第9話 金を払う男より厄介なのは、金も権力もあるくせにそれを好意だと思いたがる男だ
男は、口が軽くなる瞬間がある。
酔ったとき。
褒められたとき。
自分が頼られていると思ったとき。
そして何より、“この子は自分をわかってくれている”と勘違いしたとき。
夜の店は、その瞬間を作る場所だ。
酒を飲ませる場所じゃない。
気分よく喋らせる場所。
私はそこでNo.1だ。
ただ可愛いだけじゃ続かない。
ただ聞き上手なだけでも足りない。
相手が何を言いたがっていて、どこまでなら気持ちよく喋るか、その境目を読む。
それができる女だけが、上に残る。
その夜の店は、いつもより少しだけ混んでいた。
金曜。
雨上がり。
こういう日は客の機嫌が二極化する。
やたら気前がいいか、妙に面倒くさいか。
私は出勤前に鏡の前で髪を巻きながら、今日は前者だけ拾えばいいと思っていた。
情報を取りたい夜に、面倒な男に時間を使うのは無駄だ。
ドレスは黒。
胸元は開きすぎない。
でも、座ったときに鎖骨が綺麗に見える形。
男は露出より、“自分だけが近くで見ている感じ”に弱い。
香水は軽め。
強い香りは記憶に残るけど、警戒もされる。
今日は落とす日じゃない。
喋らせる日だ。
更衣室を出ると、黒服の真島がすぐに気づいた。
「愛里さん、今日仕上がってますね」
「毎日仕上がってるよ」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
真島は少し笑う。
「狙ってる顔してる」
私は口紅を指で軽く押さえた。
「正解」
「誰狙いですか」
「病院」
真島が一瞬だけ変な顔をした。
「急に物騒」
「でしょ」
私は笑ってフロアを見た。
「今日、医者っぽいのいる?」
「医者っぽいって雑だな」
「金払いよくて、時計は高いのに靴は実用的で、女慣れしてるくせに妙に清潔感にうるさいやつ」
真島は少し考えてから、顎で奥の卓を示した。
「あそこ」
私は視線だけ向ける。
四人組。
年齢は三十代後半から四十代前半。
スーツは上質。
ネクタイは緩め。
でも、崩し方が下品じゃない。
一人だけ、笑いながらも周りを見ている男がいる。
ああいうのはだいたい医者か経営側だ。
自分が場の中心にいることに慣れている。
「誰」
「製薬と病院の混ざりらしい」
「最高」
「愛里さん、顔」
「何」
「悪い」
「褒め言葉でしょ」
私はその卓のヘルプ表をちらっと見た。
すでに二人ついている。
でも、あの手の男は途中で飽きる。
飽きたところに入るのが一番いい。
最初の一時間は別卓を回した。
社長。
不動産。
いつもの太客。
適当に笑って、適当に褒めて、でも今日は深く入らない。
頭の片隅はずっと奥の卓に置いていた。
案の定、四人組のうち二人が先に酔い始めた。
声が大きくなる。
グラスの持ち方が雑になる。
でも、さっきの男はまだ崩れない。
水も飲んでる。
こういう男は面倒だけど、情報は持ってる。
「愛里、交代」
黒服に呼ばれて、私はようやくその卓に入った。
「こんばんは」
少しだけ笑って座る。
男たちの視線が一瞬で集まる。
その一瞬で十分だ。
今日は取れる。
「お、No.1来た」
一人が言う。
「知ってるんですか」
私が首を傾げると、別の男が笑った。
「有名だよ」
「悪い意味じゃないといいな」
「いい意味いい意味」
私は軽く笑って、グラスに手を添えた。
こういうとき、最初から本命を見ない。
全員に平等な顔をして、でも本命だけには少し遅れて視線を置く。
それだけで、“自分は他と違う”と思いたがる男は勝手に引っかかる。
「お仕事帰りですか?」
私が聞くと、さっきの男が答えた。
「まあ、そんな感じ」
声が低い。
酔ってるけど、まだ理性がある。
「そんな感じ、って便利ですね」
「便利な言葉好きなんだよ」
私は少しだけ笑った。
「私も」
男は名刺を出さなかった。
その時点で、肩書きに頼らなくても通る側の人間だとわかる。
でも、隣の男が勝手に言った。
「こいつ病院」
「やめろよ」
「いいじゃん、モテるぞ」
私はそこで初めて、少しだけ興味を持った顔をした。
「病院なんですか」
男は苦笑した。
「まあ」
「お医者さん?」
「違う」
「じゃあ何」
「経営寄り」
当たり。
私は内心でだけ笑った。
「すごい」
少しだけ声を柔らかくする。
「病院って、ちゃんとしてる人多そう」
男はその言い方に少しだけ気をよくした。
「ちゃんとしてる、ね」
「違うんですか?」
「いや、どうだろう」
「なんか、私の周りにいないタイプだから新鮮」
これは半分本当で半分嘘だ。
病院関係者なんて、夜の店にも普通に来る。
