13=父の期待通りに生きること
足音が近づいてくる。床と足が擦れているだけの音だというのに、私にはむやみに重たく聞こえた。それは五年もの間、連絡さえ取っていないからだろうか。姿を見ることさえ久しい父相手に、緊張しているのか。
「コウシロウ様がいらっしゃいました」
いったん父を迎えに行った私の使用人が戻ってきてそう告げた。それを合図に、私は立ち上がって父が部屋に入ってくるのを待つ。
「ああ、ご苦労」
扉が開き、スーツを着こなした中年の男が姿を現す。それが見えるや否や、私は深くお辞儀をする。私のその様子を見てか、ふいに男が立ち止まる。
「ヤヨイ。久しいな。ご苦労だった」
ねぎらいの言葉がかかったのを合図に、私は体の傾きを元に戻し、正面に父を見据える。五年前とほとんど変わらない顔がそこにあった。
「座りなさい。親子なんだから、そこまで改まる必要はない」
そう言われ、私は父とほとんど同時に腰を下ろした。
改めて使用人に囲まれた父とまっすぐ向き合う。外見はほとんど五年前と変わらない。しかし、心なしか疲れているように見えた。まだまだ全国に『点在している』と言える特別管理区をあちこち視察して回っているせいだろうか。
「調子はどうだ。絶望捜査官として、上手くいっているか」
「ええ。特に、問題ありません」
「指導教官には巽くんを充てたが。彼女に問題は?」
「いえ、私の面倒を丁寧に見てくださる、優しい方です」
一般の人が聞くと違和感を覚えるかもしれない。が、こんなまるで親子でないかのような話し方が、私たちにとっての普通なのだ。天満コウシロウは私の父であり、天満グループの元締めでもある。すでに成人した私にとっては、グループの元締めとしての意味合いの方が大きい。
「無理は禁物だ。絶望捜査官の任務は厳しいことも多々ある。無理が続けば、お前の方が絶望に毒されてしまう」
私は父の言葉を疑った。父はこんなことを言う人ではなかった。もちろん、私が精神的にあまり強くないことは父も知っている。しかしそれでも絶望捜査官になることへの期待をやめることはなかった。
それだけ私が動揺しているということか。常にうるさく成績のことを言うだけで、私の面倒などろくに見なかった父でも、私の気持ちが伝わっているということなのか。
「……分かっております。定期検診で異常が出れば、すぐにでもご報告いたします」
「よろしく頼む。お前はわしの唯一の跡取りだ。絶望に苛まれることなど、あってはならん」
「ええ」
父もやはり、そちら側の人だ。絶望を抱えることが人間としての失格を意味する、そんな考え方。
「すまないが、しばらく会議に出なければならん。わしの使用人もいくらか置いておくから、好きに過ごしなさい」
「承知いたしました」
初老の使用人二人を引き連れて、父は応接室を出て行った。座ったまま父に向かって軽くお辞儀をしながら、私は考える。
絶望を抱えたら人間でなくなる。それなら、ノノカちゃんやクレハは人間ではないのか。違うだろう。クレハはともかくとしても、ノノカちゃんは私なんかよりもずっと人間らしかった。私よりずっと、人間らしい感情を持ち合わせている。
「……コウシロウ様は、173番目の特別管理区制定のために会議へ行かれました。今月中に200番目まで制定することに、躍起になっていらっしゃるようでして」
「そうなの?」
残された父の使用人の一人がそう言った。父の計画が実現すれば、また新しく28の特別管理区が生まれる。絶望捜査官が配置されて、場合によってはノノカちゃんのような子が出るかもしれない。
私にもっと力があれば、父に反対できた。むやみに特別管理区を作ろうとする父を押さえて、クレハの言う方法で少しずつ、この世界を変えていけただろう。しかし父の持つ権力はあまりにも大きく、娘の私に与えられた権力はあまりにも小さい。
