21=ヤヨイの闇
「ヤヨイ。……お前にも、絶望から来る闇が見え始めている」
「私の、闇……」
まさか、とは思った。だが同時に、ついにこの時が来たか、とも思った。
「自分では、見えないけれど」
「まだ見えないくらい小さな闇だ。何とかその片鱗を感じられるかどうか、といったところだ」
言われるまで私が絶望を抱えているなど、考えもしなかった。そして絶望を抱えてしまった原因があるとするなら、それは巽さんに裏切られたことだとすぐに想像がつく。
「絶望がまだ芽生え始めたばかりの人間に対して、絶望を抱えているという事実を伝えるのは、あまりよくない。それがきっかけとなって悪化することが多いからな」
「なら、なぜ」
「遅かれ早かれ、お前の絶望は深いものになる。一度抱えてしまった絶望は、希望を見出して中和することはできても、完全に消し去ることはできない。それに、同じ希望を見出すのであれば、絶望を抱え込んでからの方が楽だ」
絶望を抱え込んだ後ならば、どんな小さな希望でもそれが希望だと見つめ直すことができる。クレハの言葉はきっとそういう意味なのだろう。
「やはり私の絶望は、巽さんのせいなのかしら」
「それで間違いないだろう。あの女にあれだけ拷問されてもなお『さん』付けが直っていないことが、それを物語っている」
巽さんは優しい人だった。天満という名前を持つおかげで大事に大事に育てられてきた私を、時に厳しく指導してくれた。普通の人はみな、腫れ物に触るような扱いしかしてこなかったのだ。天満家の一員であっても関係ない。私を一人の人間と見て接してくれた巽さんを尊敬していた。
「他人に裏切られるというのは、絶望につながりやすい。相手が信頼していた人間、かけがえのない存在だったならばなおさらだ」
「きっと私は、巽さんに裏切られて散々な目に遭わされたのがよほどショックだったのね」
「あの女の残虐性に、アタシは気づけなかった。ヤヨイに接近しておきながらヤヨイを守ってやれなかった、アタシの責任なんだ」
ぽん、と私はクレハの肩に手を置く。クレハがひゅっ、と少しだけ喉を鳴らすのが聞こえた。それでクレハの言葉が止まった。
「……クレハは悪くない。こうして助けてもらったし、今さらあのことを悔やんでも過去は変わらないから。クレハが抱え込む必要は、ないわ」
「……アタシは、お前を闇の世界に引きずり込むような真似はしたくなかったんだ。この世界に絶望して、闇を抱え込むのはアタシだけで十分なんだ。ヤヨイだけはせめて、光に溢れて生きていてほしかった」
クレハが絶望を抱えて十数年。どれほどその人生が過酷だったかは、言われなくとも分かる。この世界は、絶望を抱えた人間にとってあまりにも生きにくい。ましてあちこちが特別管理区に変わってゆく様を見てきたクレハならなおさらだろう。
「絶望などない方がいい。それに関しては、全くもってこの世界の方針に同意なんだ。アタシはそのやり方が気に食わないだけなんだ。絶望を抱く、たったそれだけのことで、殺していいと判断したこのやり方が。絶望を抱かずにこの制度に抗えるのなら、それに越したことはない」
クレハは決して私の方を見ない。相変わらず、目の前のアスファルトの一点を見つめるばかり。しかし普段は冷たい言葉ばかり吐くクレハの吐息に、熱がこもっていた。言葉を紡げば紡ぐほど、声が上ずってゆく。
「こうなったのはクレハのせいだと、思うつもりはないわ」
だからクレハが言葉を重ねすぎる前に、私はそれをさえぎった。
「私の絶望はきっと、父の教育に違和感を覚え始めたところから始まってる。そのきっかけになったのはクレハで間違いない。けれど、決してそれを恨んだりはしていない。むしろ感謝しているの。クレハのあの一件がなければ、私は一生あの家を抜け出せなかった」
「本当にそう思うか? あの家にいることで、保証されたものも多かったはずだ」
「クレハは私を何度も諭してくれた。それを正しいと思って、クレハの言葉を信じると決めたのは私自身よ。だから、クレハは悪くない」
そこまで言うと、ようやくクレハが思いつめた顔をするのをやめた。それから少しだけ笑顔になった。それは安心から来るものに間違いなかった。
「……強くなったな、ヤヨイ」
「私は昔から変わらないわ。ずっと、精神的に打たれ弱いまま」
「何かに抗うことができる人間、抗おうと思っている人間を、弱いとは呼ばない。ヤヨイはもう十分に、強い人間だと言える」
