20=クレハの思い出
「……思い出の街?」
クレハの言い方は、ここで何年も暮らしていたかのようなものだった。私はそのままクレハの方を見るだけにとどめて、話の続きを促した。
「その昔、あの男が出張でしばらく第一特別区――昔で言う東京に、二週間ほど滞在することになった時があった。その間アタシ専属の使用人たちと一緒に、旅行に行くことになった。家にいてはいつにも増して退屈だから、という理由でな」
そんなことがあったのか。私は全く記憶になかった。きょとんとした顔でクレハを見ると、ああ、と思い出すようにクレハが付け加えた。
「お前が生まれる前の話だ。すなわちシノの母親が天満家に来る前の話でもある」
「なーんだ。じゃあ全然分かんないや」
ついでに話を聞いていたシノちゃんがため息をついた。しかしクレハは首を横に振った。
「あながちそうでもない。単にアタシの思い出話に聞こえるかもしれないが、お前たちに知っておいてほしい話でもある」
「分かったわ。……そして、その旅行先というのがここだった、というわけね」
私がそう言うと、クレハが絹のように長くきれいな銀髪をかき上げつつうなずいた。
「さっきも言ったが、当時はまだ精神統制法の適用外の街が多かった。だがいざ絶望捜査官が大量に送り込まれた時のために、抗うための武力組織を用意していた街はほとんどなかった。だからこそ、今のように次々と特別管理区が生まれているわけだが」
ノノカちゃんのいた街も、きっとそんな用意はなかったのだろう。でなければ両親を一度に失うことはなかっただろうし、仮に亡くしても組織の人たちが優先的に保護してくれるはずだ。初等学校にも通っていない幼い子どもが、親の骨一本だけ持って命からがら逃げ出さないといけなかった。それが無防備さを何より表している。
「ところがこの街は、その当時からきちんと武力組織を用意していた。それも政府に見つからないように、非公式でだ」
「そんなことができるのね」
「アタシも幼いながらに驚いた。本の中でしか見たことがないような格好をした人たちが、山のようにいたからな。それも元自衛官を中心に組織された玄人集団だ」
時間が経つにつれ、だんだん商店街を行き交う人が減ってゆく。きっと夕方になるまで、しばらく閑散とするのだろう。
「あの時のことは、いまだに鮮明に覚えている。この街が特別管理区の候補になって、絶望捜査官たちが攻め込んできたのは、アタシたちがここを離れてから数日後のことだ」
タッチの差で帰ってきていたおかげで、クレハたちは危ない目に遭わずに済んだ。あるいは、クレハたちがここにいたことを父は知っていて、あえて計画を遅らせたのかもしれない。
「え? 結局攻め込まれたんですか?」
「そうだ。だが今のこの状態を見て分かる通り、絶望捜査官の敗北に終わった。ここを特別管理区にする計画はひとまず後回しにされた」
絶望捜査官が負けるなど、今では考えられない話だ。もしかすると、この一件を機に絶望捜査官の強化が図られたのかもしれない。
「以来、あの男の教育は目に見えて厳しくなった。……と言っても、ヤヨイが受けたものほどではないだろうがな。それはアタシが成長するにつれて、だんだんと肌で感じるようになってきた。天満の家を継ぐ女としての期待や、絶望捜査官というあの男の作り上げた制度が崩壊するかもしれないという恐れ。アタシはそういうのを一身に受けて育った」
ふう、とクレハが一つため息をついた。それからふふ、と笑ってみせた。少し諦めが混じっているような、寂しげな笑い。またクレハの新しい表情を、私は垣間見た。
「……そのせいでアタシは、絶望した」
「うえっ!? 突然?」
「……ふふ。大きな反応を示してくれるのはいいことだ。アタシも話しがいがある」
「……さしずめ、この街が楽しそうで、自分の境遇とのギャップに耐えられなくなった。というところかしら」
「ああ」
少し大げさにシノちゃんが驚くのをよそに、私はクレハに聞き返した。クレハは笑顔を崩さないまま、話を続けた。
「絶望に苛まれ続けるのは精神衛生上よくない。だがそれだけで人生全てが台無しになることは決してない。絶望を抱いてからでも、希望を見つけ出し、それを追い求めて生きることはできる。この街の人のことを思い出して、アタシはそのことに気づいた。この街の人間の方が、特別管理区の人間よりずっと生き生きしているんだ」
クレハの言葉は事実だった。特別管理区に住んでいる人たちが暗いわけではない。だが、こちらの方が圧倒的に活気づいていた。それは絶望を抱えればおしまいだと怯えているか、絶望の中で見出した希望を現実にしようと励んでいるかの違いなのだろう。
「それからの日々は苦痛だった。幼くても間違いと分かっていることを、延々教え込まれた。あの男も、そんなアタシの絶望に気づいていたのかもしれないな」
「どうして?」
「アタシがそう感じ始めておおよそ一年経った頃に、お前が生まれたからだ」
「……最初からクレハを見捨てて、期待を全て私にかけるつもりだったということ?」
「そうだろうな。あの男はお前が思っているよりずっと慎重で、入念な準備を欠かさない。お前が物心つくのを待って、見せしめにアタシを家から追い出した。そうすることで、絶望を抱えればこうなる、とお前の記憶に刻み込ませたんだ」
確かに私は、クレハとつながっているのがバレているとは長い間気づかなかった。父は私が勘づいて余計な行動を取らないように、着々と水面下で計画を進めていたのだ。
「……ヤヨイ」
「え……?」
不意に、それまでお前、としか私のことを呼ばなかったクレハが、名前で呼んだ。正直に驚いてしまった。
「改めて、昔話がしたい。二人きりでな」
「そっか。よくよく考えたら、姉妹だもんね。積もる話もあるよね」
クレハが促すより先に、シノちゃんが立ち上がった。お昼ご飯できたら連絡するね、とだけ言って、シノちゃんは走って戻っていった。
「……ヤヨイ」
「なに」
お互いに、相手の顔を見ない。二人とも正面より少し下の方を見つめて、独り言でもつぶやくかのように話す。
「……よく、助けてと言ってくれた」
「聞こえてたの?」
「ヤヨイが眠っている間に、何度も聞いた。うなされてはそうつぶやいていた」
「そうなのね……」
私が助けて、と叫んだ瞬間にクレハとノノカちゃんが助けに来てくれたのは、さすがに偶然だったらしい。
「アタシはヤヨイが助けて、と叫んでくれる限り、何より優先して助けに行く。これまでアタシは、歪んだ教育を受けているヤヨイを助けてやれなかった。その贖罪を勝手にやっているだけだというのは分かっている」
「……父の教育を、歪んでいると思ったことはないわ。だから逃げ出したいと思ったこともない。もっとも、客観的に見れば歪んでいるのかもしれないけれど」
「結局アタシは、本当の意味でヤヨイを助けてやることはできなかった。……いずれ言わなければいけないことだから、言っておく」
クレハの重い言葉に、私の身体が固まった。それでもなお目線は地面に向けたまま、クレハの言葉の続きをおそるおそる聞く。
「ヤヨイ。……お前にも、絶望から来る闇が見え始めている」




