第10話 壊れた女を消すより先に、壊れたこと自体をその子のせいにする人間がいる
男は、喋らされたと気づいた瞬間に黙る。
だから本当に使える女は、質問しているように見せない。
興味を持っているだけの顔をする。
少し笑う。
少し驚く。
少しだけ、その人のことを特別に見ているように振る舞う。
そうすると男は勝手に気持ちよくなる。
自分から話したと思う。
頼られたと思う。
選ばれたと思う。
その勘違いの中で、一番大事なことまで口にする。
私はそれでNo.1になった。
酒を作るのが上手いんじゃない。
男の自尊心の持ち上げ方と、崩し方を知っているだけだ。
次に黒田が来たのは、二日後だった。
予約の名前を見た瞬間、私は少しだけ口角を上げた。
早い。
つまり向こうも、前回の会話を気持ちよく終えている。
こういう男は使いやすい。
自分が“わかってもらえた”と思った相手には、もう一段深い話をしたくなるから。
「愛里さん、あの病院の人来てます」
黒服の真島が伝票を持ってくる。
「一人?」
「今日は二人」
「誰と」
「たぶん事務長っぽい人」
私は少しだけ目を細めた。
いい。
一人より二人のほうが、情報は増える。
しかも上下関係がある組み合わせなら、どっちが主導権を持っているかも見える。
「席、どんな感じ?」
「前回の人が真ん中。隣の年上がよく喋る」
「了解」
私はグラスの水滴を指で拭ってから立ち上がった。
今日は白のドレスだった。
柔らかく見える色。
でも形は細い。
甘く見せて、甘く扱わせない。
こういう日の正解だ。
卓に着くと、黒田がすぐに笑った。
「来た」
「呼ばれたので」
私が座ると、隣の年上の男が露骨に嬉しそうな顔をした。
五十前後。
髪は整っている。
時計は高い。
でも、前回の男より少しだけ品がない。
こういう人は喋る。
しかも、自分が上だと思っている場では余計に喋る。
「この子が愛里ちゃん?」
年上の男が言う。
「そうです」
「聞いてたより綺麗だね」
「聞いてたより、って失礼じゃないですか」
私が笑うと、二人とも笑った。
こういう軽いジャブで場を柔らかくする。
最初から本題に行く必要はない。
「今日はお仕事帰りですか?」
私が聞くと、年上の男が先に答えた。
「そうそう。疲れたよ」
「病院って大変そう」
「大変だよ」
前回の男はグラスを持ったまま、少しだけこちらを見ている。
今日はこの年上の男を前に出したいんだと思った。
自分より喋る人間がいるとき、慎重な男は一歩引く。
でもそれでいい。
引いた側の反応を見るのも情報になる。
「なんか、ちゃんとしてる人しかいなさそう」
私が言うと、年上の男が鼻で笑った。
「そんなことないよ」
「そうなんですか」
「変なのばっかり」
「言い方」
私は笑いながら、前回の男にだけ一瞬視線を流す。
否定しない。
つまり、そこは共有認識なんだろう。
「でも、病院って外から見ると綺麗ですよね」
「外からはね」
年上の男がウイスキーを飲む。
「中は人間関係どろどろ」
「嫌だ」
「愛里ちゃんみたいな子は無理だよ」
「なんでですか」
「すぐ辞めそう」
私は少しだけ首を傾げた。
「辞めるんじゃなくて、辞めさせられるかも」
その一言に、前回の男の目が少しだけ動いた。
当たった。
私は内心でだけ笑う。
「そういうの、あるんですか?」
私が何でもない顔で聞くと、年上の男は気分よさそうに頷いた。
「あるある」
「こわ」
「向いてないやつは飛ぶし、残れないやつは切られる」
「切るって、そんなはっきり?」
「はっきりはやらないよ」
黒田は笑った。
「今どきそんな露骨にやったら面倒だし」
私はグラスに氷を足しながら、軽く言う。
「じゃあ、どうやるんですか」
「自然に」
その言い方に、少しだけ背中が冷えた。
自然に。
便利な言葉だ。
誰も手を下していないみたいに聞こえる。
「自然って?」
「居づらくするとか」
年上の男は笑ったまま言う。
「配置変えるとか、評価落とすとか、周りに共有するとか」
私は顔には出さなかった。
でも、前回よりずっと具体的だった。
「共有って、何を」
私が聞くと、男は少しだけ肩をすくめた。
「扱いにくいとか、不安定とか」
前回の男がそこで初めて口を挟んだ。
「言いすぎ」
年上の男が笑う。
「本当のことだろ」
「店で話すことじゃない」
その一言で、私は確信した。
この人たちは知っている。
しかも、ただの一般論じゃない。
「え、何それ」
私は少しだけ声を落として、興味深そうに笑った。
「めっちゃ怖い」
