幸かヘルミナはそこまで考えが至って話していたわけではなかった。
「勝手にしろ。私にはお前で手一杯だ」
そう言って、つまらなさそうに視線を逸らした。それで本当に終わりだった。
アゼルにひとまず一蹴されなかったことに、ヘルミナは心の底から安堵して胸を撫で下ろした。だから、アゼルのその、貴族の妻としての最低限の義務である子を為す義務を拒絶したヘルミナを、まるでそれでもただ一人置いておくような発言をされていたことを聞き逃したのだが、それも特に今は詮のない話だった。
ヘルミナは、アゼルのことを憎んでいる。彼のことを好きになることは、ヘルミナが彼を理解できるようになるのと同じくらい、信じ難いことだった。だがきっと、この憎しみを煮詰めていくにせよ憐憫と共に諦観を得ることになるのだとしても、ヘルミナがこの地獄から自由になる日はこないのだろう。アゼルはきっと、ヘルミナを手放さない。
ヘルミナの尊厳も人権も踏み躙り、今尚その手の内に握っている男を、許せる日はきっとこない。だが、その張本人が許しなど最初から求めていない蛮行ならば、ヘルミナにとっての救いも本当のところはどこにもないのだ。
生まれた時から地獄の底へ落ちることが定められたような、この身の内に流れる罪深い血を思う。そうして、この現し身の生での地獄が、せめて慈しみ深きものとなるよう祈りながら、ヘルミナは腕を掴むアゼルの手を受け入れた。