でも“あなたは私の普段の世界にいない人”という顔をすると、男はだいたい喜ぶ。
自分が特別な側にいる気になるから。
「愛里ちゃんは何してるの」
別の男が聞く。
「夜と、たまにモデル」
「へえ、似合う」
「ありがとうございます」
私は笑ってから、本命の男にだけ少し視線を流した。
「でも、病院の人のほうがちゃんとしてそう」
男はグラスを回しながら言う。
「そんなことないよ」
「そう?」
「中、ぐちゃぐちゃだし」
私はそこで食いつかない。
食いつくと、男は引く。
だから一回流す。
「どこも一緒ですね」
そう言って、隣の酔った男に話を振る。
笑わせる。
飲ませる。
場を少しだけ温める。
それから、五分後に戻る。
「でも、ぐちゃぐちゃってちょっと意外」
私は氷を指で揺らしながら言った。
「病院って、もっと綺麗な世界かと思ってた」
本命の男が鼻で笑う。
「綺麗なわけない」
「そうなんだ」
「人も金も動くし」
その一言で、私は少しだけ目を細めた。
やっぱりそうだ。
病院も結局、金で回る。
綺麗な顔をしていても。
「なんか、昼の世界って怖いですね」
私が言うと、男はこっちを見た。
「夜のほうが怖いだろ」
「夜はわかりやすいですよ」
私は笑う。
「欲しいもの、顔に出るから」
男は少しだけ黙って、それから笑った。
「それはある」
「昼は?」
「建前が多い」
「嫌ですね」
「でも、そのほうが回る」
その“回る”に、私は少しだけ引っかかった。
高瀬も似たようなことを言っていた。
便利にしておかないと回らない。
同じ種類の言葉だ。
「回すの、大変そう」
私はグラスに口をつける。
「愛里ちゃんには無理だよ」
酔った男が茶化す。
「えー、ひどい」
私は笑って返しながら、本命の男を見る。
「でも、そういうの得意そうですよね」
男は少しだけ肩をすくめた。
「まあ、向いてるとは言われる」
「だと思った」
「なんで」
「切るの早そう」
その瞬間、男の目が少しだけ止まった。
当たった。
「怖」
隣の男が笑う。
「愛里ちゃん、人見るね」
「仕事なんで」
私はにこっと笑った。
「で、実際どうなんですか」
本命の男は少しだけ笑って、否定しなかった。
「必要なら切るよ」
「例えば?」
「合わない人とか」
「人?」
「案件も、人も」
私はそこで、少しだけ声を落とした。
「女の子も?」
男はグラスを置いた。
周りはまだ笑っている。
でも、この人だけ少しだけ静かになった。
「なんでそうなるの」
「なんとなく」
私は軽く首を傾げる。
「最近、そういう話聞いたから」
「どんな」
「ブランドの仕事してる友達がいて」
これは嘘じゃない。
私自身のことを、少しずらして言っているだけだ。
「スポンサー対応とか、会食とか、そういうのあるって」
酔った男の一人が笑った。
「あるだろ、そりゃ」
本命の男は何も言わない。
だから、続ける。
「でも私、そういうのって仕事と違う気がして」
私は少しだけ困ったように笑った。
「食事するだけって言われても、空気読めとか、感じよくしろとか、可愛がられろとか、だんだん話変わるじゃないですか」
その瞬間、男たちの空気がほんの少しだけ変わった。
軽く笑っていた顔が、一瞬だけ現実を見る。
知っている顔だ。
「まあ……」
酔った男がグラスを持ち直す。
「そういうの向いてる子と向いてない子いるし」
私は笑ったまま、心の中でだけ冷えた。
出た。
向いてる。向いてない。
女を差し出す側が一番好きな言葉だ。
「向いてるって何ですか」
私が柔らかく聞くと、男は笑う。
「愛里ちゃんみたいな子」
「どういう意味」
「空気読めるし、可愛いし」
「それ褒めてます?」
「褒めてるよ」
私は少しだけ首を傾げた。
「でも私、自分で決められない仕事は嫌です」
その一言に、本命の男が初めてはっきりこっちを見た。
たぶん、そこだけは本音に聞こえたんだと思う。
実際、本音だった。
私は夜の仕事もしてきた。
パパ活もしてきた。
少し甘えれば三十万くらい動く男も知ってる。
でも、それでも私は、自分で線を引いてきた。
どこまで笑うか。
どこまで期待させるか。
どこまで近づくか。
全部、自分で決めてきた。
だから、仕事とか育成とかチャンスとか、綺麗な言葉で女の線引きを奪うやり方が一番嫌いだった。
「偉いね」
酔った男が茶化すように言う。
「偉いっていうか、普通じゃないですか」
私は笑う。
「嫌なことは嫌ってだけ」
本命の男が低い声で言った。
「でも、そういうのを大げさにする子もいる」
胸の奥が、すっと冷えた。
「大げさ?」
「誤解するっていうか」
「何を」