年上の男は私の反応に気をよくしたのか、さらに喋った。
「怖いよ。特に若い女の子はすぐ病むし」
「なんで女の子限定なんですか」
「感情的だから」
私はそこで笑った。
笑ったまま、少しだけ目を細める。
「それ、偏見じゃないですか」
「偏見じゃなくて経験」
「へえ」
私は黒田を見る。
「本当に?」
黒田は少しだけ面倒そうに笑った。
「ケースによる」
「便利」
私が言うと、年上の男が笑った。
「この子、言い方うまいね」
「仕事なんで」
私はにこっと返した。
ここで一回、話題をずらした。
ワイン。
学会。
最近の景気。
こういうのを挟まないと、相手も“喋りすぎたかも”と気づく。
だから少し休ませる。
それから、また戻す。
「そういえば」
私は年上の男のグラスに酒を足しながら言った。
「前にブランドの仕事で、病院絡みって聞いたことあって」
前回の男の指が、また少し止まった。
「ブランド?」
「うん。監修とか寄付とか、そういうのあるんですか」
年上の男は少し考えてから言った。
「あるにはある」
「へえ」
「最近はイメージ戦略もあるし」
「病院もそんなことするんだ」
「するよ」
黒田は得意そうに笑った。
「綺麗に見せたいからね」
綺麗に見せたい。
その言葉が、妙に刺さった。
病院も。
ブランドも。
高瀬も。
全部つながる言葉だった。
「じゃあ、女の子使うこともあるんですか」
私が軽く聞くと、年上の男は頷いた。
「あるだろうね」
「モデルさんとか?」
「そうそう」
黒田が低い声で言う。
「そのへんにしとけ」
年上の男が笑う。
「なんで」
「話広げすぎ」
「別にいいだろ」
私はそこで、少しだけ困った顔をした。
「ごめんなさい、私が聞きすぎた?」
こういうとき、男は“責められてる”と感じると閉じる。
だから一回、自分が引く。
すると、だいたいどちらかがフォローに回る。
案の定、年上の男がすぐに言った。
「いやいや、全然」
黒田は黙ったまま水を飲む。
この人は止めたい側。
でも、止めきれない。
隣が喋るから。
「でも実際、揉めたことあるんですか」
私は少しだけ声を小さくした。
「そういう、女の子絡みで」
年上の男は酔いも回っていた。
気分よく喋っている人間は、自分がどこまで言ったかの感覚が鈍る。
「あるよ」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
「どんな」
「ちょっと面倒な子がいて」
黒田が、今度ははっきり言った。
「やめろって」
年上の男が笑う。
「名前出してないだろ」
私は心臓の音を聞かれないように、ゆっくり瞬きをした。
「面倒って?」
私が聞くと、年上の男はグラスを回した。
「被害者ぶるっていうか」
その言葉に、腹の奥が冷たくなる。
「何の」
「いろいろ」
「雑」
私は少し笑って返す。
「それじゃわかんない」
年上の男は私を見て、少しだけ得意そうに言った。
「会食とかでさ、変に深刻に受け取る子いるじゃん」
私は表情を変えなかった。
でも、指先だけが少し冷えた。
「深刻って?」
「スポンサー相手に感じよくしてってだけなのに」
男は軽く言う。
「ちょっと手つながれたとか、ホテルのラウンジに残ったとか、その程度で」
前回の男が低く言った。
「もういい」
でも遅い。
十分だった。
私は笑ったまま、グラスを持ち直す。
「その程度、ね」
年上の男は酔った勢いで続ける。
「いや、もちろん嫌なら向いてないんだろうけど」
向いてない。
またその言葉だ。
嫌だったことを、適性の問題に変える言葉。
「向いてないって、何に」
私が柔らかく聞くと、男は肩をすくめた。
「そういう場に」
「仕事で?」
「仕事っていうか、仕事の延長?」
私はそこで少しだけ笑った。
「一番危ない言い方」
年上の男が笑う。
「愛里ちゃん、わかってるね」
わかってるよ、と思った。
わかってるから気持ち悪いんだよ。
私は夜の仕事もしてきた。
パパ活もしてきた。
少し甘えればポンと大金をくれる男も知ってる。
でも、それでも私は、自分で線を引いてきた。
どこまで笑うか。
どこまで近づくか。
どこまで期待させるか。
全部、自分で決めてきた。
なのにこいつらは、仕事の延長とか、スポンサー対応とか、可愛がられるとか、綺麗な言葉で女の線引きごと奪う。
それが一番嫌いだった。
「で、その子どうなったんですか」
私は何でもない顔で聞いた。
年上の男は少しだけ声を落とした。
「周りで共有して」
「何を」
「不安定だって」
