6章 英雄の誕生
魔王の王都進軍という情報は瞬く間に砦内を駆け巡り、今までのお祭りムードから一転、張り詰めた空気に包まれた。ローレンはただちに隊長兵士達を召集し軍議を開いた。
伝令からの情報はかなり深刻なものだった。異形のモノ達の大軍団が、途中の街や砦を素通りして、王都方面へ真っすぐ進軍を始めたこと。そして、集団の中に一際大きく漆黒の鎧に身を包んだ存在が確認された。遠くから見ただけでも畏怖を感じさせるその圧倒的な存在感……。
それが異形のモノ達の王、魔王だった。
魔王自ら率いる異形のモノの主力部隊、国王軍の一個大隊程度に止められるはずもない。魔王軍進路上に展開していた国王軍はことごとく潰走した。そして、参謀長ジェフの戦死も併せて報告された。ジェフがたまたま前線の視察をしていたところに魔王軍が現れたという。必死の抵抗虚しく、最後は大量の火薬を抱えて、異形のモノを道連れに自爆、壮絶な最期だった、と伝令は涙ながらに語った。
参謀長ジェフを失ったことは国王軍にとって大きな痛手だった。ジェフは異形のモノとの戦いにおいて実質的な総指揮を取っていた。今までなんとか戦ってこられたのも彼の戦略によるところが大きい。軍全体の士気低下は免れなかった。
そしてジェフ亡き後の参謀部からの命令も伝えられた。
全軍王都へ集結せよ、と。
軍議は現状を確認した後、王都救援についての話し合いが始まった。ローレンは地図上で魔王率いる異形のモノ達の予定進路を指差しながら、部屋に集まった隊長兵士達と目配せする。全員まだ酒が残っていて顔は赤いが表情は真剣だった。
隊長兵士の一人が報告した。
「情報によると、魔王の軍勢はいくら大部隊だとはいえ、進軍速度が非常に遅いようです。理由は分かりません」
「誘っておるのかもしれんな」
特に求められていたわけでもないのに、ウルドの隣に座っていたマローリンが応えた。今のウルドにとって、マローリンの隣の席など願い下げだったが、非常事態ということではしかたがない。
「どういうことですか、先生?」
ローレンの質問にマローリンは立ち上がった。わざとらしく咳一つして全員の注目を誘う。
「決着をつけたくなったんじゃなかろうか、とわしは思う。こう着状態に陥った今の状況、奴らもしびれをきらしたんじゃろう。大会戦に持ち込んで一気に勝負をつけたい、ということではないか」
「なるほど……。さすが先生!」
ローレンが心底感心した様子で深々とうなずいた。すっかりマローリンに心酔してしまっているようだ。今ならどんな命令でも聞きかねない。
マローリンが着席すると、ローレンはもう一度地図を指差した。
「とにかく、奴らの進軍速度は遅い。全速力で移動すれば、王都には十分間に合うだろう」
そう言って、砦から王都へ向けて太い矢印を書いた。「騎馬隊なら全速力で五日といったところか」
「敵が王都へ到着するのを許すのですか? もっと早い段階で戦った方がよいのではないですか?」
ある隊長兵士からの質問に、ローレンは首を横に振った。
「兵を揃えるのに時間がかかる。こちらとしてもなるべく決戦を遅らせたい。参謀部はそういう判断だ」
すると別の隊長兵士が上擦った声で呟いた。
「たとえ兵を揃えたとして、俺たちは勝てるのか……?」
ローレンは発言した隊長を鋭い目つきで睨んだ。
「マーカス! 貴様、一隊を任された責任ある者が、戦う前にそんな弱気でどうする」
ローレンはマーカスと呼ばれた隊長に早足で歩み寄るとその胸倉を乱暴に掴んだ。酒が入って元々赤かった顔が怒りで更に鮮血のように赤くなったローレンの顔を見て、マーカスの顔は蒼白色に変わる。
しかし、マーカス隊長の不安は当然のことだ。今まで経験したことのない大軍団との会戦。先の砦の戦いで目撃した、異形のモノ達が一丸となって駆けていく様子は、さながら青い山が動いているかのようだった。ただし、前回の戦いでは異形のモノの数は千に満たなかった。それが万を超えたらと考えると……、想像するだけでも足が震えてきそうだ。更に今まで軍の支えであったジェフはもういない。国随一の軍略家を失いどう戦えばいいのか。
マーカス以外の隊長兵士達も一様に顔が白い。同じようなことを考えているに違いなかった。そしてそれはローレンも一緒だった。今は不安な様子を見せまいといつも以上に威勢を見せつけていかのようだ。
そんな重苦しい雰囲気はある一言によって断ち切られた。
「皆、恐れることはないぞ」
そう言って再びマローリンが立ち上がった。——このジイさんはいちいち立ち上がって注目を集めないと発言できないのか?
「忘れたかのう、わしらにはこれ以上にない切り札を持っていることを」
部屋にいた全員の視線が一斉にマローリンへ集まる。
「切り札、とは?」と、ローレン。
「もちろん、英雄の末裔にしてその形見の剣を手にするチェド殿に決まっておろう」
隊長兵士達は目を見開いたまま「ほお」と感嘆の声を漏らし、ざわめき始めた。その声はだんだんと大きくなり、
「英雄チェド、万歳!」
隊長兵士の誰かがそう叫んだのを皮切りに、次々と隊長兵士達からチェドを讃える声があがった。瞬く間に軍議が行われている部屋は「チェド様」「チェド様」と大合唱が始まった。
ウルドはその様子を唖然として見守っていた。国王軍の要であった参謀長ジェフが戦死した今、この国に残された希望は英雄、ということなのか。ちょうど崇拝の対象である英雄チェドはこの部屋にはいない。
先ほどの廊下でのマローリンとのやり取りを思い出す。
——彼らはチェドに期待を寄せているのだろうか、それとも英雄という存在を頼りにしているのだろうか。
マローリンの言葉により軍議から不安が一掃され、逆に異様な熱気に満たされてきた。ローレンが静粛にと注意して場を鎮めなければならいほどだった。
会議はその後、王都帰還の為の手順について確認が続いた。最早不安を口にするものは誰もいない。
それからどの位時間が経っただろう。
「……頼むぞ、ウルド」
「……」
「ウルド? 聞いているか」
気づいた時にはウルドはローレンから声をかけられていた。はっと顔を上げる。ローレン以下全員がウルドを見ていた。
「いえ、すいません、聞いていませんでした」
「しっかりしてくれよ……、まだ酔いが醒めないのか?」
そう言ってローレンは呆れたように口を歪めた。
「お前は先発隊に混ざって一刻も早く、英雄様を連れて王都へ戻ってくれ」
「あ、はい。わかりました」と、反射的に答えた。
でも、と先ほどからウルドの思考はぐるぐると回っている。本当にこのままチェドを連れて行っていいのか。しかし考えたからといって答えなど出ようはずはなかった。実は考えているつもりで実は何も考えていない、思考停止状態。
「本人が望んでおるのじゃ。若いの、お前が悩む必要はなかろう」
マローリンがウルドにだけ聞こえるような小声で話しかけてきた。どこまでも人の心を見透かしたような態度が気に食わない。
でも確かに本人が望んだ以上、自分としては止められないのは確かだ……。
□ □ □ □ □
必要最低限の荷物以外は往路で使用した馬車も含めて一切合切砦に残して(馬車に残されたたくさんのお土産は少し心残りだったがしかたがない)、寸暇も惜しんで馬を飛ばすこと五日。ウルド達は王都へ帰還した。
約二か月ぶりの王都だった。出発直後はもう少し長期間の旅も覚悟していたので、今思えば案外早い帰還だったと感じる。
王都入り口は会戦準備の為大きく様変わりしていた。都市を囲う城壁の上にはたくさんのバリスタが設置され、その周りには物資置き場や兵士達の詰所として数多くの小屋やテントが建てられていた。更には身を隠すための土嚢の壁や塹壕が幾重にも巡らされていた。兵士や労役動員された男達が戦いに備えてせわしなく働いている。
ウルド達を含めたハクラの砦からの先発隊は、馬に乗ったまま王都入り口の城門へ向かう。すると城門前の兵士達が次々と作業の手を止め、ウルド達をじろじろと見始めた。ウルド達へ向かって指を指す者、ヒソヒソと小声で話し合う者達もいる。ウルドは彼らの行為について最初は首を傾けたがすぐに合点がいった。彼らの指先と視線はウルド達一団の中にいるチェドに向けられているのだ。英雄様のご帰還を彼らは食い入るように見ていた。
英雄チェドの活躍は今や国中に知れ渡っていた。人の噂は馬よりも速いとは、本当のようだ。
彼らに悪気はないのだろうがあまりに好奇な視線が気になった。馬に先発隊の兵士と二人乗りして、ウルドの隣に付いて来ているチェドも、周りの視線が気になっている様子で、体を縮こまらせ目を伏せていた。もっとも彼は王都への帰還途中ずっと目を伏せていたが。
ウルドは持っていたマントを黙ってチェドに渡した。チェドも黙って受け取る。そして顔全体を覆うように羽織った。
ハクラの砦を出発して以来、チェドとは全く言葉を交わしていない。今のようにウルドに黙って従ってきてくれたが、何もしゃべらない。元々無口な奴だったが、砦に向かう途中はそれなりに会話ができるようになっていたはずなのに。ウルドも何となく声がかけにくくて、話す機会を完全に失ってしまっていた。
ちょうど王都正門にさしかかった。すると頭上から声がした。
「兄貴!」
ウルドは馬を止め視線を上げる。城壁の上で戦いの準備をしている兵士達の中に混じって、鶏冠のような髪に胸も半分はだけた格好をした男がいた。ウルドに向かって手を振っている。
ウルドの弟イェニーだった。
「お前、何やってんだ? そんなところで」
ウルドは手を口の横に添え大声でイェニーに聞いた。ウルドと共に来たチェドやマローリンを含めた先発隊は次々と城門をくぐって王都内へ入っていった。ウルドだけが城門前で立ち止まる。
「当然、待っていたんだ」
「誰を? ……まさか俺のことか」
おお、そんなふざけた格好をして母親を泣かせるような我が弟も、人並みに身内のことを心配してくれたのか。やっぱり持つべきものは家族、そう思うと少し嬉しくなった。
「ちげえよ」
え?
