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二章 (3)

 旅に出てから一年くらいのことだ。彼、ルセカーに出逢ったのは。

 旅に出て一年、なんとか生き延びていた。ただ生き延びるだけ、なんの目的もない。

 いま少年が歩くのは、ルセカーが示した道標の向く先だ。

 それまでは、あてのない旅だった。故郷を逃げ出した少年には、生きる以外の目的が持てなかったのだ。

 その頃、少年は森林地帯を東へ向かっていた。広大な大森林は、地図のなかの一地方を埋め尽くしている。深く踏み入れば樹海に等しい場所だった。ただ、神々が住まうと謂われる聖原の彼方へ至る世界の果ての山、その麓に広がる真の樹海とは、人の足跡たる街道があるという一点で、おおいに異なった。

 少年は走った。先刻から怪しくなった雲行きが重たい雨粒を落とすまで、思うほど間がなかった。雨水はあっという間に足元の土をぬかるみに変え、革靴を汚しはじめる。時々、ぬかるみに足を取られて危うく転びかけながら、枝の張り出した大木を見つけると、ここと決めて少年は木陰に飛び込んだ。

「……ほんとに、これが街道だっていうのか」

 肩で息をしながら、彼は独り言と分かって呟いた。吐息が、湿気を帯びた空気の中で、飽和して唇を濡らしている。

 木の幹を背にすがって、少年は来た道を眼で辿った。自分の足あとが点々と、泥に濁った小さな水溜まりに変わっている。

「人知れぬ街道さ」

 独白であるはずだった少年のそれに、応えがあった。雨音に入り交じった言葉は、静かに悟ったかのような口調であった。声の出所を探って、少年が背をもたれた木の裏に回ると、一人の男が同じ幹の根元に座していた。

「この年になってこの道に入ったのは、我々がせいぜい三、四人目だろうな」

 少年が問い掛けの言葉を定められぬ内に、男は継いで言った。落ち着いた口調は、深い人格を宿した老人の印象を先入観として与えたが、そうではなかった。薄い茶色の髪をもつ男の顔は旅の汚れに塗れているものの若々しく、伸びてしまった不精髭を剃り落とせば優れた顔立ちであるに違いない。ただ、死者にも劣らないほど彼の顔面は蒼白であった。

「怪我、してるのか」

 少年は彼の左太股に突き立つ異物を見て取った。そこには鉄芯の矢が深々と矢尻を埋めていた。少年が手当てを試みてそれを引き抜こうとすると、彼は先程までの口調と打って変わって鋭く制止した。少年がびくっと手を止めたのを確認して、彼は嘆息する。まるで声を上げることに相当の労力を要したかのように。それから彼は再び穏やかな口調に戻って言った。

「触らぬがいい。毒が塗ってある」

 彼の太股に刺さっているのは普通の矢ではなかった。その矢は矢尻のみならず全体に刃を施され、掠めただけでも毒殺が可能な暗殺に用いる類の武器だった。矢尻は鈎状になり、全体が刃であることも相俟(あいま)って、引き抜いて治療することを困難にさせる、残虐性の高い武器なのである。そして彼を死に至らしめる原因となる毒を防ぐ手立ては、今ここにはなかった。深く突き刺さった矢が、あらゆる応急処置の可能性を阻んだのだ。

「お前の気持ちはありがたいが、もう手遅れだ。いっそ、足を切り落とそうとも思ったが、足の付け根から斬るのでは、死ぬ原因が変わるだけなのでな」

 たった一人、しかも傷を負った本人だけでそれが可能として、ここでそんなことをすれば出血によって死に至る。唯事でない事実を冗談のように口にした彼は、一人でくつくつと笑った。

「しかし、お前、なんという眼をしているのだ」

 彼は首だけを動かし少年を見つめた。もはや自分の死を悟った彼の眼は少年の心を見抜いているか様であった。

「お前の澄んだ瞳は無垢なようでいて違う。獣のようだな、ただ生きているだけだ。池の底を突けば池の水は澱む。流れていても澄んでいる清流とは違う。お前の瞳は何事かを為せば濁るかもしれない。しかし、或いは清流かもしれない」

