9=本当の意味での救済
「ノノカちゃん、それ……」
クレハが私をかばうようにして受け止めている大鎌。ノノカちゃんの背中から生えるそれは、絶望を抱え込んだ人間が出す雰囲気を濃く醸し出していた。というより、ノノカちゃん自身が深い絶望に包まれていた。
「それって……?」
しかも、ノノカちゃん自身はそれに気づいていないようだった。歯を食いしばり大剣に力を込めるクレハを見て、不思議そうにしていた。
「子どもの純粋さは時として仇となる。今がまさにそうだ」
「おねえちゃん、どうしたの。こわいかおしてる」
私の頭は混乱していた。何が起きているのかまるで理解できない。そもそもノノカちゃんと接してきて、絶望を感じ取ることはなかった。ノノカちゃんがまとう空気は確かに重たいものだったが、絶望とは似て非なる重たさだった。いつから絶望のそれになっていたのか。どうして私はそれに気づけなかったのか。
「ノノカちゃん……」
「話は後だ。場所を変えるぞ」
次の瞬間、私は額の一点に針で刺されたような鋭い痛みを感じた。急激な眠気が襲い、自らの意思に反して意識が離れていった。
「……気づいたか」
およそすっきりとは程遠い、頭上に岩でも乗っかっているような重たさを感じながら、私は目を覚ました。妙に柔らかいところに寝かされていると思えば、自分の家のベッドだった。そして隣には気を失っているのか、すやすやと寝息を立てるノノカちゃんと、そんな私たちを見つめるクレハがいた。
「……どういうこと?」
クレハに聞きたいことはたくさんある。まずクレハは私に何度も協力を持ちかけてはいたが、はっきりと私を助けたのはさっきが初めてだった。なぜ突然現れて私を助けたのか。それに、背中から大鎌を生やす異形の姿となったノノカちゃんについて、クレハは何か知っているふうであった。
「この子は危険だ。先ほどのように、無自覚のまま人を傷つける力を持っている。無自覚であるがゆえに、自分自身では制御できない。しかし、ともすればそれはアタシたちにとって希望にもなりうる」
「……何を言ってるの」
「ヤヨイ。お前はアタシに聞きたいことをいろいろ抱えているはずだ。そしてアタシがお前に伝えたいことも、同じだけある。アタシの話を信じるだけの正気はあるか」
あると言わなければ始まらない。私はクレハの目を見て、ゆっくりとうなずいた。
「……この子の名前は志紀ノノカだ。先日指定された171番目の特別管理区――旧川西市出身。特別管理区に新たに指定された街がどういう運命をたどるか、知っているか」
「……ええ」
「特別管理区には市議会、あるいは町議会の議員数だけ絶望捜査官を配置することが義務になっている。それと同時に、少しでも絶望を抱えている者は即刻可視化され、ブラックリストに登録される。新たに特別管理区に指定されれば、一夜にしてそこは戦場と化す」
特別管理区内でない外の世界には、絶望がひしめき合っている。程度は人によって異なるが、ほとんどの人が何かしらに絶望している。腐敗しきった政治に対してかもしれないし、愛する人を失ったことに対してかもしれない。信じていた妻に不倫された上、子どもの親権を確保することさえできなかった自分自身に対してかもしれない。
そんな街に突然絶望捜査官が現れればどうなるか。想像に難くない。
「ノノカは第百七十一特別管理区のほぼ唯一の生き残りだ。ノノカの両親は、このまま特別管理区が増えていけば、ノノカを無事に育てることができないかもしれないと思っていた。そしてたったそれだけの心配を、絶望と判断された。真っ先に狙われて、ノノカの目の前で両親は死んだ」
「そんな……」
クレハはノノカちゃんが首から提げていたクッキー缶の中身を取り出した。妙な冷たさと温かさを持ち合わせた、人間の骨だ。
「これはノノカの父親だ。父親は絶望捜査官による空襲に巻き込まれ、ノノカにはこれしか遺されなかった」