「俺は、未来の嫁さんを待ってたに決まってるだろ」
ウルドは馬から転げ落ちそうになった。
「何処にいるんだヘレーネは? 一緒に行動をしてたんだろ? そう手紙には書いてあったじゃないか!」
確かにホイリヨ村を出発する前にそんな手紙を弟宛に出した覚えがある。その後色々あってすっかり忘れていた。なるほど、ウルド達が戻ってくると聞いて城壁に登って待っていたのだろう。
イェニーは目を凝らして必死に婚約者を捜していた。ウルドはため息をつく。そんなに心配なら指導教官として、初めからこんな危ない旅に行かせるんじゃない。
「彼女ならまだハクラの砦だ。まだ仕事が残ってるんだと。それにこれから戦いが始まる王都よりも離れた砦の方が安全だろ」
なるほど、と言ってイェニーは手を叩いた。
「……それより俺のことは心配してくれなかったのか?」
ウルドはなじるような口調でイェニーに言ってやる。するとイェニーはフンと鼻で笑った。
「何で俺が兄貴のことを心配しなきゃならねえんだ」
と、実に薄情な答えが返ってきた。——なんて酷い。俺の周りにはこんな奴らしかいないのか!
「……心配はしてないが、必ず返ってくるとは、信じてたよ」
イェニーは付け足し的に嬉しいことを言ってくれる。……って言われたら言われたで少し恥ずかしいぞ。
「……それよりも」
突然イェニーの声が少し低くなった。彼の表情の変化にウルドは緊張した。イェニーは真剣な表情でウルドを見下ろしている。目を細め、眉間に皺を寄せる。……ガン飛ばしているわけではない。弟は何か重大な話をする時よくこんな表情をする。家族の前でヘレーネとの婚約を発表した時も、王立アカデミーでの助手内定を報告した時も、子供時代おねしょを告白した時もこんな表情だった。
その弟の表情に重要な話があると直感する。まさか今度の決戦に関して異形のモノ関する重大情報でも伝えるつもりなのだろうか。弟は戦争初期に異形のモノ研究の第一人者として軍にも協力していた。奴らに対するとっておきの秘策を握っていても不思議ではない。ウルドも自然と真剣な面持ちになる。
ウルドは黙ってイェニーの言葉を待つ。イェニーはしばらくウルドを見つめていたが、ゆっくりと口を開いた。
「……手ぇ出してないよな? ヘレーネに」
「出すか!」
間髪入れず言い返した。……勘違いした行動はとったことあるかもしれないが。
□ □ □ □ □
王都の正門をくぐり、王宮へと続く長い大通りを進む。
大通りは王宮方向へと向かう大勢の人々でごった返していた。普段は見られない屋台が軒を連ね、道端では大道芸人達が出し物を披露している。どこもたくさんの人だかりができていた。
なんだ、これから祭りでも始まるのか? 今から国の存亡を掛けた異形のモノとの一大決戦があるというのに。不謹慎な奴らだ。
ウルドは馬をゆっくりと進める。屋台から漂ってくる香ばしい匂いが鼻腔を満たす。途端にお腹がぐうと鳴った……。
屋台で売られている料理に気を取られながらも、人の波をかき分けようやく王宮前広場に到着した。普段は奥様方の買い物帰りの井戸端会議場である広場には、今は大勢の兵士達が集まっていた。そして彼らを取り囲むように広場の隅に都民達が押し寄せている。
広場の喧噪にウルドは戸惑いつつも、馬を下りてチェドとマローリンを探した。
チェド達は広場から少し離れた建物の影にいた。周りの人達から隠れている様子でウルドも危うく見落としそうになった。群衆を押しのけて彼らに近づいた。
そこにはチェドとマローリンの他に、ウルドの上司、親衛隊隊長ディーンがいた。
ディーンはウルドに気づくと嬉しそうな表情を見せて手招きしている。
「おお、アイラー君。無事だったか。よくやったぞ! やはり君は私が思っていた通りの男だった!」
上司から篤い労いの言葉を頂戴した。……しかし特に感慨は湧かなかった。何かを成し遂げたという達成感は皆無だし、それどころか警戒心すら覚える。ディーンが愛想笑いを浮かべて下手に出た時は要注意だ、ということはこの旅の前に経験済みだ。
上司と儀礼的に握手を交わした後、ウルドは広場に続々と集まる人々を指差してディーンに尋ねた。
「これは一体なんでしょうか?」
「おお、これか!」
ディーンはにやりと笑った。「魔王率いる異形のモノ達の軍勢はすぐそばまで来ている。今日の午後には戦いが始まるだろう。そこでこれから、国王陛下自ら兵士達と都民達に向けて演説を行うことになった」
そう言って、ディーンは広場に面した王宮のバルコニーを指差す。そこにはトウマ国の国旗が高々と掲げられ、はためいていた。そして宰相アスがバルコニーから広場を見下ろしている姿が見えた。
「陛下より演説を賜ることで、兵士達の士気を高めようとしているのだ」
また演説か、喋るのが大好きな王様なことで。……でも最近演説、お喋り好きな人が周りに多いな、なとどウルドは思いながらふとマローリンに目を向けた。マローリンに「なんじゃ?」と訝しそうな目つきで見返された。ウルドはすぐに顔を背けた。
広場には続々と人が集まってくる。楽隊までいて、彼らは景気の良い音楽を演奏していた。子供達が笑いながらその周囲を駆け回っている。本当にお祭りの雰囲気だった。
「それにしても、凄い人の数ですね」
ウルドが辺りを見渡しながら素直な感想を漏らした。
「ああ、前代未聞だ」
ディーンもうなずきながら同意する。
国王の演説なら定期的に行われていたが、これだけの人が集まっているのを見たのは初めてだった。普段なら広場に半分も人が集まれば多い方だった。しかもそのうち半分は、一般住民に扮した非番の親衛隊や国王軍兵士達がサクラとなっている。それが今はどうだろう、王宮前広場は超満員、周囲の大通りにまで人があふれかえっている。建物の窓からも大勢の人達が顔を出して広場を注視していた。状況が状況だけにみんな気になるのだろうか。
「それで……」
声の大きさを押さえてディーンは続ける。ディーンはチェドの方を向いた。
「英雄殿と魔法使い殿には既に伝えたんだが、……英雄殿にも是非演説をお願いしたいのだ」
ウルドは目をしばたたかせる。——チェドが演説? 無理だろう、どう考えても。ただでさえ人見知りが激しいんだ。こんな大勢の前に立ったら、泡を吹いて倒れるんじゃないか? しかしディーンの次の一言に驚愕する。
「本人からは快諾いただいた。一応、アイラー君にも事前に伝えておこうと思っただけだ」
ウルドは思わずチェドとマローリンの方を向く。二人は同時にうなずいた。
「本当に、同意したのか?」
ウルドの質問にチェドはもう一度頭を縦に振る。相変わらずの無表情だった。
「あんたがまたそそのかしたのか」
ウルドはマローリンを睨んだ。マローリンは大げさに首を横に振って驚いた表情をみせる。
「何を言っておる。わしは何も言っておらんぞ。やると言ったのは本人じゃ。まあ、チェド殿が一言話せば軍の士気は更に上がる、とだけは言ったがのう……」
やっぱり誘導してるじゃねえか。本当にとんでもないペテン師で狸ジジイだ。
ディーンがウルドとマローリンの間に割って入る。
「お取り込み中悪いが、もう時間がない。すぐにこっちへ来てくれ」
そう言ってディーンはチェドの手を引っ張って、ずいずいと裏道を進み始めた。ウルドも舌打ちをすると、彼らの後を追った。
□ □ □ □ □
ウルドは王宮の窓から広場を見下ろして改めて人の多さに驚いた。人の数は更に増えて、広場から王都正門に続く大通りも群衆で埋め尽くされていた。王都どころか周辺の村々からも人々が集まっているのではないだろうか。お祭りの時でもこれだけの人は集まらない。バルコニー周辺の警備にあたっていた同僚の親衛隊達も驚きの顔を隠せないでいた。
ウルド達がバルコニーに到着すると、丁度演説の準備が行われていた。バルコニーの隅で国王とアスがなにやら話し合っている。
「陛下、素晴らしいご演説文です。きっと広場の民も陛下のお言葉を聞いたら、感動のあまり涙するに違いありません」
「そ、そうか。ここなんかもう少し間を入れた方がよいと思わぬか?」
「ごもっともでございます。なんでしたら楽団も使って、効果音も出しましょう。より感動的になるかと」