前回の男が目を閉じるみたいに一瞬だけ俯いた。
止められなかった顔だった。
「不安定」
私は繰り返す。
「元々?」
年上の男は笑った。
「そういうことにしとかないと面倒だろ」
胸の奥が、すっと冷えた。
やっぱりそうだ。
壊れたから不安定なんじゃない。
不安定だったことにされるんだ。
「それで?」
私が聞くと、黒田はグラスを回した。
「面会謝絶まで行った子」
私は表情を変えなかった。
でも、前回より一段深いところまで来たのがわかった。
「そんな子いるの?」
私は首を傾げる。
「入院して?」
「そう」
「え、そんなことあるんだ」
「あるよ」
年上の男は酔った勢いで続ける。
「まあ、ああいうのは周りがちゃんと共有しとかないと危ないから」
共有。
またその言葉だ。
「誰が共有するんですか」
私が聞くと、黒田が低く言った。
「もうやめろ」
でも年上の男は止まらなかった。
「上だよ、上」
「上って誰」
私は笑ったまま聞く。
「会食に来る子を決める人」
年上の男は少しだけ考えて、それから言った。
「天城さんとか」
その名前が落ちた瞬間、私はグラスを持つ指にだけ力を入れた。
顔は笑ったまま。
でも、やっと来たと思った。
前回の男が露骨に顔をしかめた。
「だからやめろって」
「別にいいだろ、名前くらい」
「よくない」
私はそこで、わざと空気を軽くした。
「なんかドラマみたい」
年上の男が笑う。
「天城さんはドラマより怖いよ」
「会ったことあるんですか」
「あるよ」
「綺麗な人?」
「綺麗っていうか」
男は少しだけ言葉を探した。
「正しい顔してる」
その一言で十分だった。
高瀬と同じ匂いがした。
静かで、切るのが早くて、綺麗な言葉で人を処理する側の匂い。
そのあと、前回の男は露骨に話題を変えた。
ゴルフ。
会食。
景気。
私はそれ以上追わなかった。
ここで欲張ると、全部閉じる。
名前は取れた。
天城。
コスメのCMの契約をした時のあの人だ。
それだけで今夜は十分だった。
卓を抜けるとき、年上の男が私の手首を軽く触った。
「また来てよ」
私は笑って手を引く。
「呼んでくれたら」
前回の男は何も言わなかった。
でも、あの沈黙は覚えておく価値がある。
止めたかった。
つまり、天城という名前には止めるだけの重さがある。
バックヤードに戻ると、真島がすぐに寄ってきた。
「どうでした」
「当たり」
「何取れたんですか」
私はピアスに触れながら言う。
「名前」
「誰の」
「天城」
真島は少しだけ眉を上げた。
「女?」
「たぶん、かなり強い側」
「へえ」
「しかも、閉鎖病棟までつながってる」
真島が一瞬だけ黙る。
「それ、結構やばくないですか」
「やばいよ」
私は鏡の中の自分を見た。
「しかも、壊れたあとに不安定だったことにされる流れまで見えた」
真島は何も言わなかった。
言えない顔だった。
営業後、店の裏口から出てすぐ、私は拓巳に電話した。
コール一回で出る。
「取れた?」
「うん」
「何」
「天城」
電話の向こうで、拓巳が黙った。
「どこで出た」
「病院の上を決める人、みたいな流れ」
私は歩きながら、今夜の会話を順番に伝えた。
会食。
スポンサー。
仕事の延長。
閉鎖病棟。
そして天城。
「つながったな」
拓巳が低く言う。
「うん」
「次は天城を調べる」
「そうだね」
私はタクシーを止めながら言った。
「でも、たぶん高瀬ともつながってる」
「なんで」
「匂いが同じ」
「雑」
「でも本当」
私は少し笑った。
「静かで、綺麗で、正しい顔して、人を処理する女の匂い」
拓巳は少しだけ息を吐いた。
「お前のそういう勘、当たるから嫌なんだよ」
「褒めてる?」
「半分」
「じゃあ十分」
タクシーに乗り込んで窓の外を見る。
街は明るい。
何も知らない顔をしている。
でも、こっちはもう名前を知った。
名前が出ると、輪郭ができる。
輪郭ができると、追える。
壊れた女を消すより先に、壊れたこと自体をその子のせいにする人間がいる。
今夜見えたのは、たぶんそういう構造だった。
会食。
スポンサー。
仕事の延長。
嫌がったら、向いてない。
傷ついたら、大げさ。
壊れたら、不安定。
そして周りで共有して、自然に居づらくする。
最後は面会謝絶。
誰も手を下していない顔のまま。
誰も悪くない言葉のまま。
そうやって女を消す。
だったら私は、その綺麗な言葉を一個ずつ剥がす。
正しい顔をした人間ほど、剥がしたときの中身は汚い。
もう、そういう匂いしかしなかった。




