静寂を乱す風
辺境の村シルヴァの昼下がり。冒険者組合を兼ねた酒場では組合の受付嬢が静かに羽ペンを動かす音だけがカウンターの向こう側で規則正しく響いている。 受付嬢の視線の先には、誰とも言葉を交わさず、ただ静止した時間の中にいるような青年アリオスがいた。
磨き抜かれた白磁の肌は、薄暗い酒場の隅にあってもなお、自ら淡い光を放っているかのように錯覚させるほどに滑らかだ。伏せられた長い睫毛は、彼の深い思索を映す影となって頬に落ち、その下にあるはずの瞳の輝きを、今はひっそりと隠している。
彫刻家が一生を賭して刻んだかのような、無駄のない鼻筋から薄い唇へと続く完璧な曲線。それは、粗野な男たちが集うこの場所において、あまりに繊細で、あまりに高潔すぎた。
夜の帳をそのまま溶かしたような深い漆黒の髪は、時折、窓から差し込む斜光を吸い込んで、真珠のような艶を帯びる。その髪の間から覗く、やや尖った耳先と涼やかな輪郭。その美しさは、見る者に生きる喜びを与える一方で、触れれば壊れてしまいそうな危うさを秘める。
彼が酒場にいる間、シルヴァの冒険者組合には、まるで芸術品を見るかのように遠巻きに、しかしそれを我が物にせんと手を伸ばす女が集っていた。村娘たちは夜の癒しを永遠に独占しようと誘惑し、女冒険者たちは、その沈黙を自分だけが癒やせる孤独であると勝手に定義しては、蛾が火に飛び込むように彼へと吸い寄せられていった。
しかし、その熱狂がかつての面影を失うのに、そう時間はかからなかった。
最近この村を襲った、いくつかの痛ましい「事故」が、彼女たちの恋心を急速に凍りつかせた。彼とパーティを組み、希望あるいは下心に胸を膨らませて村の門を潜った女たちが、ある者は冷たい骸となって運ばれ、ある者はその終わり際すら誰にも知られず姿を消した。
一度ならず二度三度、それも彼と組んだ女性ばかりが狙い澄ましたかのように悲劇に見舞われる。その異常なまでの重なりは、いつしか彼の美貌を「白磁の死神」の誘いへと変貌させていた。
あの顔に惹かれたら最後、地獄まで連れて行かれる――
そんな不吉な噂は瞬く間に村中を駆け巡り、今や村娘たちは彼と目が合うことさえ避け、足早に通り過ぎる。あれほど彼を渇望していた女冒険者たちでさえ、最近では彼の座るテーブルを腫れ物に触れるかのように遠巻きにし、背後で死神という蔑称を囁き合うのが常となっていた。
今、彼の周囲に漂っているのは、かつての羨望ではなく、触れれば命を削り取られるかのような、濃密な孤独と死の気配であった。
昼下がりの柔らかな陽光が窓から差し込み、宙を舞う埃の粒子を黄金色に照らしているが、それら一つひとつさえもが、アリオスの周囲で凝固しているかのように動かない。 酒場には、昼から酒を煽る男たちが大勢詰めかけていた。だが、彼らが立てる喉音も、小声の私語も、誰かが溢した溜息も、アリオスの周囲に立ち込める冷気の前では、許されない不純物のように不思議と消え入っていた。屈強な冒険者たちが揃っていながら、酒場は異様なまでの静寂に支配されている。
誰もが彼を意識し、誰もが彼を避け、誰もがその沈黙の重圧に耐えていた。 その、硝子細工のように脆く、歪な静寂が
――バァン!