などと話し合いながら、二人はにやにやと下品な笑いを浮かべ、演説の予行練習をしていた。
一方、もう一人の演説者チェドに目を向けた。チェドは直立不動のまま目を瞑っている。こちらはいったい何を話すつもりだろう。幸か不幸かウルドは人前で演説した経験はないので助言のしようがない。こういう時こそ経験豊富なマローリンがいろいろ助けそうなものだが、マローリンも黙っていた。じっと国王と宰相のやり取りを見つめているようだ。
そして演説の時間になった。
力強い銅鑼の音が広場に響き渡った。今まで騒がしかった群衆は一斉に静まり返る。そして国王メージェがバルコニーから姿を現した。メージェは広場に集まった群衆をゆっくりと見渡すと満足そうにうなずいた。
冷たい風が国王の豪華なマントを波立たせた。広場に集まる人々の視線が国王に集まる。
「親愛なるトウマ国国民の皆さん、そして地上で最も勇敢で誇り高き国王軍兵士諸君」
メージェは国家元首にふさわしく、朗々とした声で語り始める。
「建国より約千年。王国はこれまで外国より侵略を受けたこともなく、長らく安定かつ平穏が保たれてきました」
(対外戦争は盛んだけどな)
突然ウルドの隣からかすれるような小さな声が聞こえた。思わずウルドは左右を確認する。チェド、マローリン、ディーン、アス、そして警備の親衛隊達。彼らはじっと国王の背中を見つめていた。空耳だろうか。ウルドは首を傾げる。
「これはひとえに歴代の王による優秀な指導と、それに付き従ってくれた臣民たる皆さんの賜物であります」
(ただの自画自賛じゃねえか)
まただ、また声が聞こえる。再び左右を確認するが、ウルド以外は誰一人微動せず国王を見ていた。やっぱり空耳だろうか。
「ところが、古の建国物語より語られてきた凶悪な存在、異形のモノが朕の愛するこの国を奪わんと襲いかかってきたのです。当然そのような暴挙許すわけにはいきません。誰よりも国民を愛する朕はただちに異形のモノ撃滅のために立ち上がりました」
メージェは持っていた扇子を振り回し、顎と腹の肉をぷるぷると震わせながら演説を続ける。
「開戦直後こそ劣勢ではありましたが、この世界で最も優秀な国王軍兵士達の比類なき働きと、国民の皆さんの必死の献身により、異形のモノの侵攻は止まりました。国王として礼を言います」
(お前は具体的に何をやったんだ?)
三度声が聞こえた。さすがに空耳だと思うには無理があった。しかも内容が穏やかではない。明らかに国王への非難の言葉だった。こんな言葉を発するなんて不敬も甚だしい。しかし誰も何の反応も示さない。ウルドだけに聞こえるのだろうか? ウルドは急に不安な気持ちに襲われる。
「そして、戦いが始まること一年。満を持して異形のモノへ反攻を開始し、数々の戦果をあげてきました!」
ここでメージェが間を置く。群衆達の反応を見ているようだった。群衆の反応は相変わらず沈黙。静かにバルコニーの方を見ている。
メージェが一瞬首を傾げる。どうやらここでひと盛り上がり欲しかったらしい。その当てが外れたようだ。宰相アスが一歩遅れて拍手を始めた。それに続いてディーン、そして警備の親衛隊も拍手を始めた。最後に群衆の中にいる兵士達の何人かが拍手をする。
パチパチパチ……。
乾いた音が広場に響く。あまりにも寂しい拍手だった。
それでも反応がようやく返ってきたことに満足したのかメージェは演説を再開した。
「焦った異形のモノは、無謀にも朕の都に直接攻撃を仕掛けてきました。この報を聞いた親愛なる国民の皆さんは夜も眠れぬ日々を過ごしたかもしれません」
(おまえもな、目の下のくまが痛々しい)
「だが、皆さんご安心ください。第四十四代トウマ国国王メージェ五世の名にかけて、必ずや異形のモノを打ち払い、この戦いに終止符を打つことを、あの光輝く太陽に誓いましょう」
メージェの扇子が一直線に天を指す。
……空は厚い雲で覆われていた。
ワンテンポ遅れて効果音の銅鑼が叩かれた。しかし叩いた所が悪かったのか、コンと響きのない力の抜けた音しか出なかった。
沈黙。痛々しいまでの沈黙。
ウルドも、警備の親衛隊達も顔をしかめた。
(ハハッ、ざまあねえ)
メージェは一つ咳払いをすると、改めて広場の群衆に扇子を向ける。
「さあ、立つのだ勇猛果敢なトウマ国王軍兵士達よ。今こそ異形のモノ達を打倒し、功をたて末代まで語られる誉れを得よ。この国の命運は諸君らにかかっている。諸君らの手で、朕の国の平穏を取り戻すのだ!」
こう言ってメージェが演説を締め、拳を力強く空へ向けた。今度はタイミングを合わせてアスとディーンが「オー」と、ときの声をあげる。それに続いてバルコニー奥に立つ親衛隊達と、群衆内の一部の兵士達が同じくときの声をあげた。
「オー」
迫力のないときの声だった。
やはり大多数の民衆は無反応だった。もう一度アスとディーンがときの声をあげる。今度は兵士の中からもアス達に続く者はいなかった。
それでも満足そうにメージェは群衆に向かって何度か手を振ると、笑みを浮かべてバルコニーから下がった。アスがメージェの元に近づく。メージェの額には大玉の汗が吹き出ていた。その体格で起立したまま長時間の演説、相当体に堪えたことだろう。
国王は扇子で自分の顔を扇ぎながらアスに向かって、
「どうだった、朕の演説は」と尋ねる。
アスは愛想笑いを浮かべた。
「素晴らしい名演説です。これで軍の士気も最高に上がりましょう」
「そうだろ、そうだろ。今日の演説を記録し、後世に残るようにせよ」
メージェもそう言って笑う。
メージェ以外にしてみれば、国王の演説は完全に空回りで、軍の士気など欠片も上がっていない事は明らかだった。特に王都民の反応が最悪だった。元々あまり人気がない国王であったがまさかここまで酷いとは……。
その事に気づいていないのは恐らくメージェだけだろう。アスも必死にメージェの演説を褒め称えているが、逆にそれが反応の悪さを示していた。
「さ、次はチェド殿の番じゃぞ」
メージェがバルコニーから離れた後、マローリンがチェドの前に立った。チェドの顔は相変わらずの無表情。目はうつろで生気を感じられなかった。しかし、時折手が震えている。緊張はしているようだった。
本当にこんな状態で演説なんて出来るのだろうか。
「本当に大丈夫か? 嫌ならやめておいても」
ウルドがもう一度チェドに向かって確認する。しかしチェドは首を横に振った。
「何も不安になることはない。皆の前に姿を見せて、一言、頑張ろうとでも言えばいいのじゃ」
マローリンが何時になく優しく話しかける。ウルドに対しては絶対にしないような声色だった。
チェドはマローリンから離れ一歩前に出る。また一歩。バルコニーの手摺りに向かって、歩幅は小さいし、手も足もぎこちなかったが、一歩一歩近づいていった。
そして広場の人々の目にチェドの姿が映った。
その瞬間、割れんばかりの大歓声が広場と大通りから湧き上った。人々の歓喜の声で王宮の窓ガラスはガタガタと震え、ウルドの肌をびりびりと打った。その熱狂は先ほどの国王が演説した時とは比べ物にならなかった。
広場に集まった群衆は国王ではなく、英雄の登場を待っていたのだ。彼らの希望であるチェドという英雄を。
先ほどまで自分の演説にご満悦だったメージェも驚いて目を見開いた。座っていた椅子から立ち上がり、広場の群衆の様子を覗き見しようとしている。
バルコニーにいた全員が一様に驚愕の表情を浮かべている中、ただ一人、マローリンだけは満足そうにうなずいていた。
チェドは歓声の大きさに驚いて一歩後ずさった。しかしぐっと両手を力強く握りしめると、腰に差していたウエンリハトを掴んだ。
「おい、まさか」
次のチェドの行動が想像できた。ウルドは近づいて止めようとする。
「黙って、見ておれ」
マローリンがウルドの肩を掴んで制止した。
チェドが一瞬ウルドとマローリンを見た。チェドの顔は依然として無表情。朱の瞳は暗く濁り、目は焦点が定まっていない。
ウルドはこれ以上声が出なかった。今回も黙って見ていることしかできなかった。
チェドはゆっくりと剣を鞘から抜く。
そして彼は英雄になった。
「この俺が魔王をぶっ殺してやる。野郎共、ついてきやがれ!」