 死を目前にした男の言葉に、少年は耳を傾け続けた。それが礼儀かもしれないと思ったからだろうか。ただ、少年は彼の言葉から逃れられないような気がした。

「どうした。何もお前は生きる(しるべ)を持たないのか?」

 問い掛けた後で、彼は続きをやめ首を振った。

「すまんな少年。意識が混濁してきて益体(やくたい)もないことを俺は口走っているようだ」

「いや」 気にしていない、という意を少年は短く示した。「あんたの言うとおり、おれには何もない。故郷から逃げ出して、意味もなく生きてる」

 故郷、その呼び名があそこに相応しいかは解らないが、生まれ育った場所には違いない。

「そうか……少年、お前の名は?」

「ロジー」

「ではロジー、お前に生きる標を与えてやろう。俺の名を継げ。我が名ルセカーを継いで騎士となれ。そうすればちょっとは面白い人生が送れるかもしれん」

「ルセカー……ユグラントの?」

 その名が放つ栄光は少年も知っていた。同い年の子供には憧れの存在だったが、少年には自分の境遇とその栄光が、夢に見る以上に遠くかけ離れたものだと知っていた。だから、彼はそういった憧憬からは背を向けていた。今、伝説の人物を目のあたりにして見れば、背にしていた心はやはり眩しいほどの憧れだったのかもしれない。

「知っていたか……俺も有名になったものだ」

「なんで、会ったばかりのおれなんかに……」

「悪あがきさ。俺の名を聞いて震え上がる奴が結構いるものでね。なあに、これだけ歳が違えば生命を狙われる心配もないさ」

 彼はそういうと眼を閉じた。毒の苦しみは無いのか、彼の呼吸は穏やかであった。

「もうすぐ俺は死ぬ。答えはその後でもいい。決めたら俺の剣を持っていけ。それが証になる……最期に、お前に遇えた偶然を感謝しているよ」

 静かな呼吸は次第に聞き取れなくなり、少年の耳には雨音が広がっていった。

 樹林の葉を打つ雨音だけが、その時そこにあるすべてだった。



 雄弁ではなかったが、新しきルセカーはワーズに彼の最期を語った。ワーズは感情を隠してしまったが、胸のうちは容易く悟れる。彼はルセカーに、伯爵へ連絡を待つようにと伝言を言付けて席を立った。

 酒場を出ると、すっかり日は(くれ)ていた。雲が流れているのか、空に星はない。手綱を引いてとぼとぼと歩くルセカーに、石畳を叩く蹄の音だけが聞こえた。煩わしくて、馬の背に跨がるより、そうやって歩きたい気分だった。

 哀しい。人の哀しい心に触れて、自分も哀しい。

 ふと少年は、騎士に出逢ったことの意味を考える。彼がたとえ気紛れにでも引き継がせたその名と、それが与える何か。古きルセカーが新しきルセカーの辿る道筋に与えた標は、大きく彼の運命を揺さぶっている。今はそう見えなくとも、いつかその影響の大きさに気づくだろう。少年が、たとえ今、気紛れで騎士(ルセカー)を目指していたとしても。

 半ば放心していたのだろう。どこをどう歩いたか覚えが無かった。ふと我に返ったルセカーは、自分が王都の道筋に疎いことを確認した。どこにも見覚えのある景色がない。サーキスの王都に来てから歩いたところは狭い範囲に限られる。従者生活が始まってからも、屋敷と王城の往復がほとんどで、行動範囲は狭くなるばかりだ。景色に記憶がなければ、残るは方向感覚だけが頼りだが、無意識に暗闇を歩いてしまったせいで、はっきりとは向かうべき進路が見いだせなくなっていた。まあ、旅の途中で迷うような野垂れ死にの恐怖はない。呼べば人の居る街のなかなのだから。屋敷へも、王城まで歩けば時間は掛かるが帰れるだろう。旅の危険を考えれば、人が造り上げた空間は安全を保障された快適な場所であった。そのはずであった。

 迷い足の行く先を決めて一歩踏み出したその時だった。死の危険が風鳴りをたててルセカーの耳元の空気を突き破った。背後から突き抜けたそれは、遥か先の石畳に火花を咲かせて滑り落ちた。一瞬、ぎょっとして硬直する。ルセカーは、自分が今あまりにも無防備な状態で死の危機をやり過ごしたか知ったのだ。わずか一歩、わずかだが、それによる移動分がルセカーの身を死の領域から脱しさせてくれた。そのときルセカーが頼ったのは、ただ運のみ。幸運という御し得ない事象が、彼を狙った矢から彼を救ったのだった。