「明日あたりには、コウシロウ様がヤヨイ様をお呼びになると思われます。180番目の特別管理区選定に際して、ヤヨイ様のご意見をお聞きしたい、とおっしゃっておりました」
「私の意見を?」
私の意見なんか聞いてどうするんだ、と言いかけて、すんでのところで抑えた。今回私が呼ばれたのは、それが目的なのだろう。
「ヤヨイ様が跡を継がれた時のために、とおっしゃっておりました」
「……へえ」
もはや私は話半分に聞いていた。そんな理由はどうせ建前だ。元締めの娘がそういう会議の場に出てくることを、誰かが期待しているのかもしれない。お互い素性はおろか顔さえ知らないくせに。
「ですが、おそらく明日になると思われます」
「分かったわ。……浅香さん」
私は久々に、昔から私の面倒を見てくれていた使用人の名を呼んだ。
「はい」
「シノちゃんはここにいるのかしら」
「え? はい、すぐそこに」
「シノちゃんと少し遊ばせてもらっていいかしら。父が会議でいない以上、仕事らしい仕事もないでしょう」
「……承知いたしました。呼んで参りますので、少々お待ちください」
浅香シノ――シノちゃんはこの使用人の娘であり、私とは同い年で親友だ。浅香さん、つまり母親の方は立場もあって私に対して丁寧な言葉遣いだが、シノちゃんは私と対等な立場で話している。せっかくだから普通の友達として接してくれ、と私の方から言ったのだ。
「ヤヨイちゃん?」
すぐにシノちゃんがひょっこりと顔を出した。黒っぽさの中に深い緑色が見えるセミロングの髪が揺れる。長らく見ていなかったその顔に、私は思わず笑顔になる。私が唯一、心を許せる相手と言ってもよかった。
「積もる話もあるでしょう、一緒にどう?」
「いいね、そうしよう」
シノちゃんはにっと笑って、私に手招きをした。近くの公園まで二人で歩いて、それからベンチに隣同士で座った。シノちゃんのスーツの端と、私の外套の裾が重なった。
「ヤヨイちゃんも大変だねえ、絶望捜査官なんて」
「そう思う?」
「天満家の使用人は気が楽だよー、まず食いっぱぐれる心配がないしね」
私に絶望捜査官としての道しか用意されていなかったように、シノちゃんにも天満家の使用人としての道しか用意されていなかった。しかしシノちゃんは幸せそうだった。最初から選択肢のない人生でも、その道が自分にとっていいものであるなら、違和感を抱くことはないのだろう。シノちゃんは実際、使用人一年目にしては十分すぎるほどの給料をもらい、厚い待遇を受けていた。
「どうせ使用人にしかなれないってことは小さい頃から分かってたよ。でも、それが嫌って思ったことはないかな。仕事は多くて大変だし、なんでそんな世話までしなきゃいけないのって思うこともあるけどね。でもそれに見合うだけのお金はもらってるし、絶望するほどのことじゃ全然ないし」
「そっか……」
「ヤヨイちゃんは? 絶望捜査官になってよかったって思う?」
考えたこともなかった。絶望捜査官という仕事は、なりたいもの、なりたくないもののどちらかというのを考えることすら禁じられていた気がする。そういう言い方をするならば、私は絶望捜査官になりたくなかったのかもしれない。だが、いざ就職することになったほんの数ヶ月前、私は本当になりたくないと思っていたのだろうか。
「……分からない。なんだか絶望捜査官になってから、いろんなことが分からなくなった気がする」
「うん。分かるよ、何となくね。だって絶望捜査官自体、訳の分かんない仕事だし」
「……え?」
私は耳を疑った。驚きを隠しきれずに、シノちゃんの真意を探るために私はシノちゃんの顔を見つめた。目が合うとシノちゃんは少し笑ってから、すぐに真顔に戻った。
「じゃあ、質問を変えよっか。……ヤヨイちゃんは、絶望捜査官がこの世界にとって、本当に必要だと思う?」