その言葉とともに英雄はウエンリハトを空に向かって高々と突き出した。丁度厚い雲が割れ、そこから漏れる光芒が英雄を照らした。英雄と手にしている剣がまばゆく光り輝き、王宮と広場を淡い光で包み込んだ。
この日一番の歓声が王都を埋め尽くした。広場の群衆全員が拳を突き上げ、
「英雄、万歳!」「英雄、万歳!」「英雄、万歳!」と大合唱する。
その声援に王都全体が震えた。
ウルドは呆気にとられていた。
ようやくマローリンがウルドの肩を手放す。マローリンは満足そうに笑っていた。
ウルドは一歩マローリンから後ずさった。
「あんた、何がしたいんだ……」
「じゃから、この国を救いたいと」
マローリンはそう言って口を三日月型に歪める。そして「クックックッ」と小さく笑った。
「マローリン、さっき国王が演説していた時、かなり悪意ある内容をブツブツと呟いていただろ」
ウルドは身構える。マローリンは表情を崩さないまま、目だけ大きく見開く。
「ああ、聞こえておったか。だが所詮お前も体制側の人間、気にするな」
「……不敬罪で、お前を今この場で逮捕することも可能だぞ」
ウルドがマローリンの手を掴もうとする。
その時、バキッと大きな音がした。ウルドも含めバルコニーにいた全員が音のした方を振り返る。メージェの手にはバラバラに壊れた扇子が握られていた。メージェの顔は真っ赤で、手がわなわなと震えていた。その隣でアスが慌てふためいて必死に「お気を確かに、陛下」と言ってなだめていた。
メージェは明らかに怒っていた。自ら壊した扇子を力一杯地面に叩き付けると、アスとディーンを引き連れて王宮の中へと去って行った。
「やれやれ、少しやり過ぎたかのう」
そうマローリンが呟くのが聞こえた。
英雄を讃える大合唱はまだ続いていた。
□ □ □ □ □
決戦は間近に迫っていた。
相変わらず空は厚い雲に覆われている。雨が振るかもしれない。風も強くなってきて、立っているだけだと寒さに身が震えた。
ここで負ければ王都は崩壊し自分達は滅亡する、それが分かっているため否応なしにも緊張感が高まった。
国王軍の準備は滞りなく完了し、陣形も整えられ、敵の到着を今や遅しと待ち構えていた。
国王軍は王都正門前に本陣を構えていた。当然国の代表たる国王がそこで自ら陣頭指揮を執るかと思いきや、王宮に籠ってしまい出てくる様子はない。国王軍最高司令が本陣で全体の統括を行っていたので戦う上では問題はない。寧ろ兵士達から、国王やその取り巻きなんかがしゃしゃり出てきたら逆に邪魔だ、と言われる始末である。人気のない国王ではあったが、先ほどの演説以来、より国王に対する風当たりが強くなった気がする。
しかし今はそんなことを構っている余裕はない。
ウルドは城壁の上から、決戦場となる平野を眺めていた。天候のせいで平野は薄暗く遠くまでは見通せなかった。冷たい強い風が不気味な音を立てて吹いていた。
異形のモノ達は間近に迫っているはずだがまだ姿は見えない。
ウルドを含め親衛隊は一カ所に集められていた。王都存亡の際に、一般兵士とか親衛隊とか区別している場合ではなかった。全員が戦う必要がある。しかしウルドの周りにいる親衛隊達の顔色は一様に蒼白だった。先ほどから何度も手洗いに行っている奴がいたり、やたら水を飲んでいる奴がいたり、壁の隅で吐いている奴もいる。
先ほどの英雄の演説により兵士達の士気は最高潮に達していた。それに対して親衛隊達の士気はすこぶる低い。無理もない、一応軍所属と言っても長らく戦いとは無縁で、ほとんど事務仕事を行ってきた連中だ。いきなり実戦で戦えと言われても難しい。その点ウルドは今回の旅で否応なしに戦わされてきた。当然緊張はしているが、他の親衛隊の連中ほどではなかった。
偵察隊の報告によると、魔王率いる異形のモノ達の軍勢はその数約六万。誰もそれだけの数の異形のモノ達を見たことはない。当然戦ったこともない。一方の国王軍は王都に集結した本隊が約八万。更に魔王軍側面に別働隊として約二万。これらが魔王軍を挟み撃ちするように布陣している。王都周辺に国王軍の大多数が集結したことになる。正に大決戦だ。
数では国王軍側が有利だが、人間よりも巨大で何倍もの力を持つ異形のモノが相手となっては、たとえ準備万端の防衛戦といえども、どんな戦いになるか想像もつかない。特に今回は相手側に魔王という最大の不確定要素がある。魔王の存在こそ認知されていたが、具体的にどれほどの力を持っているのかほとんど情報はなかった。片手で山を破壊するほどの力があるとか、湖を一瞬にして干からびさせるほどの高温の炎を吐くとか、噂されているが、いずれも確証に欠けた。
だが国王軍側にも切り札はある。ウエンリハトを持った英雄チェドだ。魔王を打ち倒せるのはこの剣を持った英雄だけとのこと。必然的に国王軍にとって唯一の対抗手段とも言える英雄を、如何にして魔王のところまで誘導するか、が最重要課題となった。
その大任を命ぜられたのがウルド達親衛隊の面々である。英雄チェドを護衛し魔王軍本陣まで誘導せよ、これが今回の任務だ。もっとも、魔王へ至る道は先陣の兵士達が作ってくれるはずなので、魔王以外の異形のモノと直接対峙する可能性は低い。この英雄誘導任務をディーンが総司令官に「親衛隊にお任せください」と直訴したそうだ。要はおいしいところだけを担当しようという、ディーンらしい発想だった。言った張本人は「隊長として後方で指揮を執らねばならない」などとのたまいやがった。つくづく調子のいい上司だ。
「なあ、よく平然としてられるなあ」
ウルドの同僚の一人が声をかけてきた。彼の顔も蒼白で今にも倒れそうな様子だ。
「そんなことないぞ、俺だって立っているのが不思議なくらいだ」
「本当か? 俺なんて今にも吐きそうで……。うん? アイラー、これを持ってないのか?」
そう言って同僚は肩に背負った銃をウルドに見せた。砦攻略部隊の陣で見た銃と同じものだった。軍のエリートたる親衛隊に最新兵器である銃が優先的に配備された、そうだ。軍のエリートかもしれないが戦いのエリートではないので、宝の持ち腐れじゃないか、なんて口が滑っても言えない。
「ああ、俺はうまく扱える気がしないから……」
そう言ってウルドは腰に差した剣を指差した。ハクラでの戦いで剣を失ったが、王都へ出発する前に補充しておいた。まだあまり手になじんでいないので少し不安ではあったが、使ったことがない銃よりはましである。
「そっか、まあ俺達もついさっき使い方を教えてもらったばかりだから、似たようなもんだが……。それにしてもいいよな、先輩方々は王宮守備だなんて」
そう、前線に送られるのは若手、中堅の親衛隊のみ。先輩親衛隊の方々は、ディーンと共に後方待機だった。これでは士気が上がろうはずはない。
噂をすれば、後ろから親衛隊長ディーンの声がした。
「アイラー君。ちょっと来てくれ」
ウルドは同僚の肩を叩いて、ディーンの元に向かった。
ディーンの後ろにはチェドとマローリンが立っていた。チェドは剣を鞘にしまい、通常状態(?)に戻っていた。ウルドはマローリンを一瞥する。マローリンはウルドと目を合わせようとせず、じっと平野を見ていた。王宮バルコニーでの出来事は、演説が終わった後、すぐに決戦準備が始まったのでうやむやになったままだ。あれ以来、チェドともマローリンとも話していない。
ウルドはディーンの前に立つ。ディーンは眉間に皺を寄せて唸るような声を出した。
「先ほど作戦の最終確認が行われた。アイラー君、君はこのまま王宮の守備についてもらいたい」
ディーンの言葉にウルドは眉をひそめた。
「俺だけですか……?」
「そう、アイラー君だけだ。閣下直々のご指示だ」
先ほど聞いた作戦予定では、ウルドもチェドを護衛し魔王の元まで接近するはずだった。急に変わったのか? しかしウルドのみ王宮の守備。全く解せなかった。違和感を感じる。
「……しかし」
「上官に口答えするか? 君らしくもない」
ディーンが強い口調でウルドの発言を遮った。ウルドは黙り込む。奥にいるチェドをちらりと見る。チェドはウルドの方を見ていなかった。彼もマローリンと同じくずっと王都の外、異形のモノ達がいるはずの方向を虚ろな目で見ていた。
「マローリン殿も王宮にお連れして、安全な場所に避難していただきなさい」