男は少しだけグラスを回した。
「好意とか、期待とか、仕事の範囲とか」
その言い方で十分だった。
全部、曖昧にしている側の言葉だ。
「へえ」
私は驚いたふりをした。
「それって、受け取る側の問題にされるんですね」
酔った男が笑う。
「まあ、病む子は病むし」
「言い方」
私は笑って返しながら、本命の男を見る。
「そういう子、どうなるんですか」
男は少しだけ黙った。
それから、声を落とした。
「関わる場所による」
私はその一言を逃さなかった。
「関わる場所?」
「……いや」
「何それ、気になる」
私は少しだけ身を寄せた。
香水が近づく距離。
男が“自分だけに聞かれてる”と錯覚する距離。
「例えば?」
男は一瞬だけ迷ってから、言った。
「閉鎖病棟とか」
胸の奥が、すっと冷えた。
でも顔には出さない。
「へえ」
私はただ、興味深そうに笑った。
「なんかドラマみたい」
「ドラマのほうが綺麗だよ」
男はそう言って、グラスを空けた。
「現実はもっと雑」
雑。
その言葉が、妙に残った。
「その子、元々不安定だったんですか」
私が何でもない顔で聞くと、酔った男が先に答えた。
「そういうことにしとかないと面倒なんだよ」
本命の男がすぐに睨む。
「お前」
でも遅い。
もう落ちた。
私は笑ったまま、氷を揺らした。
「そういうことに、って便利ですね」
酔った男は自分が何を言ったかわかっていない顔で笑う。
「だって実際そうだろ」
本命の男が低く言う。
「店で話すことじゃない」
その一言で、私は確信した。
この人たちは知っている。
しかも、ただの噂じゃない。
そのあとも会話は続いたけれど、必要なものはもう取れていた。
スポンサー対応。
空気を読める子。
向いてる、向いてない。
大げさにする子。
誤解。
閉鎖病棟。
元々不安定だったことにする。
線はまだ細い。
でも、前よりずっと嫌な形でつながり始めていた。
卓を抜ける前、私は本命の男にだけ少し笑って言った。
「また病院の話、聞かせてください」
男は少し酔った目で私を見た。
「そんな面白くないよ」
「私には面白い」
「変わってるね」
「よく言われます」
男は名刺代わりみたいにスマホを出した。
「じゃあ今度、飯でも」
私はすぐには触らない。
一拍置いてから、軽く笑う。
「考えときます」
その“考えとく”が一番効く。
すぐ取れる女より、少しだけ届かない女のほうが、男は勝手に追う。
営業後、バックヤードでドレスを脱ぎながら、私は鏡の中の自分を見た。
巻いた髪。
少し落ちたラメ。
笑いすぎていない口元。
ちゃんと取れた夜の顔だった。
真島がドアの外から声をかける。
「愛里さん、どうでした」
「当たり」
「医者?」
「病院の経営寄り」
「うわ、めんどくさそう」
「うん。でも喋る」
「さすが」
私はピアスを外しながら笑った。
「男はだいたい喋るよ」
「どんな男でも?」
「自分が選ばれてるって勘違いしたらね」
店を出てすぐ、私は拓巳に電話した。
夜風が少し冷たい。
でも頭は冴えていた。
「取れた?」
出るなり拓巳が言う。
「うん」
「何」
私は歩きながら、今夜の会話を順番に伝えた。
スポンサー対応。
空気を読める子。
向いてる、向いてない。
大げさにする子。
誤解。
閉鎖病棟。
元々不安定だったことにする。
拓巳は途中で一度も遮らなかった。
「最悪だな」
最後にそう言った。
「うん」
「それ、もう切ったとか入院したとかの話じゃないだろ」
「うん」
私はタクシーを止める手を上げた。
「壊したあと、整えてる」
「整えてる、か」
「綺麗な言葉でね」
タクシーが止まる。
私はドアが開くのを待ちながら言った。
「次は、名前を取る」
「誰の」
「病院の中で、それを整えてる側の名前」
拓巳が少し黙ってから言う。
「気をつけろよ」
「大丈夫」
「根拠は」
私はタクシーに乗り込みながら笑った。
「No.1だから」
「雑」
「でも本当」
金を払う男より厄介なのは、金も権力もあるくせにそれを好意だと思いたがる男だ。
今夜会ったのは、たぶんそういう男たちだった。
女を選ぶ。
場に出す。
空気を読めるか見る。
嫌がったら、向いてないと言う。
壊れたら、大げさだと言う。
入院したら、元々不安定だったことにする。
全部、自分たちは悪くない顔のまま。
金も権力もある男ほど、それを暴力じゃなくて“機会”や“好意”だと思いたがる。
だから厄介だ。
だから気持ち悪い。
だったら私は、その気持ちよさの中で喋らせる。
自分は優しい側だと思っている男の口から、一番汚い言葉を落とさせる。
それが今の私にできることだった。