予想通り、商店街の人通りは目に見えて減っていた。ここは街の人たちの憩いの場だが、それよりも食料調達の場としての意味合いの方が大きいのだろう。朝には活気づく朝市の雰囲気の中、馴染みの人たちと一緒に食事をとる。夕方には夕食の食材を買うついでに、とりとめのない世間話をしていく。それ以外の時間は閑散としていて、のどかな時間が流れる。
そんなのどかさが姿を現し始めた商店街に、少しずつ喧騒がこだまし出す。男女問わず大きな叫び声だが、そのどれもがひどく殺気立っていた。
「これは……?」
「絶望捜査官たちが近づいている。あの街を離れてもう三日だ、さすがに勘付かれたんだろう」
絶望を抱くクレハと、クレハに接触した私を殺しに来たのだ。私の身体がこわばる。
「……戦ってくれるか」
クレハは端的にそれだけを問うた。ここまで来て、今さら引き返すことはできない。
「ええ」
だから私も、静かにそう答えた。
* * *
「こちらです! 慌てずに、一歩ずつ前の人についていってください!」
クレハの行動は早かった。私の返事を聞くや否や、すぐさま一般人の避難を始めさせた。コウモリのような翼を持ち、空が飛べるクレハが、絶望捜査官の乗る爆撃機の対処に当たることになった。一方で私は、避難する人たちの誘導に当たっていた。”頼みの綱”と呼ばれる街どうしをつなぐ地下鉄で、ピストン輸送させ運び出す計画だった。
「ヤヨイちゃん!」
「シノちゃん……!」
シノちゃんたちもその誘導を手伝ってくれていた。街の一般人の七割方を見送り、いったん人の流れが途切れたタイミングで、シノちゃんが私の方へ合流してきた。
「何とか間に合いそうだね。それに地下鉄だから、駅の入口で食い止めてくれれば何とかなりそう」
「ええ、そうね」
幸いまだ絶望捜査官たちの本隊が到着した、という報告は受けていなかった。先行部隊いくつかからの襲撃は受けているものの、人数はわずかでこの街の人たちが全員撃退しているらしい。
「あとの人たちは?」
「もう少しすれば来るんじゃないかしら。しばらく待ちましょう」
その時。
私たちのいる駅構内に、一瞬異質な臭いが漂った。地下空間独特の生暖かい人の臭いとは全く異なる。それを何かに例えるなら、
「金属……いえ、鉄の匂い」
「何が?」
電車とは根本的に異なる匂い。もっと深刻で、本能的に私は構えた。シノちゃんはその臭いに、全く気づいていないらしかった。
「ちょっと、ここで待ってて」
「……うん、分かった」
私は相変わらずきょとんとするシノちゃんにその場にいるように言って、臭いの濃くなる方へおそるおそる近づいた。ホームの端、ちょうど死角になって暗がりになった場所。そこに、あるはずのない人気があった。そして私の靴がびちゃ、と音を立てた。
「……!」
「なんだ、また迷子ちゃんか?」
悪い予感は当たっていた。暗くても分かる。おびただしい量の血が、床一面に広がっていた。強烈な臭気とともに、男が三人姿を現す。全員揃って、絶望捜査官の格好をしていた。
「あ、お前!」
「すげー。本物じゃん」
「マジ? こいつがあの天満ヤヨイっつー女? 案外しけたツラしてんじゃん」
私の目に一番に飛び込んできたのは、そんな思い思いの感想を口にする男どもなどではない。その背後に粗大ゴミのように無造作に積み上げられた、何十人分もの遺体だった。血はそこから流れ出していた。山積みにされた彼らが絶望捜査官に抵抗しようのない、一般人であることは体格から明らかだった。
「……この人たちを」
「あ? 何か言ったか? 声ちっさくて聞こえねえよ」
「……この人たちを殺したのは、あなたたち?」
「ああ、ああ。なんだそういうことか。そりゃそうよ……っつか、当たり前だろうよ。一応だから言っとくけど、こいつらみんな絶望抱えてたから。俺らが好き勝手殺したって……」
ぷつん。
私の中ではっきりと、糸が切れた音がした。それが切れたら終わりだということが、何となく私には分かっていた。それでも止まらない。自制できない。視界があっという間に涙でにじむ。
「おい……やべえぞ」
「逃げ……」
それを最後に、男たちの声が聞こえなくなった。涙が一筋流れ落ちて、視界が再びはっきりした。私ははっとして、目の前を見る。
「鎌……」
暗がりでも分かるほど黒く染まった、子ども一人分ほどの大きさの鎌。奇しくも、ノノカちゃんと同じ武器。鎌は確実に、私の背中から生えていた。その先端から滴る血が、この一瞬に起こったことを何よりはっきりと伝えていた。