その言葉にマローリンも目を見開いてディーンを凝視した。マローリンも初耳だったらしい。ますます違和感が募っていく。
しかしこれが上司の命令なのだから……。
ウルドは親衛隊達へ目を向ける。ある者は目に涙を浮かべて懇願するような表情を向けて「代わってくれ」と訴えていた。またある者は妬ましそうにウルドを睨みつけている、親指を下にして突き出している者もいた。
ディーンがウルドの肩を叩く。
「今までご苦労だったな、お前はゆっくり休め」
ウルドは黙ってディーンの言葉に従った。
□ □ □ □ □
ウルドとマローリンは同じく王宮警護を命ぜられていた先輩親衛隊の先導で、王宮に戻ってきた。先ほどまで大勢の人々が集まり熱狂に包まれた大通りと広場も、今は誰もいない。数台の荷車が広場に放置されていた。
王宮に入るとウルドとマローリンはそのまま先輩親衛隊に付き添われ、今は使われていない小部屋に通された。先輩親衛隊は「しばらく待ってろ」とだけ言い残して小部屋を出て行った。
部屋は薄暗く、埃っぽかった。二人は黙ったままマローリンは一つだけあった椅子に腰掛け、ウルドは壁にもたれかかった。
その時、遠くからゴロゴロと低い音が響いてきた。ウルドは窓の外を見る。今にも雨が降り出しそうだ。遠くで雷でも鳴っているのだろうかと思ったが、今度はドン、ドンと絶え間なく何かが爆発する音が聞こえたことで思いを改めた。
遂に戦いが始まった。
外は騒がしそうだが、王宮内はとても静かだった。
——最後の最後に蚊帳の外か。……この期に及んで王宮警備だと、ふざけているのか。
「心配か?」
背後からマローリンの声がした。振り向くとマローリンは椅子に深々と座り小さく丸まっていた。
「……そりゃあ、当たり前だろ」
国の命運がかかっているのだ、気にならないわけがない。
「じゃあ、若いの、何故お前はここにいる?」
そう言ってマローリンはウルドの方を向いた。
「仕方ないだろ、王宮警備の任務を与えられたんだ」
チリリ、とこめかみが痛んだ。思わず顔をしかめた。
「心配か?」
マローリンから再び同じ質問が投げかけられた。
「もちろん」
ウルドはうなずく。
「じゃあ、何故ここにいる?」
この老人は何が言いたいのだろうか、マローリンは何かを非難するかのように厳しい目線を向けてきた。
遠くから断続的に馬のいななき、発砲音が聞こえてくる。段々と音が大きく激しくなってくる。
「若いの、お前もよく分からん男じゃのう……」
マローリンは三角帽子を脱いだ。マローリンの長い白髪がふわりと肩に垂れ下がった。帽子を取ったマローリンは急に小さく見えた。顔は皺だらけ。白い顎髭も弱々しく見えた。しかし、目には生気にあふれ若々しい光を宿していた。そこにいつもの作り笑いはなかった。そう言えばマローリンが帽子と取ったところ初めて見るなあ、などとどうでもいい感想が浮かぶ。
「わしはこう聞いておるのじゃ。お前は何がしたい、かと」
質問の意味を理解するのに少し時間がかかった。黙ったままのウルドに構わずマローリンは続ける。
「若いの、この旅の間、事あるごとに任務、任務とうるさかったのう。そんなに任務と言って肩は凝らんのか?」
「それが任務だから、しようがないだろ」
ようやく言葉を返す。——あれ、また任務と言ったな。
「任務が与えられないと、何も出来んのか?」
——そんなことあるわけ……。
声が出なかった。
マローリンは椅子からゆっくりと立ち上がった。ウルドに向かって一歩近づく。
「言葉を変えよう。お前は、チェドが心配ではないのか?」
言い回しどころか話題が変わっていないか? と思ったが、マローリンの言葉を心の中で反芻する。——チェドが心配? 俺はチェドのことを心配したことがあったのだろうか? 彼らの旅の共をしたのはそれが任務だったからだ。チェドやマローリンの意見を聞いて竜と戦ったことも、彼らの指示に従うように、という命令だったからだ。ハクラの砦でチェドが辛そうにしていた時に俺が悩んだのも、旅の任務の遂行ができなくなるからだ……。
「お、俺は、あくまでチェドとは任務で……」
またこめかみが痛む。痛みを和らげようとぐっと親指でこめかみを押さえる。すぐには痛みが治まらなかった。顔をしかめる。
ウルドの様子を見てマローリンが口を押さえてククッと笑った。
「人のことは言えんが、お前、相当なひねくれ者じゃな。……若いの、自分で気づいておったか? 任務だって発言してる時、極端に表情が暗くなるのう。そう、今の顔じゃ。お前の顔がそんなに美形とは思えんが、それでもその時の表情、結構惨めじゃぞ。見てるこっちが驚くわい」
美形じゃないとは失礼な。まあ弟には敵わないかもしれないがって、なに? そんな悲惨な顔をしていたのか。今まで全く気づかなかった。
「チェドが剣を抜いて、人格変容したことをお前は快く思っておらん」
ここでまたマローリンの話が思わぬ方向へ飛んだ。
「それよりも気になっておるのが、剣を手に入れた後、チェドは今まで以上に感情を表に出さなくなった。あの無表情。お前はそのことに不審を感じておるな」
「ああ」
ようやく相づちを一回返せた。
「お前が任務、任務って言うときの表情に、そっくりじゃな」
マローリンの言葉にウルドは頭の中が真っ白になった。
——ナニヲイッテイルノダ、コノインチキマホウツカイハ。
マローリンは表情を変えることなく淡々と続けた。
「チェドが剣による人格変容を受け入れた理由は、若いの、お前じゃ」
ウルドは尻餅をついていた。足も手も震え、体に力が入らなかった。背筋が凍り付く。そんなウルドをマローリンは見下ろしていた。
「……そんな、馬鹿な」
一言返すのが精一杯だった。
マローリンはウルドの顔に向けて指を突き出した。
「もちろん、わしはチェド殿にわしの言うことをよく聞くように言い聞かせてきた。そして英雄の末裔として自覚させ、この国を救う心が育つように仕向けてきた。じゃから、今のチェド殿のありようについて最大の責任はわしじゃ。じゃがあんな無気力で、空虚に取り憑かれたような英雄となってしまったのは、お前の影響じゃ」
ウルドは川からすくい上げられた魚のように、ただ口をパクパクとさせている。
言葉が返せない。
マローリンは窓に目をやった。遠くからの爆発音は絶え間なく聞こえてくる。
「どういう形であれ、チェドが英雄となったことでわしの目的は達せられた。正直なところ、わしはチェドがどういう思いで英雄を演じていようが構わん」
マローリンは演じていると断言した。マローリンの言葉からは何の感情も感じられなかった。ただ事務連絡を伝えるかのように話す。
「後はこの決戦に国王軍が負けさえしなければよい。わしは自分の目的を果たすために、次の段階へ進む」
「次の、段階?」
しかしマローリンはウルドの問いには答えない。空を遠く見つめたままだ。
「しかし、お前が望む結末は、別にあるのじゃろう……」
ウルドは自身の両手を見つめる。——俺が望む結末? 俺がしたい事……。
その時、脳天を堅い物で思いっきり殴られたような感じがした。頭がジンジンと痛み、目の前が真っ暗になる。そしてゆっくりと痛みが治まっていくにつれ、靄が晴れて行くかのように、視界が明るくなっていった。
ようやく吹っ切れた。
ようやく決心がついた。
「……ああ、そうだ」
ウルドはゆっくりと声を絞り出した。そして立ち上がった。腰に下げていた剣を握りしめる。
一際大きな爆発音がした。王宮も微かに揺れたような気がした。
「じゃあ、さっさと行け」
マローリンが振り返り、小部屋の入り口を指差した。マローリンの表情が見えた。魔法使いの表情は笑っていた。皮肉を込めたような笑いに見えたが、少なくともいつもの作り笑いではなかった。
「こんな狭い部屋にむさ苦しい男と一緒なんて、もう耐えられん。さっさとお前が行ってくれた方が、こっちも助かる」
そう言ってマローリンは、フンと大きく鼻を鳴らした。その姿にウルドは苦笑する。
声には出せなかったが、ウルドは心の中でマローリンに感謝した。こいつが魔法使いだなんて絶対に信じないが、マローリンという存在は信じてもいいと思った。
ウルドはマローリンに一礼すると、戸に走り寄りノブに手をかけた。
……!