と、乱暴な衝撃音によって粉々に砕け散った。
遅れて鈴の音がカランコロンと頼りなく鳴り響く。湿った昼下りの空気を蹴り開けるようにして、酒場の重い扉が跳ね上がる。
「……ふぅん。噂通り、景気の悪い面構えばかりだね」
静まり返っていた酒場に、凛とした、それでいて傲岸な女の声が響き渡る。
女は一度だけ酒場全体をなめるように見回すと、すぐに目的の「影」を見つけ出した。陽光の届かない隅で、毒のような静寂を纏って座るアリオス。彼女の口端が、獲物を定めた獲物のように吊り上がる。
「……いたいた。あれが噂の『死神』か」
彼女がアリオスのテーブルへと歩み出すと、それまで固まっていた男たちが、ようやく我に返ったようにひそひそと声を交わし始めた。中央のテーブルで安酒を煽っていた中堅冒険者たちが、彼女の背中を指して囁く。
「おい、ありゃ……『旋風のフレイア』じゃねえか? なんでこんな辺境に……」
「間違いない。素行は最悪、口を開けば毒を吐くガサツな女だが、鍵開けと短剣の腕だけは本物だ。野良のシーフをやってるはずだが、どうしてまた……」
「よりによって、あの死神に近づくつもりか? いくら腕が確かでも、あいつと組んで生きて戻った女はいねえってのに。命知らずにも程があるぜ」
男たちの声は、畏怖と好奇心が混ざり合った、湿った熱を帯びている。 フレイアは背後に投げかけられる視線を、羽虫を払うかのように肩をすくめて無視した。彼女にとって、凡俗な男たちの忠告など、安酒に浮かぶ泡ほども価値がない。
一歩、また一歩。 彼女が踏み出すごとに、アリオスを包んでいた「死」の気配と、フレイアが纏う「生」の傲慢さが激しく衝突し、酒場の空気をじりじりと焦がしていく。
そして、彼女は大男たちがたじろぐのも構わず、アリオスのテーブルのすぐ傍までたどり着いた。
「アンタ、仲間を殺しているのか」
突き刺すようなフレイアの問いに、酒場の喧騒がまた一つ、奥へと引き潮のように引いていった。
「……決して。俺の手では」
アリオスは顔を上げ、絞り出すように答えた。その瞳に宿るのは、人殺しの冷徹さではなく、守りきれなかった者たちへの痛切なまでの懺悔と、拭いきれない孤独の色だ。その響きに、フレイアは満足げに鼻を鳴らした。
「なら決定だ。私と組め」
あまりに唐突で、あまりに無謀な宣言だった。一瞬の静寂の後、周囲のテーブルから椅子を引く音と、驚愕のどよめきが上がった。
「おい、冗談だろ……!?」
「本気かよ、あの姉ちゃん。死に神の鎌に自分から首を突っ込む気か!」
たまらず、先ほど彼女の素性を囁き合っていた男が、横から身を乗り出した。
「やめとけ、フレイア! 腕が立つのは認めるが、こいつは次元が違う。組んだ女がどうなったか……」
「うるさいね。男の嫉妬は見苦しいよ」
フレイアは男を一瞥もせず、ぴしゃりと言い放った。彼女の視線は、いまだ困惑に揺れるアリオスの瞳を真っ向から射抜いている。
「噂なんてのは、実力のない奴が吐く言い訳だ。運が悪い? 死神が付いている? 結構じゃないか。あいにく、私も死神なら心当たりがあるんだよ。少し前にね、親友を殺してきたところさ」
凄みを利かせたその言葉に、男たちは喉を鳴らして引き下がった。彼女が口にした「殺した」という言葉の真意――それが戦いの中の不運だったのか、あるいは彼女の慢心が招いた結果なのかは、誰にも分からない。だが、彼女が纏う空気は、周囲の野次馬を黙らせるに十分な「業」の深さを感じさせた。
「アンタの運命がどれほど重いか知らないが、私の『死神』の方がもっと凶悪かもしれないよ? どっちが先に相手を食い潰すか、試してみようじゃないか」
フレイアは不敵な笑みを浮かべ、テーブルに身を乗り出した。その瞳に宿るのは、恐怖ではなく、未知の破滅に対する冒険的なまでの好奇心と、己の運命に対する過剰なまでの自信であった。
「……正気か?」
「しつこい男は嫌われるよ。アンタの『死神』、私が殺してやるって言ってるんだ」
アリオスは、自分を死神と呼んで遠ざける人々の中で、初めて正面からその呪いごと自分を飲み込もうとする女に出会った。その強引で、傲慢な輝きに、彼は一筋の救いを見てしまった。
「……分かった」
アリオスが静かに頷いた。その瞬間、酒場の空気が明確に変質した。不吉な予感と、奇妙な熱狂。受付嬢はそのやり取りを、カウンターの向こう側から静かに見つめていた。
組合受付嬢リリアン。 彼女の手に握られた羽ペンは、いつのまにか止まっている。帳簿の白紙の上には、ペン先から零れ落ちたインクの滴が、彼らの運命を指し示すようにじわりと真っ黒なシミを広げていた。