 一瞬の硬直から立直ってルセカーは振り返る。だが、背後の街並に射手の姿は見て取れない。おそらく、弩による遠距離射撃だ。ルセカーは手綱を引いて走った。なるべく馬を背にする位置で射線を避ける。射手の正確な位置が掴めない状況で、効果の程は疑問だが、そうして逃げるより他なかった。

 周囲に目を配ってみる。ひと気は無く助けの当てはない。どのみちルセカーには大声を出して助けを呼ぶ、という発想が欠けていた。長らく一人旅で、人に頼ることをしなかったせいだ。それは立派に聞こえるが、この場合は助かる可能性の何割かを捨て去る愚でしかなかった。誰に頼れというのだ。彼は反論するかもしれないが、たとえば大声のひとつも出せば、人目に付くのを避けて射手は逃れるかもしれない。

 狩人が狙う獲物のようにルセカーは逃げ、おそらく背後から獲物を狙う狩人のように、刺客は迫っていた。

 獲物を追い詰める第二射が風音をたてる。矢がルセカーの二の腕を掠めて過ぎ去った。皮膚と表面の肉がすっぱりと裂けて、神経に熱い痛みを走らせる。それを堪えて街路の角を曲がると、ルセカーは馬に飛び乗って腹を蹴った。乗り手の意を汲んで、猛然と葦毛は駆けた。曲がった角が背後に遠くなっていくのを確認して、ルセカーが安堵の息を吐いたのも束の間、その角を、石畳を叩く馬蹄が追いすがった。

 ルセカーは冷汗が吹き出るのを感じた。射線に背中を晒しているのだ。

 追っ手の方は苛立っているに違いなかった。必殺を機した一射目を偶然によって阻まれ、二射は小賢しくも馬体に遮られてままならなかった。追っ手が三射目を放つ。薄暗い景色が風音とともに後ろへ轟々と流れるなか、弩の矢だけが景色の奔流を逆流して迫ってくる。が、馬上からの狙いは幸いにもルセカーの頭上に逸れた。後ろ髪が逆立つ。ルセカーは肩越しに振り返った。刺客が剣を抜き放つのが目に入る。矢が尽きたようであった。もともと弩は強力な威力の代償として、矢を番えるのに労力を要する。その為、連射はできないのだ。この刺客は弦を三段に張った三連射の特殊なものを使ったに違いない。ルセカーにはそこまで気を回す余裕はなかったが。

 射手は矢が尽きたにもかかわらず、追走をやめなかった。馬足は互角で、差は縮まる事はなかったが、広がりもしなかった。こうなると、先に馬が根を挙げた方の負けである。生命を狙われる側としては、より確実に安全圏へ逃れる方策を模索する必要があった。

 大きな街路へ出る、その角をもう一度曲がり、更にもう一度。ルセカーはそこで馬上から物陰へ飛び降りた。石畳に叩きつけられ転がりながら、素早く身を隠して気配を殺す。

 数秒後、ルセカーが身を潜めた軒下の樽の前を追っ手が行き過ぎた。馬脚を緩めなかったところを見ると、どうやら気づかれずに済んだようであった。ルセカーの乗馬は、すぐ先の繁華街に飛び出し、ちょっとした騒ぎを巻き起こしていたが、乗り手の方は関知し得ざる出来事だった。

 ルセカーは左胸のなかで暴れる心臓と、荒くなる呼吸を抑えて息を潜めた。

 追跡者が舞い戻ってくる気配はない。

 ルセカーは息を殺したまま、その場を立った。

 と、壁に手を突いた腕に熱痛が走った。矢が掠めた切傷だ。ルセカーは傷口をおさえ、かつてのルセカーの死因に思い当ってぞっとした。

(毒………!?)

 傷自体は深くない。だが、毒ならば、それは関係ない。ルセカーは傷口から血を吸いだして吐き出した。

 足元がふらつく。気が抜けたのか、それとも、やはり矢に毒が塗られていたのか。

 ルセカーは暗がりへと逃げた。どこか安全なところへ。闇に身を隠す獣のように。

 路地裏から路地裏へ。どこをどう辿ったのか。朦朧として意識と記憶が飛ぶ。

 光のあたる場所が、ルセカーの目に眩しく映った。路地裏の隙間から見える暖かい場所。人がいる。いて欲しい。家族、友人、恋人、呼び名はなんでもいい。待っている人が。

 光のあたる場所。そこへ還りたい一心で、少年は力を振り絞って歩いた。


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