戸は鍵がかかっていた。ここでウルドは初めて疑問が浮かぶ。——王宮の警備だと言われて、何故俺達はこんな小部屋でマローリンと二人押込められている?
ウルドは振り返った。マローリンは口を曲げ困ったような表情を浮かべている。
「もう手を打ってきたか。さすが自己保身にかけては天才的じゃな」
「何を言っている、どういうことだ?」
「……それより、どうするつもりじゃ? それほど時間は残されておらんぞ」
マローリンの視線を辿ってウルドは鍵のかかった戸を睨みつける。木製の戸。
「当然、……開ける!」
叫ぶと同時にウルドは戸を蹴破った。大きな音と共に戸は粉々に砕け散った。おっとさすがに力が入りすぎたか。
遠くの廊下から「何事だ」と誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
ウルドは小部屋の中を振り返った。
「マローリン、あんたはどうするんだ?」
マローリンは三角帽を拾い上げ、深々と帽子をかぶった。
「わしはここでやることがあるからな……。ああ、最後に忠告をやろう」
「忠告?」
ドタドタとこちらに向かって足音が近づいてくる。
「魔王を倒してからが本当の戦いだと思え。特に親衛隊には気をつけろ」
本当の戦い? 親衛隊に気をつけろ? どういうことだ? この期に及んで煙に巻きたいのか情報を与えたいのか分からないような言い方だ。
足音がすぐに近くに迫っていた。面倒なことになりそうだ、早く離れないと。しかしここを離れる前にどうしても聞いてみたいことが浮かんだ。
「なあ、あんた、本当に何者だ?」
マローリンはいつもの作り笑いを浮かべた。
「何度も言っておるじゃろ、正義に燃える大魔法使いじゃ」
□ □ □ □ □
ウルドは小部屋を飛び出すと、王宮を抜け出し、王都正門へ向かって大通りを駆けだした。今日一日でこの大通りを何度往復したことだろう。
——小さい頃、秘境を探検する冒険者の物語、怪獣を退治した騎士の物語、そして建国物語をはじめとする国や街を守った英雄の物語を読んで育ってきた。そして憧れた。俺もいつか強くなって物語で語れるような活躍をしてみたいと。
正門へ近づくに連れて、銃声音がどんどん大きくなる。
——しかしそんなものは所詮、どんな子供でも一度は見るはかない夢だった。なろうと思ってなれるものでもない。冷静に考えてみれば希望してなりたいと思うようなものでもなかった。結局、成長するにつれ物語は物語だと割り切るようになっていった。
馬のいななきが聞こえる。兵士達の叫び声も聞こえる。
——物語の代わりに憧れの対象になったのは国王軍の兵士達だった。他国の軍勢や人里近くに現れた野獣共から、兵士達は国民を守るために戦う。その響きが無性に格好良かった。俺もいつか彼らのような立派な戦士になって戦う。そしてもし、あくまでもしだが、叶うことなら、物語の騎士や英雄のような活躍をしたい、と。後から振り返れば、結局、子供の頃の憧れからは離れられなかったようだ。青いと言う人もいるだろうし、イタいという人もいるだろう。だが人の夢なんてそんなものだと思う。
正門に到着した。眼下に決戦場となっている平野が広がる。土塁の防壁から、銃を発砲し矢を放っている兵士達がいる。平野の奥へ視線を移すと、一面緑色だったはずのその平野は青く塗りつぶされていた。おびただしい数の紺青色をした異形のモノ達が国王軍と戦っていた。
——結局、その憧れを持ったまま士官学校へ入学し、国王軍に入隊。成績が認められ念願の親衛隊に配属された。国王軍の中でも親衛隊は特に国民から高い敬意と期待を抱かれていた。配属が申し渡された時は思わず小躍りした。そして希望に胸を膨らました。親衛隊として活躍し国を守ろう、と。そのためにはどんな困難な仕事だってこなしてみせる、そう思っていた。当時は。
防壁の合間を縫って戦闘が行われている平野へとひた走る。大きな騒音に耳が痛くなる。
——しかし、親衛隊入隊時に抱いていた期待や希望はあっけなく打ち砕かれた。そこには、理念も理想も熱意もなかった。仕事のほとんどは予想と大きく異なるものだった。書類の整理や、煩雑な事務手続き、他の親衛隊員や文官達との連絡と調整、などなど。お祭りの時、華々しいパレードの中心にいた親衛隊からは想像もできなかった。別に怪物相手に大暴れしたかったわけではないが、仕事は退屈なものが多かった。だが、それはそれで仕方がない。一見地味に思える仕事も国や国民のためになっていると考え真剣に取り組んできた。
ウルドの近くに大岩が飛んできた。地面に激突し土ぼこりがあがった。目を凝らすと何体かの異形のモノが大岩をこちら目がけて投げつけていた。ウルドは岩を避けつつ走り続ける。
——しかし、もっとも幻滅を感じたのは、そこにいた人達の熱意のなさだった。皆事なかれ主義を貫き、無難に卒なく任期を勤め上げることだけに心を砕いていた。自分を殺し上司の指示に唯々諾々と従い、さざ波を立てず嵐は黙って過ぎ去るのを我慢すれば、そこそこの地位と安泰な老後が約束されているのだ。その結果、親衛隊にあるのは硬直と停滞だった。
柔らかくなった地面に足を取られて豪快に転んでしまった。すぐに立ち上がる。右足に違和感を感じたが構わず走り出した。
——俺は、そんな先輩、上司のようにはなりたくないと思った。自分の保身を第一に考え、問題は先送り、後世へ丸投げ、その他周りのことはどうなろうと知ったことではない、という発想を嫌悪した。熱意はないのか、誇りはないのか、親衛隊で成し遂げたい理想や希望はないのか? そう思っていた。
ウルドは一旦立ち止まり周りを見渡した。気づいたら異形のモノ達と歩兵部隊の白兵戦のまっただ中にいた。国王軍も異形のモノ達も隊列はバラバラに崩れ混沌とした状況になっていた。あちらこちらで戦闘が行われている。兵士数人がかりで一体の異形のモノを打ち倒した一方で、異形のモノがなぎ払った棍棒で数人の兵士が吹っ飛ばされていた。
——そしてマローリンに指摘された。俺はかつて俺がなりたくないと思っていた連中と同じだと。任務という言葉に身を委ね、思考停止している連中と一緒だと。ショックだった。強さとは覚悟である。そんな言葉を前にチェドに言った気がする。そんな俺が抱いていたのは覚悟じゃない、ただの諦めだった。いつの間に入隊直後の気持ちを失っていたのだろう。そしてなりより、そんな無気力感と諦めが自分のことをずっと見ていたチェドに移っていたことが、とても恐ろしかった。
ウルドの目の前に一体の異形のモノが立ちはだかった。ウルドは異形のモノが振り下ろす棍棒をかわすと、そのまま一気に前へ走り出した。
——チェドを心配したのは任務だから? 確かに任務と言えば気が楽になった。意義とか責任とか面倒なことを考えなくて済むから。じゃあ義務から心配なんて感情が生まれるか? そんな馬鹿な! 守るべきだと自分がそう思ったからに決まってるだろ。何処までひねくれてるんだ、自分!