無茶苦茶だ、と私は思う。その空襲で、いったいどれだけ無関係の人が殺されたのか。自分の住んでいた街が突然地獄と化し、目の前にこの骨一本だけ転がってきた時のノノカちゃんの心境。心が痛むどころでは済まされない。
その思いが頭の中を駆け巡ってから、私はふとあることに気づく。
「……ヤヨイ。お前は気づいたはずだ。絶望を抱くことが全て悪であるとは限らない。絶望を抱いた者を全て殺すことが必ずしも正しいとは限らないと」
「……!」
気づいたまさにそのことを、クレハに指摘された。私が抱くぼんやりとした違和感の正体はこれなのか。
「……人は絶望を抱く前に、何とか希望を見つけ出そうともがく。わずかな希望でもいい。希望を少しでも見出すことができれば、それは生きる気力に直接結びつく。しかしそのわずかな希望さえ絶たれた時、人は絶望の淵へと突き落とされる」
クレハの持つ雰囲気は、まさにそれだった。クレハは深い闇を抱えていて、その正体は絶望そのもの。しかしどこか、一筋の光のようなものも持ち合わせていた。それがクレハの持つわずかな希望であり、生きる気力になっているのだ。
「ノノカは今まさに、絶望と希望の狭間をさまよっている。あの時ヤヨイが気づかなければ、今頃ノノカは絶望に侵され、絶望捜査官に殺されていただろう」
「絶望と、希望の狭間……」
「しかし今のノノカは、かなり絶望に近い。それは先ほどの異形の姿からも分かるだろう。……殺すか?」
「そんな……っ」
とっさに私の口から引き止める声が出た。私は絶望捜査官だ。そして、明らかに絶望に近い人間を目の前にしている。遅かれ早かれノノカちゃんを私の手で殺さなければ、それは仕事を放棄したも同じだ。しかし、だから殺す、でいいのか。
両親を目の前で失い、必死にここまで逃げてきた女の子の命を終わらせることが、本当にこの世界にとって正しいのか。
「……違う」
まだ私の中で、違和感は違和感のままだ。クレハのようにはっきりとこの世界が間違っていると言うことはできない。だが、今ここでノノカちゃんを殺すのは間違っているということは、今の私にも分かる。
「ノノカちゃんだけじゃない。……こんな境遇の子が、絶望捜査官に殺されていいはずはない」
「ならばどうする?」
「……まだ、ノノカちゃんを助ける方法はあるの?」
「絶望に染めさせなければいい話だ。絶望から抜け出すことができれば、絶望捜査官に捜索されることもない。しかし、今のノノカの状態でそれは相当厳しいと言える」
それだけ絶望にはまり込んでしまっているということか。確かにノノカちゃんの大鎌を受け止めるだけでも、あのクレハが苦しそうにしていた。私を圧倒するような実力を持っているにもかかわらず。新人とはいえ、絶望捜査官に任命されるということは、それなりの実力を持っていることの証になる。
「なら、どうするの」
「ノノカの絶望は大きくなる一方だ。しかし同時に、ぼんやりした希望のようなものも持ち合わせている。その希望がどういうものなのか具体的に示してやれば、ノノカは本当の意味で救われるはずだ」
「本当の意味で?」
「絶望捜査官が蔓延し、絶望の根絶された世界など、救われたと呼ぶには程遠い。絶望の中に希望を見出し、絶望を乗り越えてこそ人は救われる。アタシはそう考えている」
それは私が考えたこともない話だった。絶望は根絶するものではなく、乗り越えるものである。絶望を抱えても構わない。抱えてから、希望を新たに見つければいい。
「希望をはっきりと認知するためには、他人が手を差し伸べてやることが必要だ。お前がノノカに対して何かできるとすれば、それだとは思わないか?」
「……確かに」
「アタシに手を差し伸べてくれる人間は誰もいなかった。お前も、親も含めてだ。だから自分で希望を見つけ出す必要があった。だが、ノノカは違う。ノノカが立ち上がるための手伝いを、お前がやってやれ」
ノノカちゃんはよほど疲れていたのか、これだけ私とクレハが話していても全く目を覚ましそうになかった。私はそんなノノカちゃんの寝顔を見て、決意を固める。ノノカちゃんを本当の意味で救えるのは、私しかいない。