ウルドの目の前に白馬に乗った一隊が姿を現した。親衛隊の一群だった。彼らは進退窮まって身動きが取れない状態になっていた。
親衛隊の連中は皆顔面蒼白で、中にはパニック状態になっている奴もいた。
チェドもいた。馬から降りて慌てふためく親衛隊達を呆然と眺めていた。
「チェド!」
ウルドは叫んだ。チェドと親衛隊達が振り向いた。
「お前、なんでここにいる」
親衛隊の一人が上擦った声で言いながらウルドを指差す。目を見開いて体を震わせている。信じられないものを見たかのような表情だった。——なんだそんな化物を見るような顔をして? 今はお前達の方がよっぽど怖い表情をしてるぞ。
「いいだろ別に、それより借りるぞ」
ウルドはそう言って、馬に乗っていた後輩の一人を無理矢理引きずり降ろして、代わりにウルドが乗った。「なにするんだ!」という周りの抗議は無視する。
——お前達相当ビビってたじゃねえか。あとは俺が代わってやるよ。
チェドに近づく。チェドも目を丸くしてウルドを見上げる。久しぶりに感情のこもった表情だった。
「行くぞ」
チェドは動かない。
「最後まで俺が面倒見てやるって言ってるんだ。俺が魔王のところまで連れていってやる」
さてこの言葉を言った時、自分はどんな表情をしていたのだろう。鏡でもなければ自分の顔など分からないし、そもそも確認したいとも思わない。
しかしチェドの表情は確認できた。チェドの瞳から影が消え、輝きが戻ってきたような気がした。チェドはウルドをしっかりと見据えると、「はい!」と力強く返事した。暗く陰湿な空間に明かりを灯すようないい返事だった。
呆然と立ち尽くす親衛隊達を尻目にチェドはウルドの後ろに乗った。ウルドは手綱を引っ張り、馬を走らせた。
異形のモノ達の中心を目指して一心不乱に馬を走らせる。土ぼこりで視界が悪い。そこかしこで激しい戦闘の音が聞こえる。大乱戦状態であることは容易に想像できた。
異形のモノがウルドの馬を見つけ襲いかかってくるが、回避しそのまま抜き去る。さっきから逃げてばかりだが、ハクラの砦のことを思い出せば、一人で戦っても勝てる可能性は低い以上しかたがない。なにより時間の無駄だ。狙うはただ一つ、魔王のみ。
ウルドの脇腹をチェドの腕がぎゅっと締め付けた。
「揺れるぞ、振り飛ばされるな」
そう言って、前方にいた異形のモノを避けてその横を通り過ぎる。
「……ねえ」
後ろのチェドが声をかけてくる。
「しゃべるな! 舌噛む」
そう言いながら、土に埋まった大岩を避けるため馬を跳躍させた。
「どうして来たの。危ないのに」
チェドは話を止めなかった。
「今、言わなきゃ駄目か」
チェドの頭がウルドの背中に当たる。うなずいたらしい。——こんな時まで口数の少ない奴だ。まあ喋るなと言ったのは俺自身だが。
「お前が心配だからだ。お前を助けたいと思った。それで十分だろ」
——人を救いたい、みんなの役に立ちたい、軍に入った理由だ。困難な状況に陥ろうと人々のために諦めずに戦い抜いた騎士や英雄の物語に憧れた理由だ。
ウルドは今、自分がそうありたいと思ったことの為に行動する。
……恥ずかしい、とんでもなく恥ずかしいじゃねえか。耳元がかあっと熱くなる。こんな青春っぽいことする年でもないだろうに。
「……ま、もっともこれから俺達はお前に助けられるんだがな」
なんとか照れを隠そうと軽口を叩いた。チェドの腕に力が入り、ウルドの脇腹をより強く締めつけた。ますます恥ずかしくなってしまった。
突如視界が開けた。ウルド達の目前に大きな輿が迫る。その輿には一際巨大な異形のモノが座っていた。
魔王だった。
□ □ □ □ □
魔王は輿から立ち上がった。
「な、なんじゃありゃー!」
ウルドは思わず叫んでしまった。口が半分開いたまま、前方に現れた異形のモノの王を見つめた。
とにかく巨大だった。他の異形のモノの体格に比べ二倍はあるだろう、二階建て、いや三階建の家屋を越える大きさだ。魔王は漆黒の鎧に身を包み黒いマントを羽織っていた。これまた漆黒の兜で顔面も覆い、大きな赤い目が二つ光っている。表情は暗くて見えない。魔王の周囲だけ他より暗く感じられた。光をも通さない暗黒の気を纏っているかのようだ。近づくにつれ圧迫感もひしひしと感じる。
気づいたらウルドの馬の周りは異形のモノ達に取り囲まれていた。チェドの体がガタガタと震えているのを感じた。
無理もない、というか俺も正直怖い。しかしここまで来たのだ。腹を決めねば。
「俺が囮になる。隙を見つけて魔王に飛びかかれ」
ウルドは叫ぶ。チェドは震えながらもうなずいてくれた。
馬の手綱をチェドに渡し、ウルドだけ馬を飛び降りた。そのまま走りながら剣を抜く。
「魔王、覚悟!」
と、気合いを入れるため大声で叫ぶ。お決まりの台詞だが他に考える余裕はなかった。周りの異形のモノには目もくれず魔王目がけて突撃した。先手必勝!
魔王の顔がゆっくりとウルドへ向けられる。
目が合った。
漆黒の兜から覗かせる大きな赤い光がウルドを捉えた。
その瞬間ウルドの体が勝手に震え始めた。
——怖い。
急に体の力が抜け、剣を取り落とす。
——怖い、怖い。
足が止まる。そのままウルドの体が硬直した。
——怖い、怖い、怖い。
冷や汗が滝のように流れ落ちる。
——怖い、怖い、怖い、怖い。
竜と戦った時も異形のモノと対峙した時も、もちろん怖かった。それでも克服できる程度のものだった。しかしこの感情は全く次元が違った。
——怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
全ての気力が失われ、先ほどの気合いと勇気は微塵も残っていない。
——怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!
ただただ怖かった。しかし怖いからと言って逃げ出すことすらできなかった。体に全く力が入らない。
魔王は黙ってウルドをじっと凝視し続けていた。ウルドは腰が砕けるようにその場に座り込んだ。それでも魔王の瞳から目が逸らせなかった。戦場の騒音はまったく耳に入らない。次第に速まっていく自身の心拍音だけが聞こえた。呼吸することすら忘れそうだった。
魔王の右腕がゆっくりとウルドに迫ってくる。
捻り潰される。
しかし体が動かない、避けられない。
「……!」
何か聞こえた。
「ウルドさん!」
チェドの声がした。
魔王が声の主へ振り向く。ウルドから視線が外れた。
その瞬間ウルドは我に返った。恐怖で埋め尽くされた感情はなくなっていた。
「なんだったんだ」
ウルドは肩で息をしながら、腕で顔の汗を拭いた。何もしていないはずなのに顔中汗でびっしょり濡れていた。
魔王のあの赤い瞳。あれを見た瞬間恐怖で何もできなくなった。立ち向かう者を戦う気力も勇気も何もかも失わせる、恐ろしい力だった。
ウルドはようやく立ち上がった。そしてチェドを見た。
チェドは馬から降りていた。英雄の剣ウエンリハトを抜き、魔王に向けている。周りには既に切り伏せられた五体の異形のモノが倒れていた。
「ウルドさん、下がってて」
ウルドはチェドの声に違和感を覚えた。チェドは今剣を握っている。普段より声は大きいが、言葉数の少なさ、たどたどしさはいつものチェドと変わらない。確かに剣を持った時特有の近寄り難い雰囲気はあった。しかし、ハクラの砦や王宮のバルコニーで感じたような、血に飢えた猛獣のような感じはしない。
あれ? 今チェドは剣を持っている。剣を持つと、力が湧くと同時に獰猛な性格になるんだよな? 今までの話からすると……。
「は、早く、下がって」
チェドが魔王を見据えたまま、ウルドにもう一度声をかける。ウルドは不思議に思いながらも、ゆっくりとチェドと魔王から距離を取った。
チェドは魔王を睨みつける。
「魔王! 今退けば、命は助けるよ」
ここはあらん限りの罵倒で挑発するところだろう、と思っていたら、チェドはとっても慈悲深いことを言っていた。なんかとってもチェドらしい、とウルドは思ったと同時にとても嫌な予感がした。
剣の能力が発動していないのか?
理由は分からない、しかし、だとすると非常に危険だ。剣の能力がなければチェドなどただの子供。魔王に勝てるわけがない。
ウルドはチェドの元に駆け寄ろうと一歩足を前に出したところで、別のことに気がついた。
チェドと魔王は睨み合っている。目を合わせただけで恐怖に体が動かせなくなる魔王の眼力を前にしても、チェドは動じる様子はなかった。声も体も震えていない。それに近寄り難い独特の雰囲気もあった。
剣の能力は発動している、ただ粗暴な性格への変貌は発生していない?
ここで思い至る。ウエンリハトを持った時の人格変貌は一種の副作用なのではないだろうか、と。砦で剣を持った時と今を比べると、チェドは何かが変わった。そのおかげで剣の副作用を克服できたのではないだろうか。そして変わったところとは、……決意、覚悟? チェドは今までマローリンや周りの人の期待に応える為に英雄の末裔を演じてきた。あくまでそれは周りの為。そして周りに応えようとする気持ちと、剣の人格変貌の辛さの狭間に立ち、チェドは心を殺し、あえて無気力、諦めることでその葛藤に耐えようとしていた。しかし今は自らの覚悟で英雄となり魔王と戦おうとしている。……考え過ぎだろうか?
魔王が一歩前に踏み出す。地面が揺れた。
「ふざけたことを、異人め」
魔王の声は地の底から響き渡るようで、聞くだけで恐怖を感じさせた。ウルドは必死に震える足を押さえつける。
「なら僕は、お前を倒す」
チェドの決意に満ちた声に応える形で、魔王は雄叫びをあげた。その音量と圧力は竜の鳴き声を遥かに凌駕していた。ウルドは耳を塞ぎしゃがみこんだ。それでも耳が痛い、腹もえぐられるようだ。
しかしチェドは平然と立ち続け、依然として剣を魔王に向けている。
ようやく魔王の雄叫びがおさまる。ウルドはゆっくりと立ち上がった。まだ心臓が高鳴っている。危なかった。一瞬でも気を抜いていたら良くて気絶、悪けりゃそのまま一生目を開けることは無かっただろう。
全く動じる様子のないチェドを見て、魔王は一瞬ひるんだようだった。しかしすぐに巨体を震わせた。地面が揺れる。
「負けぬ、今度こそ負けぬぞ。異人共め」
魔王はそう言って腰に下げていた巨大な剣を抜いた。その剣はウルドの背丈を軽く越えていた。
チェドと魔王が剣を突きつけて対峙する。方や人間の背丈の三倍以上はある異形のモノの王、方や小柄な人間の少年。体格だけ比べれば見るも無惨な状況である。だが、チェドから溢れ出る気迫は魔王に引けを取らない、いや凌駕していた。
ウルドにできることはもう何もない。見届けるだけだった。
ぽつり、ぽつりと冷たいものがウルドの頬に当たる。とうとう雨が降り始めた。しかしチェドと魔王は雨を気にする様子もなく睨み続ける。
そこからはあっという間の出来事だった。
先に動いたのは魔王だった。剣を大きく振り上げ、チェド目がけ、斜めになぎ払う。チェドが魔王の剣の一閃をかわす。地面は大きくえぐれ、大量の土が舞い上がった。それと同時にチェドは魔王へ向かって走り込んだ。次の瞬間、魔王の右腕と長剣が地面に落ちた。ウエンリハトが魔王の右腕を一刀両断していた。
魔王はよろめく、失った右腕をかばいながら一歩下がった。チェドは速度を落とすことなく魔王の懐へ飛びかかる。
魔王の胸に深々と剣が突き刺さっていた。
魔王は体を左右に激しく振った。その勢いでチェドの手から剣が離れた。ウエンリハトを魔王の胸に残したまま、チェドは振り落とされ、そのまま地面に激突する。
「チェド!」
ウルドはチェドの元へ駆け寄った。
「おい、しっかりしろ」
チェドの肩を持って揺さぶる。チェドはすぐに目を開けた。意識ははっきりしていた。何度か咳き込んだがすぐに立ち上がった。ここは何処だと辺りをキョロキョロと見渡している。そして剣を突き立てられ、もがき苦しむ魔王を見て、急に体を震わせ顔面からさーっと血の気が失せた。剣を手放した為に恐怖が戻ってきたらしい。
「……信じられない」
とチェドは震えながら言った。
確かに信じられなかった。トウマ国を恐怖に陥れた魔王がいとも簡単に倒されたのだ。戦った本人も信じられなければ、見ていたウルドもわかに信じがたい。
魔王の胸と切断された腕からは真っ黒な煙が立ち上がっていた。肉が焼けるような焦げ臭い匂いが漂う。
「こ、こんなはずでは……。異人共を倒す千載一遇の機会を……、くそ、あのペテン師め……」
魔王の声がかすれゆく。そしてうずくまるように片膝をつき、そのままうつ伏せに倒れた。魔王の全身は黒い煙に包まれ、そしてその煙も消えていった。その跡には剣だけが残されていた。
魔王は消滅した。
終わった。
ウルドはその場にしゃがみ込む。体中の力が抜けていく。
勝った。結局俺は何もできなかったが。
ウルドは隣にいるチェドを見る。チェドは肩で息をしながら倒れた魔王がいた跡を見つめている。まだ体が震えていた。
魔王の最後の言葉、特にペテン師という単語をどこかで聞いた気もするが、今はどうでもいい。チェドを守りきれたんだ、これで良しとするか。
ウルドは周囲を見渡した。近くにいた異形のモノ達は魔王がいた跡を呆然と見つめていた。そして大きな悲鳴を上げ、我先にと逃亡を開始した。
総大将を失った異形のモノの戦意も喪失した。本当にこれで終わったんだ。
遠くからこちらへ馬に乗って走り寄ってくる一団が確認できた。雨がだんだんと激しくなってきた。視界は悪いが彼らを見間違えるはずはない。親衛隊達だ。
ウルドは彼らに向かって、こっちだ、と手を振る。
親衛隊の一団は途中で立ち止まり、ウルド達の元まで近寄ろうとしない。その動きにウルドは訝しんだ。
——こっちはもう立つ気力も無いんだ。早くここまで来て助けてくれないか。
周りには既に誰もいない。その場にいるのはウルドとチェド、そして今しがた現れた親衛隊達のみだ。
親衛隊達は遠巻きにウルド達を見てヒソヒソと何やら話し合っている。時折ウルドとチェドを指差している。
——何をやっているんだ、早く魔王を討伐したことをみんなに伝えないと。
ウルドはもう一度手を振り、彼らに声をかけた。
「おい、こっちだ。早く来てくれ」
すると親衛隊達は手に持っていた銃を構えた。
……!
ウルドは息を呑んだ。
なんだ? 魔王も倒した。異形のモノ達も逃げ出し始めた。つまり決戦に勝利した。もう戦う必要は無い。……掃討戦でもするつもりだろうか。確かにこのまま無駄に逃がせばいつか逆襲される可能性はある。当然の行為だ。
しかし、銃口は明らかにウルド達を狙っていた。
ウルドの背筋に冷たいものが走る。
何故こっちに銃を向けている? 味方だぞ。
(魔王を倒してからが本当の戦いだと思え。特に親衛隊には気をつけろ)
最後にマローリンが言い残した言葉がウルドの脳裏をよぎる。
嘘、だろ……。
親衛隊達は一斉に銃の引き金を引いた。




